THE INTERVIEW OF HIROSHI FUSHIDA 
くるま村取材班特別インタビュー企画
 
 “あの鮒子田 寛氏に劇的インタビュー成功!!”

2001年7月20日午後13:00

 1965-1981年まで常に日本のトップ・ドライバーであり続け、さらに日本人として初めてF-A、Trans-Am、CAN-AM、ル・マン、そしてF-1に挑戦したそのスピリットはいったいどこから生れて来たのでありましょうか。
今回御縁があって鮒子田 寛氏にお会いすることが出来たのは、私にとってまさに奇跡的な出来事でありました。それはそれは本当に素晴らしい一時でありました。
 実は酒類が苦手な私も鮒子田さんのお薦めになんの抵抗もなくビールを飲み干してしまった出来事もこれまた奇跡的なことではありましたが、つい昨日のことのように話される鮒子田氏を見ていると私も当時のレースを思い出してしまい誠に感激でありました。
 それでは1時間にも及んだ鮒子田 寛氏とのインタビューを「くるま村の少年たち」開設2周年記念特別企画 “鮒子田 寛 THE HISTORY OF HIROSHI FUSHIDA”公開記念としまして特別に鮒子田氏の御了解のもとに発表させて頂きたいと思います。
主宰者
“デビューの頃” 
M(主宰者): 憧れの鮒子田さんにお会い出来てとても緊張しています。本日はお忙しい中「くるま村の少年たち特別 企画インタビュー」のためにお時間を頂き本当にありがとうございました。
F(鮒子田 寛): こちらこそありがとうございます。
M: それから先日のル・マン24時間レースで見事総合3位入賞おめでとうございました。それにしてもあのベントレーは、素晴らしいレーシングカーでしたね!(現在、鮒子田氏はアウディの子会社でレースカーの製作・開発を業務としている「レーシング・テクノロジー・ノーフォーク」の役員をされていて、今年のベントレーも鮒子田氏の会社で開発されたものである) 
F: ありがとうございます。今年のル・マンは初挑戦で3位でしたから上出来だったですね。でも、とにかくアウディが強すぎたね。
M:では、お話しを鮒子田さんのことに戻しますが、鮒子田さんがデビューされた時のことをお伺いしたいのですが、た しかホンダS600を個人的に買われてデビューされたわけですよね?その当時の思い出も同時にお伺いしたいのですが。
F: 幼稚園の送迎バスの運転手のアルバイトをして自分で買った車ということは事実なんだけど! その年の1月に本田技研(現・ホンダ)と契約して、ホンダのジュニア・チームと言ったらいいのかな?のドライバーになることが出来たんだ。そしてホンダが僕の車をベースにしてレース用に改造する費用とかテストやレースに出る費用を面倒みてくれたということです。
当時は本格的なレース用部品がまだ出ていなかったから、レース用に本格的な改造なんて何にもしないわけで、したことといえばサスペンションを出たばかりのスポーツキットのスプリングとダンパーに替えたことぐらいかな。最初の頃はエンジンは全くのスタンダードでしたから・・・。そんな状態の車だったんですけどね。
 初めてのレースで一番印象に残っているのは、その年の1月にホンダと契約した後に合同テストがあったんですね。ジュニア・チームとシニア・チームとの合同テストだったんです。
僕のいたのがジュニア・チームで、シニア・チームは当時 お金をもらっていたホンダ・ワークス・チームでした。
M : ワークス・チームとはRSC(ホンダ・レーシング・サービス・クラブ)のことでしょうか?!
