The Frist Formula GP Race of Japan 
1969 JAF GRAND PRIX with TETSU



TOP : Tetsu Ikuzawa wiht Mitsubishi "COLT F2C"in '69 JAF GRAND PRIX.
(C) Photographs by Satoshi Suzuki.
 
 前年の1968年まで、日本グランプリは、5月3日のプロトタイプカー( FIA グループ6カテゴリー)/スポーツカー(FIAグループ4カテゴリー)、および、排気量無制限の2座席マシン(FIAグループ7カテゴリー)によって争われ、日本中がトヨタ、ニッサンなどのメーカー対決に沸き、絶頂期を迎えていた。
しかし、欧米、特にヨーロッパでのグランプリレースというと、ドライバーに与えられるものであり、フォーミュラカーによって争われていた。現在のF-1レースがその延長上にあたることとになる。また、ル・マンなどを頂点とするメーカー選手権は、まったくカテゴリーが違い、耐久レースとしてグランプリとは違う道を辿ってきたのが現状である。
さて、日本でのグランプリはというと、1963年、日本で始めて鈴鹿サーキットが誕生し、第1回日本グランプリが開催された時、まだまだ自動車レースに馴染みのない日本では、ヨーロッパ流にフォーミュラカーをメインレースとして組み込むよりも、より馴染みのあるツーリングカーでのレースを中心にスタートすることを選んだ。これをきっかけとして、1969年に終焉を迎えるまで、スポーツカータイプの車によるグランプリレースが日本でのグランプリレースとなっていく。
そんな中、欧米に追いつけ追い越せという意向だったのだろうか、日本自動車連盟(JAF)は、将来のフォーミュラ・ワンレース開催を目標に、フォーミュラカーによるグランプリレース計画を発表。69年より、5月は、フォーミュラカーによるJAFグランプリ開催、10月には、これまでのスポーツカータイプをメインとした日本グランプリを開催することを正式に発表する。
 その第1回目となったのが、1969年5月3日に開催された“JAFグランプリ”であった。開催場所は、富士スピードウェイの6Kmフルコースである。
当時、日本でフォーミュラカーを所有するのは、メーカーとしては、1966年第3回日本グランプリのエキシビジョンレースから出場している三菱ワークスと、プライベートで活躍する“デル・コンテッサ”などわずかな数であった。
レースは決まったものの、出場車数が絶対的に足らないということで、JAFは、クラス分けはするものの、なんと「F-3」「F-2」「F-1」のカテゴリーを同時に走らせるという前代未聞のルールを発表する事となる。
 結果的に、このレースに参加したマシンは、排気量の大きなマシンが絶対的に有利となるということで、半数以上のマシンが1.6リッター以上のマシンたちであった。その中には、日本のプライベーターだけでは足らないということで、オーストラリア、ニュージーランドなどからの“タスマンシリーズカー”6台を招待するという策にJAFは出ることになる。
 しかし、数だけを揃えてもフォーミュラカーレースは絶対に盛り上がらない。やはり、スタードライバーが必要である。
日本でスタードライバーと言えば“TETSU IKUZAWA”を押して他にない。当時のTETSUの人気は、現在の佐藤琢磨の比ではなく、モータースポーツファン以外でも彼の名は広く知れわたっていた。そのTETSUがこのレースに、なんと三菱ワークスとして出場するというのだ。形の上では、TETSUのチームである“テツ・イクザワ・レーシング・パートナーシップ”が三菱ワークスより“コルトF2C”を借り受けての出場となるが、実質上のワークスとなんら変わりがない。

 5月2日、公式予選において、TETSUは、富士の6Kmフルコースを“1分53秒81”で駆け抜け、見事ポールポジションを獲得、第一人者の貫禄を見せつけた。しかも、同じマシンに乗る益子 治、加藤爽平に約4秒ちかくもタイム差をつけての1位であった。
ところでタスマン勢はというと、TETSUのマシンが、1600ccエンジンに対して、1000cc近く大きな排気量を持つ2500ccエンジンにものをいわせ、予選2〜4番手を独占。タイム差は、約1,5秒差である。いかにTETSUのスピードとテクニックが抜きん出ていたかがわかる。そして、TETSUは、前後のウイングを一切付けず決勝に臨む。まさに、モンツァ仕様(当時の高速サーキットでは、F1でもウイングを付けず抵抗をなくした方が速いと言われていた)での戦いだ。

