人間必ず苦手なものがある。私の場合は「水遊び」いや「水泳」、特に「海水浴」が嫌いだ。足がつかないところで泳ぐ人を見ると尊敬してしまう。そんな私を震え上らせたことが小学校時代にあったのだ。5〜6年生になると「臨海学校」という夏休みを利用した特別学校がある。我が小学校は、今はなき千葉の“岩井海岸”で3〜4日間行われたと記憶している。毎日全員で海に入り、泳ぎを練習するのであるが、いやでいやで仕方がない私は、毎回「おなかが痛い」と嘘をつき浜辺で砂遊びをするのが常であった。そんな話を担任の先生より聞いた親は黙っていなかった。夏休みを利用して“Y.W.C.A”(Y.W.C.A は女性専門。子供は男女関係なく入ることが出来た。着替えも男女一緒だったかも)の水泳教室に無理やり行かされたりしたが、結局無駄であった。昔、「サンダ対ガイラ」という特撮映画があったのをご存知だろうか。私は絶対サンダ派である。海で暮らすガイラにはなれない。そうそう大昔、正義の味方的子供番組で「海底人8823(ハヤブサ)」というのがあった。海底に住んでいる正義の味方ハヤブサが、味方の少年に渡した他の人には聞こえない波長を持つ笛を吹くと、海底から現れて悪人を倒すという痛快活劇テレビ番組である。これまた水が大嫌いな幼年時の私から見たら考えられない設定だ。
 その後の中学校はプールがなかったので安心して学業に専念出来たし、この都立高校も狭い敷地にグランドらしきものがあるだけで、プールはない。この3年間も安心して通うことが出来ると確信していた。ところがである。高校1年の必須科目に体育があるのだが、「水泳」という文字があるではないか!プールもないのに何故だ!
そんな疑問は一瞬にして吹き飛んだ。なんと「プールは、後楽園のプールを貸切で使用する」ということだったのだ。
25mプールの底まではぎりぎり足がつく程度だ。みんな飛び込んで反対側に泳いでいる。小学校のように「おなかが痛い」という訳にはいきそうもない。そして、自分の番が回ってきた。飛び込みは出来ないので、まるで背泳ぎのスタートでもするかのように「ドボン!」と足からまずプールに入り、昔Y.W.C.Aで習ったように“バタ足”でスタート。カッコ悪いなぁ〜と思いながらも力泳するもなんとか半分のところで足が底に・・・。少し休んで今度は“クロール”ぽく泳ごうかと足をプールの底にギリギリつけながらウソ泳ぎ。しかし、外野からブーイングが上がり始めたので、足を上げて泳ごうと試みる。最後は力尽きてプールから上がることが出来ない。誰かに引き上げてもらった記憶だけが残る思い出したくもない1日であった。
 
   

 友人T2君と行きつけの「サニー」を夜7時過ぎに出て、地下鉄に乗り、いつもの巣鴨で下車。巣鴨サーキットに顔を出し、自作クリヤーボディの売れ行きを確認。「おっ、完売だぁ〜」と満足しながら、近くのレコード屋に立ち寄る。この頃は、アンディ・ウイリアムスが日本語で歌う「ある愛の詩」がよく流れている。そして、レコード大賞歌手で人気の 尾崎紀世彦が歌うトム・ジョーンズの大ヒット曲「ラブ・ミートゥ・ナイト」にソックリな曲調の「愛する人はひとり」も聞こえてくる。洋楽では、チャールス・ブロンソンのCMで有名になった男性化粧品「マンダム」のCMソングでジェリー・ウォレスだったかが歌う「男の世界」、そして、スリー・ドッグ・ナイトの「オールド・ファッション・ラブソング」などもよく流れていた記憶がある。そうだ!レターメンの「涙のくちづけ」も人気だった。
そして、忘れてはならないのは、行きつけの「サニー」で流れる有線放送だ。「ゲット・レディ」レア・アース、「クロスロード」クリーム、「移民の歌」ツェッペリン、「長い夜」(松山千春ではなくブラスロック中心だった初期のシカゴ)、「愛の休日」眼鏡王子 ミッシェル・ポルナレフ、「うつろな愛」カーリー・サイモン、「青い影」デニス・ハルムとは無関係のプロコム・ハルム、「アローン・アゲイン」ギルバート・オサリバン、「裏切り者のテーマ」オージェイズ、「ハイウェイ・スター」ディープ・パープル、もちろん「ブラウン・シュガー」ストーンズもかかる。異色だったのは、「メリー・ジェーン」だ。当時は洋楽だと信じ込んでいたのだが、 つのだひろ が歌っていたことを私が知るのは、だいぶ経ってからのことだった。

 キャロルを見た!!

