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◆ しののめ会誕生物語 ◆

 

このページは、社会福祉法人しののめ会誕生の物語です。法人の運営理念の原点が随所に記されています。長文になりますが、じっくりとお読みください。

【注意】標準設定のフォントサイズ、用紙A4サイズで5ページ前後の文量になります。

 

【タイトル】 社会福祉法人しののめ会設立までの道のり 【タイトル】

 

社会福祉法人しののめ会
創設者・理事 亀田 好子 (かめだ たかこ)

 

私の父は、国鉄職員でした。家庭の事情があり東京から前橋(群馬県)に戻り、父の弟と一緒に材木商を営みましたがうまくいかず、私の母の唯一の財産であった東京の荻窪の土地を売り払い、借金返済に充てたそうです。

その後、父は材木関係の仕事に就いたようでしたが、私が物心ついたときには家具屋の長距離トラックの運転手となって私を育ててくれました。

私は母を見ていて、一生涯仕事を持つ人間になろうと思いました。夫に左右されることなく、自分の人生を切り開き、経済的にも精神的にも自分で自分の人生を決めてゆきたいと思いました。

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私の母も働いていたので、3歳から保育園に入園させられました。私は集団に馴染めず、常に一人ぼっちで過ごしていたのを、おぼろげながら覚えています。保育園が大嫌いで一人で帰宅してしまったこともありました。私が保育園を始めたのは、子どもにそんな寂しい保育園生活をさせないような保育園をつくろうと思ったからかもしれません。

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私の祖父は教師でした。私も将来は公立高校に行って公立大学に行って、教師になろうと決めていました。しかし、高校入試に失敗してしまい、私立高校入学を決めた時、私は高校生活にかかる必要な費用は、自分で働いて稼ぎ出し、親の負担を少しでも軽くしたいと思いました。

高校一年の春からは朝刊の新聞配達をしました。これは、私の健康法の一つとして今でも続いている「早寝・早起き」につながるものとなりました。学校から帰宅すると小学生を集め、週2回の学習塾を始めました。土日は自宅近くの蕎麦屋でアルバイトをしました。私が調理師資格を受験する際、この時の蕎麦屋のご主人が在職証明書に印を押してくれたので、受験することができました。

今日の「喫茶とも」にはなくてはならない調理師資格と食品衛生責任者の資格は、高校時代からの積み重ねが、たまたま役に立ちました。

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私は高校を卒業後、短大に進学しました。新聞配達は短大を卒業する時まで続き、高校の修学旅行の時に休んだ日以外は毎日続けることができました。そして、新聞配達をやめる時は退職金をもらうことができ、毎日続けることの大切さを実感しました。

一方、塾のほうは短大在学中には100人近くになっていたので、短大卒業後はこれを開業しました。30年前ですと、昼間遊んでいると何か恥ずかしいものがありました。そこで、昼間何かをしようと探していました。その時に舞い込んできたのが、県立群馬学院の教科講師の手伝いの話でした。

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その当時は教護院といいました。12歳以下の刑法に触れた子どもたちが、児童相談所より措置入所として送られて来るところです。私は、週3回、英語の講師として、中学1年生の午前中の授業を受け持ちました。教科書は古いものが使用されていました。授業中、急に教室から外に行ってしまう生徒がいたり、大声を出す生徒がいたりして、なかなか授業にはなりませんでした。

私の同期に女性の美術の教師がいましたが、生徒の授業態度のあまりの悪さに涙を流していました。私のほうは逆で、自分の気性が生徒たちと合ったのか、ここの生徒との出会いが私の人生を決めることになりました。

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教護院に入所してくる子どもの多くは、家庭に問題がありました。母親が風俗関係の職業に就いていたり、両親がテキ屋であったりして、子どもの面倒を見られない状況でした。もし家庭が落ち着いていたのなら、ここには決して入所してこなかったと思われる子どもたちばかりでした。

彼らに将来の夢を聞くと、「看護婦さんになりたい」「保母さんになりたい」「バスの運転手になりたい」と、みんなが希望に向かって答えてくれました。しかし、実際はやはり水商売に流れていきました。

当時の生徒の中の一人とは今でも年賀状のやり取りがあります。彼女は3人の男の子の母親となり、運転手のご主人と仲良く暮らしているようです。本当によくがんばってくれたと思っています。

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群馬学院との出会いがきっかけで、「24時間保育園」を開設しました。夜一人ぼっちでほうっておかれた子どもたちが、おかしくなるのは当然だと思ったからです。もしも子どもの様子がおかしくなったら、すぐに家庭に出向き、その子のためにがんばろうと心に決め、昭和52年に「しののめ保育園」を立ち上げたのです。

