“60年代のマンガ”
 
それは、少年たちの夢の世界だった!!

 1963〜65年頃、少年たちに夢と希望を与えたものは“マンガ(あえてアニメとは言わず)”だ。 テレビの普及に伴い、子供たちに人気を集めていた実写ヒーロー活劇「月光仮面」、「ナショルキッド」、「少年ジェット」、「ハリマオ」、「少年ケニア」、「隠密剣士」、そして、「海底人8823」などに代わり、子供向け月刊誌に掲載されていた人気漫画が一斉にテレビ放映され始めたのがこの時期だった。
特にロボットマンガ、宇宙マンガなどのSF活劇マンガが少年たちのハートを掴んだ。 ロボットマンガ御三家と言われた「鉄腕アトム」、「鉄人28号」、そして、「エイトマン」は特に人気があった。(少年マガジンでは「8マン」と表示し、TBSテレビでは「エイトマン」と表示していた。6チャンネルだったために起きた変更と聞く)

 個人的には桑田次郎の絵のタッチが好きで「エイトマン」がお気に入りだった。仮に「鉄腕アトム」をマンガ界のビートルズと仮定すると、「エイトマン」はローリング・ストーンズだろうか。なぜならば、絵を描いた桑田次郎と、主題歌を歌った克己しげるは、両者とも不幸な事件を起こし、完結しないまま物語が終了している。これは、1973年にストーンズが、ドラッグ問題で来日中止になったことと何か重なるところがある。
余談だが、「エイトマン」の原作者であった故“平井和正”の後の名作「ウルフガイ」シリーズや「幻魔大戦」シリーズは一時期の私を夢中にさせた。その作品の原点に「エイトマン」があると思う。裏の主人公 東 八郎(ただし、お笑いタレントではない) の人言えない理由(ワケ)を持ちながら生きていく姿が、後の「幻魔大戦」の主人公“東 丈”や「ウルフガイ」の“犬神 明”に引き継がれていると感じてならない。

    
これが鉄人を動かす操縦機だ!!

しかし、今振り返ると「鉄人28号」にとても興味が沸く。このマンガの主人公は題名通りに「鉄人28号」なのだが、アトムやエイトマンと大きく違うところがある。そう、鉄人は意思を持っていない操り人形なのだ。鉄人を操縦するのは推定小学生と思われる「金田正太郎」君。 正太郎少年が操縦機を操作して動かしているのだから、真の主人公はこの少年と言うことになるのではないだろうか?!そして、♪「進め!正太郎!」♪は、まさにそんな真の主人公を称える歌であった。

ある時は拳銃を持ちギャング団と壮絶な打ち合いをし、ある時は自動車を猛スピードで運転する。また、警視庁の大塚署長と仲がよく、署長自ら正太郎少年に協力を求めてきたり、またある時は科学者 敷島博士 と同等の会話を交わすスーパー少年なのだ。しかし、現実的に考えれば、銃刀法違反、免許不携帯などで即逮捕されてしまうわけで・・・・。

 私も正太郎少年を真似て、駄菓子屋で売っていた「銀玉鉄砲」を50円で買い、友だちとよく打ち合いをしたものだ。
ちなみに、銀玉は紙粘土のようなものを6-7mm径ぐらいに煉った表面が銀色の球形で1箱確か5円だった。

 ボン太郎少年、“金田正太郎”になる!!

     
                       TOP :Boy driving a motorboat in 1963.
                         (C) Photographs by H.Makino.


 上の写真は、荒川だろうか?!よく覚えていないのだが、どうも少年がモーターボートを運転しているように写している写真のようだ。他の写真を見ると運転手が見えないように屈んで運転している様子が見える。
しかし、どう見ても手を上げて手放しで運転出来るとは思えない。それこそマンガじゃないんだから・・・。

 そして、正夢が起こる。それは、縁あって1963〜64年の2年間、少年月刊誌「ぼくら」の表紙のモデルを務めることになったのだ。その2年の間、色々ロケに行くことになるのだが・・・。
ある時は「海上自衛隊 駆逐艦」艦上での撮影、またある時は「陸上自衛隊 戦車」に乗り込んでの撮影、はたまた警視庁白バイ隊のバイクに搭乗しての撮影、そしてなんと当時大人気だった野球界のスーパースター「長嶋茂雄」とのツーショットでの撮影(?! しかしながら私は会った記憶がなく、なんと合成写真だった!!)など当時の少年たちが憧れる体験をさせて頂いた。 下の「ぼくら村の少年」は小生の思い出の子供モデル時代を当時人気サイトであった「60年代通信」主宰の鈴木氏が編集し記事として書き上げて頂いたものを特別許可を頂き、新たにUPしたものである。

 今回の企画に合わせて当時の「ほくら」誌を読み直してみると、雑誌の演出(!?)と言っていいかと思うのだが、ボン太郎少年がまるで“金田正太郎”少年のような活躍を見せているところを発見したのだ!!
 
モーターボートの無免許運転はまだマシだ。1964年3月号の「ぼくら」に掲載されていた体験レポートは、まさに金田正太郎の世界だった。
 
   「きみも大空をさんぽできる」
   

  
伝説のサイト「60年代通信」に掲載されていた小生思い出の子供モデル時代

 
 マンガ家になるのが夢だった!!

 1964〜66年の小学校4〜6年当時、クラスで何人かの友だちは「マンガ家」になるんだと夢を持っていたと記憶する。
当の私もその一人で、家に帰ると宿題もせずにひたすら ケント紙 に親父からもらった カラス口 を使い、マンガの枠線を描くのだ。時に墨汁が滲むこともある。そんな時は、白のポスターカラーではみ出た墨の上から丁寧に修正する。
 次の作業として、予め鉛筆で描いていたマンガの下絵を 「カブラペン」、「Gペン」、そして、「丸ペン」 などを使って下絵をなぞりながら墨入れをするのだ。黒く塗りつぶすところは、筆を使う。さらに、細かい点々をバックに入れる時は、親父から教わった必殺の インレタ を切り抜いてその部分に擦り写す。

 これらの作業手順は、イラストなどを描いて某出版会社 講○社 と仕事をしていた本業 画家 の親父からの伝授が多かったが、さらに踏み込んで学んだのは秋田書店から出ていた入門書からだったと思う。


             
                  TOP : Introductory book for drawing animation in 1963-1964.
                       (C) Photographs by H.Makino.

 通信講座でマンガを勉強する。当時、このような講座が存在した。
どこで知ったかはまったく覚えていないが、たぶん、マンガ雑誌の広告欄からではと思う。
特に会費を払った記憶はないが、切手を何枚か送った記憶がある。すると、会員証が送られてきて、一緒に印刷物が同封されている。それを見ながらマンガの勉強をするわけである。そして、自身のマンガを送ると後で批評が送られてくる仕組み。
しかし、いくら一生懸命に勉強してもこの講座で将来のマンガ家が約束されることはないのである。
マンガ家になるには、絵画のセンスやストーリーを作り上げる小説家のセンスはもちろん、それ以上に業界との対人関係が上手く、さらにここぞというチャンスを捕らえる着眼点も必要だ。
そして、自分の力量のなさに気づくまでにそう時間はかからなかった。小学校を卒業する頃にはすでにマンガ家の夢は彼方に消え、音楽とレーシングカーに夢中になっている自分がいたのである。

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