くるま村取材班特別インタビュー企画 “あの鮒子田 寛氏に劇的インタビュー成功!!” 2001年7月20日午後13:00
|
“デビューの頃”
M(主宰者): 憧れの鮒子田さんにお会い出来てとても緊張しています。本日はお忙しい中「くるま村の少年たち特別 企画インタビュー」のためにお時間を頂き本当にありがとうございました。 F(鮒子田 寛): こちらこそありがとうございます。 M: それから先日のル・マン24時間レースで見事総合3位入賞おめでとうございました。それにしてもあのベントレーは、素晴らしいレーシングカーでしたね!(現在、鮒子田氏はアウディの子会社でレースカーの製作・開発を業務としている「レーシング・テクノロジー・ノーフォーク」の役員をされていて、今年のベントレーも鮒子田氏の会社で開発されたものである) F: ありがとうございます。今年のル・マンは初挑戦で3位でしたから上出来だったですね。でも、とにかくアウディが強すぎたね。 M:では、お話しを鮒子田さんのことに戻しますが、鮒子田さんがデビューされた時のことをお伺いしたいのですが、た しかホンダS600を個人的に買われてデビューされたわけですよね?その当時の思い出も同時にお伺いしたいのですが。 F: 幼稚園の送迎バスの運転手のアルバイトをして自分で買った車ということは事実なんだけど! その年の1月に本田技研(現・ホンダ)と契約して、ホンダのジュニア・チームと言ったらいいのかな?のドライバーになることが出来たんだ。そしてホンダが僕の車をベースにしてレース用に改造する費用とかテストやレースに出る費用を面倒みてくれたということです。 当時は本格的なレース用部品がまだ出ていなかったから、レース用に本格的な改造なんて何にもしないわけで、したことといえばサスペンションを出たばかりのスポーツキットのスプリングとダンパーに替えたことぐらいかな。最初の頃はエンジンは全くのスタンダードでしたから・・・。そんな状態の車だったんですけどね。 初めてのレースで一番印象に残っているのは、その年の1月にホンダと契約した後に合同テストがあったんですね。ジュニア・チームとシニア・チームとの合同テストだったんです。 僕のいたのがジュニア・チームで、シニア・チームは当時 お金をもらっていたホンダ・ワークス・チームでした。 M : ワークス・チームとはRSC(ホンダ・レーシング・サービス・クラブ)のことでしょうか?! F : いいえ、埼玉研究所の社員ドライバーで、RSCとは直接は関係はなかったです。(RSCは1965年10月に発足) 田中禎助とか、島崎、漆原伍郎さんとか、社員ドライバーがいましたよね。彼ら当時のワークス・ドライバーと後のRSCのドライバーになった永松邦臣(1971年日本グランプリ優勝者)、高武富久美、山下護祐といった連中と僕ともう一人入った新人との合同テストでした。 その初っ端のテストで先輩を尻目に威勢良くトップタイムで走っていた時にひっくり返ってしまったんです。(鈴鹿サーキットの130Rで縦方向からとんぼ返りをうって7回転した伝説の事故である) それ以降5月のレースまでほぼ3ヶ月半の間はまったくのスランプでした。あの事故を起こした130R、当時は150Rって言ってたかな?!その150Rが事故以降その影響で怖くてまともに走れなくなったし、すっかりリズムが狂ってヘアピンでさえまともに走れない状態が続いていたんですよ。そんな中、たまたまこのレースの練習走行の時にミッションをそれまでの4速から5速に変えたんですよ。今までは全開で行かなきゃいけないということで凄く恐怖感があったのが、1速減速することで心理的に凄い安心感が出て今までの恐怖心が一瞬の内に消えてしまいスランプを脱出することが出来たんですよ。そういう意味では非常に思い出の深いレースだったですね。 レースそのものは予選も本番も雨で優勝したのはS6に乗る生沢 徹、2位が日産チームの津々見友彦(翌年、日産からチームトヨタへ移籍、その後プライベートで活躍。現在はモーター・ジャーナリストとして活躍)、3位が僕でクラスとしては2位、総合で3位でした。当時の生沢の車っていうのは、僕らから言えばワークスカーで、僕らのはスタンダードというぐらい違ってましたね。彼は博俊(現 無限代表 あの本田宗一郎の御子息)とも仲が良かったから、ホンダの研究所の人とも仲良くしてて、スペシャルパーツを組み込んでいて非常に速かったですよ。1位2位の二人を始め、その他にもワークスドライバーはかなり出ていたので、初めてとしては上出来だったし、それと、大スランプの後だけに喜びとほっと一安心とでとても印象に残っているレースですね。(1965年5月30日 第2回クラブマン鈴鹿レース)
M : 鮒子田さんは、ホンダ・チームが日本グランプリに出場しないという理由などがあってトヨタに入られるわけですが、その時の経緯を教えて頂けますか?