F : いいえ、埼玉研究所の社員ドライバーで、RSCとは直接は関係はなかったです。(RSCは1965年10月に発足)
田中禎助とか、島崎、漆原伍郎さんとか、社員ドライバーがいましたよね。彼ら当時のワークス・ドライバーと後のRSCのドライバーになった永松邦臣(1971年日本グランプリ優勝者)、高武富久美、山下護祐といった連中と僕ともう一人入った新人との合同テストでした。
その初っ端のテストで先輩を尻目に威勢良くトップタイムで走っていた時にひっくり返ってしまったんです。(鈴鹿サーキットの130Rで縦方向からとんぼ返りをうって7回転した伝説の事故である)
 それ以降5月のレースまでほぼ3ヶ月半の間はまったくのスランプでした。あの事故を起こした130R、当時は150Rって言ってたかな?!その150Rが事故以降その影響で怖くてまともに走れなくなったし、すっかりリズムが狂ってヘアピンでさえまともに走れない状態が続いていたんですよ。そんな中、たまたまこのレースの練習走行の時にミッションをそれまでの4速から5速に変えたんですよ。今までは全開で行かなきゃいけないということで凄く恐怖感があったのが、1速減速することで心理的に凄い安心感が出て今までの恐怖心が一瞬の内に消えてしまいスランプを脱出することが出来たんですよ。そういう意味では非常に思い出の深いレースだったですね。
レースそのものは予選も本番も雨で優勝したのはS6に乗る生沢 徹、2位が日産チームの津々見友彦(翌年、日産からチームトヨタへ移籍、その後プライベートで活躍。現在はモーター・ジャーナリストとして活躍)、3位が僕でクラスとしては2位、総合で3位でした。当時の生沢の車っていうのは、僕らから言えばワークスカーで、僕らのはスタンダードというぐらい違ってましたね。彼は博俊(現 無限代表 あの本田宗一郎の御子息)とも仲が良かったから、ホンダの研究所の人とも仲良くしてて、スペシャルパーツを組み込んでいて非常に速かったですよ。1位2位の二人を始め、その他にもワークスドライバーはかなり出ていたので、初めてとしては上出来だったし、それと、大スランプの後だけに喜びとほっと一安心とでとても印象に残っているレースですね。(1965年5月30日 第2回クラブマン鈴鹿レース)
 
 生沢 徹のホンダS600の秘密が今解き明かされる!!
2001年8月4日TOJI'S CLUB(浮谷東次郎オフィシャル・クラブ)総会にて
「私が16歳の時に浮谷と出会い、そのちょっと前に生沢にも出会ってからの付き合いですから何十年ぐらいの付き合いかな!? その時に一緒にいたのが鈴木亜久里の親父でジャッキーです。浮谷さんのところによく出入りしてましたね。そんな仲間とで浮谷さんの御自宅にお邪魔するようになって、式場壮吉さんとか皆さんと知り合ったわけです。これらの出会いは浮谷さんのおかげなんです。
 私の女房も浮谷さんの御紹介で知り合ったんです。同じ頃、それらレース関係の付き合いとかであのホンダS600が出来上がったと言っていいと思います。
 鮒子田君は今ベントレーで頑張ってますけど、元々彼との付き合いというのは「マクランサ(1969年の日本グランプリなどを走ったホンダSベースのカスタムカーとしてあまりにも有名なレーシングカー)」やってた童夢の林さんとの付き合いで知ったのが最初かな!?うちの女房も良く鮒子田君のことは知ってますよ。そして我々が冗談でよく彼のことを「フシダら・・・」なんて言ってましたよ(笑)。
鮒子田君とはアメリカで私がプータロー、ヒッピーしてた頃鮒子田君は私のとなりの部屋にいたんです。トイレが真中にあって一緒に使っていた時が一時期ありましたね。チェコスロバキヤかどこかのオバさんが小さくやっていた学生寮みたいな家で2人でいたこともあったんですよ。その時彼はアメリカに来てCAN-AMの車に乗ってました。
 その生沢のS600というのは別物で、鮒子田君のS600は当時のホンダ・チームがあって、元々鈴鹿でワールドさんというところとホンダが組んでレースカー作っていたところなんですが、後のRSCで今のHRCの前ですね。そのホンダ・チームに確か鮒子田君がいたんだと思います。そこのS600ってあんまりパワーなかったんだよな。確かそうだと思いました。当時S600はトヨタS800に適わなくて我々は横で見てて何やってんだという感じだったんです。
