体制の違いと相互誤解

                          杉本勝則

 経貿大に留学している日本人留学生に中国のどこが好きかを聞いたところ、彼の答は「自由なところ」であった。あまりにも意外な答えに、思わずエッと叫んでしまったが、彼の言う、日本では「あれをしてはダメ、これをしてはダメと色々周りが五月蠅いし他人の目を気にしなければならないけれど、中国では自分がすることに誰も文句を言わない」から好きという答えを聞いて筆者にも大いに納得するところがあった。

 また、友人のジャーナリスト、彼は主に欧米畑だったので中国について勉強するため北京に来ていたが、彼は「日本には制度としての言論の自由はあるが、自主規制だの空気が読めないなど、果たして本当に自由があると言えるのか疑問に感じることがある。これに対し中国では制度としての言論の自由はなく報道統制も行われているが、ネットやメール網(微信)を通じて多くの人がいち早く事実を知っているし、また、報道の自由がない分だけネット情報に重みがある。自由と言うものについて考えるいい機会になった。」と話していた。日中の体制の違いについて考える時、筆者は、前提としてこのことを指摘しておきたい。日本マスコミの中国報道にはあまりにもステレオタイプの報道が多く、このことが日本人の中国に対する認識を歪め、将来に向けて大きく国益を害する事態ともなっている。関係者(特に編集に当たる方たち)にはよく考えてもらいたいところである。

 筆者は、30年以上にわたり国会と言う議会制民主主義の殿堂で働いてきたので、民主主義に対しては揺るぎない信念を持っているつもりだが、反面、数多く見てきた現実から議会制民主主義に対して幻想は抱いておらず、これを人類が生み出した最高の英知だとも思っていない。W.チャーチルの言うように、民主主義は「これほどひどい制度はないが、これよりマシな制度を見つけられない」だけのことであり、「絶対権力は絶対に腐敗する」というサガ(性)から人類が逃れられない限り、この制度を続けるしかないだけの話だと思っている。従って、中国の国家体制を見る時も日本、欧米流の制度を絶対最高のものとして、これを一方的に否定する気にはなれないし、ましてや、人間らしい生存と言う絶対的価値は存在するにしても、価値相対性を本質とする民主主義において、自分たちにとって都合の良い価値観を絶対視することをもって民主的とするようなやり方(価値観外交等)には、到底馴染めないのである。

これらのことを前提に、これから中国の現体制について筆者なりの考えを述べていくが、まず、中国は、中華人民共和国憲法の前文にしばしば出てくる「中国共産党の指導の下」という言葉のとおり、憲法を超える存在として共産党が存在し、これが中国と言う国家を支配する一党独裁の国家体制を採っている。この点が、国民自身が代表者を選び、国民自身が制定した憲法が最高法規であるとする(このことを法律の世界では、治者と被治者の同一性と言っている)日本国憲法と大きく異なるので、この憲法の下で育った現在の日本人としては、中国の体制は何とも理解し難いものなのである。では、これをどのように理解すれば良いのか。ここでは筆者が中国に住んでみて感じたことを独断と偏見を承知の上でご紹介してみたい。

先ず、実際に中国で暮らして感じたことは、変な言い方かもしれないが中国歴代王朝下での生活、例えば、唐の太宗の時代、清の康熙帝等の時代もこんな風だったのかなと思ったことである。地方に行けば、○○人民政府の上に必ず中国共産党と書かれた看板に遭遇するし、大学においても共産党委員会があり、学長、学部長の上には党書記が存在し、基本方針を指導している。政府組織にしてもその上部には共産党組織があり、これが政府組織を指導している。中国がこのような政治形態をとったのは、共産主義革命と言うイデオロギー主体の革命を実現するために必要だったからであるが、イデオロギーを抜きにし、支配体制としてだけ考えると中国3,000年の王朝支配の歴史とそう変わらない体制を採っているのであり、それであるがゆえに今もって中国では共産党支配が受け入れられているのではないかと思うのである。