 決勝の5月3日は、TETSU人気に沸いて、7万5千人の大観衆が富士スピードウェイを訪れた。大袈裟すぎるかもしれないが、ほとんどの観客は、TETSU目当てだったといっても過言ではないだろう。
 そして、スタートを迎える・・・・。
 

 
 マックス・スチュワート。彼の名は、このJAFグランプリにおいて日本中に知れ渡ったと言っていい。
TETSUとスチュワートは、スタート後毎周のようにトップを奪い合いデッドヒートを続ける。スチュワートのマシンは、ミルドレン・ワゴットで、基本的には、ブラバム23CのF2シャーシに、フォードコスワースFVAと同じフォード105Eブロックをベースとしたワゴットエンジン(1596cc)を搭載したものだ。そして、TETSUのコルトF2Cもブラバムのシャーシに三菱R39(1598cc)のエンジンを積んだもので、数字的な性能は、甲乙つけがたい状態だ。ただし、このレースのために、TETSUは、ファイアストンR3という富士スピードウェイ用スペシャルタイヤを持ち込んでいる。TETSU曰く「こいつはイギリスでオーダーしたもので、コンパウンドが柔らかくてオイルに強いんだ」。
 2番手につけてスチュワートを追っていたTETSUが突然ピットに飛び込んできたのが11周目だった。エンジンが吹けない!2分30秒後、ピットアウト。しかし、トップとは周回遅れ。そして、再びピットイン。エンジンが3気筒しか始動していない。燃料噴射装置ノズルにゴミが詰まったのが原因だ。
 TETSUのリタイヤによってすでに帰り支度をする観客が目立ってきた。
結局優勝したのが、2.5リッターレプコエンジンを積みロータス39に乗る“レオ・ゲオゲーガン”の頭上に輝いた。タスマン・フォーミュラマシンの勝利であった。
The Mystery of Taki Special with Toyota-7 V8 3000cc Engine  
タキ・スペシャル(ブラバム・トヨタ)の謎
 
 ところで、このJAFグランプリのエントリーには、謎のマシン「タキ・スペシャル」が含まれていたことをご存知だっただろうか。
簡単に言えば、タキ・レーシングチームが、イギリスのブラバムF2のシャーシを2台購入して、トヨタ7の3リッターエンジン(V8 2986cc)を積むというスペシャルマシンのことだ。さらに、タキ・レーシングは、前年TETSUがタキ・レーシングチームの一員として68年日本グランプリ前座レース“日本スピードカップレース”に参加した際に使用した“ブラウンベアスペシャル”を2台エントリーし、上位独占を狙っていた。
 
 トヨタ7エンジン搭載の経緯についてだが、推測されることは、当時トヨタは、すでに5リッタートヨタ7でのレースを進めており、旧型となった3リッターV8エンジンの貸し出しについては、意外とすんなりOKが出たのではないかと思われる。また、タキ・レーシングのビッグマシンのノウハウが交換条件としてトヨタに渡った可能性も否定出来ないが・・・。
 その注目の3リッターF1マシンのタキ・スペシャルには、ベテラン田中健二郎と若手の長谷見昌弘が、ブランベア・スペシャルには、酒井 正と片平 浩が乗る。ストップ・ザ・TETSUの布陣は完璧だった。
しかし、その肝心のブラバムシャーシが遅れに遅れ、4月に入ってもまだ日本に届かないのだ。

 実は、タキ・レーシングチームは、“モーターレーシング・デベロップメント(ブラバム車製作会社)”からではなく、当時、イギリスの新興チームだった“フランク・ウィリアムスチーム(今はトップチームとして有名)”からブラバムF2シャーシを購入することになっていた。言わば中古のF2マシンだったのではと想像出来る。契約は、3月中旬に成立し、3月下旬に航空便にて発送予定となっていた。しかし、その後先方側の一方的な変更が重なり、結局、4月22日に日本に到着したのが2台の内の1台だけであった。その段階で、マシン改造は可能ではあったものの、走行テスト等が出来ないで本番に臨む事は危険と判断、タキ・レーシングチームは、無念ではあったがJAFグランプリ不出場を決定、タキ・レーシングチーム期待のタキ・スペシャルの勇姿は、遂に我々の前に姿を見せることはなかった。まさに、幻のマシンとなってしまった。
 


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(C) Photographs by Satoshi Suzuki.