“世界へ羽ばたく鮒子田 寛!!” 
 今でこそ日本人ドライバーが海外で活躍することは不思議でも何でもないことではあるが、今から約30年前に単身海外で本場のレースに挑んだ日本人ドライバーたちがいたことを御存知だろうか。まだ通貨持ち出しも自由にならない1ドル360円の時代のこと、それがいかに大変なことだったかを我々は知らなかったし、想像も出来ないでいる。
そんな中、日本人ドライバーとして最初に単身海外のレースに挑戦したドライバーがいる。今や伝説化している“生沢 徹”である。憧れのフォーミュラ1ドライバーの証である“グレーデット・ドライバー”を目指し、1966年イギリスに渡りフォーミュラ3レースに果敢に挑戦したのは我々レースファンにとっては正に衝撃であった。そして、生沢は翌1967ー68年度には数々のレースに優勝し、日本人ドライバー海外挑戦の道を作り上げた功績は実に大きいと思う。そして、いまなお生沢を超えるドライバーは現われていないと断言する。
そして、ここで紹介する“鮒子田 寛”もそんな生沢 徹の後に続いた夢多き若きドライバーであった。
The American Dream
of Hiroshi Fushida

In 1970-1971

 ここで偉大なる日本人ドライバーである“生沢 徹”の言葉を紹介しよう。
 
 「今思うこと。それは、とにかくよくここまでやってこれた、ということである。若さが、遮二無二突き進む力ともなった。また、好きなレース故に、苦労を苦労とも思わず、必死に食らいついて行けたのだとも思う。
 しかし、レースの世界は、若い、好きだ、ということだけできわめられる程甘いものではない。それはどの世界でも同じに違いないが、言葉で言い尽くせるものではなかった。ただ、無我夢中で辛苦を友として生きるしかなった。そして、自分なりに人を知り、社会を理解し、人生を学ぼうとも努めた。一戦毎に、レースと共に少しづつ自分が成長しなければならないとも考えた。そのことで1つ1つ目前の困難を克服することが出来るに違いないと・・・。」 生沢 徹
(1982年交通タイムズ発行「生沢 徹のレース入門」より引用させて頂きました。)

 1970年、晴海で開かれた第3回東京レーシングカー・ショーにトヨタ・チームのメンバーとして参加したのを最後に鮒子田はトヨタを去った。それは、未知の世界への挑戦だった。その時の心境を1971年山海堂発行「オート・テクニック」誌7月号に当時の心境を語っているので再び引用させて頂き紹介したいと思う。
 

「・・・確かにファクトリー・チームにいれば、いろんなことはあるけれども、我慢するつもりならできるし、経済的にもたいへん恵まれている。それを振り切ってプライベートのドライバーになるというのは日本ではまだ金銭的にも未知数だし、あてがあるわけじゃなく、自分でもよく思い切ってやめてしまったものだと感心するんですけれど。もちろん、自分ではその時点で悩むことは悩むんですけど、それよりも次のことをやりたいというか、ついそっちの方が勝つということで。
・・・それはもう大変でした。それにいろんな意味での投資も大きかったけれども、決してマイナスになったとは思わないですね。レーサーとしての自信もついたし、いろんな車の勉強もしましたし、それにプロのドライバーとして生きる道が、だんだんわかってきたような感じがします。」 鮒子田 寛
F-Aに挑戦!!
 1970年発行の「オートスポーツ」誌5月号のニュース欄に注目すべきニュースが載っていた。
 
 鮒子田、F-Aにチャレンジ!!
 3月下旬、アメリカへ旅したトヨタのファクトリー・ドライバー、鮒子田 寛選手は、友人のK氏からズース・レーシング・チームを紹介され、5リッタ―・フォーミュラによるF-Aコンチネンタル・チャンピオンシップに挑戦することになった。ズースはF-Aきってのビッグ・チームであり、マシンはイーグル・プリムスを使用している。第1戦は4月19日のリバーサイドで行なわれたが、この結果は次号に詳しく紹介する予定である。」

 そして鮒子田はついに海外挑戦への第一歩を刻むわけであるが、まだこの時点ではトヨタ・チームの一員であることがこのトピックスでわかる。
さらに「オートスポーツ」誌6月号に書かれている鮒子田 寛独占手記にもまだトヨタ・チームの一員としての参加であることが強調されている。
 
 

