THE MASSAGE TO HIROSHI FUSHIDA FROM HIS FRIEND 

「友人・知人 鮒子田 寛を語る!!」

第3回

Joe Honda ” 
“ジョー・ホンダ”
(モーター・スポーツ・カメラマン兼モーター・スポーツ・ジャーナリスト)
鮒子田 寛を語る!!
From Joe Honda to Hiroshi Fushida

 まさに圧巻であります。現在日本及び世界のレース界にあってトップで活躍されている歴戦の勇士たちが、今、鮒子田 寛を語る!!

 今回は、1967年から現在まで精力的にモーター・スポーツの写真を撮り続けておられた「ジョー・ホンダ」氏に、当時の鮒子田 寛氏をいったいどのように見ておられたかをうかがうことが出来ました。ジョーさんは、プロのカメラマンとしてだけでなく、モーター・スポーツ・ジャーナリストとしても御活躍中であり、失われてきた栄光と努力の結晶である当時の日本人ドライバーたちの活躍を絶対に忘れてはいけないと常々言い続けておられ、先日も東京 恵比寿のMr.Craftにおいて、過去の日本人ドライバーたちの活躍を中心とした「第1回 秘蔵写真展」を開催されていらっしゃいました。
では、そのジョーさんに早速登場して頂きましょう!


M(makino):ジョー・さん、早速ですが、鮒子田さんとの出会いはいつだったのでしょうか?
 
J(ジョー・ホンダ): 1973年のGCが最初かな?!もちろん、カンナムでの撮影で会ってはいたけれど・・・。

M:ジョーさんは、1967年から海外で活躍されていましたよね!だから、日本で撮影されていたと聞いて意外に思ったのですが・・・。
 

J: 丁度、ミノルタカメラの仕事で、73年のGCで酒井さんと一緒だったんですよ。その時、丁度鮒子田さんも出場していて、よく話すようになったんです。

M:それ以前のトヨタ・チーム時代の面識はなかったんですか?
 

J: もちろん知っていたが、GCの時からよく話すようになったね。私は60年代は、海外での仕事が多く、日本での仕事は73年が最初だった。

M:ということは、70〜71年の2年間の間、鮒子田さんがF−AやTrans-Amをやられていた時には、会ってないのでしょうか?
 

J: F-AやTrans-Amにはいかなかったですね。ただ、Can-Amの取材で鮒子田さんとは会っているが・・・。

M:あの1970年ラグナセカでのMac's it specialという2サイクル4輪駆動のマシンをドライブした時ですか?
 

J: そうです。

M:その時の模様が当時のAUTO SPORT誌で大きく取り上げられていましたね。
 

J: その時は、あまり多く会話を交わす事はなかったですね。しかし、彼のハングリー精神というかスピリットは感じたよ。

M:その当時、アメリカに単身で挑戦する日本人ドライバーはいなかったわけですよね!?
 

J: はい。ヨーロッパの生沢ぐらいじゃなかったかな。
その当時の鮒子田さんは、トヨタというバックボーンを失い、個人の力の限界でレースをしていたと思うんだ。
しかし、その頃のアメリカ人は、そんな鮒子田さんのことを多少なりとも色眼鏡的に見ていたんじゃないかな。
でも彼は、そんなことには負けずにガッツで頑張っていたよ。それに、どん欲だったと思う。
それを思うと今のドライバーたちは、そのガッツが足りないな。

M:アメリカ人から見たら、日本人ドライバーの評価が低かったといいうことですか?!
 

J: いや、当時からレース・チームは、どこも資金がなかったから、その辺を見られたかもしれないね。

M:鮒子田さんは、アメリカへ行った理由として、インディ500に出場するのが夢だったとおっしゃってましたが・・・。
 

J: インディ500は、当時女性を一切パドックに入れなかったんだ。本当に格式があるアメリカの伝統的レースだった。だから、イギリス人や、ヨーロッパは別として僕から見て非常に人種差別的なこともあったと思う。
だから、当時のインディに日本人ドライバーが出場するというのはとても難しかったんじゃないかと思う。

M:そういえば、1967年にスカラシップでマリオ・アンドレッティのチームに参加した津々見さんが、てっきりレースに出れるとばかり思って渡米したら、メカニックしかさせてもらえなかったという話しもありましたよね。
 

J: そうです。もし、鮒子田さんがあのクラッシュがなかったとしても、本人に怒られるかもしれないけど、せいぜいCAN-AMレースに参加することぐらいしか出来なかったんじゃないかな。それでも良い方かもしれない。
でも、当時彼はレースが出来るのであればなんでもしたんじゃないかな。とにかく必死だったと思う。

M:さて、話しをGC時代に戻しますが、実際鮒子田さんとよく話されてからの印象を教えて頂けますか?
 

J: とにかく、人懐っこくて、関西風のマロヤカさがあったね。しかし、その表面とは裏腹にレースとなると絶対ライバルには負けないというガッツを感じさせてくれた人だったね。彼にとってトヨタを辞めた後だったから、精神的に一番辛かった時期だったんじゃないかな。でも、どん欲さがあって、レースに対する情熱を感じさせてくれたね。
そして、その情熱とどん欲さで勝ち取ったのが72年のGCチャンピオンであり、73年のル・マン出場だったんじゃないかと思う。身体一つで勝ち取ったんだから凄いよ!

M:プロフェッショナルだったと・・・。
 

J: その通りです。
当時、海外に目を向けていたのは、鮒子田さんを含めて、生沢徹、風戸裕、そして、桑島らがいたけど、彼らはみんなスピリットを持っていたよ。丁度、今の大リーグに大挙してイチローたちが行ったのと、生沢や鮒子田らがヨーロッパやアメリカに夢を持って行った時と似ているんじゃないかな。

M:これからの日本人ドライバーの中で、鮒子田さんや生沢さんのような存在は出てくるんでしょうか?
 

J: 出てくるでしょうね。ただ、当時のあのガッツあるスピリットを持ち合わせたドライバーが出てくるかどうかは分からないな。今の若いドライバーは、すぐにスポンサーがどうのこうのと言いすぎるよ。実力をつけてから言うべきですよ。生沢や鮒子田のようなどん欲な精神を持ち合わせていないんだよ。凄く考えが甘いよね。

M:ジョーさんどうもありがとうございました。最後にジョーさんの今後の活動を聞かせてください。
 

J: こちらこそありがとうございました。今後の予定としては、当時の日本人ドライバー、風戸や福沢も含めて日本モータースポーツの基盤を築いたドライバーたちの写真展を随時開いて行く予定です。そして、今後の日本モータースポーツの発展のために、いつまでもこの人たちのスピリットを我々は忘れてはいけないと思うんだ。
その為にも僕はこの写真展を続けて行くつもりだ。


 
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(C) 16/SEPT/2001 Special Thanks. Text Reports  by Joe Honda.