「ブルース・マクラーレンとデニー・ハルムに捧ぐ」

 今回ご紹介するのは、以前「インディ・ジョーンズ 失われたM12」で貴重な文献を提供して頂いた“宮野 滋”氏が書かれたこれまた大変貴重な記録である。 

 では、まず“宮野 滋 (みやの しげる Shigeru Miyano )”氏について簡単に紹介したい。
現役医師 兼 モータージャーナリストであり、海外の自動車関係書物の翻訳もこなしてしまうスーパーマンである。また、自動車燃費の世界記録を樹立し、ギネス記録になるなど“燃費男”としても有名である。

 宮野氏は、ブルース・マクラーレン・トラスト財団のメンバーとして、F1ワールド・チャンピオンとして有名な“デニス・ハルム”と親交があり、彼のヒストリーなどにも興味を持ち イオン・ヤング著「メモリー・オブ・ザ・ベアデニー・ハルムの伝記 」なども翻訳されている。
今回は、不幸な事故で他界した“ブルース・マクラーレン”とその後のデニス・ハルムの苦悩、さらに偶然が重なり生まれた奇跡など、大変興味ある内容であり、この場を借りて掲載の許可を頂いた宮野氏にお礼を申し上げたい。
 
           
        
TOP : McLaren M8D with Denny Hulme.
1/20 scale Modelcar.
「ブルース・マクラーレンとデニー・ハルムに捧ぐ」 

 今、書店でF1の歴史を勉強したいと思って本を探せば、10冊以上の本が並んでいる。87年以降にF1のファンになった人でも、F1ブームで色々な出版社から出されている様々な本でいっぱしのF1通になれる知識を得る事ができる。
やや少ないがル・マンの歴史を紹介した本もいくつかが本棚に並んでいるだろう。
スコットランドのネス湖の端に位置するインヴァネスの書店で、「マクラーレン」(ジェフリー・ウィリアムズ著)という新刊の本を見つけて購入し、宿に持ち帰った。興味深い写真も多く、マクラーレンのF1活動をかなり詳しく解説されていたが、それを連れのデニス・ハルムに見せると、「何だこの本は、F1だけしか取り上げていないじゃないか、我々がやったのは、F1だけじゃな くてインディもカンナムもそれだけで厚い本が1冊づつ書ける程の内容の事をやったんだぞ」と嘆いた。

 ブルース・マクラーレンのチームメイトとしてチーム・マクラーレンに加わり、1968年から74年までマクラーレンのF1、インディカー、カンナムマシンをドライブした67年のF1チャンピオン、デニス・ハルムの言葉である。
デニスは、昔から愛称のデニーで呼ばれていたし、私もデニーと呼んでいたので、以下の文中では、デニーに統一させていただく。
 カンナムという言葉が、カナディアン−アメリカン・チャレンジカップ の略語で、Can-Amと綴る事を知っている モータースポーツファンは、もう40才以上の世代になってしまった。今現在、マクラーレンのカンナムレースの事を調べようとすると、書店で入手できるのは、ダグ・ナイ著の「チーム・マクラーレンの全て」(CBSソニー刊)だけであろう。

 オープン2シーターのグループ7ボディに排気量無制限のエンジンを積んだマシンで戦われるカンナムは、いかにもアメリカ人好みの豪快なレースで、北米では人気が高く、観客動員数も多く、賭けられる賞金の額もヨーロッパの常識からすれば破格であった。その賞金に牽かれて、南イングランドのコーンブルックに本拠を持つチーム・マクラーレンが、デトロイト近郊のリヴォ ニアに工場まで作ってカンナムに参戦した。
66年から72年までのチーム・マクラーレンは、カンナムで活躍し、ブルース・マクラーレンが67年・69年のカンナムチャンピオンを、デニー・ハルムが68年・70年のカンナムチャンピオンを獲得した。
パパイヤオレンジに塗られたワークスマクラーレンの無敵の強さは、「ザ・ブルース・アンド・デニー・ショウ」と形容された程で、69年には全11戦でブルースが6勝、デニーが5勝とワークス・マクラーレンの2人だけで勝利を独占した。

