The First Run !!
The Ford GT40 in Japan
'70 All Japan Suzuka 300Kms Race.
フォードGT40が鈴鹿を走った日!!

TOP : The Kojima Racing's GT40 at Suzuka CK in 1970.
(C) Photograph by Naofumi Ibuki.

TOP : Official Program Book for '70 All Japan Suzuka 300Kms Race.
Special thanks Naofumi Ibuki.

*JWエンジニアリングの元を離れて2年。そのマニファクチャラーズチャンピオンマシンの走りをリアルタイムでご覧になり撮影された貴重な写真をN.I氏のご協力を得、ここに公開させて頂く事が出来ました。
この場を借りてお礼を申し上げます。

 今から33年前の1970年に日本で初めてフォードGT40が鈴鹿を走ったことを皆さんご存知だったでしょうか?私は丁度中学3年生の3学期で高校進学直前という事もあり、多分勉強なんぞしていた時期だったと記憶しています。
あの熱狂的だった前年の'69日本グランプリ、そして日本CAN-AMの後だけに、この年に3度交える事となるであろうニッサン、トヨタ、そしてタキ・レーシングなどの究極の対決を心待ちにする心境でもあったと思います。
しかし、結果としてその対決は実現されずにメーカー同士のビッグ・マシン対決はあっけなく消滅してしまう事になるのですが・・・。
60年代から70年代への移り変わりの年でもあったこの年。あれほど熱狂的だったGS(グループ・サウンズ)ブームも過去のものとなり、音楽についても新しい時代に入ったと言っても良いでしょう。町には“はしだのりひことシューベルツ”の「風」や“長谷川きよし”の「別れのサンバ」、“赤い鳥”の「竹田の子守唄」などが流れ、フォークソングブームの兆しが見えてきた時期だったと記憶しています。世界を見ればビートルズの解散。片やストーンズの活躍、そしてその当時ニューウェーヴとなりかけていた「グラム・ロック」の台頭などワールド・ミュージックの世界でも移り変わりは超スピードでありました。
いや〜大きく横道に話題がそれてしまいましたが、遅れて来たチャンピオンマシンGT40はそんな時代の真っ只中に日本モータースポーツ界にデビューした訳でありました。
実はこのフォードGT40は最初から小島・レーシング(後のコジマ・エンジニアリング)に納車されたわけではありませんでした。遡る事2年、このGT40はヤマハ発動機に静かに納車されていたのです。
当時ヤマハはトヨタ自動車のレーシングカー開発部門を担当する重要な会社であり、あのトヨタ2000GTのエンジンもヤマハ製であり、その後の一連のトヨタ7の開発もヤマハが重要なポジションを担っていたのです。
そのヤマハに納車されたJWエンジニアリング製フォードGT40は徹底的にテストされ同社で開発されていたトヨタ7の開発に大きく貢献したと思われます。当時トヨタ自工チームのエース・ドライバーであった鮒子田 寛氏はこのフォードGT40のテストを実際にされており下記のコメントを頂きました。
「鈴鹿でよくテストしました。メカニックが横に乗っていろいろなデータを取りながらドライブしました。フォードGT40はとても乗り易いマシンだったと記憶しています。」
そのマシンが突如当時のオートスポーツ誌1969年発行10月号の日本グランプリ直前情報「日本グランプリをたたかう猛烈マシン!」とうたったカラーグラビアのトップページに登場したのには本当に驚いたものでありました。しかし、時代はすでにグループ7カー(排気量無制限2座席レーシングカーで通称CAN-AMカー)の時代であり、GT40はクラスの違うマニファクチャラーズ選手権耐久レース用マシンであり、現にポルシェ917という格上のマシンが存在している以上、いかに68年のチャンピオンマシンといってもフォードGT40はちょっと時代遅れではないかとの見方をしていたのも確かでありました。
 