開設後3年間は無認可保育園として過ごし、45名の子どもたちが、朝7時から夜中の1時まで過ごし、卒園していきました。その後、聖書から「愛の泉よ とこしえに 子らに あふれよ。」という言葉をいただき、「愛泉保育園」として昭和55年4月に認可保育園となりました。

こうして、「社会福祉法人しののめ会」の誕生となりました。

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私は、保育士資格は国家試験で取得しました。保育士としてのマニュアルは全くありませんでした。ですから、いろいろなものを学習し、子どもたちに良かれと思われるものはすべて取り込んだ保育内容にしたいと思いました。

偶然にも故河添邦俊先生の学習会に参加できたり、音楽教育の会に出入りできたり、群馬民間教育の会で学習できたりしました。また、給食も保育の大切な一部と位置づけ、医師の佐藤和子先生の食事についての学習会にも参加しました。絵は新見俊昌先生にお願いして学んだり、「ごっこ遊び」は田川浩三先生の研究について学習しました。こうして、私の保育に対する基本的な方針を定めることができました。

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信念がなければ保育実践をすることは難しく、周りに流されることなく進んでいくことはできないと思います。

この考えは、知的障害者のための通所授産施設(現在:指定障害福祉サービス事業所)「とも」をはじめる時にも通じていました。

当時、県の担当職員の方からは、「作業内容は半年で考え直したほうがよい」と言われ、スタートを切ったのがリサイクル事業でした。

今までの施設のリサイクルの考え方は、缶を集め、それをつぶして売却するとか、新聞やダンボールを回収して仕切り屋に売却する程度だと思われていました。

しかし、私が思い立ったのは、焼却するしかない紙をトイレットペーパーとして再生して、排出事業所にリサイクル品として購入してもらう、「循環型リサイクル」というシステムでした。ここに障害者である彼らが携わり、古紙の回収からトイレットペーパーの製造、販売にいたるまで関わることでした。

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もう一つはペットボトルの回収事業でした。キャップを取り、ラベルをはがし、色の分別などの作業は単調ではありますが、知的障害を持つ彼らには、うってつけの作業であると思えました。

しかし、ペットボトルは廃棄プラスチックに該当するため、簡単には取り扱えませんでした。そのため、専用の施設を建設し、群馬県より一般廃棄物処理施設として許可を受けました。この作業場を「第2とも」として稼動させ、企業から排出されるペットボトルを一日に2.7トンほど処理できるようになりました。

リサイクル事業をここまで展開させるには、ゴミ処理施設の技術管理者資格を取得する必要があるなど、大変だったこともありましたが、頑張ってきました。

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リサイクル事業と並ぶ「とも」の主要な作業は、チーズケーキの製造と販売です。「とも」のチーズケーキは非常に簡単なレシピです。愛泉保育園の子どもたちが日ごろ遊んでいる「粘土遊び」にヒントを得て考え出したものです。リピーターの方もたくさんあり、たいへんありがたく思っています。

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愛泉保育園では机上の勉強は全くしません。園児の多くは、乳幼児期に大切な遊びをたっぷり遊びきる力を身につけて卒園していきます。毎年、東京工業大学や一橋大学などに入学していく卒園児の報告が聞かれます。そのたびに、両親が多忙で朝から夕方まで保育園に預けられていても、不登校児や引きこもり児にはならなかった証なのだと思います。

障害者の彼らも同じです。傍目からは「リサイクルなんて汚いし重労働過ぎる」と見えるかと思います。しかし、重度の障害を持つ彼らにも作業ができるのです。

私は「一日安全に怪我もなく過ごさせていればそれでよし。」といった考え方が嫌いなのです。彼らは回収に行ったり、日を変えてチーズケーキの販売にも行くのです。交通事故にあったこともありました。しかし、その時は全力で誠意を尽くして対応してきましたし、これからもそうしていこうと思っています。

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「とも」は定員20名の小さな授産施設(現在:指定障害福祉サービス事業所)です。今年(平成15年)の売上目標額は5千万円です。現在、リサイクル事業に対しては、全く営業活動をしていませんが、国内でも一流の企業から、たくさんの古紙やペットボトルの仕事をいただいております。チーズケーキも今年度(平成15年度)は、広島県まで販売に行きます。職員と利用生とで1週間販売してきます。

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私は何もないところから作り出すことが好きです。

保育園の仕事も、早寝・早起き、朝の散歩を奨励し、朝のダイナミックな遊びの保障と午前昼寝の実践、授産施設(現在:指定障害福祉サービス事業所)においても、障害者だからと社会に甘えることなく、重度障害者らも関われる仕事を見つけ出し、高い売上を目指すことこそが、真のノーマライゼーションだと思うのです。

口先だけでなく、実践することこそが大切なことだと強く思うのです。

 

【掲載日】平成15年10月13日

(表記一部変更:平成20年8月31日)

 

【関連サイト:外部リンク】

【ブログ】元気・元気・元気・亀田たか子

 

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