 「黒猫のタンゴ」「なみだの操」「喝采」などの歌謡曲、洋楽、フォークなどあらゆるジャンルが飛び交う1970〜72年。
そんな時代に意表を突いて現れた日本人4人組ロックン・ロールバンドがあった。“キャロル”だ。
どのジャンルにも該当しないその曲調は、ロックン・ロールそのものなのだが、今までのように外国語で歌うのではなく、日本語と英語のチャンポンで聞き流せるような歌い方だ。こんな歌い方は今まで聴いたことがない。現在活躍中のサザン・オールスターズも多分に影響を受けているのではと思う。
 デビュー前のビートルズを意識しているということだが、外見はどう見ても「ツッパリ」にしか見えない。しかし、曲が中々良いのだ。
ある時、T3君が「キャロルのラジオ公開放送の入場券が手に入ったよ」と言ってきた。2つ返事で行くことになるのだが、平日の夜6時頃の収録だったと記憶しているので、学校が終わり次第急いで会場に向かった覚えがある。場所やどこの放送局だか忘れてしまったが、四谷から歩いた覚えがある。学ランでその演奏を見たわけだが、最初の曲「ルイジアンナ」が始まった時にはその迫力に圧倒されたのをいまだに忘れられない。ジョニー大倉が歌う“ビートルズ”の「ジョンとヨーコのバラード」にちょっと似ている「やりきれない気持ち」と「ヘイ・タクシー」は一番のお気に入りだ。

演奏が終わるとなんと来週も公開放送が他局で行われるとのことで、整理券をもらい キャロル を2週連続で見ることが出来た。何と言う幸運だろうか。キャロルは、結局2年余りで解散してしまうのだが、強烈なインパクトを私に与えてくれたバンドだった。

 “風戸 裕”の世界への挑戦開始!!
 
今では珍しくもないスポーツ選手の海外挑戦だが、生沢 徹は別として、1970年当時はまだまだ遠い世界にメーカーの援助なく単身で挑戦することなど考えられないことであった。そんな中、 チーム・トヨタ でのエースの座を捨ててまでもアメリカ F-Aコンチネンタル選手権に修業の道を選んだ“鮒子田 寛”に続いて、今や飛ぶ鳥を落とす勢いに拍車をかける“風戸 裕” が遂に動いた。風戸は、Tetsuのように戦場をヨーロッパには求めず、ビッグ・マシンの戦いである CAN-AMシリーズ に狙いを定めた。
当初風戸は、自前の ポルシェ908II での1971年CAN-AM挑戦を考えていたが、富士グランチャンとの掛け持ちでは、マシンの輸送費用だけでもばかにならない。結局、地元でローラ・カーズの代理店をしている“カール・ハース”と契約し、ローラのニューマシン「T222」での挑戦となった。
さらに、カール・ハース・チームは、その年、F1世界チャンピオン “ジャッキー・スチュアート”を配し、王者ワークス・マクラーレンに挑む体制を築いていた。風戸は実質的なナンバー2ドライバーとして挑むことになる。
 風戸としては、初めての8000ccのビッグ・マシン。シリーズ全戦にエントリーするためには半端な体力では乗り切れない。
そして、果敢に挑んだCAN-AMでの戦績は予想以上のものだった。競合ひしめく中、最高位は ロード・アメリカ での5位が最高位で、シリーズ総合10位でシーズンを終えた。初挑戦ということを考えれば最高の形で終えられたのではないだろうか。
さて、風戸 裕 と言えばモデラー&旧車エンスージアストとして有名な “山田雅之”氏だ。以前に製作された 風戸 裕コレクション作品の中から、TOJ 製1/24スケール Lola T222 第2戦サン・ジョヴィートで6位に入賞したマシンを紹介したい。

1/24 scale "LOLA T222 Hiroshi Kazato"
Built and photographs by Masayuki Yamada.