 ヤマハ発動機が研究用に入手したJWエンジニアリングのGT40。これを京都在住の小島氏が譲り受け、望月/益子のコンビでグランプリに参加。補欠の加藤を含めて3人は三菱フォーミュラチームのメンバーだ。
・・・一時はエントリーが危ぶまれていた#55フォードGT40は、望月 修/益子 始という組み合わせで参加受付最終締め切り日の9月8日に手続きを完了した。
 これは、ヤマハ発動機が研究用に使っていたフォードGT40を京都に住むオートバイ・ライダーの小島松久氏が買い取ってオーナーになったもの。研究用とはいえイギリスのジョン・ワイヤー・エンジニアリングがル・マン24時間レース用に仕上げたマシンで、4942ccエンジンは7000回転で465馬力のパワーをしぼり出す。望月はこれをさらにハイチューンしてレースに臨む方針だが、耐久性と操縦性については定評のあるマシンだけに、これもダークホース的な存在だ。
 
 上のコメントは、オートスポーツ誌1969年10月号「日本グランプリ確定エントリーリスト」より引用活用させて頂きました。
 しかし、本戦の10月10日にフォードGT40の勇士を見ることは遂にありませんでした。
 
 


TOP : Glamorus tail !!
(C) Photograph by Naofumi Ibuki.

 幻となった69年日本グランプリ出場
 
 
 栄光のル・マン24時間レース制覇を狙うヘンリー・フォードII世は、1963年のロンドン・レーシングカー・ショーに華麗にデビューしたローラMK6GTの製作者であるエリック・ブロードレィと契約し、フォードGT40プロジェクトをスタートさせた。
そして、1966年。遂にフォードは、V8 OHV 7000cc エンジンを搭載したフォードGT40MKIIで王者フェラーリを破り、その夢を現実のものとすると同時に名声も手に入れることに成功する。
その後フォードは1969年までル・マンを支配し続け、今でもサルテ・サーキットの最終コーナーには「フォード・シケイン」というストップ・ザ・フォードの名残があり、永遠にその功績を称え続けている。
そんなフォードGT40が日本グランプリに突如エントリーして来たのはトヨタ、日産、タキ・レーシングの対決で日本中が沸いていた1969年であった。
このGT40(シャーシー・ナンバーGT40P/1077)は、イギリスのジョン・ワイヤー・オートモーティブがル・マン24時間レース用に仕上げたマシンで、ガーニー・ウエスレーク・ヘッドを持つフォードV8 OHV 4942ccエンジンは、ウェーバー・キャブレターを装備し、7000回転で465馬力のパワーを絞り出す強力なもので、一躍日本グランプリの優勝候補に上げられることとなる。
しかし、残念ながら諸般の事情で本レースには欠場、その勇姿は翌1970年1月18日に開催された鈴鹿300Kmレースまで待たねばならなかった。
小島レーシング(後のコジマ・エンジニアリング)よりエントリーしたGT40は、セッティング不足ではあったものの名手 田中健二郎 のドライブにより強豪ポルシェ908(タキ・レーシング 永松邦臣)やポルシェ910(タキ・レーシング 風戸 裕)とデッド・ヒートを演じ総合4位に入賞し、68年マニファクチャラーズ・チャンピオンマシンの実力を示した。
そして、全日本鈴鹿自動車レース大会に吉田隆郎のドライブにより出場、風戸 裕のポルシェ910に次いで総合2位となった後フォードGT40(No.1077)はサーキットより忽然と姿を消し現在に至っている。

 

