TOP : Winning McLaren M6B Ford.

TOP : McLaren M6B with Starling Moss ( Right side ) and Carroll Shelby ( next side ).
 上の画像は、優勝したピーター・レブソンのマクラーレンM6Bフォードであります。シェルビー・アメリカンがエントリーしたワークス・マシンであり、ノン・タイトル戦ながらキャロル・シェルビーにとっては嬉しい初勝利となりました。当時29歳で独身だったレブソンは、言わずと知れたレブロン化粧品の御曹司であり、ハリウッド映画「スーパーマン」で主演を勤めた俳優“クリストファー・リーヴ”似のカッコイイマスクでさぞかし当時はもてたのではないかと想像出来ます。余談ですが、ハリウッド俳優似と言えば、あのテキサス・ロードランナーのジム・ホールも良く見るとどことなくジェームス・ディーンを彷彿させる風貌だったのではと思ってしまいました。それと一時期大人気を博したTV映画"X-ファイル”の・・・にもなんとなく・・・。
だいぶ横道に逸れてしまいましたが、ピーター・レブソンは、1939年生まれで年齢的には決して若くなく、レーシング・ドライバーとしは遅咲きと言っても良いでしょう。年齢的にも近かったマーク・ダナヒューとたえず比較されながらCAN-AM初年度から参加し続けたレブソンでありましたが、日本CAN-AMでの初勝利をきっかけとしてトップ・ドライバーに駆け上がっていったと言っても良いのではないかと思っています。翌1969年からはカール・ハースのローラと関係を持ち、70年にはワークス体制で最新のローラT220シボレーを駆り、ワークス・マクラーレンを追い詰めるシーンを我々に見せてくれたのは今なお強烈な印象として脳裏に残っています。
1971年からは、その実力を認められてワークス・マクラーレンのナンバー2に抜擢され、期待通り見事シリーズチャンピオンに輝いています。しかし、1973年、待望のF1ドライバーとなったレブソンでしたが、最新のシャドウF1のテスト中に事故にあい死亡。晩年34歳の短い人生でありました。

TOP : Joe Bonnier and his McLaren M6B that this is a ex-works McLaren M6A of Denis Hulme.

TOP : #17 McLaren M6B drivin by Jerry Titus.

TOP : John Cannon and his McLaren M1B gots a win in the Can-Am series round 4 "Laguna Seca".

 一番上の画像は、地味ながら68年度のCAN-AMシリーズに昨年のワークス・マシン(デニス・ハルム用)で挑戦していたジョー・ボニエのマクラーレンM6Bであります。ヨアキム・ボニエとも言い、F1ドライバーのまとめ役でもありました。1964年に初めてF1に参加したホンダ・チームもボニエの指示でかなり意見されていたようでした。初めてのサーキット走行、初めてのマシン、初めてのF1ドライバー(ロニー・バックナム)に少々危険なものを感じていたからの指導だったのではないかと思われます。しかし、ホンダF1の最後となった68年の最終戦にはそのボニエが、サーティーズと共にホンダRA301で出場していた事実はなんとも皮肉ではないでしょうか。
 真ん中のブルーのマシンは、これまた喜劇俳優の”ジェリー・ルイス”似で元スポーツカー・グラフィック誌編集長の"ジェリー・タイタス”が乗るマクラーレンM6Bであります。ジェリー・タイタスもジョージ・フォルマー同様、最終戦の多重事故により幸運な4位を獲得し、シリーズ総合でも8位となる成績を上げました。そう言えば“ヒノ・サムライ”、"デイトナ・コブラ”、そして”ギヤ・デトマソ(タミヤのキング・コブラと言った方が分かりやすいかも・・・)”のデザイナーとして有名な"ピーター・ブロック”もデザイナー業以外にも、ドライバー&モータージャーナリストとして活躍していました。そんなタイタスも今はいません。
 下の画像は、出場マシン中一番古いマクラーレンM1Bであります。しかし、ドライバーのジョン・キャノンはその年のCAN-AM第4戦雨の「ラグナ・セカ モントレー・グランプリ」で多くの強豪がリタイヤして行く中、水澄ましのように走り続けたキャノンはオールド・マクラーレンに初の優勝をもたらしたのでした。ジョン・キャノンは富士でのレースではリタイヤしましたが、その後このマシンをパドックで「売りたし!!全スペアーパーツ付き 360万円 マクラーレンMKIII 」と看板を掲げていたのには驚いてしまいました。でも、今考えてみると買っておけば良かったなどと思ってしまうのは私だけでしょうか?!

 日本CAN-AMは、翌69年にも開かれましたが、ビッグマシンによる日本グランプリの終焉と共にわずか2大会で消えて行きました。
CAN-AM自体は1974年まで続くのですが、やはり66年から70年までのシリーズが最高だったのではないかと私自身は思っています。
チャパラル(シャパラルともいいますが・・・)、マクラーレン、ローラ、そしてポルシェやフェラーリのヨーロッパ勢との対決。そして、USRRCから参加を続けているアメリカン・バックヤードビルダーたちのマシンたち。それらの入り混じるダイナミックなレースこそCAN-AMの真骨頂だったのではないかと今でも思っています。
 今回この企画を作るきっかけとなりました貴重な写真の数々を提供して頂いた鈴木 聡氏にこの場を借りてお礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。
そして、この栄光の草レース(!?)だった“カナディアン・アメリカン・チャレンジカップ”の存在に乾杯!!
主宰者

END



GO TO TOP

GO TO TOP PAGE

(C) Photographs by Satoshi Suzuki