当時浮谷君はトヨタでS800乗ってましたけど、生沢と私は日大芸術学部で同級生になってて元々レース好きだったものだから、亜久里の親父と一緒になってとにかく生沢を勝たせようと言うことで団結したわけですよ。
そして結果的には本田技研(現 ホンダ)の研究所で2番目に偉くなった人とか、後に社長になった川本氏などが一緒になって協力してもらうことになり、今考えるとまさに層々たるメンバーが集まったといえるよね。当時皆は20歳前半でしたからね仕事が終わると生沢のガレージを中心として我々がしょっちゅう出入りして、川本氏たちはこの車の設計者でしたから自分たちで生沢の車を設計していろんな工具使ったり、会社で一晩でパーツ作ったりしてたんだ。これじゃホンダ・ワークスに近いですよね。
ただ当然全員がレースが好きでボランティアでやってたからその結晶があの車を生んだと思う。その結果とにかくダントツに速かったんです。
 ところがダントツに速かった結果がちょっと大騒ぎになりましてね、今だから言えますけどもホンダがワールドさんとジョイントしてやってた車よりこっちの車の方が速かったわけでしたから社内的に問題になりまして、上層部から川本氏などの後に社長までなった人たちが呼び出されて会社の工具、パーツとか機械の無断使用についてとがめられクビ寸前まで行っちゃったんですよ。
ただ結果的にはそれがトヨタをやっつけたんで上層部の方もそんな我々のエネルギーを評価してもらえてお咎めなしになったんですが・・・。それがRSCという会社を作る発端になったんですよ。
 我々の行動が元を返せばRSCという会社を作るきっかけとなったんだけど我々はそんなこと関係ないんで、ただ生沢に速い車を作ってやりたいと思っていただけですけどね。
その後生沢はヨーロッパでレースをして腕も良かったし、グラハム・ヒルとかヨッヘン・リント、そしてあのバーニー・エクレストンとかと争っていたね。余談だけどバーニーといえば今でこそF-1を牛耳る親玉ですけど、当時はまだレースをしてて自分で車を運んで泣きながら生沢とガレージを分け合って走ってたなんてこともありましたね。
とにかくあのS600は、好きモノが皆の情熱で作ったもので公私混同して作った車でした。
私なんかもメカニックやったり、トレーラーは当時なかったから自走したりして国道1号線を走って鈴鹿に行ったり、レースに勝った後そのまんまの車で皆と競争しながら帰ってきたとかね。本当に面白かった。
三保敬太郎とかミッキー・カーチス、そしていつも筆頭には式場壮吉さんがいたね。式場さんはオーヤン・フィーフィの旦那ですよ。それから徳大寺とかね。
 そんな悪ガキ連中が日本のレース界の重臣となって今があるんだからね。鮒子田君なんかも丁度同じ年代だしね。林君もそうですしね。
でもね。我々の次の世代の人たちが余りいないのが心配だね。あの年代のオジサンたちが今だに頑張っていること自体がちょっと日本のレース界ヤバイんじゃないかな。」
無限 代表 本田博俊( by Hirotoshi Honda)

M : 鮒子田さんは、ホンダ・チームが日本グランプリに出場しないという理由などがあってトヨタに入られるわけですが、その時の経緯を教えて頂けますか?
F :トヨタに入ったのが、1966年6〜8月頃かな。その前年、浮谷東次郎に知り会ったわけですが・・・。彼が亡くなったのは僕がデビューした年の8月(1965年8月)ですが、その間1年間彼とは親交があったわけです。彼とは非常に仲が良かったし、僕がホンダに居る時に東次郎が「トヨタに来たらどう」という話しをしてくれたこともありましたね。
ホンダを辞めた時に、そんなことを思い出して東次郎の親父さんに「トヨタに入りたいんですけど、紹介してもらえませんか」と頼んだんですよ。そして紹介してもらうことになりトヨタの河野さんのところに会いに行ったわけです。河野さんと重役の稲川さんという方とお目にかかって検討してもらうことになったんですね。その後1966年の8月1日付で契約してもらえることになりました。
M : 実施テストなどはあったんですか?
