THE HISTORY OF JOE HONDA 
“ジョー・ホンダ” 

“伝説のドライバー達と歩んだ34年間”


 "Joe Honda is a professional motor sport photoartist.
 So he'll  has an exhibition, it hold an exhibition at Mr.CRAFT in AUGUST 4th 2001.It's the exhidition of a treasure photographs !! 
 It's the most beautiful  photographs, I'm ever seen !!"

 


TOP : HIROSHI KAZATO
 「ジョー・ホンダ」。
この名前なくして私のモータースポーツ人生はないものと同じであります。
これほどジョー・ホンダ氏の影響力は計り知れないものがあるのです。
私が初めて「AUTO SPORT」誌を買い求めたのが1967年。丁度中学生時代でありました。それ以来私の脳裡に焼きついております「チャパラル2F」、「フェラーリ330P-4」、「ル・マン」、「タルガ・フロリオ」、「インディ」、そして「タイレル(?!)・フォード」などなど数え切れない数の場面は実は全てジョー・ホンダ氏の写真であったことを知るのは随分後のことでありました。
 それから34年後、私のほとんどのモータースポーツ場面の源となっているこれらの写真を撮られた「ジョー・ホンダ」氏にお会いすることが出来るなどとは誰が想像出来たでありましょうか。そして、来月8月4日から開かれる氏の写真展である「ジョー・ホンダ 秘蔵写真展」の成功を祈りこのページを書かせて頂いている現実もまだ私は理解しきっていない状態であることも付け加えておきます。
そして、微力ながらそのジョーさんへの恩返しのつもりで今回は日本を代表する“モータースポーツ写真家”、またの名を“素晴らしきカーレースの放浪人”である「ジョー・ホンダ」氏の豆ヒストリーを企画ページとして書かせて頂けることとなり本当に光栄だと思っています。
主宰者
 “ジョーさんとの楽しい一時” 
(インタビュー形式による34年間回想 2001. 7. 8.)”
“本当は報道カメラマンになりたかった!”
M(主宰者): 本日はお時間を頂き本当にありがとうございました。では、宜しくお願いします。
J(ジョー・ホンダ氏): こちらこそ。
M: まずジョーさんがモータースポーツのプロ・カメラマンとしてこの世界に入られたきっかけを教えて頂けますか。
J: 元々写真の世界に入ったきっかけは、報道カメラマンになりたかったからです。当時“ロバート・キャパ”とか戦争を報道する写真家が大好きで・・・。丁度アジアに戦争があった頃だし、その世界に入りたかったんですよ。
カーレースそのものは、国さん(高橋国光氏)が我々と同年代だったことや、鈴鹿や富士にサーキットが出来てやっと我が国にもレースという文化が生まれ始めていた頃だったので、将来性を考えて(!?)じゃあやってみようかと思ったのがきっかけかな。
そして、富士のオープニングレースにジム・クラークやコーリン・チャプマンが来たりしたし、車にはあまり興味はなかったけれど日本にはまだプロのレースカメラマンもいなかった時代だし、一丁やるかという気持ちだったと思いますよ。
まだ、外貨持ち出しが自由でない頃で、東京オリンピックが1964年に開かれたりした時代、生き方は違うけど報道写真の1つとして自動車レースを取り上げたんです。でも、自分じゃ当時モータースポーツ・ジャーナリストなんて全然思わなかったよ。
そう思うようになったのは40歳過ぎてからかな・・・。諦めがついたからですよ。(笑)
昔、ホンダがレースをやめた年に中村さん(ホンダF-1チーム初代監督中村良夫氏 故人)と話したんです。
「僕は道を間違えたかな!?アフリカの方に行って写真撮っていた方が良かったかもしれないな」なんていう話しまでしたんですよ。
それが1970年のスペインGPで偶然その場に居合わせて撮影することが出来たBRMに乗るジャッキー・オリバーの炎上事故の写真が評判となっちゃって・・・(笑)。それでまた車の方に来ちゃった訳です(右写真)。
他の人達(他のカメラマン)と違うところは、考え方も撮り方も勉強したところが違うから・・・。僕は“くるま”じゃないんですね。
“タバコ問題は34年前からあった!” 
M: 他のカメラマンの方はどのような感じだったんですか。
J: 当時のドイツ人のカメラマンなんかは、モータースポーツをやっていたり、空軍のパイロットだったり、自分が戦争から帰ってこの道にきたりとかいろいろですよ。
