Introduction
私がこのHPを作ろうとした本当の理由

 高度成長時代を迎えた1960年代の日本。待望久しかった東京オリンピックが1964年に開催され、名神高速道路が開通し、そして東海道新幹線が東京と大阪を3時間で結び日本は本当の意味での国際国の仲間入りを果す記念すべき時代を迎えるのでありました。さらに1963年には日本モーター・スポーツの真の曙となった第1回日本グランプリが鈴鹿サーキットで盛大に開催され、続く1964年には本田宗一郎の号令とともにホンダF-1がフォーミュラ1ワールド・チャンピオンシップに初挑戦しあの“ホンダ・ミュージック”を世界に轟かせるなど日本のモーター・スポーツ界にとってはまさに“ライジング・サン”の時代の幕開けでありました。そんな中で当時小学生・中学生時代を過ごしていた私にとって1966年から1969年はまさに特別な時代でありました。
日本グランプリにおける「プリンス対ポルシェ」、「ポルシェ対ニッサン」、そして「トヨタ対ニッサン」という図式はまるで活劇映画(ちょっと言い方が古いでしょうか・・・笑)を見ているような感動を私に与え続けてくれました。
そしてまだまだ外国が遠い異国であった60〜70年代初頭、勇敢にも海外のモータースポーツに挑戦したドライバーたちがいたのを皆さんは御存知だったでしょうか。中島 悟がF-1に参戦する20年も前から世界のトップ・ドライバーになることを目標に挑戦し続けた男たち、それが「生沢 徹」、「風戸 裕」、「鮒子田 寛」でありました。
私にとって、生沢 徹、風戸 裕、そして鮒子田 寛はスーパー・ヒーローであります。彼らに共通することは活劇映画に例えるとまさに主人公そのものであったことです。ヨーロッパで日本人魂を見せ続けた生沢、無謀(!?)にもCAN-AMシリーズに挑戦し結果を出した風戸、そしてトヨタのエース・ドライバーの座を捨てて浮谷東次郎ばりにアメリカで武者修業を続けた闘魂鮒子田。
しかし、生沢と風戸については今だに伝説として語り継がれているのに何故か鮒子田については何も語られておらずどうしても納得が出来ないでおりました。
そんな中、偶然というか宝くじに当たったとでも言いましょうかなんと憧れの鮒子田 寛氏からHP宛てにメールを頂くという幸運に巡り会い「これも何かの御縁」ということで鮒子田氏のHPを作らせていただく運びとなったわけであります。そして作るからには是非“鮒子田 寛”という人物を私の希望通りに伝説のドライバーになって頂くことを目標に、誠心誠意全力を尽してやり遂げようと心に誓い進めていきたいと思います。
また、このHPは鮒子田 寛氏の監修の元に主宰者の独断と偏見で作成しておりますが、是非皆様にも参加して頂きたいと思っています。当時の鮒子田さんについての思い出やエピソードなどがありましたら是非一報頂ければ幸いです。
また、同時にこのHPは完結形ではなく進行形のHPでありますので皆さんと一緒に歩んでいけたらと考えております。 では、まだまだ未熟極まりない内容ではありますが、御理解のほどお付き合いお願いします。
皆様からの良きアドバイス、御指導頂ければ幸いです。

主宰者


GO TO TOP

GO TO HOME