ピアノの鍵盤は実によくできている。
 唐突にこんなことを言うのは、先日それを思い知るできごとがあったからである。
 どこがよくできているか。
 それはある値以上の力がある速度以上で加わらないとハンマーが弦を打たない、という点である。指あるいは手首から先の重さを静かに乗せただけではいくぶんか沈むだけだし、そこからさらに押し込んでもこぶのようなものを通過した感覚があるだけで底まで達してしまう。何かの意思をもって指をおろしたときにだけ、鳴る。ともすれば感情を持った生き物のように思えるほどだ。この、ピアノ弾きにとっては当然のことになってしまっている「ある重さまでは黙って受け止める」という点が、じつはピアノ鍵盤の最もすぐれた仕掛けなのではあるまいか。
 動きをハンマーに伝える部分の複雑な構造にくらべて、これは梃子の原理そのもの、つまり指の重さに見合うだけの鉛を支点の反対側に埋め込むだけのことなのだが、この絶妙な重量バランスを考え出した人はえらかったというしかない。
 「鍵盤が受け止めてくれる」という感覚を、われわれは鍵盤の「重さ」と言い表す。
 ピアノ弾きは、ピアノ・チューナー(調律師)に対して「重い」とか「軽すぎる」とかこまごまと注文をつけて調整してもらうのだけれど、決して「無重量にしてくれ」とは言わない。その理由はこれから明らかになる。

 先日私は好奇心に駆られて<チェンバロでジャズ曲を弾く>というソロ・コンサートをやってしまった。
 チェンバロをはじめて弾いたのは、いや触ったというほうが正確かもしれないが、かなり昔である。放送局の廊下に、グランドピアノのような、しかしそれよりかなり小振りな脚付きの細長い木の箱が置いてあった。アンティークの書き物机に似た斜めの蓋を上げると、ピアノとは逆の、白鍵が黒く黒鍵が白い二段鍵盤があらわれた。たしかNeupertという名だったように記憶している。ふ〜ん、これがチェンバロか、と無造作に一音ニ音弾いたら、「あ、それさわっちゃダメ」と用務のおじさんにたしなめられてしまった。
 しかし、束の間であっただけ印象は深く、ほとんど無抵抗になかばまで下がった鍵盤がなにかに当ったと思う瞬間に弦が弾かれる感触は、かなり長い間指先に残っていた。あれはどう形容すれば良いのだろう。マスカットのひと粒を薄手の皿に乗せ、楊子の先で静かに皮を突き通したとき、あるいはザクロの実を前歯で噛んだような、いやはやどうもわがボキャブラリーの貧困さにあきれるが、早い話が、そういったたぐいの「プチッ」なのである。そして、「プチッ」が引き金になって硬質な響きが透過光のように広がる。
 その後、スタジオ・ミュージシャンをしている間に何度かチェンバロに遭遇する機会があった。たいていはレンタル楽器として運び込まれてくるので、鍵盤が一段、音域も狭いスピネット・タイプだ。しかしシンセサイザーが進歩するにつれてそれもあまり見かけなくなった。チェンバロの音色だけに限って言えば、初期のシンセサイザー、たとえばミニム−グでも簡単に作ることができるし、他の楽器のなかに溶け込ませる場合、例の「プチッ」は無いほうが好都合なのである。
 私も何枚かのアルバムでチェンバロを使っているが、すべてシンセサイザーで作った音色だ。
 そのようなわけで、チェンバロは私の周囲から再び中世の暗がりの彼方に去ってしまったかのようだったが、数年前から何となくかかわりが復活してきたところへ、こじんまりした響きの良いホールにチェンバロが置いてある、という耳よりな情報を入手した。
 その瞬間、記憶の底に眠っていたあの指先「プチッ」の感覚がよみがえったのはいうまでもない。「やろうやろう、チェンバロでセロニアス・モンク、チェンバロでデューク・エリントン、チェンバロでカルロス・ジョビン、面白そー」‥‥軽率とワルノリは得意とするところ。
 で、どうなったかって?

