Tetsu と日本グランプリ、そしてポルシェ

 1967年プリンス自動車を吸収した日産自動車のファクトリーチームに生沢 徹の名はなかった。
この現実にTetsuは唖然とした。「自分は、ヨーロッパで腕を磨いてきたのに、いらないって・・・」
そして、Tetsuは行動する。当時の日本では誰もやったことのない自らスポンサーを探し、そのスポンサー料によりマシンを調達し、日本グランプリに参戦するというのだ。それは、ファクトリー・チームに一泡吹かせる・・・という思いのために。
コカ・コーラの市場に切り込みたい ペプシ・コーラ。当時のファッションリーダーであった VANの新たな市場開拓。事業を拡大しつつあった レーシング・メイト。それらの思いがTetsuの思いと重なった。その結果、当時トップレベルのレーシングマシン「ポルシェ・カレラ6」を三和自動車より借り受けることが出来たのだった。
 第4回日本グランプリには合計3台のカレラ6が登場している。1台は滝 進太郎、そして、Tetsu。もう1台は前年デイトナ・コブラで出場している 男は黙って 酒井 正であった。この3台は同じメンテナンスを受け、ほとんど同じ仕様での参戦であるが、チームメートではなく、あくまでもライバルである。対するファクトリーチームは、日産とダイハツ。トヨタ自動車は、このグランプリには対象車両がないということで出場していない。ダイハツについては、1300cc以下のクラスなのでTetsuらの相手ではない。日産はプリンス時代のR380を改良した一見カレラ6似のR380IIを開発。そして、4台をエントリーして来た。
余談だが、このレースには ヒノ・サムライという美しいマシンがエントリーしていたが、最低地上高をクリヤ出来ず無念の車検失格。

 下の作品は、須藤氏の入魂の1/32作品である。1/32スケールのFLY製完成品をリペイントし、見事に生沢 徹仕様 カレラ6を再現させている。


TOP : Repainting by Takehiko Sudou.
This is ex-FLY Porsche 906.

 FLYの生沢カレラ6は当然のことながら作る気満々でしたが、ベースになったFLYの物は元々プレイボーイコレクションという企画物でPLAYBOYのロゴとバニーマーク、さらにはプレイメイトのセクシーショットがリアウインドウ下に印刷されていたという白ボディに紫というカラーのキワモノでしたが、これもくるま村工房さんのデカールのおかげで、晴れて生沢仕様に生まれ変わらせることができました。
Text report by Takehiko Sudou
 1967年。この年、無事に中学校に進学した。場所は小学校と同じ常盤台。ということは学友たちもほとんどが同じ中学に進んだということだ。
さて、小学校と中学校との大きな違いは制服があることだろう。なにせ爪入りの学ラン(今でもそう言うのだろうか?!)は堅苦しい。
しかもなぜかこの年代では珍しく給食がない。弁当持参ということである。お袋が作ってくれたのり弁の味は今も忘れられない。
そう言いながらも2年からは給食が始まった。そして、牛乳が付く。脱脂粉乳と肝油ドロップとの決別だ!
当方中学時代は迫りくる高校受験という難問も知ってか知らずか完全無視でクラスメイトと駄洒落や段々興味がわいてきた異性のことを勉強そっちのけで夢中になっていた。また、その時期本格的になってきた 日本グランプリの事前の情報(AUTO SPORT誌などから)なども手伝って、友人H君と共にスロット・レーシングを続けながら熱中していたのである。
そして、5月3日がやって来た。前年とは違い自宅のテレビにかじりついてレース観戦だ。その時点ではまだTetsuはヒーローにはなっていない。前年の悪役のままだ。しかしながら彼はこのレースでただ一人富士スピードウェイのフルコースを1分59秒台で周回し、ポールポジションを取っている。なんとニッサンワークスの4台よりも速かったのだ。
注目していた2台のローラT70はどういうわけか遅い。なぜだろう!?AUTO SPORTで見たジョン・サーティーズのローラT70はとても速いのに・・・。
 レースはTetsuとニッサンの高橋国光との一騎打ちで前半は進むが、Tetsuのシフトミスにより両車スピン。一早く脱出したTetsuがその後もリードを保ち、そのままゴール。その間、2位にいた酒井 正のカレラ6がバンクで派手なクラッシュを演じたり、事飽きないレースであった。
そして、Tetsuはプライベートとして最初で最後の日本グランプリ優勝者となり、同時に日本レース界のヒーローとなった。

 第4回日本グランプリに出場した“ドン・ニコ ローラT70”。これは日米の顔利き “ドン・ニコルズ”が当時のCAN-AMレースでミーカム・チームが所有していた思われる ローラT70 を持ち込んだものだ。P.ジョーンズかドライブしたものかどうかは不明だが、ニコルズは自らハンドルを握り出場し、9台出場したレースで7位に入ってみせた。ストレートは速いが、それ以外は安全運転だった ドン・ニコ ローラ。コンディションは不完全なものであっただろうし、ドライバーも酒井などが乗っていればまた違ったかもしれない。
 そのローラを「くるま村の達人 大庭 鉄也 氏」が製作されているのでご紹介したい。
"Don Nico Lola T70 MKII "

(C) Built and photographs by Tetsuya Ohba.


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(C) Repainting by Takehiko Sudou.