 1972年、GM製の7000ccや8000cc という大排気量のOHV・V8エンジンを積んだマクラーレンのマシンに対し、ポルシェは、水平対向12気筒DOHCエンジンの917にターボチャージャーを付けた917-10や917-30を送り込み、72年・73年とカンナムチャンピオンを取った。こ のターボ・ポルシェの力をそぐ為に導入された厳しい燃費規制を嫌ってポルシェは、カンナムを撤退し、石油ショックも加わって、カンナムその物は、74年に5戦のみが開かれただけで消滅してしまう結末を迎えた。
 カンナムレースでは、コーンブルックの工場で製作されたワークスマシン以外に、プロダクションモデルがカスタマードライバーの為にトロージャン社によって製作されてカンナムに参加したし、ワークスマシンも翌年には売却されて他のチームの手でカンナムを戦ったのである。30台前後の参加車の約半数がマクラーレンという状況で、ブルースの手には賞金以外にマシンの代金も転がり込んでいた。
 シャパラル、ローラ、BRM、ポルシェといったライバルに加え、フェラーリまでが、6000cc や7000cc のV12気筒エンジンを積んだグループ7マシンを製作してカンナムに参戦していたし(2位にはなったが優勝という結果は残せなかった)、トヨタもトヨタ7ターボで、日産もR383で参戦を計画していた程の魅力 的なレースだった。

 タイアを覆うボディを持ったグループ7のカンナムマシンの方が、4つのタイアが剥き出しになった当時の3000ccF1よりも空力的に有利であった。又、3000ccV8のDFVエンジンは4バルブDOHCというメカで10000rpm 以上の高回転で450馬力を出していたが、アルミブロックを採用したシヴォレーV8は、OHVの2バルブというローテクであっても7000cc を越す排気量から600馬力以上を出し、排気量が物を言うトルクは、DFVの倍もあった。F1が有利なのは、軽い車重による運動性だけだった。同じコースでは、カンナムマシンの方がF1より速かったのだ。
 CG68−1月号に次のような記述が在る。「67年の第3戦は、カナダGPの行われた1周2.46マイルのモスポート・パークを80ラップするプレイヤーズ200である。8月に行われたF1のカナダGPでの最高タイムは、J.クラークが出した1分22秒4(ロータス49)だったが、グループ7の車はこれより速く、ポールポジションのD.ハルムは1分20秒8(マクラーレンM6A)を記録した 。彼のF1でのタイムが、1分23秒2(ブラバムBT24)だったことを考えるなら、いかにグループ7車が速いかが分かる。」(筆者注:デニーは、67年シーズンは、F1ではチーム・ブラバムに属しながら、カンナムでは、同郷のマクラーレンのチームで戦っていた。翌68年の移籍の下地は、こんな形でできていた。)F1より速いカンナムマシン。だからデニーもカンナムに大きな誇りを持っていたのだ。

 以上が、現在は、忘れ去られてしまった“カナディアン・アメリカン・チャレンジカップ” というレースの解説である。
インヴァネスの一件は、1992年6月、デニー・ハルムをチームに加え、ホンダ・シビックETiで、ギネスブックのイギリス1周低燃費記録に挑戦していた最中の事であった。(CG92-11月号に挑戦記を発表した。)
 6月3日にブライトンを出発してイギリス1周ドライブを始めたが、その前日の6月2日に、我々は、グッドウッドサーキットで70年にデニーがカンナムチャンピオンを獲得した時に乗っていたワークスマシンのM8D(シャシーナンバー・BM8D/004)その物をデニーの手で走らせた。「見えざる手」で導かれるようにして、このM8Dやデニーと巡り会った。その本題をどこから書き始めたらよい のだろう。