 聴きに来て下さった方々は知らず、私に限っていえば近来これほど面白かったことはない。ピアノでは得られないような発想、着想、構想が湧き、弾くにつれて自分が変化して行くのがわかった。つまり私の音楽のなかで「体感」がどれほど重要な役割を演じているか、をあらためて思い知る機会となったということができる。そのような好い事づくめのコンサートのなかで、ただひとつ、大きな落とし穴によって人知れず冷や汗をかくことになろうとは。その原因こそ、ほとんど無重量といえるほどに軽いチェンバロ鍵盤であった。
 「軽くなった分だけ楽だろう」と思うと大間違い。無重量鍵盤は恐ろしいものなのだ。ピアノで弾けていたイージーパッセージが「あれ?」というようなところで転倒する。ポジションを変えようと腕を移動すると指の触れた鍵盤が不用意に鳴る。ここぞ、と狙いすましたリズムのポイントよりも前に音が飛び出す。エトセトラ‥‥
 これらはすべて鍵盤が、使わない指の重さを受けとめてくれないことから起こる。つまり、ピアノなら打鍵する指以外は鍵盤上に「這わせて」おけるのに対して、無重量だとそれらの指が鍵盤を押し込んでしまうのである。
 これを防ぐために手首から先を常に宙づり状態にしておかねばならない。
 それには腕も持ち上げておく必要がある。この状態を10分20分と続けると、自分の腕がいかに重いかを文字どおり痛感することになる。たとえばコンピューターのキーボードをパームレストから掌底を離したままで長時間叩くようなもの、と言えばおわかりいただけるだろうか。この慣れぬ不安定な体勢で、ふところの広いリズムやシャープなラインを弾こうとするのだから、冷や汗も出るはずだ。
 チェンバロとピアノの間にはもっといろいろな溝が存在するに違いないが、とりあえず初挑戦でのこの伏兵には次回でリベンジ。見ておれ。

【初出:『JazzLife』1999年7月号】



 終わり良ければすべてよし。

 曲書きは、なかばを過ぎるあたりから「どう終わるか」を考えなくてはならない。
 一曲よりもっと短いスパン、8小節位の旋律にコードをつけるようなときでも5小節目まで来たら、さきに着地点を決めておいてからさかのぼる、というのが常道だ。
 このことは作曲、アレンジなど音楽だけに特有なやりかたではないだろう。小説、戯曲など構造的な要素が必要な分野では当然のことに違いない。もっと徹底して、「まずラストシーンが浮かび、そこへ向かって書く」と言ったのは三島由紀夫だ。はじめにエンディングありき、である。三島は作品ばかりでなく自分の一生までも、<逆算>で描き切ってしまった。貧弱だった肉体を、何年もかかってボディビル、ボクシング、剣道などを学んで強靱に造りかえたのも、すべてが終幕を形作る準備だったのだ、といわれている。
 もっとも大掛かりな、国同士の争いごと、つまり外交交渉では妥協点、落とし所を見切っておかないと戦争になってしまったりする。その戦争にしても、どこで和平に持ち込むか、を見据えていなければどちらかの国民が根絶やしになるまで続くことになる。
 成立したての明治日本には賢明なリーダーがいたから、日露戦争をあやういところで終結させることができたけれど、昭和の日本は二発の原子爆弾に突き当たるまで暴走を停められなかった。なんのエンディングも構想しなかったためである。

 編曲で考えられる終わりかたにはいくつかのパターンがある。

  1. フェルマータ系:盛り上げ→(通常は)ドミナントのフェルマータ→トニックのフェルマータ、のような形。誰が聴いてもそろそろ終わり、と感じる。コ・レ・デ・オ・ワァァァァァ・リィィィィィィィッ。
  2. カットアウト系:1の最後を短かく切る。コ・レ・デ・オ・ワァァァァァ・リッ、という形。あるいはまだ続くと思われるときに、まるでフィルムが切れてしまったかのように終わる。突然終止ともいう。コレデオッ‥‥‥。
  3. フェルマータ/フェイド・アウト系:最後をのばしつつ消えて行く。オ・ワーー・リーーーーーー‥‥‥、のような。
  4. リピート/フェイド・アウト系:着地しないパターンをくりかえしつつ消えて行く。コレデオ ワ・コレデオワ・コレデオワ‥‥‥。
  5. パターン/カットアウト系:パターンを繰り返しておいてパッと終わる。コレデオ・ワリ・コレデオ・ワリ・コレデオ・ワ・リ、とかコレデオ・ワ・コレデオ・ワ・コレデオ・ワリッ、のような。
  6. 異地点着地系:予想されたところを裏切るような和音で終止する。コレデ・オ・ワ・the End、あるいは、コレデ・オ・終劇、のような。
  7. 不完全終止系:接続詞のような和音で終わる。コレデオワリナンデスガァァァ‥‥、のような。

