(C) Photographs, modeling by Bon Makino.

 
 ジョー・シファートとポルシェ917のコンビ。やはり最強のコンビだったと言える。
1969年の世界マニファクチャラーズ選手権は、このジョー・シファートとワークス・ポルシェ908の活躍により、念願のタイトルをポルシェへともたらした。シファートは、ブライアン・レッドマンとのコンビで、なんと10戦中6勝(デイトナ、セブリング、タルガフロリオ、そして、ル・マンを除くレース)をマークする無敵さだった。なお、最終戦のオーストリア・グランプリのみ、クルト・アーレンスと組んでの優勝であった

 1968年より始まった新しいレギュレーションのマニファクチャラーズ選手権は、排気量3リッター以下のグループ6(1969年当時のプロトタイプカークラス)と排気量5リッター以下のグループ4(1969年当時の年間25台生産義務のスポーツカークラス)の両クラスにより争われる。

 このクラスで世界制覇を狙うポルシェは、当時のライバルであった“フォードGT40”や“ローラT70MKIII”に対抗するため、既存の908のシャーシに、907のエンジンを2つ繋げて排気量4500ccとした空冷水平対抗12気筒エンジンを搭載したスポーツカー“917”を完成させた。
しかし、917はポルシェの思惑通りにセッティングが進まず、あの栄光のル・マンにおいても終盤までトップを独走していたもののリタイヤを喫する。そして、この年の最終戦オーストリア・グランプリ(8月10日)を迎えることとなった。

 917に将来をかけるポルシェは、1970年よりワークス活動を中止し、一切のレース運営を宿敵であったJ.W.オートモーティブに委ねることを決定した。そのため、このオーストリア・グランプリでは、917の個人オーナーであるデイビッド・パイパーチームと他の1チームにシファートらのワークスドライバーが参加してのエントリーということになった。
 結果は、シファートとアーレンスが乗る917が、ジャッキー・イクスのミラージュのリタイヤに助けられたとはいえ、初優勝を飾る。また、2位のジョー・ボニエのローラT70MKIIIBの後にも、リチャード・アッドウッド/ブライアン・レッドマン組の917が入り、ポルシェは、1969年の有終の美を飾る事が出来た。

 その優勝から2ヵ月後の10月10日、シファートと917は日本にいた。69年日本グランプリに参加するためだ。
マシンは、デイビッド・パイパー所有のシャーシNo.917010の917。オーストリア・グランプリ3位のマシンと優勝者のコンビが富士スピードウェイに登場したのだ。
エントリーは、滝進太郎率いるタキ・レーシングチームが行ない、監督としてワークス・ポルシェのリコ・シュテインマンが指揮を取るという、実質的なワークス・ポルシェでの日本グランプリ参戦といえる。さらに、69年のチャンピオンマシンである“908”もハンス・ヘルマンと共に来日し、ニッサン、トヨタのグループ7マシンとの壮絶な戦いがレース前から予想されていた。
 しかし、シファートが来日したのが公式予選の数日前で練習時間は合計1時間半。それではいくら世界のトップ・ドライバーであってもセッディングは出来ない。結果は、予選7位で決勝6位。
結果的には期待はずれといっていい内容だったが、終盤シファートがみせた1分46秒台の激しいドライビングは、全観衆にグレーデッド・ドライバーの実力をみせつけたシーンでもあった。

 そんな917の本当の実力が開花するのは、翌1970年からであった。
 


TOP : #29 917's Jo Siffert/Kurt Ahrens won a Austria Grand prix in 1969.
And #30 917 gots a 3rd place in Austria Grand prix.
#30 917  by David Pipar.Chassis No. 917010.
His 917 joined a '69 Japan GP in Fuji with Jo Siffert.
Speical thanks Auto Sport, Sanei-shobou.


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