 時の流れの順に並べると。81年の夏、私は、西ドイツのニュルブルクリンク・サーキットを訪れた。本当ならオールド・タイマーGPというクラッシックカーの大イベントが開催されていたはずなのに、旅行会社の手違いで1週間ずれていた。
結局、草レースとでも言うべきレースを観る事になったのだが、それに日本でも珍しいホンダS800が出ていた。
パドックを捜して会えたドライバーというのが、西ドイツ・ホンダS800クラブ会長のミハエル・オルトマンだった。
その彼も、今回のギネスブック挑戦にドライバーの1人として参加している。

 次に83年の夏、パリから日本まで戻るのに、シベリア経由というコースを使った。ハバロフスクからナホトカまで乗った汽車のコンパートメントで一緒になったルーシー ・ホーンというイギリスの女の子と知り会い、彼女が日本中を回って、九州を訪れた際、自宅へ1週間程泊めた。
ルーシーの父親の従兄弟がレーシングカーを持っていると聞かされ、それなら次にイギリスに行く際に紹介して欲しいと頼み、84年にロンドンの南方のワットハーストのロバート・ホーン氏宅を訪問する事ができ、ホーン氏が所有する元フォード・フランスのGT40(シャシーナンバー1003)と元スクーデリア・モントフィッチのフェラーリ512M(シャシーナンバー1002)を取材し、CG85-1月号と87-2月号に記事を発表したが、もう1台ホーン氏が所有するのがマクラーレンM8Dでデニー・ハルムが70年のカンナムでチャンピオンを取ったマシンその物であった。

 85年にミハエルが、イングランドとスコットランド の境のニューキャッスルで、ホンダS600のレース仕様の車を発掘して購入。ドイツへと持ち帰ってランニングコンディションにレストアした。 このS600は、S500と同じフロントマスクの極初期型で5速ミッションや60リッタータンク等が装備されていた。 となると、64年9月のニュルブルクリンク500kmレースで、デニー・ハルムが乗って総合13位、1000cc以下のGTクラスで優勝したS600しかない。 当時の記事を調べるとこのS600は、10月の東京モーターショウに展示されている。 そうすればミハエルが手に入れたのは、そのスペアカーだろうと推理された。
当時の事を知る元ホンダF1チーム監督の中村良夫先生に手紙で問い合わせると、意外にもモーターショウに展示された方がロンドン近郊のブラバム・デヴェロップメント に置いて在ったスペアカーで、実車をドイツからロンドンまで持ち帰って、カーゴ便で空輸するとモーターショウの開幕には間に合わなくなるかもしれなかったからという。 つまり、ミハエルの手元に在るのが、デニー・ハルムがクラス優勝した車その物というお墨付きを得たという事である。

 ニュルブルクリンクの偶然から宮野滋、ミハエル・オルトマン、デニー・ハルムが繋がり、シベリア鉄道から宮野滋、ルーシー・ホーン、ロバート・ホーン、デニー・ハルムと繋がって、この広い世界で5人の人間が、結び付いてしまったのである。
 F1GPから引退して故国のニュージランドに住むデニー・ハルムに手紙を書いた。あなたが64年のニュルブルクリンク500kmレースで乗ったホンダS600その物が、ニュルブルクリン クの近くに動ける状態で在る。 一度ニュルブルクリンクでS600に乗って貰えないかとの依頼をする為である。
 ニュージランドの住所を知っていたわけではなかったが、JAFに相当するニュージーランドのAAの住所を熊本在住のニュージーランド人が教えてくれたので、AA経由で手紙を送った。 それが88年8月の事で、10月思いもかけないデニー・ハルムからのOKという返事が来た。 

