会の歴史

年度で
西暦
(邦歴)
溝口大山街道振興会
(旧:溝口大通り商店会)
関連団体・関連活動 《最近の会の流れ》
2015 (H27) 街路灯のLED化完了(6月) 大山街道フェスタNo.13
  1. 当会は2003年度までは「溝口大通り商店会」と言う名称であった。同じ街道にある二子大通り商和会とは隣同士なのに交流もないと言うことで、1990年代半ばから交流会を持ったり、区民祭のスタンプラリーなどを共同して行い、良好な関係にあった。それは今も続いている。両会の防犯灯の形状が同じなのも「同じ街道なのだから」と、更改を先行した当会に二子大通り商和会が合わせていただいた結果である。
  2. 当会では1990年代後半には、KJ法などを使って「街道の問題点」などを整理して、役員達は街道の問題点を共有していたのだが、先に進む方策も見出せず、手をこまねいているだけであった。
  3. 2000年度(H13)に入り、川崎市まちづくり局より「街道に対して何かやりませんか」と言う打診があり、当会も街道を何もしないまま放置出来ないとの思いから、市とのその後の協働活動を実施することにした。この結果、市の政策課題の一つとなり「歴史を生かしたまちづくり手法の検討〜大山街道をケースとして〜」の調査や検討が行われ取りまとめられた。
  4. 2001年度は、具体的推進のための予算獲得準備などが市で行われ、2002年度半ばに予算が確定し、2002年秋から設立準備を開始し、2003年5月の大山街道活性化推進協議会発足となった。
  5. 2003年度末(2004.2)には大山街道フェスタが実施され、毎年同じ時期に継続されることになった。また、2004年度末(2005.2)には大山街道景観形成協議会が発足し、2006年2月には溝口の景観条令実施、3年度には二子にも同条令の実施などとなった。
  6. 2003年度までは、主体性は溝口大通り商店会が持ち、6つの水銀灯会との合同で水銀灯など環境維持をしていた。景観条令の推進に当たって、この体制は非常にやりにくい、こんなことで、2004年度当初から、会を「街道に面する人全員参加の溝口大山街道振興会」に統合し改組した。
  7. これら活動は、あくまでも民主導・行政支援のものが建前である。市としては「民主導でここまでやっていて、行政プランがないのもおかしい」と言うことがあったのだろう。市のトップからの指示で、2008年度から大山街道マスタープランの検討が市主導で開始され、実行可能な10年計画が作成された。
  8. この結果、2009年からは大山街道アクションフォーラムが発足した。フェスタはやれる限り継続されるだろうし、景観条令はそもそも終わりなき活動である。
  9. 大昔、この街道は商店が軒を並べていた。商店街による夏の市や歳末の販促活動も実施していた。しかし、鉄道の発展などにより益々駅前中心型に移行している。こんなことから、街道型の商店会は環境面への対応が残ったと言えるのだろう。市による街道調査が2000年であるから、今2013年、14年目に入っていると言うことである。
  10. 今後の課題の基本的なことは「振興会の実質的な活動メンバーが老齢化し減る中で、どのように会を持って行き、街道環境改善への一翼を担い続けるか」だろう。それは土壇場になってドタバタしないために、今後の人に今から考えていただくことがベストだろう。
2014 (H26) 街路灯のLED化準備 大山街道フェスタNo.12
2013 (H25) 大山街道フェスタNo.11
2012 (H24) 大山街道フェスタNo.10
大山街道活性化推進協議会のNPO化(2013.3)
2011 (H23) 大山街道フェスタNo.9
2010 (H22) 大山街道フェスタNo.8
2009 (H21) 大山街道フェスタNo.7
大山街道マスタープラン実施開始、第3地区の側溝舗装
2008 (H20) 大山街道マスタープラン検討
「大山街道 街なみ作法集」の作成
2007 (H19) 振興会としての活動は何もなくなってしまった、と言うことではなく、振興会単独では出来ないより大がかりな活動に移行したため、右欄のように外部の力を借りながら、および二子大通り商和会と一緒に益々難しい地域づくりの中に入り活動をしていると言うことである。 二子の景観条令準備会合開始(2007.4)
2006 (H18) 会長 鈴木敏夫 二子の景観条令立ち上げ準備(2006.8)
2005 (H17) 溝口の景観条令実施(2006.2)
2004 (H16) 溝口大通り商店会から溝口大山街道振興会に改組
事業系ゴミの有料化実施
大山街道景観形成協議会設立(2005.2)
大山協による街道詳細調査(2004.8)
2003 (H15) 事業系ゴミの有料化実施準備(2003.11)
溝口大通り商店会から溝口大山街道振興会に改組準備(2003.9)
大山街道フェスタNo.1実施(2004.2) 以降毎年実施
大山街道活性化推進協議会設立(2003.5)
2002 (H14) 大山街道活性化推進協議会設立準備
2001 (H13)
2000 (H12) 会長 岡野洋貴 市による街道調査「歴史を生かしたまちづくり手法の検討〜大山街道をケースとして〜」
1989〜1999
