(C) Photographs by Yoshiyuki Tamura.

 レーシング・ドライバー・・・。
私にとって最初に知った(耳にした ? !)レーシング・ドライバーは、今は亡き“滝 進太郎”だったと記憶しています。小学校6年生の時、テレビに写った「第3回日本グランプリ」。
その画面で走る純白のポルシェカレラ6。
そのポルシェを駆ったドライバーが滝 進太郎でありました。
外国人ドライバーとしては、AUTO SPORT誌1967年1月号の表紙を飾ったホンダF1に乗る“ジョン・サーティーズ”が最初であったと思います。

 上の画像は、鮒子田氏がレーシング・ドライバーとして憧れていた“スターリング・モス”とのショットです。
いかにもうれしそうな鮒子田氏。1968〜69年の日本CAN-AMにおいて、CAN-AMシリーズのスポンサー“ジョンソンワックス”のスポークスマンとして来日したモス氏。鮒子田氏はチーム・トヨタのドライバーとして面会していました。

 下の画像は、“ビッグ・ジョン”こと“ジョン・サーティーズ”とデイビィット・クルサードの先輩後輩のショットであります。ホンダRA301を駆ってグッドウッドを走り抜けたサーティーズ。この時代のサーティーズは、最高でありました。
しかし、強制空冷エンジン搭載のホンダRA302(1968年)、ハイウイング付きのCAN-AMカー ローラT160TSシボレー(1968年)、ホンダ撤退後に乗ったBRM P138-139(1969年)、そして、ナロートレット&ド・ディ・オンアクセル シャパラル2H(1969年 チャパラルの方がしっくりいくのですが・・・)らの革新(!?)マシンにより、一番脂の乗り切った時代を棒に振ってしまったサーティーズ。そして、1971年より自らコンストラクターとなり、F1界に参戦したサーティーズ。しかし、時代はすでに過ぎ去り・・・。
サーティーズらしさを最後に見たのは(本当は雑誌上でのことではありますが・・・)、1969年のCAN-AMシリーズ開幕戦と第2戦。シャパラル2Hが登場するまでの純白の代替マシン“シャパラル・マクラーレンM12”でのドライブではないでしょうか。まさに、1968年のベルギーグランプリを彷彿させるドライビングで、常勝マクラーレン勢を抑えてトップ争いを演じ切ったのは圧巻でした。

 ヴィック・エルフォード。
ある意味では、鮒子田氏のレーシング・ドライバー時代と似ているのでないかと私は思いました。
エルフォードは、元ワークス・ポルシェでジョー・シファートとならぶエースとして鳴らし、当時世界に10人しかドライブ出来ないとまで言われたあの“ポルシェ917”を自由に操り、ル・マンでは終盤までトップを独走するなど非凡なところを見せていました。ワークス・ポルシェ解散後は、スポット契約でチーム・トヨタの一員として69年日本グランプリに出場したり、プライベートポルシェ917Kでセブリング12時間に優勝してみせたり、CAN-AMでは、シャパラル2JやAVSシャドウなどに乗ったりと「雇われドライバー」人生を驀進していたのです。
片や鮒子田氏もホンダワークス、チーム・トヨタ時代にはエースとして数々の優勝を飾り、フリー後はアメリカでFA(シアトル大会で、日本人初の3位入賞を飾る)、Tran-am参戦、AVSシャドウのテスト走行、ル・マン初挑戦(日本人初)、F1グランプリ挑戦、そして、CAN-AM(MAC'S IT SPECIALでラグナセカの予選を走るがマシントラブルで決勝進出はならなかった。)など、これまた雇われドライバー人生を経験しているのです。

 ジム・ホール&シャパラルorチャパラル
テキサン。石油王。テンガロンハット。テキサス・ロードランナー。ラトルスネイク。オートマチック。フリッパー。ド・ディ・オン・アクスル。Sucker Car。COX。ナッソー。セブリング。ニュルブルクリンク。BOAC。ラグナセカ。タイムズ・グランプリ。ハップ・シャープ。ロジャー・ペンスキー。フィル・ヒル。マイク・スペンス。ジョー・ホニエ。ジャッキー・スチュワート。ジョン・サーティーズ。ヴィック・エルフォード。そして、サンディ・ホール・・・。

 


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Special thanks Hiroshi Fushida & Toyota Motorsport.