 折角ニュージーランドから超大物をドイツまで呼ぶのである。S600だけでは、もったいないとドイツのコレクター、ピーター・カウス氏に手紙を書いたら、ロッソ・ビアンコ・コレクションに展示していた71年のM8Fをわざわざレストアして用意してくれる事になった。 デニーと初対面したのが89年6月の事である。 結果はメカニカルトラブルで2台ともリタイアだったが、同じ日にM8FとS600という対極的な2台でニュルブルクリンクのGPコースでのクラッシックカーレースを走ってくれたのだった。
その時、デニーから聞いたのだが、ロバート・ホーン氏の依頼で、M8Dにバーミンガムとドバイの2か所で乗った事が在るという。

 デニーのチームメイトで親友でもあったブルース・マクラーレンがどうして亡くなったのかデニーの口から聞いたのは、コブレンツの中華料理店で食後のコーヒーを飲みながら雑談していた時だった。
 70年5月、初のマクラーレン製インディマシンM15でデニーは、インディ500マイルに挑戦した。67年・68年とイーグルに乗って連続4位となったデニーは、M15でのインディ挑戦に期待をかけていた。
ところが、予選走行中にコクピット前方の嵌め込み式の燃料供給口のキャップが振動で開き、吸い出されたアルコール系燃料に引火してデニーは酷い火傷を負った。 左手の指を何本か切断せねばならないかという程の深手だった。
メチルアルコールが燃える時の炎は、見えないのでコースマーシャルがデニーの体が燃えているのに気付かず、消火処置が遅れたのも一因だった。
 インデアナポリスの病院に入院した後、5月30日にロンドン・ヒースロー空港にブルースとデニーが戻ってきた。デニーは、火傷の治療を続ける必 要があり、とてもレーシングマシンをドライブできる状態ではなかったが、6月14日には、オンタリオ州モスポートパークでのカンナム第1戦が控え、70年シーズンの為の新型マシン“M8D”のテストをホームグラウンドのグッドウッドで行っておく必要があった。
結局、ブルースがこのテストを引き受ける事にして、デニーは、ロンドンの専門医の診察を受ける為に汽車でロンドンヘと出かけた。包帯が巻かれた両手が使えないので帰りの汽車賃を看護婦が手にくくり付けてくれたという程の状態だった。

 6月2日12時20分頃、グッドウッド・サーキットで自分用のM8Dシャシーにデニー用のM8Dのボディ装着して、ブルースが走らせてテストを行っていた。ブルース用のマシンのボディは、まだ完成していなかったからだ。レーシングカーは1台1台が手作りなので、微妙なフィッティングが必要なので、ブルース用のシャシーにデニー用のマシンのボディを取り付ければ、どこか立て付けが悪くなっても当然なのだった。
テストは順調に進み、昼食の為にそろそろピットインして休憩する予定だった。 ところがリアボディを固定するピンの1本が抜けていて、高速走行中に風圧でリヤボディがめくれ上がって外れ、コントロール不能となってコースアウトし、コンクリート製のマーシャルボックスにぶつかってブル ースは即死した。

 ブルース・マクラーレン、32才の早過ぎる死であった。

その後、チームは、テディ・メイヤーによってレース活動を続け、ロン・デニスに引き継がれて現在に至っている。

 M8Dは、ゴードン・コパックによってデザインされたが、ジョー・マーカートによる69年のM8A・M8Bと基本は変わっていない。 タブと呼ばれるアルミ製のツインチューブモノコックは、複合アルミ材やマグネシュウムで軽量化され、レイノルズアルミニュウム社の協力で鋳造されたアルミブロックのV8エンジンがストレスマウントされる。 前年度のM8Bで採用されたリアサスペンションのアッパーアームに接続された支柱を持つ大型のリアウィングは、FIAからの通達で使用できなくなった。スペシャルモールディング社製のM8Dのボディの特徴は、リアボディサイドに垂直のウィングが生え、それを結ぶ形のリアウィングを備えていた点である。 シーズン後半には、フロントノーズの両側に整流板が控えめに生え ていたが、71年のM8Fでは、これがリアのウィングまで連なって空力に貢献した。