F : 別になかったですね。役員室で1回お目にかかり話しを聞いてもらったぐらいでしたね。
 生前東次郎が僕のことを推薦してくれていたらしいということを後から聞いたんですが、そんなことが影響してスンナリ入ることが出来たんじゃないですか。
M : チーム・トヨタでのデビューはあのトヨタ2000GTでのタイムトライアルでしたよね。(1966年10月1日〜4日、茨城県谷田部の高速テストコースで4日間行なわれ通算3つの世界新記録と13の国際新記録した)
F :そうでしたね。今考えればよく20歳そこそこの若造をよく雇ってくれたと思い感謝してますよ(笑)。
 現実問題として、僕も後年レースチームを運営しててね、みんなも良く知っているあのジャック・ビルヌーブがティーンエージャーでF3にしか乗っていない頃にトヨタのGRCカーに乗せたけど、若いドライバーを使うということは勇気がいることですから。まあ当時、日本レース界全体が若かったということはあるにせよ僕より経験があるドライバーはいくらでもいたわけで、よく採用してくれたなあと思っています。
M : ホンダS600での実績あってのことではなかったのですか。
F : カッコよく言えばそうなるよね(笑)。それなりに速かったですからね。
M : その後に1967年の鈴鹿500kmレースで鮒子田さんはトヨタ2000GTで優勝されるんですが、まさに華々しいデビューで、その年はほとんどのレースで鮒子田さんは優勝かリタイヤかというジム・クラークかヨッヘン・リントのような活躍でしたね。
F : そんな感じでしたね(笑)。随分と持ち上げていただいて光栄です。
M : 出場されたのがほとんど耐久レースだったんですね。この中にはトヨタ1600GT RTXで福沢さん(福沢幸雄)と組まれた鈴鹿12時間レースもありました。そして、富士24時間レースなんてレースもありましたよね。
F : あれは2位でしたね。
M : 途中までトップでしたが・・・。
F : そうですね。そして富士1000kmレースはトップ走っていて福沢が飛び出したりしてね。
当時は耐久レースが日本のメインレースでしたから、今みたいにフォーミュラだとか、後で開催されて今はもうないけどグランチャン(1971年から富士スピードウェイで開催された2シーターマシンによるシリーズ戦)とかがなかった時代だ し、基本的に耐久レースが日本ではメインレースだったですね。トヨタもそういう意味でレースに出るのはそういうものしかなかった訳だしね。
M : しかし、トヨタは1967年は日本グランプリには出場してなかったですよね・・・。
F : そうね。玉がなかったよね。トヨタ2000GTじゃ後ろの方走るだけだろうし。
M : 鮒子田さんとしては、日本グランプリに出場したいという希望はお持ちだったのでしょ?
F : ドライバーとしてやっている限り、やはり日本最高峰の日本グランプリというレースに出たいと思うのは当たり前のことですよ。

“トヨタ対ニッサン 日本グランプリの時代”  
M :  1968年にトヨター7が作られてトヨタが日本グランプリに挑戦するわけですが・・・。
トヨタ対ニッサンという図式が69年まで続くわけですが、この時代を振り返って今思われることはなんでしょうか。
F : それは年1度のビッグ・イベントでそれだけに賭けるというか、極端に言えばオリンピックかワールドカップのようなものでしたね。
ただ残念ながらトヨタのもっていた車は勝てるレベルにいかなかったですね。T.N対決はトヨタの負けっぱなしでしたから、総合性能ではニッサンに負けていたってことでしょうね。当時ニッサン、元々プリンスベースですが、レースカーの開発は先行してましたからね。第2回日本グランプリ以降を含めて先行してたといえるでしょうね。
 余談だけど、トヨタは前哨戦や練習では速くてなぜか本番で遅かったでしょ!?これはね、当時チーム全員が経験不足だったからしかたないんだけれど、練習する時間が極端に多かったんですよ。当然シャーシーは傷んでくるわけで、今のカーボンシャーシーならこの程度の距離では傷まないけど、当時はシャーシーの剛性が落ちているのに気がつかず、そのまま出てたからタイムが落ちるのは当たり前で、その点ニッサンも同じだと思うけれどトヨタよりは練習量が少なかったからね(笑)。
M : そんな裏話があったんですか。
その後トヨタは国内の68年度耐久レースに積極的に出場するわけで、富士1000kmレース、鈴鹿1000kmレースなどほとんど鮒子田さんのトヨター7が優勝してますね。しかし、鈴鹿12時間レースでは惜しくも優勝逃しましたが・・・。
F : そのレースはトラブルがなければ勝てたしね。このレースは不思議なトラブルでしたからね(笑)。
