大山街道活性化推進協議会の歴史

 大山街道活性化推進協議会が発足したのは2003年5月、2004年2月に初回の大山街道フェスタを実施し、2013年2月の実施で10回を数えるようになっている。ここで、概括的に記述を整理し直しておきたい。

  1. 大山街道活性化推進協議会が発足し、早速問題点の整理が開始された。その中で「人気(じんき)」と言う言葉を発した人が居た。人の気持ち、人の気配、人気(にんき)などを総合する言葉として発したのであろう。大山街道は昔は商工業者が軒を連ねていたが、徐々に事業者も減り、戦後のモータリゼーションで狭い通りに車も増え大型のバスも通るようになり、このようなことで通行する人も少なくなり、と言う有様になっている。
     この街道を訪れる人が、一時の渋滞を見て「この街道は賑やかですね」と言うのだが、私は「いや、信号間隔やJRの踏切問題での渋滞で車の通過台数は決して多くはないのです」と応じている。

  2. 問題整理を終え、対策を考える中で、「フェスタ」をやろうというコンサルタント提案があり、賛同を得て、翌年2月に実施することになった。トップページに示したように、この地域では様々な行事があり地域の人(中心は商工業者)はそれらに追われて、この月しかやる時期がないと言うのが2月実施の理由である。後からの参加者から何度も「寒いときではなく他の月は?」と問われるのだが、こんな理由から決まっているのである。

  3. 仕方がないことだが、地域はドキュメンテーション能力が低く「大きなこと・難しいこと・新しいこと」を一挙に立ち上げる能力に欠けるのだが、コンサルタントがついており、実施項目・実施体制や個人別役割分担・イベント配置図・工程表などを精緻に作成した結果、それによる動きの徹底などがスムーズに行われ、準備もスムーズ、問題なく初回を終えることになった。最初のことであり予算もないので初回だけは区役所からある金額の補助をいただいた。
     行政やコンサルタントは、とにかく成果が早く目に見えるものを狙う。異動などで任期が決まっているからであろう。フェスタ実施にはこんな理由もあったはずである。

  4. 3回の実施までコンサルタントが継続して付いており、きちっとしたドキュメンテーションの元に実施された結果、協力者達にはそれが身体に染みつき、以降はドキュメンテーションは一部の存在だけで済むようになり、現在に至っている。

  5. 3回目の実施準備を前にして、町方の数人が集まったときに(この街道には高津区民祭もあり)「ただ賑やかしを増やし継続していても意味がないのではないか」と言う話となり「地域のふれあいが、ここからはじまる 大山街道フェスタ」とすることとなった。5年ほどして、パリで実施され欧州や世界に拡大している「隣人まつり」を聞くことになり、こちらの方が早いと半分思いながら更に「高津の隣人まつり」を冠することになった。

  6. 実施場所は、当初は「高津図書館前の溝口緑地、大山街道ふるさと館、南公園」の3個所だった。これでは溝口地域に偏る、そこで数年後に二子神社が追加されることになった。さらにその後、溝口神社が追加されることになった。今は、さらに飯島金物店前が追加され、南公園はなくなっているが「5個所での実施」が定常化している。
     1回目の実施後、もっと拡大しよう、という意見も出たのだが「まちの働き手を考えると、拡大は慎重に」と言うことで様子を見ながら拡大は自然な範囲で、となった。商工業者が徐々に減るだろうということは目に見えており、全面的に彼等に依存しては拡大も継続もできないのは明かであり、神社関係は溝口や二子の町会が主体となった運営をお願いすることになった。
    特徴的なのは、コンサルタントやイベント業者にほとんど依存することがない「地域の人の手造りイベント」ということであり、これは貴重な事と思う。

  7. 当初は、コンサルタントや区役所の事務能力に依存していたのだが、それを継続することは出来ないので、3回の実施後からは事務は原則大山街道活性化推進協議会引き取り方針を進め、現在の体制は委員長・事務局長・全体会計・会計監査・各場所(場所責任者・場所会計・情報担当)となっており、場所独立型の分散実施となっている。役員の負担を最大限に分散するためである。

  8. やってきてよかった、と思うことであるが「近場の人と深く知り合えた、隣の町会の人と知り合えた」などと聞くことである。

  9. 忙しい日常を割きながら、準備や実施で苦労している委員長をはじめとする人々への理解と協力を益々お願いしたいと思っている。