TOP : Chuck Parsons and his "SIMONIZ SPECIAL".
 上の写真はCAN-AM界のブライアン・フェリーことチャック・パーソンズ選手であります。当時、チャック・パーソンズはアメリカのローラの代理店をやっていたカール・ハースのチームに所属していました。
その影響でしょうか、チーム・サーティーズのローラよりパーソンズのローラの方がワークスカーに近かい仕上げになっているのはやはりカール・ハースの政治力なんでしょうか?!
 ちなみに、翌1969年のマニファクチャラーズチャンピオンシップ開幕戦のデイトナ24時間レースにおいて、優勝したローラT70MKIII Bシボレーにマーク・ダナヒューとコンビを組んでいたのは、何を隠そうチャック・パーソンズその人でありました。しかし、チャック・パーソンズとローラ。この関係は、69年いっぱいで終わってしまうのです。ピーター・レブソンがカール・ハースのナンバー1になってからは、パーソンズの出番は減る一方となり、71年にはついにマクラーレンユーザーになってしまうのでありました。しかし、そのレブソンも71年にはワークス・マクラーレンのナンバー2となり、その年のシリーズ・チャンピオンになってしまうのですが・・・。
 さて、68年日本CAN-AMにおいてのパーソンズは、予選4位から抜群のスタートを見せ、最初の10周ほどはダナヒュー、レブソンに続いて3位を走行していました。しかし、突然のサスペンション・トラブルで残念ながら61周でリタイヤを喫しました。
 USRRCからCAN-AMを通じてレースの顔となっていたチャック・パーソンズは、やはり忘れる事の出来ないドライバーの一人ではないでしょうか。

TOP : Lola T160 was the unsuccessful replacement for the T70.

TOP : Pedro Rodriguez and his Lola T160 from a team yasuda.

TOP : Al Unser pit in. He gots a 10th place.
 上の画像は、2台のローラT160であります。#11は、レース中にラジエターに石が当たり穴が空いてしまってピットイン中の安田銀治氏所有のマシンです。その後、このマシンはリタイヤしてしまいました。
ドライバーは、メキシコ人のペドロ・ロドリゲス。彼は、68年当時まだまだ売り出し中の中堅ドライバーでありました。活動場所は主にアメリカのUSRRCやヨーロッパのスポーツカーレースにNART(ノースアメリカンレーシングチーム)のドライバーとして参加していました。また、F1においては、クーパー・マセラティなどに乗って活躍し、翌69年にフェラーリ312Pでマニファクチャラーズ選手権に出場したころよりトップドライバーとして注目され始め、70年のポルシェ917Kでの活躍や復調なったBRMでのF1での活躍などで一躍最速のドライバーの一人となっていきました。
しかし、そんな絶頂期の71年にヨーロッパ・インターセリエ(ヨーロッパ版CAN-AMレース)にプライベートのフェラーリ512Mで参加、そしてクラッシュ、死亡するというなんとも不運なドライバーの一人となってしまいました。ちなみに、ペドロの兄であるリカルドも同じくレース事故で他界しています。メキシコのロドリゲス・サーキットの名前の由来は、彼たち兄弟の栄誉を称えて付けたものです。
トップ・ドライバーになってもプライベート・チームの依頼によりどんなマシンにも乗ってしまうペドロ・ロドリゲス。この68年日本CAN-AMにおいてもそんな感じでこのローラに乗ったのではと、ふと思ってしまいました。
 #3は、アル・アンサーのローラであります。68年CAN-AM最終戦“ラスベガス スターダスト・グランプリ”にマリオ・アンドレッティのドライブで出場したマシンを諸般の理由でアル・アンサーがこの日本CAN-AMに持ち込んだものと思われす。上のピット・インの写真にあるようにピットに掲げられているドライバー看板には「アル・アンサー ローラT70フォード」と書かれています。当初はローラT70での参加予定だったのが何らかの理由でマリオ・アンドレティが乗っていたローラT160フォードに変更になったのではないかと思われます。
そう言えば、68年のCAN-AM最終戦「スターダスト・グランプリ」において、スタート後第1コーナーにおいて、大クラッシュ事故が起き、この#3マリオ・アンドレッティのローラT160がブルース・マクラーレンに追突したのが事故の発端だと言われていましたから、その時の事故でアンドレッティが怪我をして来日不可能となった可能性もありますが、実際のところはわかりません。ただ、11月23日から1週間後12月1日のUSAC(インディーカーシリーズ)最終戦「レックスメイズ300Kmレース」にマリオ・アンドレッティは元気な姿をみせて総合3位になっていることからして怪我ではないようです。まあ36年前のことをどうだこうだ今言ってもしょうがないですからこの話は終わりにしましょう。
 ところで今回来日したアル・アンサーは、ご存知アル・アンサーJrのお父さんであります(私は、Jrよりお父さんの活躍した時代がリアル・タイムであり大好きですが・・・)。兄にボビー・アンサーを持つアメリカにおける由緒あるレース一家として昔から有名でありました。主に、インディーカーレースやヒスクライムトライアルなどで名声を得ており、特に70〜71年のインディー500マイルレース2連勝は凄いの一語であります。
 この日本CAN-AMでは残念ながらトラブル続きでトップのレブソンに18周遅れの10位と振るいませんでした。


TOP : George Follmer and his Lola T70 /Ford had a pit-in in a race and he couldn't have a checker flag.

 ジョージ・フォルマーは、1965年のUSRRCチャンピオンをロータス・ポルシェで獲得した後はいばらの道を歩んできたと言ってもいいでしょう。ペンスキー・チーム(昔はペンスケとオートスポーツ流には呼んでいましたので、真剣にロジャー・ペンスケって日系人かと思っていた時期がありました)のNO.2としてマーク・ダナヒューを援助しながら、CAN-AM、Tran−Am、インディーなどを戦い、時としてAVSシャドウなどにも乗ったりしていました。そして、72年度のCAN-AMシリーズにおいてダナヒューが怪我で欠場ということもありましたが、見事その年のチャンピオンとなっています。その後UOPシャドウチームと共にCAN-AM、F1に挑戦。特にCAN-AMには欠かせないドライバーの一人として今でも語り継がれています。

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(C) Photograph by Satoshi Suzuki.