 ひとりの人間の生きかたも一曲だとすると、エンディングの善し悪しでそのひとの「位」が決まるのではなかろうか。ただし、三島のように行動する、つまり自ら演出しないかぎり、終わりがいつなのか予測できないところが難しい。だからむかしのサムライはどこで終幕に遭遇してもあわてないように日頃から鍛練し、「男子ひとたび家を出れば七人の敵あり」と常に油断なく行動することを求められていた。万一突然の幕切れからのがれようとするような臆病な振るまいがあったときには、「士道不覚悟につき」切腹させられたのだ。そのような規範で生きていることによって、農工商の上に立つ階級として認められていたわけだ。
 現代になると、大部分の人のエンディングはフェード・アウト系として訪れる。もちろん事故、事件というカットアウト系はいつの世にも存在するけれど、日々進歩する医療は、ほとんどの病気による終幕をフェード・アウトの余裕あるものに変えた。
 ただし、その前段階にある発見や発症でのショック、つまり突然の転調までは手が及んでいない。このあたりを、手続きを経た滑らかな転調にできれば、だれにでもおだやかな退場が可能になるわけだ。
 わたしの一曲もとうになかばを過ぎているのだから、そろそろエンディングの構想を練っておかねばならない時期なのだけれど、はて、どのタイプにしようか。
 急にこんなことを考えるようになったのは、日野元彦氏の退場のしかたが、これ以上考えられないほど見事だったからだ。
 よほど修行を積んだ剣豪でも、慌てふためいたにちがいない突然転調の場面で、何の躊躇もなしに「わかった。それならもう治療はしない。オレはできなくなるまでドラムをたたく」と言える胆力を、かれはいつの間に獲得していたのか。とくに禅寺にこもって座禅を組んだという話も聞いたことがないのだから、あの覚悟は長い間の音楽との真剣勝負によって培われたものに違いない。そして彼はそれを少しの迷いもなく実行したのである。
 そのようなエンディングを目のあたりにしてしまったから、30年間一緒に音楽を創る機会が多かった私としては困るのだ。みっともない退場だと向こうへ行ったときに例のごとく「あのサ、曲の中身はスイングしてたけどサ、エンディングいまいちだったよネー」と遠慮のないチェックを入れられてしまうような気がする。
 どうしたらよいのだろう。

【初出:『JazzLife』1999年8月号】



 「古今東西」というあそびがある。
 車座になって、ひとり十本ずつマッチ棒をもち、たとえば「古今東西映画の題名」というような題を出し、順番に言ってマッチ棒を置いて行く。前に出たものをまた言ってしまったり、つっかえたりすると、その場に溜ったのを全部持たされる。最初に十本なくなった人が勝ち、という他愛ない遊びだが、これを言おう、と思っているものを直前に言われてしまったりするとかなり焦ったりして、存外面白いのだ。
 「古今東西ホテルの名前」というのがあった。よし、「帝国ホテル」、と待ち構えていたら、前のひとが「帝国ホテル」。う、う〜ん、て、ていこく軍人ホテル。「そんなのあるかーっ」。で、マッチ棒が一挙に増える。
 コンサート・ツアーの移動車中などでは暇つぶしになるからお試しあれ。「古今東西トランペッタ−の名前」とか「古今東西音階の名前」など、出題にはこと欠かないだろう。
 暇つぶしついでに、「困ったはなし」というのも面白い。自分が体験したその手のシチュエーションを面白おかしく聞かせるのだ。楽器によって意外な「困りかた」があるから退屈しない。
 ライブハウスで楽器ケースを開けたらマウスピースが無かった、というサックス奏者、メンバー全員の航空券を預かって寝過ごしてしまったマネージャー、新幹線のデッキに楽器を立て掛けておいて弁当を買いに行き、それとは逆向きの列車に乗ってしまったベーシスト、あまりに売れっ子で日時を間違えて競合企業のCMを作曲してきてしまったコンポーザー‥‥そりゃまずいよな、スポンサーが居並ぶスタジオにいきなり宿敵の企業名がコーラスで流れたりするんだぜ。
 どうしても忘れ物系、うっかり系の話が多くなってくるけれど、最近出会った私の「困った」にこういうのがある。