(H1〜H11)
1999.12 防犯灯更改
1998.08 防犯灯更改準備開始(補助金申請など)
1997.06 規約改定
1997   商店看板設置
水銀灯会が地区毎に6存在していたが、各々の地区内の交流活動主体で、横の連携がなく、メンバーが共通している商店会が防犯灯に関する全体的取りまとめを行っており「金は持たないが、仕事はさせられる」と言うやりにくい状態だった(補助金の申請や更改など)。
  歳末大売り出し、ドタバタ市、などを続けていたが、商店の減少により徐々に中止して行き、1990年代半ばには商店街としての商業的な活動はほぼなくなり、防犯灯の維持管理などが主なものとなっていた。


《街道の商店の大きな流れ》
    今や所々に商店がある大山街道ということになってしまっているのだが、こんな背景は理解しておく必要なあるだろう。
  1. この街道は「矢倉沢往還」と言って、一つの重要な商業街道であった。大山詣での人もこの街道を使った。戦前まではこの方面にはこの街道しかなかった。そのバイパスとして今の国道246号線がつくられた。であるから、街道は246号線に吸収されてしまった部分もあり、また旧道のまま残されている部分もある。我が溝口は旧道が梶ヶ谷まで残されている部分である。
  2. この辺は多摩川の宿場町として栄えたところである。昔は橋もなく上流での取水も少なかった。だから川幅も広く、川が増水すれば渡れなかった。そんなことで、川の近くの二子には旅館があり、溝口に向かって職人が多くなり、溝口には商人が多い、という住人構造となった。その名残は今でも雰囲気に残っている。こんな時代には、多摩川から溝口までには商工業者が軒を連ねていた。
  3. 二子橋が完成した。二子橋の完成は旅館を不要なものにした。その後走った電車は東急電鉄大井町線で大井町から二子玉川を経由し溝口というものであった。渋谷と二子玉川間には玉電という輸送能力が低い路面電車が走っていた。
  4. 大井町線は徐々に長津田方面に延長された。更に玉電は地下鉄化され、地下鉄化を待って、大井町線は大井町と二子玉川間(今は溝口まで)、渋谷から中央林間が田園都市線となった。また、電車の相互乗り入れも開始され(車庫がターミナル駅からなくなり別の活用ができる利点がある反面、事故などの影響が広範囲に及ぶ欠点がある)、乗換なしで広範囲に結構なところまで行けるような電車になっていった。
  5. 橋が出来れば、増水で宿を必要とした人も減り、旅館が衰退する、旅館が衰退すれば、必要な職人も減り、商人も減るとなりがちであるが、首都圏への人の集中は続いているので、職人や商人に直ちに訪れた影響は少なかった。
  6. 戦後であるが、スーパーが出始めた。これは日用品の物販商人に影響を与えはじめた。しかし、これを上回る人口の増加が、大井町線や田園都市線、JR南武線のおかげであり、物販商人は何とかやって行くことが出来ていた。スーパーがなければ、多くの商人がもっと生き長らえたであろうが、商人がスーパーまでカバーできるとは思えず居住者は不便でもあっただろう。
  7. 商人の本格的な衰退が顕著になったのは、1990年代に大店法が廃止された頃からである。総合の物販販売大型店が一層進出することになり、中小商人の衰退が加速し始めた。直接的な衰退切っ掛けになったのは事実だが、後述のその他理由から衰退が少々早まったということだけの影響である。
  8. 2000年代からインターネットが本格的な発展を開始し、総合の物販大型店ですら、その後は専門の物販大型店にダルマ落としのごとく商売を抜かれ、更に専門の物販大型店ですらインターネットを利用した、インターネットによる総合あるいは専門の物販大型店に商売を抜かれ、と言う時代になり、今や余程特殊なものを扱う商売以外は、インターネット(情報)と運搬(宅配など)を上手に利用しなければ生き残れない厳しい時代になっている。
  9. 教育面であるが、昔商店の子弟の多くは「親の後を継げばよい」と教育も程々だったろう。戦後豊かになった商人達は,教育にも熱心になった。優秀な子弟は高学歴になった。社会には優秀性を必要とするいろいろな職業が増え始めた。子弟は家は継がなくなっていった。商人達の継承者不足は単に少子化だけではないのである。小中学校の先生・警察官などの不足問題、それらの女性化も皆高学歴化と職種発展の影響なのである。
  10. 以上のような社会の波の中で、中小の一般的な商人は「資源(人・物・金・情報など)不足」となり、気付く気付かないは別として、まあいくら頑張っても所詮無理という環境が訪れていたのである。
  11. 大山街道は土地所有者による共同住宅化が進んでいる。二子新地・高津・溝口と駅に近い環境を利用し、商工業者が「大家さんへの職種転換をしている」と言っても過言ではない。商売を続けている人も、これにより補い続けている人が多い。
  12. とは言え、商店街は街道に面しており街道の管理には関係がある。それで「環境作りの一翼を担う」となるのである。ところが、以上のようなことを理解しないで行政を含む周辺から「活性化!活性化!」と言う働きかけがいつまでも来る。組織としての学習能力がないので、人が変わればまた来る。また、無駄遣い・仕事づくりをしている、と腹が立って仕方がない。