 “転がる石たち”の来日公演中止!そして“日の丸飛行隊”だ!!

 1972年。街では、いたる所で トワ・エ・モア の♪虹と雪のバラード♪を聞くことが多いこの頃。何故ならば、今年、アジア初の冬季オリンピックが札幌で開かれるからだ。私も高校3年となりそろそろ進学のことを考えなくてはならない時期に来ているのだが、本人はそんなことは完全無視して自分の好き放題を続けていた。
「笠谷が勝った!」と当時の新聞やニュースは「日の丸飛行隊」だとか色々騒ぎ立てている。今のジャンプ競技と違い当時のジャンバーのスタイルが面白い。ヘルメットではなく、ニット帽をかぶり、両手を前に出しながら前傾姿勢でスロープを滑ってくる。そのまま「えいっ!」とジャンプして、今のような「V字」スタイルではなく、スキー板を平行にしながら落ちてくる。両手を両側に広げての着地姿勢は同じようだ。どう見てもニット帽では安全とは言えない。しかし、モータースポーツの世界でも50〜60年代は半そでシャツにいかにも衝撃に弱そうなヘルメットを被ってレースしていたし、インディなどではガス補給中にドライバーがタバコを吸っていた場面などもあった。まあ、色々な出来事があったから安全性に対しての規則が出来る訳で、これはどの競技も同じだと思う。

 高校に入った1970年。それからの3年間は色々なことがあった。今はネットでその当時ことを探すことが出来るが、出てこない出来事だってまだまだあると思うし、重大ニュースでも記憶にないことだってある。
例えば、一般的に言う1970年〜72年の出来事というと・・・。

1970年
・「大阪万博」 
まったく興味がなかった。
・「ビートルズ解散」 
ストーンズがいればいい。
1971年
・「マクドナルド1号店銀座にオープン」 
知らなかった。しかし、大学時代にバイトをし、楽しいことを体験出来た。
・「ボーリング・ブーム さわやか律子さん旋風」 
ボールを使う競技は嫌いだ。しかし、見るのは好きだ。何回か誘いを受けて早朝ボーリングをしたことがある。
1972年
・「あさま山荘事件」 
高校の近くの定食屋で食事をしていた時、そこのテレビで随分と長い中継をしていたのを覚えている。
・「沖縄返還」 
大学時代にヨロン島に行くことになるとは思わなかった
・「札幌オリンピック」 
ジャネット・リンが可愛かった!
・映画「ゴッドファーザー」 
映画は随分後になってテレビで見るが、サウンド・トラックではない“アンディ・ウイリアムス”の日本語「愛のテーマ」をよく聞いた。

 ボールを使う競技という言葉で思い出したくもないことを思い出してしまった。それは、年に一度、体育系イベントとして、各クラス対抗「サッカー大会」というのがあった。1〜3年生まで区別なく戦うトーナメント試合だ。ボール競技が大嫌いな私は、もちろんクラス代表に選ばれるわけがない。しかしである。その代表を選ぶための体育の授業で異変が起きたのだ。我が高校の校庭は異常に狭く、ゴールからゴールまでキックすれば入ってしまう距離しかない。その校庭で練習試合とはいえ、22人が入り混じって試合をすると、まるでプロレスのバトル・ロイヤルさながらの乱闘となる。
そして、赤組である私たちが相手ゴール前で団子となっている時、私はわざとその中から離れて様子を見ていた。その時である。なぜかその塊からボールが私の目の前に転がってきたのだ。私は何気なくそのボールを蹴った。それがいけなかった。ボールはあろうことかゴールに入ってしまったのだ。これで皆の私を見る目が違ってきたことを私は感じずにはいられなかった。
今年の我がクラスのサッカー代表に私の名前が記載されたことは言うまでもない。嫌だ!何故なんだ!
結局試合で私は一度もボールに触ることなく下級生クラスに敗退した。

 1973年1月。衝撃が走った!!