 その1。  はじめて訪れた地方都市で、地元のFM局のインタビューがあるから、と空港に着く早々スタジオへ。アナウンサー、「佐藤さん、○○市の印象は?」
 「たった今着いたばかりでまだ何も見ていません」「‥‥」
 相手も困っただろうが、こちらも困った。なにしろ生放送だし、明日のコンサートに一人でも多く来てもらいたいから、この町に関してなにか一つでも良いコメントをしたい、それなのに最初からこんなブッキラボーな返事しかできない質問をされるとは。

 その2。  写真家という人たちは、撮る人物がすべて演技できると思っているのだろうか。「はい、顔を少しライト向きに。もう少し。ハイそこです。目線だけカメラにください。いや目線は少し遠くを見る感じにしましょう。きもーち下の方。あ、顔は動かさないで。上体はそのまま。左肩ちょい上げ。あ、良いですね。じゃこれで撮ります。う〜ん表情が固いな。ちょっと笑って」‥‥そら来た。顔や視線をあちこち向けさせたあげく、笑えという。役者じゃないんだから、おかしくもないのに笑えるか。だれか面白いこと言ってくれよ。凍り付くギャグでも駄洒落でもいいから、と願うが、こういうときにそこまで気のまわるスタッフはまずいない。スタジオ中次第にし〜んと静まり返ってくる。しかたがないから自分で落語の一節などやってみても、周囲は笑うけれど本人はちっともおかしくない。むりやり作った笑いは目でわかる。目が冷静だから、いかに顔の筋肉が笑ったときのフォーメイションになっていようとも、表情が死んでいるのだ。レンズは正直にありのままを写す。なにしろ写真というくらいのものだ。
 こうしてまたもや次のコンサート用に、こわばった笑いのポスター、チラシ、プログラムが刷り上がる。

 その3。  「お忙しいところを恐縮ですが、お願いしたオリジナル曲の曲名と解説を今週末までにいただけませんでしょうか」え?まだコンサートまで三ヶ月もありますよ。演奏者には一ヶ月前にわたせばよかったのでは?「それはそうなんですが、広告とか載せる雑誌の締め切りが今週なので」そうおっしゃられても、まだなにも手をつけていないんですけど。「そこをなんとか、曲名だけでもお願いします」
 だいたい作曲なんてものは棚にならべてあるものを掴みとるように、ほいきた、とできるものだとこの人は思っているのだろうか。わたしゃモーツアルトじゃありません。迫り来る締め切りにおびえ、このまま消えてしまいたいと思うころになって、やっとどこからか発想のタネが降ってくる。それが発芽し、葉の二三枚が見えてきて、あ、こんな曲になるかも、とおぼろげながら感じられるようになる。しかし書き進むにつれ、変型あるいは脱皮、さらには突然の大変身などがおこることがある。だから、完成後でなければ名前なんてとてもとても。
 「それは重々お察しします。ですがこちらとしてもコンサートの告知と、それにポスター、チラシ、プログラム‥‥」何かと言うとすぐにこの三点セット攻撃である。わかりました、じゃぁ曲名だけで良いですか。
 このたった一歩の譲歩でのちの苦しみが倍加する、とわかっているにもかかわらず、えーい、こんなもんでどうだ、とタイトルを提出してしまう。われながら軟弱な性格。
 こうして曲名先行という自縄自縛にのたうちまわることになる。「う〜、題名さえついてなければここからこっちへ行きたいよな〜。こう行けたらどれほど楽か」などと、乾いたタオルから水滴を絞り出すような日々をおくるのだ。
 ついに先日はあるコンサートのプログラムにこう書いてしまった。
 <これを書いている時点で、作曲の作業はまだ始まっていない。頭のなかに、漠としたイメージがあるばかりだ。それとても、書き進んで行くにつれて、あたかも登場人物が小説のなかで勝手に動き始めるように、当初意図した姿とは似ても似つかぬ音楽になってしまうかもしれない。従って、以下の解説(のようなもの)は当日演奏される曲を聴いていただくに際して何かの手がかりになる、ともならない、とも申し上げられない。なにしろ私にとっての作曲は紙上の即興演奏なので、結果について予測するのは不可能に近い。それゆえ終演後の判決が打首獄門でも遠島でも所払いでも、慎んでお受けする覚悟はできている。>
 これは「困ったはなし」ではなくて「苦しいはなし」に入るのかな。

