“世界へ羽ばたく鮒子田 寛!!”
今でこそ日本人ドライバーが海外で活躍することは不思議でも何でもないことではあるが、今から約30年前に単身海外で本場のレースに挑んだ日本人ドライバーたちがいたことを御存知だろうか。まだ通貨持ち出しも自由にならない1ドル360円の時代のこと、それがいかに大変なことだったかを我々は知らなかったし、想像も出来ないでいる。 そんな中、日本人ドライバーとして最初に単身海外のレースに挑戦したドライバーがいる。今や伝説化している“生沢 徹”である。憧れのフォーミュラ1ドライバーの証である“グレーデット・ドライバー”を目指し、1966年イギリスに渡りフォーミュラ3レースに果敢に挑戦したのは我々レースファンにとっては正に衝撃であった。そして、生沢は翌1967ー68年度には数々のレースに優勝し、日本人ドライバー海外挑戦の道を作り上げた功績は実に大きいと思う。そして、いまなお生沢を超えるドライバーは現われていないと断言する。 そして、ここで紹介する“鮒子田 寛”もそんな生沢 徹の後に続いた夢多き若きドライバーであった。 |
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of Hiroshi Fushida In 1970-1971 |
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ここで偉大なる日本人ドライバーである“生沢 徹”の言葉を紹介しよう。
1970年、晴海で開かれた第3回東京レーシングカー・ショーにトヨタ・チームのメンバーとして参加したのを最後に鮒子田はトヨタを去った。それは、未知の世界への挑戦だった。その時の心境を1971年山海堂発行「オート・テクニック」誌7月号に当時の心境を語っているので再び引用させて頂き紹介したいと思う。
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F-Aに挑戦!!
1970年発行の「オートスポーツ」誌5月号のニュース欄に注目すべきニュースが載っていた。
そして鮒子田はついに海外挑戦への第一歩を刻むわけであるが、まだこの時点ではトヨタ・チームの一員であることがこのトピックスでわかる。
アメリカへの第1歩を踏み出した鮒子田 寛。 鮒子田の当時の心情がなんとも初々しく好感が持てる。
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"Welcome
to Riverside !!"
4月7日、すでにアメリカへ来てから3週間目を迎えたこの日、コメディアン兼レーシング・ドライバーとして有名なディック・スマザースの店(ロサンゼルス郊外のマンハッタン・ビーチにあるディスコティック)においてリバーサイド・レースのプレス・パーティーが開かれていた。もちろん鮒子田もその中にいた。 昨年のこのレースでの優勝者であるジョン・キャノン(1968年CAN-AMシリーズのモントレー・グランプリで旧式のマクラーレンMIBで優勝、1968年日本CAN-AMにも来日)がしきりに鮒子田 寛を褒め称え参加者に紹介している。日本CAN-AMでの鮒子田の活躍がよほど印象深かったのだろう。 楽しい一時を過ごした鮒子田は翌日早速初めてのテストのためリバーサイドへ直行した。 驚いたことにリバーサイド・スピードウェイ主催で、なんと鮒子田 寛のために昼食会が催され、大変な歓迎を受けることとなった。これは過去を振り返ってみても異例なことだそうで、それだけ東洋のレーサーのF-A挑戦は注目されていたのだった。 ところがこの日の目的であった初テストはマシンの到着が遅れたため結局夕方からの走行となってしまった。 その時の鮒子田 寛の気持ちを当時のAUTO SPORT誌が伝えているので再び引用活用させていただく。
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“5位で予選通過!!しかし・・・” 4月18日、公式予選2日目予期せぬ出来事が鮒子田を襲った。 ここでも当時の様子を鮒子田自身が1970年6月号AUTO SPORT誌で語っているので引用活用させて頂く。 (右はレースが開かれた1周4.023km“リバーサイド・サーキット”である。1960年代を代表するアメリカのサーキットであり、CAN-AMシリーズ、NASCARストックカー・レースなどの舞台となり、特に“ダン・ガーニー”が得意とするサーキットとして有名であった)
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そんなアクシデントに遭遇した鮒子田であったが予選は35台のエントラント中なんと5位を獲得したのは流石である。そして予選トップは最新のマクラーレン・シャーシーにこれまた最新のシボレー・エンジンを積んだジョン・キャノンであった。
Qualify Time of Top Six
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TOP : Hiroshi Fushida and his Eagle Plymouth F-A at Riverside Circuit
in 1970.