 (企画ページ 「エース・ドライバーの栄光と苦悩 鮒子田 寛にとっての日本グランプリとは!?」参照
M : 日本グランプリ以外のレースでトヨタが勝ち続けることでイメージアップに繋がりましたね。耐久レースのトヨタというキャッチフレーズが出来上ったと思います。
そして、その年の11月23日に日本CAN-AMも開催され、トヨタだけがワークス・チームを出場させて鮒子田さんは7000ccビッグマシンに混じって8位になったわけですが、途中まではトヨタ勢トップにいたのに、またしてもビッグレースでは不運が襲って・・・。
F : その可能性はなきにしもあらずですね。
次ぎの年の日本CAN-AMもそうですしね。日本グランプリもそうでしたしね。結果として運がなかったということかも知れないし・・・。
M : 69年の富士1000km、NETスピードカップも揃って1位を取られているし・・・。
F : 本当はね、68年のNETスピードカップも本当は勝てたレースだったんだよね。トラブルでピットインしてだめだったね。でもそういうこと言い出したらきりがないよね(笑)。それも含めてドライバーの実力でもあるし、チームの実力でもあるわけだし、運も実力ってこともあるわけですね。
 世の中にはいろんなドライバーがいるわけで、成功するドライバーって限られているわけですよ。
例えばF-3でチャンピオンを取ったとしてもそのドライバーが必ずしもF-1に行けるわけではないんだよね・・・、難しいことですよ。
“生沢 徹は時期がはやすぎたね!”  
M : 生沢さんにしても1967〜70年頃はあのロニー・ピーターソンやエマーソン・フィッティパルディに争って勝っていた時期もあったわけですけど、生沢さん以外はほとんどみんなF-1に行ってしまい、F-1チャンピオンなったドライバーもいたわけですね。
F : 彼の場合は時期が早かったと思うね。
今ね、生沢 徹が争っていればまちがいなくF-1に行けてたでしょうね。
M : そういえば今年イギリスF-3選手権で佐藤琢磨選手がチャンピオンになりかけてますよね。
F : このまま行けばなるでしょう。
M : 彼なんかはF-1への道は開かれるでしょうかね?!
F : 彼もそうだけど、今すごいことが起きてるんだよね。今年のヨーロッパのF-3は凄いよ!イギリスF-3のトップを走っているのが佐藤琢磨でしょ。ドイツF-3のトップを走っているのが金石年弘、フランスF-3のトップは福田 良だしね、こんなことは今までなかったことだよね。これは凄いことだよ。今年は、3人のチャンピオンが生れる可能性もあるよね。
M : F-1が近いかもしれない?!
F : F-1が近いっていうのは多分言い過ぎだと思うけど、ただ佐藤琢磨の場合はホンダがかなり気合入れて応援して いるから可能性は高いと思うよ。
 昔の生沢と今の佐藤の違いというのはそこらへんにあるわけですよね。中島もそうだったけど、ホンダが力を入れてる。それだけにチャンス大だね!
F-1チームはしたたかだけど、エンジンサプラヤーとビッグマネーに弱いよね。しかし、佐藤琢磨は今までのドライバーと違い可能性はあると思うね。楽しみだよね。
“本当は、インディー500に出場出来るはずだった!”   
M : 話しは戻りますが、1970年にトヨタを辞められてアメリカに行かれるわけですが、最初のF-Aレースに出場された時はまだトヨタに在籍中でしたが、その頃にはトヨタを辞めるという気持ちはお持ちだったのでしょうか!?
F : 思ってたかも知れませんね。まずはアメリカのレースを見てから考えようというつもりでしたね。そして、偶然F-Aレースに出場することになってますますそんな気持ちになってくるよね。
M : それ以降トヨタを辞めてF-Aレースに挑戦されるわけですが、途中で資金面等で苦労されていたと思うんですが、そのあたりはどうだったんですか?
F : 苦労は別にしなかったんですけど結局はスポンサーが集まらなくて予定通り行かなかったというだけで・・・、そして、シアーズ・ポイントのレースでクラッシュしちゃったでしょ。今から思えばもうちょっと賢くやればあそこで修理すれば良かったんだけど、なぜか修理しなくてやめてしまった。なんか無駄だったなという気もするんだよね。
M : 鮒子田さんは、シアトルで3位、ラグナセカで5位、予選でも常時上位におられたんでなんかもったいなかったですね。
F : 車がね、1年の落ちで当時はマクラーレン・シボレーが強くて、僕のイーグルは性能的に劣っていた車なんでシボレー・エンジン使っていれば1〜2回は優勝出来たかなって思いますね。
M : 日本人ドライバーと当地の外人ドライバーとの差については?!