【初出:『JazzLife』1999年9月号】



 1863年(文久三年)6月6日、山口に呼び出されて藩主毛利慶親から馬関(下関)防衛について下問された高杉晋作は、奇兵隊編成計画を提議して許可され、ただちに下関の豪商、廻船問屋白石正一郎宅で隊士募集にとりかかる。
 明治維新の発火点がこのとき出現したと言ってもよいだろう。
 藩政はその後守旧派である俗論党に掌握され、幕府への恭順を示すために奇兵隊解散命令が出される。しかし高杉はこれに服せず、1864年(元治元年)12月15日、雪の長府功山寺よりわずか80数人で蜂起。ついに藩を倒幕へ駆り立てることとなる。
 高杉が言う奇兵隊の原則は「有志の者相集り候儀につき陪臣、軽卒、藩士を選ばず、同様に相交り専ら力量を貴び、堅固の隊相整え申すべくと存じ奉り候」、ひとつのこころざしのもとでの平等である。
 また、奇兵隊に続いて作られた遊撃隊、八幡隊などの諸隊合議による申し合わせには、「農事のさまたげ、少しもいたすまじく」「田畑たとい植付これなく候所にても、踏みあらし申すまじく」「人家の果物、鶏、犬等奪い候などは、以ての外に候」などのあとに「強き百万といえどもおそれず、弱き民は一人といえども恐れ候事」とある。
 植付けのない田畑を踏み荒らしてはいけない、弱き民は一人でもおそれよ、という視点は農工商の上に君臨する士のものではない。革命を成就させた中国共産党の八路軍農兵の規則に通じる民衆のものである。