つまり、過去の王朝においては皇帝という絶対権力者がおり、その下で国家が形成されていたが、今は、これが共産党と言う支配組織に変わっただけだと考えると現在の中国がすんなりと理解できるし、また、そこで暮らす老百姓(庶民)たちはどうなのかと言うと、自分たちの生活に危害が加えられない限りはこの権力に逆らうことなくその支配を素直に受け入れているが、実際やっていることは禁止事項(明文化されているとは限らない)以外は好き勝手にやっているし、意に沿わない支配に対しては「上に政策あれば、下に対策あり」と言われるように表面上は支配に服従しながら、如何にして自分たちの利益を守るかに汲々としている。考えてみれば、これは、中国3,000年の王朝の歴史の中で繰り返されてきたことであり、特に共産党政権になってから始まったことではない。そして、歴代王朝では、社会が行き詰まり、皇帝が老百姓に危害を加え始め老百姓がこれに耐えきれなくなった時に反乱が起こり、信頼を失った皇帝は天意を失ったとして当該王朝は滅亡し、新たな王朝が生まれるのである。

勿論、新中国になり皇帝主体の王朝制度は打倒され民主中国が生まれたのであるし、中国共産党員は現在では、8,500万人もいて(国民の15人に一人)、どこまでが支配層でどこからが被支配層かは簡単には区別できないが、国家の体制を支配(指導)と被支配(被指導)と言う単純な関係で見てみると、中国共産党が指導する中国はこの3,000年の歴史を現在も脈々と受け継いでいるのである。そして、現在、反汚職対策など中国共産党が必死に自己改革を示し、反面、統制を強めているのも歴代王朝の行く末の歴史をよく理解しているからである。

中国共産党と一般庶民との関係についてみると日本では政党の党員になるのには会費さえ払えば比較的簡単になれるが、中国では生まれる以前のことから記入される個人の活動記録(档案)の中で共産党員として相応しいとされた者でないと党員になれない仕組みである(資本家の入党も認めるようになり、どこまでが相応しいのか曖昧になっているが)。つまり、国家を指導する共産党員としての考えを同じくし、相応しい者を個別的に共産党員として選別しているのであって、住民の民主的投票によって党員を選んでいるのではないのである。もちろん現代中国では歴代王朝のように少数の支配層が被支配層とは異なる官衣を着て歩いているようなことはないので、大学構内を歩いていても誰が共産党員で誰が非党員かは外国人である筆者には分かるはずもないが、前述のように大学では、学長の上には党書記が存在するし、掲示板には普段はブルー系統のパネルで大学の学内行事等が紹介されているが、時に同じ掲示板に鎌と槌の紋章のついた赤系統のパネルで大学の共産党委員会の活動報告が行われている。これなどは日本人の感覚からすると、なぜ、公的な大学の掲示板で政党の活動報告をするのかと文句の一つも言いたくなるが、中国人学生たちは別に気に留めている様子もないし、また、熱心に読んでいる学生も見かけない。

 共産党について言えば、今回、中国で聞いた話の中で一番面白いと思ったのは、中国では上に行けばいくほど民主的であるという話である。そういえば中国では庶民層には政治談議は別として制度的に投票することで民主的に社会を変えていく手段は与えられていなし、そのための情報も制度的には得ることが難しいが、共産党内部では上層部に行けばいくほど豊かな情報の下で、政治、政策方針を巡って活発な議論が戦わされているようである。また、共産党としての独裁はあるが、一人の独裁者が好き勝手に振舞える体制でもないので、皇帝独裁の歴代王朝と異なる民主主義的な体制も採られている。ただこれが、一般国民の世界と切り離されている点で、治者と被治者が同一である日本の体制と異なるのであり、このことが日中間で多くの誤解を生んでいると思うのである。そこで以下に筆者が体験したこの誤解の中で最も重要だと思うものについて述べていく。