F : 僕は別に考えたことはないし、予想外に良い現地ドライバーがいるなとは思いましたけどね。
当然、トヨタのエース・ドライバーとしての自負もあったし、日本CAN-AMでも2回ぐらい外人ドライバーと走ってますから、レベルについてもまったく差は感じませんでしたね。
M : 翌年鮒子田さんは、F-AからTrans-Amに挑戦されるわけですが・・・。
F : 単純に資金的な問題ですね。それとアメリカでレース続けたいという理由だったね。Trans-Amが一番手頃に出来たからね。
M : 鮒子田さんの目標だったインディカーレースの方はどうだったんですか。
F : 元々そのつもりで行ったわけで、今から思えばF-Aを選んだことが間違いだったよね。あるいはもっと言えば入ったチームが間違いだったとかね。いろいろあるわけでF-Aでも違うチームだったら違う部分もあったかもしれないね。
当時F-Aやりながら随分インディのチームにあちこちアプローチしましたけどね、当然F-Aの車が壊れてからも、あちこちチームに声かけたり、ヘルメットとスーツを持ってサーキットへ行ったり、いろいろやりましたけど、最終的には資金的な問題が一番ネックでしたね。
M : そしてTrans-Amレースでの大クラッシュで一時レース生命が危ぶまれた時もありましたね。
F : あれはひどい事故だったね。なにしろ2時間半も車に閉じ込められたし、今じゃ考えられないですよ。
 今になって思うのはあの時サーキットとチーム相手に裁判で損害賠償訴訟を起こしていればきっと億単位の金が入ったよね(笑)。
あの頃のアメリカじゃその手の裁判起こせば勝てたしね。
M : しなかったのは何故ですか?
F : 知人からは裁判するべきだと言われていたけど、その当時はまだアメリカでレース続けていたい気持ちが強くてやめたんだ。
M : さて、そのクラッシュの後、アメリカのレースを止めて日本レース界に復帰するわけですが、その経緯を教えてください。
F : まだアメリカのレースは続けたかったけど資金的にきつかったからね。
M : 1972年の富士グランチャンは、初めて2リッタークラスにチャンピオンシップが懸けられ、鮒子田さんはオンワード樫山やチャンピオンのスポンサーを受けてシェブロンB21Pで参加されました。
当時、スポンサーを獲得することでどのような御苦労があったんでしょうか。
F : 当時僕らがスポンサーになってほしいと言いに行くとかならずどこでも「オート・レース(ギャンブル)ですか」って聞かれましたね(笑)。それだけモーター・スポーツがまだまだ日本では浸透してなかったということだよ。
ところで、今だから言えるけど実は1971年に僕はインディ500に出られたはずだったんだよ。
M : 本当ですか?!
F : 昔、トヨタにいた坪ちゃん(元・トヨタ・ワークスドライバーの大坪善男)がレースを辞めた後、映画製作に携わっていて、某映画会社のコーディネートをしていた。その坪ちゃんから、インディをテーマにした映画を作る話しがあるからインディのチームを紹介してくれと頼まれて、僕が間に入ってアメリカのSTPに交渉して、STPも乗り気になり映画制作に協力する形でインディにもう一台
出すということで合意していたんだ。坪ちゃんと僕はアメリカのSTPの本社へ交渉に行ったし、2人でインディアナポリス・スピードウェイに出かけて普通の乗用車でしたけど走ったりもしたんだよ。
そうこうしている内に映画会社のプロデュサーが欲を出し、製作費用も出してもらおうと、直接STPに交渉しちゃって、それで話しがおかしくなり、ごたごたしたあげく計画が白 紙撤回になっちゃたんだ。その映画では日本人ドライバーがインディに挑戦するストーリーで、その役を僕がやり、STPが車を用意して本当にインディを走れるところまでいっていたんだけどね。残念だったよ。
M : それが実現されたらと思うと本当に残念でしたね。
 話しは違いますが、ところで鮒子田さんはどうやって私のHPを見つけられたんでしょうか?