 <独占手記> 「F-Aが俺を魅惑する」 鮒子田 寛 
”F-Aマシンに乗るきっかけ”
 3月19日朝、ロサンゼルスに着く。アメリカへの第1歩である。ハイティーンの頃から憧れていたアメリカへとうとう来た。
しかし、不思議に違和感はない。数年前のホンコン、マカオのほうが外国的だった。
 アメリカのレースやスピードショップを1度見てきたい。−これが旅行目的のすべてだが、さいわい河野部長(当時・トヨタ自工第7技術部)が快く許可してくださった。
 空港ではUSトヨタの人たちの出迎えを受け、ダウンタウンのビルトモア・ホテルへ直行。時差の関係で、眠ってなかったのでとにかくベッドへもぐり込む。
 翌20日、USトヨタへ挨拶に行く。ちょうど自販の重役も見えていて、歓迎夕食会へ御一緒させていただき、とびきりうまいテンプラにありついた。おまけにMKIIを足として拝借する。」

 アメリカへの第1歩を踏み出した鮒子田 寛。 鮒子田の当時の心情がなんとも初々しく好感が持てる。
この後鮒子田は、友人K氏の紹介でズース・デベロップメント(ZEUS DEVELOPMENT CO,.Ltd)へ見学に行く。そして、社長のウェイン・ジョーンズ氏からF-Aマシン(イーグル・プリムス)での出場依頼を受けることになる。
ズース・チームのメンバーの内何人かが鮒子田の日本CAN-AMでの活躍を覚えていて推薦してくれたのだった。
そして、鮒子田はトヨタの河野部長へ出場許可を申請。即「勉強のつもりでやってみろ」との許可が下り、遂に鮒子田のF-A挑戦が実現する運びとなった。

"Welcome to Riverside !!" 
 4月7日、すでにアメリカへ来てから3週間目を迎えたこの日、コメディアン兼レーシング・ドライバーとして有名なディック・スマザースの店(ロサンゼルス郊外のマンハッタン・ビーチにあるディスコティック)においてリバーサイド・レースのプレス・パーティーが開かれていた。もちろん鮒子田もその中にいた。
昨年のこのレースでの優勝者であるジョン・キャノン(1968年CAN-AMシリーズのモントレー・グランプリで旧式のマクラーレンMIBで優勝、1968年日本CAN-AMにも来日)がしきりに鮒子田 寛を褒め称え参加者に紹介している。日本CAN-AMでの鮒子田の活躍がよほど印象深かったのだろう。
楽しい一時を過ごした鮒子田は翌日早速初めてのテストのためリバーサイドへ直行した。
驚いたことにリバーサイド・スピードウェイ主催で、なんと鮒子田 寛のために昼食会が催され、大変な歓迎を受けることとなった。これは過去を振り返ってみても異例なことだそうで、それだけ東洋のレーサーのF-A挑戦は注目されていたのだった。
 ところがこの日の目的であった初テストはマシンの到着が遅れたため結局夕方からの走行となってしまった。
その時の鮒子田 寛の気持ちを当時のAUTO SPORT誌が伝えているので再び引用活用させていただく。
 
 「・・・まるで子供のように走るさまを思い描く、F-3やF-2は3年ほど前に乗ったことがあるが、5リッタ―・フォーミュラとなると生れて初めてである。早く走ってみたい気持ちと不安が交錯し、だんだん落着かなくなってきた。・・・初めて乗るF-Aだが、5リッタ―とはいってもプロダクション・エンジンだから、トヨター7の580馬力に比べると、ひとまわりパワーが少ない感じ。調子がよければ484馬力ということだったが、この日は不調で、5周ほど走り、1分25秒0(1周4.02km)にとどまった。サスペンションのマッチングも悪く、コーナーは最悪のドライブだった。しかしフォーミュラだけあってハンドリングは流石にシャープ。慣れればおもしろい車である。」
鮒子田 寛(1970年AUTO SPORT 独占手記 F-Aが俺を魅惑する より)

“5位で予選通過!!しかし・・・” 
 4月18日、公式予選2日目予期せぬ出来事が鮒子田を襲った。
ここでも当時の様子を鮒子田自身が1970年6月号AUTO SPORT誌で語っているので引用活用させて頂く。
(右はレースが開かれた1周4.023km“リバーサイド・サーキット”である。1960年代を代表するアメリカのサーキットであり、CAN-AMシリーズ、NASCARストックカー・レースなどの舞台となり、特に“ダン・ガーニー”が得意とするサーキットとして有名であった)
 