|
“トヨタ対ニッサン 日本グランプリの時代”
M : 1968年にトヨター7が作られてトヨタが日本グランプリに挑戦するわけですが・・・。 トヨタ対ニッサンという図式が69年まで続くわけですが、この時代を振り返って今思われることはなんでしょうか。 F : それは年1度のビッグ・イベントでそれだけに賭けるというか、極端に言えばオリンピックかワールドカップのようなものでしたね。 ただ残念ながらトヨタのもっていた車は勝てるレベルにいかなかったですね。T.N対決はトヨタの負けっぱなしでしたから、総合性能ではニッサンに負けていたってことでしょうね。当時ニッサン、元々プリンスベースですが、レースカーの開発は先行してましたからね。第2回日本グランプリ以降を含めて先行してたといえるでしょうね。 余談だけど、トヨタは前哨戦や練習では速くてなぜか本番で遅かったでしょ!?これはね、当時チーム全員が経験不足だったからしかたないんだけれど、練習する時間が極端に多かったんですよ。当然シャーシーは傷んでくるわけで、今のカーボンシャーシーならこの程度の距離では傷まないけど、当時はシャーシーの剛性が落ちているのに気がつかず、そのまま出てたからタイムが落ちるのは当たり前で、その点ニッサンも同じだと思うけれどトヨタよりは練習量が少なかったからね(笑)。 M : そんな裏話があったんですか。 その後トヨタは国内の68年度耐久レースに積極的に出場するわけで、富士1000kmレース、鈴鹿1000kmレースなどほとんど鮒子田さんのトヨター7が優勝してますね。しかし、鈴鹿12時間レースでは惜しくも優勝逃しましたが・・・。 F : そのレースはトラブルがなければ勝てたしね。このレースは不思議なトラブルでしたからね(笑)。 (企画ページ 「エース・ドライバーの栄光と苦悩 鮒子田 寛にとっての日本グランプリとは!?」参照) M : 日本グランプリ以外のレースでトヨタが勝ち続けることでイメージアップに繋がりましたね。耐久レースのトヨタというキャッチフレーズが出来上ったと思います。 そして、その年の11月23日に日本CAN-AMも開催され、トヨタだけがワークス・チームを出場させて鮒子田さんは7000ccビッグマシンに混じって8位になったわけですが、途中まではトヨタ勢トップにいたのに、またしてもビッグレースでは不運が襲って・・・。 F : その可能性はなきにしもあらずですね。 次ぎの年の日本CAN-AMもそうですしね。日本グランプリもそうでしたしね。結果として運がなかったということかも知れないし・・・。 M : 69年の富士1000km、NETスピードカップも揃って1位を取られているし・・・。 F : 本当はね、68年のNETスピードカップも本当は勝てたレースだったんだよね。トラブルでピットインしてだめだったね。でもそういうこと言い出したらきりがないよね(笑)。それも含めてドライバーの実力でもあるし、チームの実力でもあるわけだし、運も実力ってこともあるわけですね。 世の中にはいろんなドライバーがいるわけで、成功するドライバーって限られているわけですよ。 例えばF-3でチャンピオンを取ったとしてもそのドライバーが必ずしもF-1に行けるわけではないんだよね・・・、難しいことですよ。 “生沢 徹は時期がはやすぎたね!” M : 生沢さんにしても1967〜70年頃はあのロニー・ピーターソンやエマーソン・フィッティパルディに争って勝っていた時期もあったわけですけど、生沢さん以外はほとんどみんなF-1に行ってしまい、F-1チャンピオンなったドライバーもいたわけですね。 F : 彼の場合は時期が早かったと思うね。 今ね、生沢 徹が争っていればまちがいなくF-1に行けてたでしょうね。 M : そういえば今年イギリスF-3選手権で佐藤琢磨選手がチャンピオンになりかけてますよね。 F : このまま行けばなるでしょう。 M : 彼なんかはF-1への道は開かれるでしょうかね?! F : 彼もそうだけど、今すごいことが起きてるんだよね。今年のヨーロッパのF-3は凄いよ!イギリスF-3のトップを走っているのが佐藤琢磨でしょ。ドイツF-3のトップを走っているのが金石年弘、フランスF-3のトップは福田 良だしね、こんなことは今までなかったことだよね。