日中の体制の違いとコミュニケーションギャップ

                                 2015.2.8 杉本勝則


 日中間には様々なコミュニケーションギャップがあり、それが日中関係を悪くしていると言われている。確かに、日々報道されているニュースや記事を見ているとそこにはコミュニ―ケーションギャップから生じていると思われる数々の問題点が存在しており、このギャップの解消が何よりも重要だと思われる。
 コミュニケーションギャップは様々な理由で生じるが、筆者は、体験的に文化・伝統に起因するものと制度・体制に起因するものがあると思う。そして、筆者自身、今回、中国での生活を始めるまでは、日中間には両国の文化や伝統の違いによるコミュニ―ケーションギャップが多く存在し、どちらかと言うと、これが日中間相互の誤解を生み、日中関係を悪くしているのではないかと思っていた。
しかし、語学留学生として実際に北京で1年以上暮らしてみて感じたことは、こと庶民の生活環境においては、近年、この文化・伝統の違いによるコミュニケーションギャップは急速に縮まっているのではないかと思うのである。言い換えれば日本人・中国人間の文化的違和感が少なくなってきていると感じるのである。筆者の中国語会話力がこのギャップの違いを理解するほどに達者でないのがその主原因なのかもしれないが、留学生として付き合っていた90后の20歳前後の中国人学生たちは日本の学生と比べて違和感を感じないし、客員教授として付き合っている先生方にしても若い世代の先生が多いのであまり違和感を感じない。勿論、中には生き馬の目を抜くような人物や時間や約束にルーズな人もいるが、これとても程度の差はあれ日本にも居るし、北京のような大都会に住み、グローバルスタンダードの影響を受けている人達に極端な例を見ることは少ない。
 筆者が学生たちと接していて感じるのは、文化面というよりもジェネレーションのギャップなので、若い日本人留学生たちだと中国人学生とのコミュニケーションギャップは更に少ないのではないかと思う。実際、留学してきたばかりの日本人留学生も直ぐに中国人の友達ができているようであるが、どうもそのカギは日本・中国の学生ともに同じアニメを見て育った世代であることにあるようである。

 筆者の体験した例を紹介すると、中国では、私のような年長者は若い人たちと接する時は必ずご馳走(奢る)しなければならない文化があり、割り勘などもってのほかと教えられて中国に来たが、いざ学生にご馳走しようとすると支払いは割り勘(AA制)でさっさと払ってしまうし、(いくらなんでもこちらのメンツもあるので、初回は私の奢りにしてもらったが)大学の先生たちとの会食でも、招待の形を取らない限りは、当然の如く最初から割り勘であった。
 また、中国の伝統として3回固辞してから受け入れるということが言われており、以前はこれが普通であったように思うが、今の若い世代の人たちはこんな面倒なことはしないようである。一回目は辞退しても、二度目には受け入れてくれるようである。
 筆者の体験が、大学という上下関係の少ないところであり、また、学生という自由気ままな世界であったのかも知れないが、何度か30~40歳代の中国人グループと会食した時も同様だったので、これが若い世代の流儀ではないかと思う。もっとも、これは、北京等の先進的地域に限られ、地方に行くとまだまだこの様な風習は残っているようであるし、お年寄りの世代では健在であるようである。しかし、かつて日本が貧しかった時代には日本でも同様の習慣があったし、豊かになるにつれ、この様な習慣はなくなってきたので、中国に於いても豊かになり、グローバル化が進むにつれこの様な文化・伝統的な違いに起因するコミュニケーションギャップは縮小していくものと思う。

 文化・伝統的なコミュニケーションギャップは、これが在ったとしても私人間の問題で終わることが多いし、ギャップの現場に出くわせば比較的認識は容易であるが、これから述べるような制度・体制の違いに起因するコミュニケーションギャップは、各々がその違いを学習等を通じて意識的に認識しなければそこにギャップがあることすら認識できないものであるだけでなく、そのギャップによって国家と国家の争いに繋がるものなので相互にその存在を認識し、このギャップを埋めることに努めなければならないものである。