 上のコメントは2003年春にフジミ模型より発売された1/24スケールプラモデル「フォードGT40 コジマ・レーシング」に記載されているものであります。フジミ模型とは同じく2003年1月に発売された1/24スケールプラモデル「ホンダS800 TETSU IKUZAWA ニュルブルクリンク500Km」以来のお付き合いであり、このフォードGT40 コジマ・レーシングのコメントも僭越ながら主宰者であります私が書かせて頂いたという訳です。
 フォードGT40というとやはり60年代のル・マンでの活躍が中心となるわけでありますが、どういうわけか日本においてはプロトタイプカーおよびレーシング・スポーツカーというとローラT70、ローラT70MKIIIやポルシェカレラ6−10、908、917などが中心となってしまいフォードGTやフェラーリの名前は見ることが出来ません。当時のプライベーターたちが当時の日本グランプリ規定がグループ7カーが中心となっていたためか、選ぶマシンがローラやマクラーレンに絞られてしまうというのはごく自然な成り行きだったのでなかったかと想像されます。
そのフォードGT40が日本の公式レースに初めて登場したのは、1970年1月18日「全日本鈴鹿300Kmレース」でありました。そして、その前日雪の降る最悪のコンディションの中注目の予選が開始されたのです。

 タキ・レーシングチームというとやはり日本グランプリでニッサン、トヨタと壮絶なトップ争いをしていた強力なプライベートチームという印象が今でも私は強く残っています。メーカーのバックアップなしで(ブリヂストンタイヤの協力はあったものの・・・)対等、時によってはそれ以上の当時最強マシンを自己資金で購入して対抗したその心意気に当時中学生だった私はとても感動したものでした。
前年の1969年の日本グランプリに当時最強のスポーツカードライバーと言われた“ジョー・シファート”とポルシェワークスをパックで呼んでニッサン、トヨタに対抗した余勢を駆ってポルシェ908スパイダーで出場したこの鈴鹿300Kmレースはまさにタキ・レーシングのためのレースと言っても過言ではありませんでした。やや活動を縮小したタキ・レーシングは前年同チームで活躍していた長谷見昌弘や田中健二郎がチームを離れ、新たに永松邦臣がエースとなり'69日本グランプリを走ったポルシェ908スパイダーを駆り予想通り予選をトップで通過したことは当然の結果と言えるでしょう。(右の写真は、スタート前の永松邦臣とポルシェ908スパイダー)
では、その予選の模様をダイジェストのお伝えしようと思います。
 レースは、エンジン排気量別に2つのレースで行われました。(1300cc以下のクラス第1レースと1300cc以上の第2レース)
1300cc以下のレースに出場する主なマシンとドライバーは、本田博俊(現無限)製作の矢吹圭造ドライブの意欲マシン“カムイ・ホンダ”、同じくホンダS800を改造した林みのる(現 童夢代表)製作のマシン“マクランサ”が3台、林将一作製のホンダ1300のエンジンを使った“カーマン・アパッチ”、そしてツーリングカー部門のTMSCのパブリカ(見崎清志、蟹江光正)、カローラ(松本恵二、その他)、スポーツカー部門のホンダS800などが主な出場マシンでありました。(出場台数48台)
1300cc以上の出場マシンは、レーシングカー部門で田中健二郎駆る日本初登場となる注目のフォードGT40と永松邦臣の鈴鹿初登場のポルシェ908スパイダー、そして、ニッサンが持ち込んだSR311の後継となる北野 元の乗るフェアレディZ432がなんといっても最大の注目マシンでした。その他、いすゞから浅岡重輝と米村太刀夫のべレットR6クーペが2台、永松と共にタキ・レーシングからあの風戸 裕は、68年生沢 徹が日本グランプリで2位を得た栄光のポルシェカレラ10で出場。また、ツーリング部門では、ニッサンワークスの高橋国光、都平健二がスカイライン2000GT-Rで、チーム木の実からプレスト・ロータリークーペが2台など注目のマシンたちが続く。
さて、予選はと言うとあいにくの雪。各車セッティングに苦しむ中、第1レースのマシンの中ではなんと本田博俊製作のカムイ・ホンダが2分49秒2でポールポジションを獲得。続いて蟹江光正のパブリカSLが2分53秒2、林将一のカーマン・アパッチが3番手とつづく。
第2レースでは、コースレコード更新(公式記録は1969年の同レースで優勝した鮒子田 寛のトヨタ7が持つ2分16秒7。非公式では68年4月ホンダRA301を駆るジョン・サーティーズが持つ2分11秒台とニッサンR382が1970年2月4−5日にテスト中にマークした2分7秒台、そして、1970年8月、あのターボチャージドトヨタ7が2分4秒台を記録したのが非公式最高タイム。永松自身2年後の1972年4月2日、鈴鹿500Km予選でローラT290三菱R39Bを駆り2分6秒5の公式ニューレコードを樹立する)を狙う永松が雪のため思いのほか攻める事が出来ず2分31秒0でポールを奪取。米村、浅岡のべレットR6クーペがそれに続きました。
注目の田中健二郎のフォードGT40は、北野 元のフェアレディZ432、高橋国光のスカイラインGT-Rに続いて6位でありました。
予選結果( Group 2 出走20台)
Driver
Time
Machine
Kuniomi Nagamatsu
2'31"0
Porsche 908
Tachio Yonemura
2'35"9
Bellet R6 Coupe
Shigeteru Asaoka
2'36"6
Bellet R6 Coupe
Moto Kitano
2'38"7
Fairlady Z432
Kunimitsu Takahashi
2'40"5
Skyline GT-R
Kenjirou Tanaka
2'41"6
Ford GT40
Kenji Tohira
2'43"2
Bluebard SSS
Hiroshi Kazato
2'44"2
Porsche 910