これは凄いことだよ。今年は、3人のチャンピオンが生れる可能性もあるよね。 M : F-1が近いかもしれない?! F : F-1が近いっていうのは多分言い過ぎだと思うけど、ただ佐藤琢磨の場合はホンダがかなり気合入れて応援して いるから可能性は高いと思うよ。 昔の生沢と今の佐藤の違いというのはそこらへんにあるわけですよね。中島もそうだったけど、ホンダが力を入れてる。それだけにチャンス大だね! F-1チームはしたたかだけど、エンジンサプラヤーとビッグマネーに弱いよね。しかし、佐藤琢磨は今までのドライバーと違い可能性はあると思うね。楽しみだよね。 “本当は、インディー500に出場出来るはずだった!” M : 話しは戻りますが、1970年にトヨタを辞められてアメリカに行かれるわけですが、最初のF-Aレースに出場された時はまだトヨタに在籍中でしたが、その頃にはトヨタを辞めるという気持ちはお持ちだったのでしょうか!? F : 思ってたかも知れませんね。まずはアメリカのレースを見てから考えようというつもりでしたね。そして、偶然F-Aレースに出場することになってますますそんな気持ちになってくるよね。 M : それ以降トヨタを辞めてF-Aレースに挑戦されるわけですが、途中で資金面等で苦労されていたと思うんですが、そのあたりはどうだったんですか? F : 苦労は別にしなかったんですけど結局はスポンサーが集まらなくて予定通り行かなかったというだけで・・・、そして、シアーズ・ポイントのレースでクラッシュしちゃったでしょ。今から思えばもうちょっと賢くやればあそこで修理すれば良かったんだけど、なぜか修理しなくてやめてしまった。なんか無駄だったなという気もするんだよね。 M : 鮒子田さんは、シアトルで3位、ラグナセカで5位、予選でも常時上位におられたんでなんかもったいなかったですね。 F : 車がね、1年の落ちで当時はマクラーレン・シボレーが強くて、僕のイーグルは性能的に劣っていた車なんでシボレー・エンジン使っていれば1〜2回は優勝出来たかなって思いますね。 M : 日本人ドライバーと当地の外人ドライバーとの差については?! F : 僕は別に考えたことはないし、予想外に良い現地ドライバーがいるなとは思いましたけどね。 当然、トヨタのエース・ドライバーとしての自負もあったし、日本CAN-AMでも2回ぐらい外人ドライバーと走ってますから、レベルについてもまったく差は感じませんでしたね。 M : 翌年鮒子田さんは、F-AからTrans-Amに挑戦されるわけですが・・・。 F : 単純に資金的な問題ですね。それとアメリカでレース続けたいという理由だったね。Trans-Amが一番手頃に出来たからね。 M : 鮒子田さんの目標だったインディカーレースの方はどうだったんですか。 F : 元々そのつもりで行ったわけで、今から思えばF-Aを選んだことが間違いだったよね。あるいはもっと言えば入ったチームが間違いだったとかね。いろいろあるわけでF-Aでも違うチームだったら違う部分もあったかもしれないね。 当時F-Aやりながら随分インディのチームにあちこちアプローチしましたけどね、当然F-Aの車が壊れてからも、あちこちチームに声かけたり、ヘルメットとスーツを持ってサーキットへ行ったり、いろいろやりましたけど、最終的には資金的な問題が一番ネックでしたね。 M : そしてTrans-Amレースでの大クラッシュで一時レース生命が危ぶまれた時もありましたね。 F : あれはひどい事故だったね。なにしろ2時間半も車に閉じ込められたし、今じゃ考えられないですよ。 今になって思うのはあの時サーキットとチーム相手に裁判で損害賠償訴訟を起こしていればきっと億単位の金が入ったよね(笑)。 あの頃のアメリカじゃその手の裁判起こせば勝てたしね。 M : しなかったのは何故ですか? F : 知人からは裁判するべきだと言われていたけど、その当時はまだアメリカでレース続けていたい気持ちが強くてやめたんだ。 M : さて、そのクラッシュの後、アメリカのレースを止めて日本レース界に復帰するわけですが、その経緯を教えてください。 F : まだアメリカのレースは続けたかったけど資金的にきつかったからね。 