 1973年に行われる予定であったローリング・ストーンズの日本武道館公演。昨年12月1日に前売りが開始され、前日からの徹夜組が4,000人も出たことが話題となった。しかし1973年1月8日に外務省が過去の大麻所持を理由に入国拒否を発表。1月19日にプロモーターから来日公演の正式中止が発表された。

 私は目と耳を疑った・・・・。苦労して手に入れた整理券。いや、ブラウン・シュガーやジャンピン・ジャック・フラッシュが聞けない!!
こんなことがあっていいのか!!楽しみにしていた日本公演が・・・。メンバーはアジア方面で確かライブを行っているらしく、いざ日本にという時に・・・。結局彼らを見るためには、それから17年間待たなくてはならなかった。
精神的に(!?)ショックを受けている私を見て、親が見かねたのか珍しくこう言ったのだ。それは意外なものだった。
「お金をあげるから“トム・ジョーンズ”見てきなさい」と・・・。
 1973年2月23日、私は日本武道館の2階席にいた。「This is Tom Jones ! ! !」とアナウンサーが叫ぶと、武道館の真ん中に設置されたまるでプロレスの四角いリングのようなステージ(ただし、ロープは張っていないが・・・)に トム・ジョーンズ が花道(!?)を通ってさっそうと現れた。この情景は映画「エルビス・オン・ステージ」に似ている。1曲目を歌いだすとすぐにお姉さんたち(いや、オバサンか!?)が四角いステージの周りにたかり始める。まだ1曲目だというのに、トム・ジョーンズは大汗をかいている。それを見てかお姉さんたちが持参したスカーフ(!?)か何かをトムに渡したがっている。それを見たトムはそれを受け取り汗を拭く。そして、拭いたスカーフをお姉さんたちに返す。これお約束!?
歌唱力は見事なものだったが、やはり トム・ジョーンズ はエンターテイメントなスターであることを実感した日本公演であった。


     ストーンズ ネタで1つ。

 1972年年末だっただろうか。友人H君の妹姫を誘って、高校の友人T2君と3人でストーンズの来日記念として行われた映像会(当時のストーンズのコンサート映像を皆で見ようというイベント)に出かけた時のことである。場所は、渋谷の道玄坂を上がって行ったデパートの中の会場だったのではと記憶しているが、ハッキリ覚えていない。というか事件が起きて・・・・それどころではなかったというのが本音だ。また、このイベントでは、同時に、ストーンズの写真のオークションが開催されることになっていた。

 映像は、1970年頃のもので、「ストレイ・キャット・ブルース」などを歌うミック・ジャガーのパフォーマンスが印象に残るものだった。一番私が好きな時代のストーンズである。そして、映像会が終わり、オークションが始まった。妹姫は高校1年生でまだまだ初々しさが残る美少女である。
彼女は、母君から1万円をもらってきていて、好きな写真があれば買っても良いと了解をもらっていたのだ。そして、キース・リチャーズのファンということを事前に聞いていたので、私はキースの写真が出たら手を上げようと準備をしていた。
ミックの写真が予想以上に多かったため、初めてキースの写真が紹介された時には、会場にいた多数のファンが一斉に手を上げたことは言うまでもない。私も手を上げたのだが、価格がどんどん上がっていき、妹姫の制止もあり、途中で諦めざるをえなかった。そして、何枚かキースの写真が出たのだが、どれも落札することは出来なかった。
そして、私は次こそはと構えていた。次の瞬間、写真が紹介されたとたん条件反射で私は手を上げてしまったのだ。そして、「1万円!!」と叫んでいた。ところが、この写真は、それまで続いていたキースではなく、ビル・ワイマンの写真だったのだ。
「ハイ。あなたに落札!!」と即決まってしまった。
私は呆然としていた。ふと横の妹姫を見ると、なんとあまりのショックで気分を悪くし貧血を起こしてしまったのだ。

 手に入れてしまった ビル・ワイマン の写真を脇に抱えながら私は妹姫をT2君と両脇を抱えながら道玄坂を歩きながら帰途へと向かうのである。そんな中、妹姫は、「ビル・ワイマンも好きだから良いです・・・」と元気なく言ってくれたのが唯一の慰めだった。
その日、妹姫宅で彼女のお母様より「今回は仕方ないけど、気をつけてね」と柔らかくお叱りを受けたのは言うまでもない。
ああ、あの時の ビル・ワイマン の写真を妹姫(もう孫もいるだろうけど・・・)は今も持っているだろうか・・・。

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(C) Built and photographs by Masayuki Yamada.