1967年5月3日、当時中学1年生だった凡太郎少年は、学友と共に自宅のテレビに釘付けとなっていた。そう、その日は、待ちに待った「第4回日本グランプリ」が生放送される日だったからだ。
 本格的に、AUTO SPORT誌を購入し始めたのがこの年からだったから、予備知識もありなおさら待ち遠しい決勝レースであったのだ。しかし、テレビに映ったマシンはわずか9台。イヤに少ないなぁ〜と子供心にも不思議に思えた出場数だったが、とにかくスタートしてしまえば、後は無我夢中でテレビに没頭しまうところがまだまだ可愛い(!?)10歳の子供である。
そして、タミヤ製1/24スケール スロット・レーシングカー「ポルシェカレラ6」を片手に持ちながら、打倒ニッサンに燃えるTETSUの走りにただただ見惚れるばかりの凡太郎少年であった。
 このレースの予選で、富士スピードウェイフルコースを初めて2分を切ってポールポジションを獲得したTETSUは、決勝レースでもトップを独走。しかし、ワークスチームの意地で高橋国光のR380IIが迫る!
そして、ハイライトとなる18周目のS字カーブ入り口。シフトミスを犯して激しくスピンするTETSUのカレラ6を避けようとして高橋のR380IIが大きくスピン。これで勝負あり。その後、酒井 正のカレラ6が46周目のバンクで、タイヤバーストでガードレースに激しく激突。横転クラッシュしたが、無事であった。
 上の写真は、1967年当時、凡太郎少年の愛読誌の1つであった月刊少年誌「少年」6月号のカラーグラビアである。その頃からだろうか、日本グランプリは注目され始め、大人向け雑誌以外にも報道されるようになっていた。また、写真でも分かるように、横山光輝 作の「グランプリ野郎」の主人公が描かれているところから、連載の都合上、グランプリ記事を載せたような感じもしないでもないが・・・。
 翌68年からは、日本グランプリの報道は、月刊、週刊少年誌や「ボーイズ・ライフ」、「平凡パンチ」、そして、「プレイボーイ」などの若者向けアダルト誌などにも積極的に報道されて、まさしく日本グランプリは日本中を巻き込みながら加熱していくのである。


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