 アルミブロックのシヴォレーV8エンジンの排気量は、様々なタイプが存在したが、ロバート・ホーン氏所有のM8Dには8100cc 740馬力というエンジンが積まれている。 ピストンやクランクシャフト等のムービングパーツの慣性モーメントが大きいので、6000rpm 程度しか回らない。 このパワーとトルクをヒューランド製のLG600という4速ギアボックスとワイズマン製の特製デフがグッドイヤーの太いタイアへと伝えた。 
 現在は、同サイズのグッドイヤー製レーシングタイアが入手できないので、ヒストリックカーによるスーパースポーツレースの為にエイボンが生産しているタイアを履いている。 この外観にもかかわらず、車重は800kg弱に押さえられていたので、パワー・ウェイト・レシオは1kg/PSという驚異的な値だった。

 70年シーズンの為に3台のM8Dが製作されていたので、1号車がブルースの事故でスクラップになったが、残りの2台で70年シーズンを戦う事になった。 6月24日のモスポートパークでの第1戦には、火傷を押してエントリーした“デニー・ハルム”と“ダン・ガーニー” がワークス・マクラーレンのM8Dをドライブした。

 第1戦では、ダン・ガーニーがポールポジションを取り、レースでも優勝した。 痛みに苦しむデニーは3位に入賞した。第2戦でもダン・ガーニーがポール・トゥ・ウィンを収めたが、デニーはエンジントラブルでリタイアした。
第3戦のワトキンズグレンでは、デニーがポール・トゥ・ウィンを決めたが、ダン・ガーニーはオーバー・ヒートで9位に終わった。
 
 第4戦からガーニーのスポンサー 問題で、代わりにピーター・ゲシンをセカンドドライバーに起用する事になった。 
第4戦・第5戦も優勝したデニーだったが、第6戦ではトップでフィニッシュしながら失格を言い渡され、第7戦では、マシンを大破させてしまった。 そこで、チームは、翌シーズン用に開発していたプロトタイプ “M8E” からM8Dの4号車を作り上げた。
 M8Eは、M8Dと共通のモノコックを使用し、新しいボディとM6Bのサスペンションを組み付けたものだった。 だからこのシャシーにM8Dのサスペンションとボディを組み付けて完成した第4号車が、ロバート・ホーン氏のBM8D/004というわけだ。 このマシンで第8戦・第9戦・最終の第10戦を3連勝して、デニー・ハルムが70年のカンナムチャンピオンを獲得し、5万ドルを手にした。

 71年には、2台のワークスM8Dは放出され、それが回り回ってロバート・ホーン氏の手に入ったというわけであるが、現在は、正確な考証の元に70年のデニー・ハルムが乗っていた時のカラーリングに戻され、スポンサーのステッカーまで再現されている。

 89年、ホーン氏に手紙を書き、デニーの手でM8Dをグッドウッドで走らせたい。 できれば6月2日のブルースの命日に、と依頼したが、返事は、現在グッドウッドでは、サイレンサーを備えていないM8Dを走らせる事は禁じられており、M8Dがサイレンサー無しで走れるのはシルヴァーストーンだけだという事だった。 92年5月のモナコGPでデニーのF1チャンピオン25周年を祝って、それからイギリス1周のギネスブック挑戦をやるという計画を立て始め、決定した92年のF1カレンダーを見ると、モナコGPは5月31日、翌6月1日にニースからロンドンに飛ぶとすると、次の6月2日はブルースの命日ではないか、ブライトンとグッドウッドは40kmしか離れていない。この巡り合わせは単なる偶然ではない。

 再度ホーン氏に手紙を書くと、M8Dは、一度エンジンを壊したのを機にエンジンリビルドと一緒にサイレンサーを装着してグッドウッドを走らせる事ができるようになったとの返事だった。 しかも、どうせ走らせるなら未亡人のパティ夫人や関係者を招待して、ブルース・マクラーレンのメモリアルをやりたいという。 イギリスのホンダS800クラブ会長のジョン・ハウイと2人で、招待者の名簿作りと住所調べを進めたが、これにはこの世界に顔が広い“ディヴィッド・パイパー”氏が、協力してくれて全ての住所が分かった。 
 グッドウッド・サーキットのスケジュールを調べるとレーシングスクールの講習が入っていた。 何とか1時間、せめて30分でも、コースを使わせてくれないかと頼み込んだら簡単にOKとなった。 何とレーシングスクールの校長を勤めているのがブルースの代役でM8Dを走らせた“ピーター・ゲシン”その人だったのだ。