 
 「 まわりの車が少なくなったので、スポートしたとたん、第6ターンのヘヤピン入り口で突然スロットルが開きっぱなしになった。あっと思う間もなかった。ブレ―キングしたがロックしたままコンクリートのフェンスへドスン! あ〜ァ、やっちゃった。ノーズもサスペンションも完全なダメージ。ステアリング・ホイールもグンニャリゆがんでしまった。
幸い僕自身は大丈夫。頑丈なイーグル・シャーシーのおかげである。
 まっさきに頭に浮かんだのは、これでレースに出られなかったら日本に帰れないということ。新聞にも大きく報道されているのに・・・。ピットまでトラックに引かれて帰るときのなんともいやな感じは忘れられない。観衆の中から「フシダ、ダイジョウブカー」という日本語が聞こえた。
 パドックでチームのみんなに事情を説明する。車を調べると、ラムパイプの締めつけでビスが折れて、パイプが外れ、バタフライに引っかかっていた。これではスロットルが戻らないわけだ。怪我がなくてなりよりだと言ってくるが、こちらはそれどころじゃない。「プリーズ、ヘルプ・ミー!」を連発して、メカニックにすがりつかんばかり・・・。
・・・3日目の徹夜はメカニックに申し訳ないが、、何とかしてもらいたい一心で9時ごろまで付き合う。みんなが明日はレースだから、まかせて早く寝ろよと言ってくれるのでモーテルへ帰ったのだが、なかなか寝付かれなかった。」 
鮒子田 寛(1970年AUTO SPORT 独占手記 F-Aが俺を魅惑する より)
 そんなアクシデントに遭遇した鮒子田であったが予選は35台のエントラント中なんと5位を獲得したのは流石である。そして予選トップは最新のマクラーレン・シャーシーにこれまた最新のシボレー・エンジンを積んだジョン・キャノンであった。

Qualify Time of Top Six 

Grids Position
Driver
Machine
Qualify Time
1st
John Cannon
McLaren Chevrolet
1'18"77
2nd
Ron Gaybul
Lola Chevrolet
1'19"80
3rd
Bob Williams
Eagle Plymouth
1'20"74
4th
Gas Hatchson
Brabham Ford
1'21"15
5th
Hiroshi Fushida
Eagle Plymouth
1'21"75
6th
Chuck Parsons
Lola Chevrolet
1'21"92


TOP : Hiroshi Fushida and his Eagle Plymouth F-A at Riverside Circuit in 1970.

 上の写真を見てもらいたい。これは第1戦リバーサイドでの鮒子田 寛と彼のイーグル・プリムスF-Aである。
しかし、どうも様子がおかしい。そう、ヘルメットが違うのである。果たしてこの写真は鮒子田 寛本人がドライブしているものだろうか?!
その点について実際に鮒子田氏にお聞きしてみた。
 
「いや、この写真は私ではない。しかし、カー・ナンバーは私がレースに出てた時のものだが・・・。」
鮒子田 寛 

 やはり違うのか・・・私はせっかくのカラー写真であったが、HPで紹介するのをやめようと思ったその時、何気無く読んでいたAUTO SPORT誌 “鮒子田 寛 独占手記「F-Aが俺を魅惑する」”の中で注目すべき発言を発見したのだった。
 

「いよいよレース当日だ。9時半にパドックへ行ってみると、車はノーズ部分とラジエーター・パイプを除いて、ほとんど仕上がっていた。昼過ぎにパイプも出来上がり、昨日の派手なクラッシュがうそのようにきれいな車に変わっていた。フロント・スポイラーだけは借りものだから色違いの薄いグリーンだ。チーム・メートと見分けるのにちょうどいいじゃないかとクルーたちは笑っている。
・・・マシンはこれでいいのだが、朝からヘルメットが見つからない。牽引トラックの中に置き忘れたらしいのだが、そのトラックも見つからず弱ってしまった。ベルのスタンドでわけを話したら、ベルスターの新品を提供してくれた。そのかわり車にステッカーを1枚貼ることを約束させられる。
 こちらでは、いろんな部品用品のメーカーが、小さなステッカー1枚で$100とか$200のスポンサーになってくれるのだ。おかげでヘルメット一つ頂き、と思っていたら、トラックのおじさんがわざわざガレージまで愛用の濃いグリーンのヘルメットを持って来てくれ、ステッカーも貼らずじまいのまるもうけ。」
鮒子田 寛(1970年AUTO SPORT 独占手記 F-Aが俺を魅惑する より)