バーニー・エクレストンにしたってモータースポーツやってたしね。
その中でコーリン・チャプマンやバーニー・エクレストンのような天才、英雄が出てきたからF-1が栄えたんだよね。
M: ゴールドリーフ・カラーのロータスが出てきたのは1968年でしたよね。初めてのスポンサーカラーだったのでは・・・。
J: そうです。その後1969年のスペインGPからタバコ問題が起きたんですよ。ヨーロッパでは33年前からこの問題はあるわけです。
日本はその点については遅れているけど、1974年スペインGPが「マルボロ・グランプリ」として行われたのを初めとして、1975年には日本で“F-1デモンストレーション走行”が行なわれ、その翌年から2年間F-1日本グランプリを開催した。これはもうホンダかトヨタをF-1グランプリに呼び出す布石だったんですよ。タバコ会社の・・・。
 中村さんと話してたんですが、1974年のスペインGPから始まって76〜77年日本グランプリをやった時、ホンダはその路線に乗りかかったし、トヨタはアメリカでタバコ会社とグランプリをやっているし・・・。
 とにかく74年頃から今の「BAR」の前身である“ジョンプレーヤー”と“フィリップ・モーリス”の2社で日本をタバコ漬けにしようという動きがあったんですよ。
 1976〜77年の頃、ホンダ・シビックはファミリアにやられぱなしでガタガタになっていた頃で、2輪の方は(モーターサイクル世界選手権)ヤマハにやられ、ホンダとしてもここで一気劣勢挽回を迫られてF-1グランプリに復帰せざるを得ない状態だったよね。
そんなことでいろいろな試行錯誤があったけど、桜井さん(第2期ホンダF-1チーム監督)のような人が出てきてやり始めたよね、1984年から・・・。
60年代のル・マンが花だった!
M: そうでしたね。ところで、ジョーさんにとっての“ル・マン”とはなんだったんでしょうか。それとジョーさんは1967年から毎年欠かさず行かれていたのでしょうか。
J: 1度だけ行けなかったなあ。1979年だけ。スウェーデンGPに行っていたんで。それでも合計34回行っているよ。
M: F-1とル・マンはジョーさんにとっては写真を撮る側からして双璧な存在だったんでしょうか。
J: どっちかというとF-1はあまり興味がなかったよ。F-1はホンダが参戦していたんで行ったけど、僕はタルガ・フロリオ(イタリアのシシリー島で開催されるラリー形式のプロトタイプカーレース)なんかのレースの方が大好きだったなあ。
M: タルガ・フロリオといえば1周約70kmもあるコースですよね。移動する方法や撮影方法はどのようにされていたんですか。
J: 撮影ポイントがいくつかあるんですよ。
コレサロという町なんですよ。その他に3つのポイントがあるわけで、その中を車で移動するんです。
シシリーってマフィアのイメージが強いけど、そこに住んでいる人達は本当に良い人ばかりで、それこそレース開催中なんか飲めや歌えやで大変。そのうちこちらも酔っ払ってくるとみんなとワイワイガヤガヤですよ(笑)。
M: シシリー島に行くルートはどのように行かれたのでしょうか。
J: ルートは本島から船で1時間ぐらいで渡っちゃうんです。
快適なのは15時間ぐらいで行く豪華客船が出ていて、それで行くと最高だよ。
当時ポルシェなんか一般道をテストを兼ねて走りながら行くんだよ。そしてフェリーでシシリーに行くわけですよ。
M: タルガ・フロリオと言えば“ニノ・バッカレラ”ですよね。
J: 彼は地元の女学校の先生だからね。人気は凄かったよ。
M: さて、ル・マンですが、私はル・マンというとフェラーリ対フォードの1966年から67年の戦いが特に印象深いのですが。
J: やはり60年代が花だったですね。
1967年にフォードが勝った時が凄かった。それとつい最近のトヨタとメルセデスの戦いも良かった。
M: ポルシェとフェラーリの対決だった“栄光のル・マン”の時代も面白かったのではないでしょうか。
J: あの時代も面白かったけど、あれで強すぎるポルシェ潰しをやり始めたんだよ、フランスのマトラを勝たせるためにね。フランスのエゴイズムがル・マンをおかしくしちゃったよね。
この時期1974年頃はオイル・ショックでヨーロッパもアメリカもおかしくなったころだし、一時代が終わった感じだった。
M: そういえばマトラであのグラハム・ヒルが勝った時がありましたよね。それでヒルはインディ500、モナコGP、ル・マンに勝った最初のドライバーになったんですよね。
J: そうだね。その後エンバシー・チームのオーナーとなったけど飛行機事故で亡くなるんだけど。
M: 1970年代になるとジョーさんはアメリカで当時人気だったCAN-AMシリーズに行かれるわけですね。