F : それがね、僕の母校の同志社高校の同窓会が作っているホーム・ページがあって、そこの投稿コラム(!?)で誰かが自分の名前をYahooで検索したら、結構面白いことがあった。そんな投稿があって、じゃ、やってみようと、鮒子田と入れたんだ。でも、2年前に「鮒子田 寛」で検索した時には牧野さんのHPは出てこなかった。
M : そうだったんですか。丁度トヨタ―7とトヨタのドライバーについて企画ページを作ったばかりでしたから、検索出来たんでしょうね。
いずれにしても鮒子田さんから初めてメールを頂いた時は飛び上がるほど感激でした。
 では、今日は本当に貴重なお時間をとって頂きありがとうございました。これからもお仕事頑張ってください。
F : こちらこそありがとうございました。それからこの場を借りまして、ぜひ私のレース人生においての集大成として申し上げたいことがあるのですが宜しいですか?
H : ぜひお願いします。
 
 牧野さんが主宰される「鮒子田 寛」のホームページ立ち上げに際し、この場をお借りして一言述べさせて頂きます。
まず最初に、素晴らしい情熱と、大変な労力を注ぎ込まれ、このホームページを完成された牧野さん。スクラップ整理から始まり、関係者の取材・インタビューと、夜間と休日を費やしての大作業お疲れ様でした。そして、完成おめでとうございます。
 私の半生を、私自身とは違う切り口で紐解いていただき感謝しております。偉業とか、伝説とか、少々持ち上げすぎではないかと思いますが、あくまでも、牧野さんが描く「鮒子田 寛像」ですから、私は敢えて抵抗はしません。
これから、このページが牧野さんの願い通りに、益々素晴らしいホームページに発展していくことを期待しております。
 次に、私が今日まで「若き日に思いいだいた夢」を仕事として続けてこられたのは、家族の支えがあったからです。今はなき両親、レースを始める時も、始めてからも、最大の支援者でありサポーターであった親父とお袋。それから、私の妻、二人の子供達。特に妻は30年以上にわたり私を支えてくれました。改めて家族のみんなにありがとうと言わせて頂きます。
 最後に、私がプロのレースドライバーになる切っ掛けを作ってくれたホンダ・ワールドの藤井さんを始めとするホンダのレース関係者の皆さん。トヨタへ入る道を開いてくれた浮谷東次郎さん、そして、浮谷の親父さんとお母さん。トヨタの稲川さん、河野さん、外山工場の皆さん。舘さんを始めトムスの皆さん。童夢の林君。共に戦ったドライバー、チームの皆さん。いつも声援を送ってくれたレースファンの皆さん。そして、私を支えてくれた全ての皆さん。皆さん、本当にありがとうございました。お陰さまで、これまで仕事を続けてこられました。これからも頑張りますのでよろしくお願いします。
 
2001年7月20日 鮒子田 寛

 

“インタビューを終えて・・・” 
 インタビュー終了後もしばらく鮒子田さんといろいろなお話しをうかがっておりましたが、その中にはトヨタを辞めた本当の理由とか、今某旧車ショップで1972年鮒子田さんをチャンピオンに導いたレーシングマシンである“シェブロンB21P”そのものが当時のカラーリングでレストアされていることとか、話しは尽きなく本当に楽しく有意義な1日を過ごさせて頂くことが出来ました。
思えば昨年鮒子田さんから初めてメールを頂いた時のサブジェクトが「How do you do ?」でした。そして「こんなに私のことを知っているあなたは私の知り合いですか?」という内容のメールが、今回夢にまで見た鮒子田さんとお会いするまでの最初の出会いとなりました。
 最後に私がこれからの鮒子田さんにお願いしたいことはいつまでもレースに携わっていて頂きたいということと、いつまでも御家族を大事にしてご自身も大いに人生をエンジョイして頂ければと心より切望しています。
そして最後になりますが、これからもまだまだ未熟な私のHPですが、今後ともよろしくお願いします。
本当にありがとうございました。
主宰者

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(C) 30/JULY/2001 Text report by Hirofumi Makino.