 上の手記の内容から察するとレース決勝当日鮒子田 寛は、ベルスターの新品ヘルメットで出走した可能性があったことがこの内容から推測することが出来る。確かに、この写真を拡大すると右側面フロントタイヤそばに「BELL」のステッカーを見ることが出来る。さらにコクピット横のドライバー・ネームを拡大するとHIROSHI FUSHIDAと読める。それともう1つ「フロント・スポイラー」が薄いグリーンであることからやはり鮒子田 寛とリペアなったイーグル・プリムスの写真に間違いないように思える。
その点を再度鮒子田氏にお伺いしてみた。
 

「その内容の手記自体書いた記憶がないのですが、書いてあるからにはそうなのかもしれないね。」
 鮒子田 寛 

 鮒子田氏にも本当のところは記憶にない様子。もっとも今から30年も前の話しなのだから無理もないような気もする。
ということで、私としては暫定的ではあるが、この写真は鮒子田 寛が乗ったイーグル・プリムスだということで進めさせて頂くことにする。

“3位表彰台が・・・!” 
 レースはローリング・スタートで始まった。当時の日本ではあまりなじみのないスタートではあるがアメリカではこのスタートがスタンダードなスタート方式である。特に、インディを狙う鮒子田としては是が非でもこのスタートを得意なものにする必要があった。
 3周後グリーン・フラックが振られた。鮒子田は抜群のスタートを切るが、前にいたチーム・メイトのウイリアムズに近づきすぎて少々もたつく間、チャック・パーソンズに抜かれてしまう。
その後、第9コーナーでウイリアムズとチャックの2台が絡んでスピンする脇をすんでのところダートへ片足を落としながらすり抜けて4位。さらにハチソンをも抜きさって2周目には早くも鮒子田は3位に進出してしまう。ちなみにダートをすり抜けて2台を抜き去った第9コーナーは、約10度のバンクを持った250Rぐらいの富士のバンクを小型にしたようなコーナーで、以前フォード社のスポーツカーの王者だったフェラーリ追撃用スーパーウェポンであった“フォードJ”をテスト中、名手ケン・マイルズがこの第9コーナーで飛び出してクラッシュ、そして死亡した因縁のコーナーでだったのである。それだけ難しいコーナーをなんなくダートへ片足を落しながら駆け抜けて行った鮒子田 寛のレーシング・テクニックの評価は上がりに上がっていったのであった。それを証明するエピソードとしてこのコーナーの通過タイムはダン・ガーニーが記録した13.8秒が過去の最高タイムであったのだが鮒子田はこのレースでなんと13.0秒を記録してしまったのである。これにはチーム・オーナーも御満悦で「すべてが初めてで車もセッティングが完全じゃなかったのに、とてもいいドライブだった、またチャンスがあったら乗ってくれ」と鮒子田をベタ誉めであった。
 さて、レースに戻ると40周のレースのうち29周目を終わり鮒子田は依然3位で走行している。26周目にはこの日のベストラップタイムである1'20"7を記録する好調ぶり、このタイムは予選タイムをも上回っている。このままだと初出場で表彰台も夢ではない・・・と思っていたところ、「ドカ〜ン!!」という音共になんと後ろを振り向くとエンジンからもうもうと白煙が吹く上げているではないか!万事休すである。
 こうして鮒子田 寛のアメリカでの初レースを終わった。後で調べたところ原因は「エンジン右バンクのいちばん後、8気筒目にピストン・ピン・クリックが脱落していた。そのためにピストン・ピンがおどってピストンに異常な力が加わり、壊れてしまった。」だった。
 ここで再び1970年発行AUTO SPORT誌6月号「F-Aが俺を魅了する」にレース後の鮒子田 寛自身のコメントがあるので引用活用させて頂くことにする。
 
「ぼくのほうは、どう考えても残念でたまらない。速いのはキャノンだけだったし、彼は最新のマクラーレンに最高のシボレー・エンジンを載せ、レース前に800マイル(約1280Km)ものテストランをしていたのだ。マシンさえよければぼくも勝てる。なんとかもう1度チャンスをつかんで、このF-Aシリーズに挑戦してみたいものである。レースの期間は6ヶ月、14の違ったサーキットを走れるのだ。いい勉強になると思う。ズースのメンバーもいい人ばかり、早く戻ってこいと言ってくれた。」
鮒子田 寛 
RESULTS
PLACE
DRIVER
MACHINE
LAPS
TIME
1st
John Cannon
McLaren Chevrolet
40
52'40"36
2nd
Dave Joedan
Eagle Chevrolet
39
-
3rd
Chuck Parsons
Lola Chevrolet
39
-
20th
Hiroshi Fushida
Eagle Plymouth
28
-

PART 1 
END


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(C) 22/AUG/2001 Text reports by Hirofumi Makino.