J: そう。CAN-AMにトヨタとニッサンが出るということで行ったわけなんだけど結局両方ともこなかった(笑)。
M: タイミング的に風戸さんが71年シリーズにフル挑戦するということでしたね。
J: そう。1970年はかなり行ったんですよ。風戸が出た71年は5〜6戦は行ってますよ。
M: 鮒子田さんが1回だけ予選に出たレースありましたね。
J: ラグナセカでね。
M: ところで、ジョーさんの写真はほとんどオートスポーツ誌でしか知らないのですが、私の脳裡に焼きついている写真といえばやはり1967年ル・マン優勝車のフォードMKIV、モンツァでのフェラーリ330P-4、そして1968年にニュルブルクリンク500kmレースでクラス優勝した生沢さんのホンダS800などですが、ジョーさんは当時のプロトタイプカーレースにはほとんど行かれたんですよね。
J: そうです。当時はF-1よりプロトタイプカーレースの方が人気があったからね。ル・マンがポルシェを追い出してからF-1の方に人気が行ったとも言えるかな。
M: 生沢さんがイギリスで活躍された1967〜68年頃の写真はほとんどジョーさんが撮られたんですか。
J: そう。他に誰もいなかったよ。しかし、ニュルブルクリンクの写真は僕が撮ったんだけどあんまり印象ないな。それより68年のワトキンスグレンでワークス・ポルシェに彼が乗った時の方が覚えているよ。
(注:生沢 徹は1968年ワークス・ポルシェの一員としてアメリカで開かれた世界メーカー選手権ワトキンスグレン6時間レースにポルシェ908で出場し、約2時間ドライブし、ポルシェ・チームの中ではトップの6位でフィニッシュしている)
M: ところでヨーロッパでのF-1人気は70年代中盤からですか。
J: そうでもないんだよ。バーニー・エクレストンはどうにかしてホンダを巻き込んでF-1人気を挽回しようとしてたわけで、日本のマネーを期待してたんだろうね。特に80年代の日本の経済力が魅力的だったんだよ。
彼らは、存続の為にはなんでもやるよ。それだけバーニーに力は凄かったよ。
M: 昨年からアメリカGPをインディアナポリス・スピードウェイで開催してますが、その真意はやはり今のアメリカの景気目当てでしょうか。
J: 結局、世界のモータースポーツ・ルールをFIAに統一したい為の策だと思うんだ。CARTとIRLを再度統一しようとする動きがあるのもその証拠だよね。
M: ジョーさんにとってのインディとはなんですか。
J: 1969〜70年だけ行ってます。インディもターボカーを締め出してからやや人気が落ちてきたよね。
M: そういえば1970年のオートスポーツ誌7月号を見ているとインディ500の取材とモナコ・グランプリの取材をハードなスケジュールでこなされていますが、体力的には大変だったのでは。
J: 大丈夫ですよ。昔、マリオ・アンドレッティなんか1日違いだったインディとモナコを往復していたしね。
“「秘蔵写真展」開催!!” 
M: さて、今度ジョーさんが「ジョー・ホンダ 秘蔵写真展」をかいさいされると聞きましたが。
J: はい。これからは僕の過去の作品の集大成として毎年何回か開いて行こうと思っています。これが第1回となります。
M: この写真展の内容と目的を教えていただけますでしょうか。
J: はい。内容は1967年から撮り続けた写真の中から、まだ公開していないものを中心に約400点をよりすぐって発表したいと思ってます。
また、モーター・スポーツ創世記に深く関わったドライバー、特に不幸にも事故等で他界したドライバーについてもっと皆さんに知ってもらいたいということ、福沢幸雄、風戸 裕など彼らの死が決して無駄死にじゃなかったことを写真を通して伝えることがこの写真展の意義だと思ってます。
また、国さん(高橋国光)や生沢 徹などの60年代からの栄光と挫折の生きざまを伝えるのも目的です。
 開催期間は、8月4日から19日。場所はJR恵比寿駅の近くにある“Mr.CRAFT8階特設会場です。
是非、皆さんいらっしゃってください。
M: ジョーさん、今回はお忙しい中本当にありがとうございました。第1回秘蔵写真展が成功されることを祈っています。
J: こちらこそありがとうございました。

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(C) 11/JULY/2001 Photographs by Joe Honda.
(C) 11/JULY/2001 Textreports by Hirofumi Makino.
 
 

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