予選結果( Group 1 出走20台)

Driver
Time
Machine
Keizou Yabuki
2'49"2
Kamui Honda
Mitsumasa Kanie
2'52"3
Pabrika SL
Shoichi Hayashi
2'53"2
Karman Apachi
Kiyoshi Misaki
2'55"0
Pabrika SL

TOP : Taki Racing Team Truck and Shintarou Taki.
(C) Photographs by Naofumi Ibuki.

 上の写真は、珍しいタキレーシングチームのトラックであります。このトラックにポルシェ908や910を乗せて来ていたんですね!
右の写真は、永松のポルシェの走行を見守る滝進太郎オーナーであります。余談ですが、滝氏にとって鈴鹿300Kmレースとは、伴侶である高橋レナさんと巡り合ったキューピット役のレースでもあるのです。


TOP : Shintarou Taki ( Left side ) and Kenjirou Tanaka.
 上の写真は、前年までタキ・レーシングチームのキャプテンを務めていた田中健二郎に声をかける滝オーナー。後ろに永松邦臣の姿も見えますね!

TOP : The Ford GT40. Drivin by Kenjirou Tanaka.
 小島レーシングよりエントリーした注目のフォードGT40。オリジナルセッティングが完璧でないようで、フロントとリヤにスポイラーを付けている。これにタナケンこと田中健二郎が乗り込み優勝を狙う。

TOP : Taki and Hiroshi Kazato.
Hiroshi Kazato and his Porsche 910 at Suzuka 300Kms Race.
 今回のベストショットととも言える今は亡き滝進太郎と若き風戸 裕の貴重な写真。前年の'69日本グランプリに続いて、風戸 裕は自費でタキレーシングから購入したポルシェ910で初めての鈴鹿を走る。のちに風戸はレース活動を縮小したタキレーシング(永松は三菱チームに加入)からポルシェ908で富士300マイルレースに出場する事になり、その後一躍期待のドライバーとして注目を浴びる事になるのです。
このレースにおいて風戸は、永松から鈴鹿のドライブテクニックを伝授されています。このことが同年の全日本ドライバーズ選手権獲得に大きく影響を与えたのは間違いないでしょう。

(C) Photographs by Naofumi Ibuki.

GO TO NEXT PAGE
次のページへ続く
 



GO TO TOP

GO TO TOP PAGE

(C) Photographs by Naofumi Ibuki.