M : 1972年の富士グランチャンは、初めて2リッタークラスにチャンピオンシップが懸けられ、鮒子田さんはオンワード樫山やチャンピオンのスポンサーを受けてシェブロンB21Pで参加されました。 当時、スポンサーを獲得することでどのような御苦労があったんでしょうか。 F : 当時僕らがスポンサーになってほしいと言いに行くとかならずどこでも「オート・レース(ギャンブル)ですか」って聞かれましたね(笑)。それだけモーター・スポーツがまだまだ日本では浸透してなかったということだよ。 ところで、今だから言えるけど実は1971年に僕はインディ500に出られたはずだったんだよ。 M : 本当ですか?! F : 昔、トヨタにいた坪ちゃん(元・トヨタ・ワークスドライバーの大坪善男)がレースを辞めた後、映画製作に携わっていて、某映画会社のコーディネートをしていた。その坪ちゃんから、インディをテーマにした映画を作る話しがあるからインディのチームを紹介してくれと頼まれて、僕が間に入ってアメリカのSTPに交渉して、STPも乗り気になり映画制作に協力する形でインディにもう一台 出すということで合意していたんだ。坪ちゃんと僕はアメリカのSTPの本社へ交渉に行ったし、2人でインディアナポリス・スピードウェイに出かけて普通の乗用車でしたけど走ったりもしたんだよ。 そうこうしている内に映画会社のプロデュサーが欲を出し、製作費用も出してもらおうと、直接STPに交渉しちゃって、それで話しがおかしくなり、ごたごたしたあげく計画が白 紙撤回になっちゃたんだ。その映画では日本人ドライバーがインディに挑戦するストーリーで、その役を僕がやり、STPが車を用意して本当にインディを走れるところまでいっていたんだけどね。残念だったよ。 M : それが実現されたらと思うと本当に残念でしたね。 話しは違いますが、ところで鮒子田さんはどうやって私のHPを見つけられたんでしょうか? F : それがね、僕の母校の同志社高校の同窓会が作っているホーム・ページがあって、そこの投稿コラム(!?)で誰かが自分の名前をYahooで検索したら、結構面白いことがあった。そんな投稿があって、じゃ、やってみようと、鮒子田と入れたんだ。でも、2年前に「鮒子田 寛」で検索した時には牧野さんのHPは出てこなかった。 M : そうだったんですか。丁度トヨタ―7とトヨタのドライバーについて企画ページを作ったばかりでしたから、検索出来たんでしょうね。 いずれにしても鮒子田さんから初めてメールを頂いた時は飛び上がるほど感激でした。 では、今日は本当に貴重なお時間をとって頂きありがとうございました。これからもお仕事頑張ってください。 F : こちらこそありがとうございました。それからこの場を借りまして、ぜひ私のレース人生においての集大成として申し上げたいことがあるのですが宜しいですか? H : ぜひお願いします。
|
“インタビューを終えて・・・”
インタビュー終了後もしばらく鮒子田さんといろいろなお話しをうかがっておりましたが、その中にはトヨタを辞めた本当の理由とか、今某旧車ショップで1972年鮒子田さんをチャンピオンに導いたレーシングマシンである“シェブロンB21P”そのものが当時のカラーリングでレストアされていることとか、話しは尽きなく本当に楽しく有意義な1日を過ごさせて頂くことが出来ました。 思えば昨年鮒子田さんから初めてメールを頂いた時のサブジェクトが「How do you do ?」でした。そして「こんなに私のことを知っているあなたは私の知り合いですか?」という内容のメールが、今回夢にまで見た鮒子田さんとお会いするまでの最初の出会いとなりました。 最後に私がこれからの鮒子田さんにお願いしたいことはいつまでもレースに携わっていて頂きたいということと、いつまでも御家族を大事にしてご自身も大いに人生をエンジョイして頂ければと心より切望しています。 そして最後になりますが、これからもまだまだ未熟な私のHPですが、今後ともよろしくお願いします。 本当にありがとうございました。 主宰者
|
(C) 30/JULY/2001 Text report by Hirofumi Makino.