ダイハツ自動車と言えば、60年代初頭に町や村を走り回っていた“ダイハツ・ミゼット”を思い出す。オート三輪だった初代ミゼットは、なんとも可愛らしいスタイルで庶民に好評を得ていた。そんなダイハツが、“ダイハツ・コンパーノ・スポーツ”で自家用車部門に乗り出したのは、1964年以降だったと記憶している。スタイル違いのオープンカー“コンパーノ・スパイダー”は、当時の若者たちに大いに受け入れられ、スポーツカーだったホンダSシリーズやフェアレディなどと並んで彼らの羨望の的となった。
その後ダイハツは、1966年に開かれる第3回日本グランプリ出場を目指し、コンパーノ・スポーツを基本にしたフロント・エンジンレイアウトの“ダイハツP-3”を開発する。
ところが、エントリーを見ると、ダイハツが参加するクラス1には、フィアット・アバルト、ロータス・エリートの強豪がいる。それらは、ダイハツP-3よりはるかに進んだ構造を持ち、P-3に勝てる望みはないかと思われた。
しかし、ダイハツP-3は、その2台に勝利する。チーム全員の熱意と情熱がノー・トラブルでの完走を実現したのだった。

 1966年のトヨタは、翌年に発売予定している“トヨタ2000GT”のプロトタイプを3台エントリーしていた。
真紅の細谷四方洋車、シルバーの田村三夫車、そして、ダークグリーンの福沢幸雄車である。細谷は、第1回日本グランプリからの連続出場、田村は、昨年からトヨタ車でレースに参加、そして、前年までいすゞチームに在籍していた福沢幸雄が、今年からトヨタに合流。
また、チーム・トヨタと呼ばれるのは、この日本グランプリ以降からで、このレースは、トヨタ自工チームとして参加している。
ところで、福沢幸雄は、練習中に彼のトヨタ2000GTが炎上、火傷のためグランプリ出場は幻となってしまった。
レースでは、最新のプロトタイプ“プリンスR380”に歯が立たず、フロントエンジンで市販車のプロトタイプであるトヨタ2000GTは、3位に#15細谷が入っただけでレースを終えることとなる。
 

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(C) Photographs by Naofumi Ibuki.