上の写真を見てもらいたい。これは第1戦リバーサイドでの鮒子田 寛と彼のイーグル・プリムスF-Aである。
しかし、どうも様子がおかしい。そう、ヘルメットが違うのである。果たしてこの写真は鮒子田 寛本人がドライブしているものだろうか?! その点について実際に鮒子田氏にお聞きしてみた。
やはり違うのか・・・私はせっかくのカラー写真であったが、HPで紹介するのをやめようと思ったその時、何気無く読んでいたAUTO
SPORT誌 “鮒子田 寛 独占手記「F-Aが俺を魅惑する」”の中で注目すべき発言を発見したのだった。
上の手記の内容から察するとレース決勝当日鮒子田 寛は、ベルスターの新品ヘルメットで出走した可能性があったことがこの内容から推測することが出来る。確かに、この写真を拡大すると右側面フロントタイヤそばに「BELL」のステッカーを見ることが出来る。さらにコクピット横のドライバー・ネームを拡大するとHIROSHI
FUSHIDAと読める。それともう1つ「フロント・スポイラー」が薄いグリーンであることからやはり鮒子田 寛とリペアなったイーグル・プリムスの写真に間違いないように思える。
鮒子田氏にも本当のところは記憶にない様子。もっとも今から30年も前の話しなのだから無理もないような気もする。
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“3位表彰台が・・・!”
レースはローリング・スタートで始まった。当時の日本ではあまりなじみのないスタートではあるがアメリカではこのスタートがスタンダードなスタート方式である。特に、インディを狙う鮒子田としては是が非でもこのスタートを得意なものにする必要があった。 3周後グリーン・フラックが振られた。鮒子田は抜群のスタートを切るが、前にいたチーム・メイトのウイリアムズに近づきすぎて少々もたつく間、チャック・パーソンズに抜かれてしまう。 その後、第9コーナーでウイリアムズとチャックの2台が絡んでスピンする脇をすんでのところダートへ片足を落としながらすり抜けて4位。さらにハチソンをも抜きさって2周目には早くも鮒子田は3位に進出してしまう。ちなみにダートをすり抜けて2台を抜き去った第9コーナーは、約10度のバンクを持った250Rぐらいの富士のバンクを小型にしたようなコーナーで、以前フォード社のスポーツカーの王者だったフェラーリ追撃用スーパーウェポンであった“フォードJ”をテスト中、名手ケン・マイルズがこの第9コーナーで飛び出してクラッシュ、そして死亡した因縁のコーナーでだったのである。それだけ難しいコーナーをなんなくダートへ片足を落しながら駆け抜けて行った鮒子田 寛のレーシング・テクニックの評価は上がりに上がっていったのであった。それを証明するエピソードとしてこのコーナーの通過タイムはダン・ガーニーが記録した13.8秒が過去の最高タイムであったのだが鮒子田はこのレースでなんと13.0秒を記録してしまったのである。これにはチーム・オーナーも御満悦で「すべてが初めてで車もセッティングが完全じゃなかったのに、とてもいいドライブだった、またチャンスがあったら乗ってくれ」と鮒子田をベタ誉めであった。 さて、レースに戻ると40周のレースのうち29周目を終わり鮒子田は依然3位で走行している。26周目にはこの日のベストラップタイムである1'20"7を記録する好調ぶり、このタイムは予選タイムをも上回っている。このままだと初出場で表彰台も夢ではない・・・と思っていたところ、「ドカ〜ン!!」という音共になんと後ろを振り向くとエンジンからもうもうと白煙が吹く上げているではないか!万事休すである。 こうして鮒子田 寛のアメリカでの初レースを終わった。後で調べたところ原因は「エンジン右バンクのいちばん後、8気筒目にピストン・ピン・クリックが脱落していた。そのためにピストン・ピンがおどってピストンに異常な力が加わり、壊れてしまった。」だった。 ここで再び1970年発行AUTO SPORT誌6月号「F-Aが俺を魅了する」にレース後の鮒子田 寛自身のコメントがあるので引用活用させて頂くことにする。
PART
1
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(C) 22/AUG/2001 Text reports by Hirofumi Makino.