日本では国会議員は時に選挙民の受けを狙った無責任な発言や過激な発言、派手なパフォーマンスをマスコミ向けに行っているし、また、総理大臣は微妙な問題であっても国会で質問されれば、答弁技術の問題はあるが、これに答えざるを得ず、その内容は国会中継等を通じて国民に知らされている。そして、この総理答弁の揚げ足取りや、一部分だけを歪曲した質問も行われ、これが報道されることも日常茶飯事行われているが、国民のほうもこのことを承知の上で政治家を見ている。では、中国ではどうかと言うと、国会議員に相当する全人代の議員が勝手に無責任な発言、パフォーマンスを行うことはないし、そもそもそのような人物は全人代議員になれない。また、総書記が公の場で揚げ足を取られたり、質問攻撃を受けることは、まず、無いし、あったとしてもそれは報道されない。そして、中国の人民は政治家とはそのようなものだと理解しているし、全人代の議員が過激な発言をしたときは、それは個人としての発言ではなく党の方針に従っているだけだと理解している。

そこで、全人代議員に相当する日本の国会議員が、個人的に無責任、過激な発言をしたら日中両国民・人民はこれをどのように受け取るであろうか。日本では多くの国民が、また、無責任な発言をしていると受け流すであろうが、国会議員を全人代議員と同様な存在とみている中国人民は、この国会議員の発言は上からの指示によるものであり、これは日本政府の方針であると受け取るであろう。

また、総理の発言についても発言趣旨とマスコミ報道が異なる場合でも、中国ではマスコミは政府方針を伝えているだけなので、マスコミ報道を聞いた中国人民はそれは一国を代表する総理の方針だと受け取るであろう。

実際、筆者はこのような場面に何度も出くわしている。会議や宴会の席で、ある国会議員の発言が話題になった時、彼らから、その発言内容は日本政府の方針なのかとの詰問から始まって、筆者がそれはその議員の個人的立場であるといくら説明しても理解してもらえず、挙句の果てには、あなたは国家公務員なのだから、この議員と同じ立場なのかと糾問されたこともある。また、筆者は国家公務員であるが、立法府の職員で政府職員とは立場が異なるのだが、このこともなかなか理解してもらえず、日本政府を代表して?弁明に追われたこともある。この立法府職員と行政府職員の違いについては、日本に留学経験のある学者からも糺されたので、彼らにとっては全く理解できないことなのかも知れない。

また、総理の発言についても、20129月の尖閣国有化問題のデモの最中、筆者は、駐中国日本大使館向かいのホテルで中日関係史学会とのシンポジウムに出席していたが、中国側関係者との個人的な会話の中で彼があまりにも深刻な顔をして「本当に日本は戦争する気なのか」と問われたので驚いてその理由を尋ねると、野田総理が国会答弁の中で3度も自衛隊のことについて言及していたからと答えた。この総理答弁が彼のところにどのよう伝わったのか分からないが、日本の国会ではあらゆる場合を想定した質問が行われ、それに総理が答えているので自衛隊についての何らかの言及があったのかもしれない。しかし、その主旨から日本人なら当然それは戦争を前提にしたものでないと理解できるものが、中国ではそのように受け取られない可能性もあるのである。彼らにとって総書記が人民解放軍について言及したときは戦争の覚悟を固めた時と受け取り、これを日本の総理にも当てはめて理解したかもしれないのである。

斯く斯様に日中間では同じ現象を巡ってもお互いの受け取り方が異なるのである。このことを我々はまず理解しなければならないのである。

よく、日中間では、相互理解と言う言葉が常套句として使われているが、日中間の交流が緊密になってきた現在では、相互理解ではなく相互誤解を如何に防ぐのかが最大の課題になっている。そのためには体制の違い等、日中間の相違点をお互いがよく知り、理解することが何よりも重要になってきているのである。好むと好まざるとに関わらず日中関係はそこまで進んできているのである。