 こうして、92年6月2日、グッドウッド・サーキットにブルース・マクラーレンの関係者が集まり、12時20分、パティ・マクラーレン夫人によってニュージーランド国旗で覆われていた記念碑の除幕が行われ、それからデニーは、背広の上着を脱ぎ、ネクタイをしたまま当時のレーシングスーツを着込み、ヘルメットを被ってウォームアップを済ませたM8Dに乗り込んだ。自分の仕事場だったM8Dのコクピットに座り、当時と同じメカニックに手伝って貰ってシートベルトを慎重に絞め、デニーはM8Dをスタートさせ、80マイル以上出さないようにという注意を守ってゆっくりとグッドウッド・サーキットを周回させた。

 彼がM8Dを走らせながら何を考え感じたかは、決して立ち入ってはならぬと思った。 

 私は何も質問はしなかった。

 ブルースが事故で亡くなったとラジオで聞いた時、あまりのショックで呆然とロンドンの街をさまよい、その時の記憶が無いというデニーは、自分の身代わりでブルースが死んだという悔いが残っていたと思う。 そのデニーにグッドウッドでM8Dをブルースに捧げるレクイエムとして走らせるチャンスを作ってやりたかっただけなのだ。 それが、「見えざる手」によって導かれ、様々な不思議な巡り合わせを経験した私の使命だった。

 ブルースとデニーの共通の友人で当時の2人が書いたというモータースポーツ誌のコラムのゴーストライターだったヨーイン・ヤングの手でチェッカーフラッグが振られ、デニーがその前を通過する時、カンナムのレースで何度もそうした様に両手を高く挙げて喜びを現して いた。 

 エンジンを止め、M8Dから降りたデニーの顔は笑っていた。ブルースの死を昇華して懐かしさだけを感じるには22年もの歳月が必要だった。 私とブルース・マクラーレンの間には、このメモリアルイベントまで直接的な関係は無かった。
ただ、デニーの為にM8Dとの再会を最高の形で実現してやりたかっただけなのだ。そう単なるお節介な発想で始めたメモリアルだった。 しかし、デニーを始めとしてパティ夫人やジャック・ブラバム、ジョン・サーティーズ、スターリング・モス、テディ・メイヤー、ジョン・クーパー、ケン・ティレルといったビッグネーム達とも喜びを分かち合えたのだ。

 6月3日から10日までブライトンを起点にグレートブリテン島を1周し、デニー・ハルムを含む我々「マッドサイエンティスト&クレイジーガイズ」はシビックETiで平均27.93km/L というガソリンエンジンクラスの新記録を作った。

 その記事がCG92-11月号に載った記事を読んでいた10月4日、オーストラリアのバサースト1000kmレースでBMW・M3を運転中にデニーが心臓発作で急死したとの電話連絡が入った。
 メモリアルを実現するには、22年では半端な年だという声もあったが、グッドウッドでM8Dをデニーが走らせられたのは、あの時しかなかったのだ。 デニーの寿命まで知った上で、「見えざる手」は私にブルース・マクラーレンのメモリアルを実現させたのだろうか。

 デニー・ハルムの死は、私にとって大きなショックだった。
この文章を書き始めるには、ショックから立ち直る時間が必要だった。だが、どうしても心の整理の為に、書き残しておきたかったのである。 しかし、書き終 えた現在でも、複雑な思いが残ってしまっている。

                                       by Shigeru Miyano

END

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(C) Text report by Shigeru Miyano.