TOP : Winning McLaren M6B Ford. TOP : McLaren M6B with Starling Moss ( Right side ) and Carroll Shelby ( next side ). だいぶ横道に逸れてしまいましたが、ピーター・レブソンは、1939年生まれで年齢的には決して若くなく、レーシング・ドライバーとしは遅咲きと言っても良いでしょう。年齢的にも近かったマーク・ダナヒューとたえず比較されながらCAN-AM初年度から参加し続けたレブソンでありましたが、日本CAN-AMでの初勝利をきっかけとしてトップ・ドライバーに駆け上がっていったと言っても良いのではないかと思っています。翌1969年からはカール・ハースのローラと関係を持ち、70年にはワークス体制で最新のローラT220シボレーを駆り、ワークス・マクラーレンを追い詰めるシーンを我々に見せてくれたのは今なお強烈な印象として脳裏に残っています。 1971年からは、その実力を認められてワークス・マクラーレンのナンバー2に抜擢され、期待通り見事シリーズチャンピオンに輝いています。しかし、1973年、待望のF1ドライバーとなったレブソンでしたが、最新のシャドウF1のテスト中に事故にあい死亡。晩年34歳の短い人生でありました。 |
TOP : Joe Bonnier and his McLaren M6B that this is a ex-works McLaren M6A of Denis Hulme. TOP : #17 McLaren M6B drivin by Jerry Titus. TOP : John Cannon and his McLaren M1B gots a win in the Can-Am series round 4 "Laguna Seca". 一番上の画像は、地味ながら68年度のCAN-AMシリーズに昨年のワークス・マシン(デニス・ハルム用)で挑戦していたジョー・ボニエのマクラーレンM6Bであります。ヨアキム・ボニエとも言い、F1ドライバーのまとめ役でもありました。1964年に初めてF1に参加したホンダ・チームもボニエの指示でかなり意見されていたようでした。初めてのサーキット走行、初めてのマシン、初めてのF1ドライバー(ロニー・バックナム)に少々危険なものを感じていたからの指導だったのではないかと思われます。しかし、ホンダF1の最後となった68年の最終戦にはそのボニエが、サーティーズと共にホンダRA301で出場していた事実はなんとも皮肉ではないでしょうか。
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日本CAN-AMは、翌69年にも開かれましたが、ビッグマシンによる日本グランプリの終焉と共にわずか2大会で消えて行きました。
CAN-AM自体は1974年まで続くのですが、やはり66年から70年までのシリーズが最高だったのではないかと私自身は思っています。 チャパラル(シャパラルともいいますが・・・)、マクラーレン、ローラ、そしてポルシェやフェラーリのヨーロッパ勢との対決。そして、USRRCから参加を続けているアメリカン・バックヤードビルダーたちのマシンたち。それらの入り混じるダイナミックなレースこそCAN-AMの真骨頂だったのではないかと今でも思っています。 今回この企画を作るきっかけとなりました貴重な写真の数々を提供して頂いた鈴木 聡氏にこの場を借りてお礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。 そして、この栄光の草レース(!?)だった“カナディアン・アメリカン・チャレンジカップ”の存在に乾杯!! 主宰者
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(C) Photographs by Satoshi Suzuki