 例えば、日本では国会議員は時に選挙民の受けを狙った無責任な発言や過激な発言、派手なパフォーマンスをマスコミ向けに行っているし、また、総理大臣は微妙な問題であっても国会で質問されれば、答弁技術の問題はあるが、これに答えざるを得ず、その内容は国会中継等を通じて国民に知らされている。そして、この総理答弁の揚げ足取りや、一部分だけを歪曲した質問も行われ、これが報道されることも日常茶飯事行われているが、国民のほうもこのことを承知の上で政治家を見ている。では、中国ではどうかと言うと、国会議員に相当する全人代の議員が勝手に無責任な発言、パフォーマンスを行うことはないし、そもそもそのような人物は全人代議員になれない。また、総書記が公の場で揚げ足を取られたり、質問攻撃を受けることは、まず、無いし、あったとしてもそれは報道されない。そして、中国の人民は政治家とはそのようなものだと理解しているし、全人代の議員が過激な発言をしたときは、それは個人としての発言ではなく党の方針に従っているだけだと理解している。

 そこで、全人代議員に相当する日本の国会議員が、個人的に無責任、過激な発言をしたら日中両国民・人民はこれをどのように受け取るであろうか。日本では多くの国民が、また、無責任な発言をしていると受け流すであろうが、国会議員を全人代議員と同様な存在とみている中国人民は、この国会議員の発言は上からの指示によるものであり、これは日本政府の方針であると受け取るであろう。ここに日中間での致命的なコミュニケーションギャップが存在する。
 また、総理の発言についても発言趣旨とマスコミ報道が異なる場合でも、中国ではマスコミは政府方針を伝えているだけなので、マスコミ報道を聞いた中国人民はそれは一国を代表する総理の方針だと受け取るであろう。

 実際、筆者はこのような場面に何度も出くわしている。会議や宴会の席で、ある国会議員の発言が話題になった時、彼らから、その発言内容は日本政府の方針なのかとの詰問から始まって、筆者がそれはその議員の個人的立場であるといくら説明しても理解してもらえず、挙句の果てには、あなたは国家公務員なのだから、この議員と同じ立場なのかと糾問されたこともある。また、筆者は、国家公務員であったが、立法府の職員で政府職員とは立場が異なるのだが、このこともなかなか理解してもらえず、日本政府を代表して?弁明に追われたこともある。この立法府職員と行政府職員の違いについては、日本に留学経験のある学者からも糾弾されたので、彼らにとっては全く理解できないことなのかも知れない。
 また、総理の発言についても、2012年9月の尖閣国有化問題のデモの最中、筆者は、駐中国日本大使館向かいのホテルで中日関係史学会とのシンポジウムに出席していたが、中国側関係者との個人的な会話の中で彼があまりにも深刻な顔をして「本当に日本は戦争する気なのか」と問われたので驚いてその理由を尋ねると、野田総理が国会答弁の中で3度も自衛隊のことについて言及していたからと答えた。この総理答弁が彼のところにどのよう伝わったのか分からないが、日本の国会ではあらゆる場合を想定した質問が行われ、それに総理が答えているので自衛隊についての何らかの言及があったのかもしれない。しかし、その主旨から日本人なら当然それは戦争を前提にしたものでないと理解できるものが、中国ではそのように受け取られない可能性もあるのである。彼らにとって総書記が人民解放軍について言及したときは戦争の覚悟を固めた時と受け取り、これを日本の総理にも当てはめて理解したかもしれないのである。
 斯く斯様に日中間では同じ現象を巡ってもお互いの受け取り方が異なるのである。このことを我々はまず理解しなければならないのである。コミュニケーションの前提となる基礎の部分が日中では異なっていることを知らなければならないのである。
 よく、日中間では、相互理解と言う言葉が常套句として使われているが、日中間の交流が緊密になってきた現在では、理解していたつもりが、それが誤解であったことを知る必要がある。相互理解ではなく相互誤解を如何に防ぐのかが最大の課題なのである。そのためには体制の違い等、日中間の相違点をお互いがよく知り、理解することが何よりも重要になってきているのである。好むと好まざるとに関わらず日中関係はそこまで進んできているのである。