 「つまりランドゥーガちゅうのは、音楽の奇兵隊みたいなもんじゃろうが」
 さすがは下関でずっとコンサートやフェスティバルをオーガナイズしてきたM氏である。新しい音楽にたいしても核心をずばりと突いてくる。このM氏のひとことがきっかけで、重要文化財になっている奇兵隊挙兵の功山寺山門下に50人あまりが集ってランドゥーガを挙行するというかなり破天候なこころみが実現した。昨年の秋のことである。
 このコラムをはじめて読まれる方のために説明すると、ランドゥーガというのは私がここ十年ほど考え続けている<集団即興演奏>の形である。名称はアジアのどこかの国の言葉のような響きだが、じつは私が作った。
 集団即興という方式はコンポーザーズ・オーケストラや、コンダクションのような形がすでにいくつかあって、格別珍しいものではない。しかし、それらはいずれも熟練者、巧者、名人、達人があつまって作り上げるものだ。つまり、限られた、あるいはある水準を越えた人たちにしかできない音楽である。
 もっと開かれた、特殊な技術や熟練のいらない、だれでもふらりとやってきて一緒に楽しめる音楽はないか。楽器がなくても、声、手拍子、鍋、釜、どこにでもある音の出るものを持ち寄って作る音楽があっても良いだろう。
 こんなことを、ある日ふと思い浮かべたのである。
 演奏技術もまちまち、やっている音楽もいろいろ、国も言葉もばらばら。こういう人たちが何人かいて、「退屈だから何か音を出して遊ぼう」となったらどうするか。
 五線譜を渡したら「なんだいこりゃ」という人がかならずあらわれる。コードを決める?「コードってなに」、音階、リズム、‥‥何時間かかっても共通のなにごとかを決めることはできまい。
 ならばどうするか。
 即興である。ただし、ここでの即興はある分野のしきたりや言いまわしを一方的に駆使したものであってはならない。なぜなら、そのような特殊な言葉は他の分野のものにとっては無意味な記号にすぎないからだ。
 考えてみると、インド音楽にしても、アラブ音楽にしても、また我国の伝統音楽でも即興はその分野の決まりごとや伝統をすべて学んだうえで許される。即興がいのち、ともいうべきジャズですら、コードやらフレーズやら、と身に付けねばならないことは多い。
 つまり、即興とは文字から受ける印象とはうらはらにきわめて不自由な行為なのだ。
 そうしたしがらみから解放された即興。
 そんな漠然としたイメージから始まったワークショップだったが、常連が「これをCDにしたい」と言い出して作ったアルバムが2枚になり、新宿ピットインや慶応大学キャンパスでのパフォーマンスなどと回を重ねるうちに、“分野、経験、技量を問わず”がなんとなく実現可能だと思えるようになってきたのである。
 同時に、そこに至るまでに解決しなければならない問題点も数多くみつかった。
 開かれた、だれでもが参加できる、という一見ハードルも垣根もないような集合体だが、いざ始めてみると至る所にバリアーが張り巡らされてしまうことがよくある。参加者が「孤立して他とのコミュニケーションがとれない」と感じる瞬間だ。なんのことはない、実はそう感じている当人が自分の分野の技法や形式や感覚に固執しているか、それらを防壁として一歩も踏み出していないことが原因なのである。
 これはどこかの分野ですでに相当の経験を積んでいる参加者がよく遭遇する問題だ。つまり、音楽の創りかたの一方法を知っているために、意識するしないにかかわらずそれに合致しないものを排斥してしまう、ということなのではないか。
 集団即興の面白さは、さまざまな感性の混在が、ときに思っても見なかった音楽を創り出す点にある。そしてその瞬間を感知してそこに参加するには、なによりもとらわれのない柔軟なセンサーが必要なのである。ともすればまったくの未経験者のほうがそのような場面ですばやく反応するのはなぜか。 このあたりを追求していくと、ランドゥーガのあるべき姿が見えてくるように思える。

 さて、<音の奇兵隊>というタイトルを与えられて、ランドゥーガは今年もまた10月に功山寺で「挙兵」することになり、その前段として、8月6〜8日山口県秋芳町の秋吉台国際芸術村で二泊三日のセミナーを行った。
 一番勉強になったのは参加者よりもこの私ではあるまいか。各人のバリアーを取り去るには、演奏のエネルギーの流れを見極めるには、個人と集団のかかわりかたは、などに関して大きな収穫があった。このあたりについてはまたあらためてご報告するつもり。

【初出:『JazzLife』1999年10月号】



 ガラ、というと何を思い浮かべるか。

  1. 柄=着物などの模様、体格(柄が大きい)、身分(柄にもない)(家柄)、態度や身なり(柄が悪い)、性質(場所柄)
  2. 瓦落=相場の暴落
  3. にわとりの肉を取ったあとの骨
  4. 質の悪いコークス
  5. がら空き
  6. がらくた
  7. (いのち)からがら

 着物の柄と体格をのぞいて、あまりパッとしない語感だ。しかし英語のgalaはスポーツや劇場での特別な催し、祭典、祝祭といっためでたい言葉になる。正しい発音は辞書によるとガーラ、ゲイラ、またはゲァラのようだが、日本ではガラで定着している。
 ガラ・コンサートという呼び方の初登場は、洋酒メーカーが作った都内のホールが開館したときだったのではなかったか。それまで聞いたことがない名称だったのと、聴きにくる客にも正装を課したので話題になったと記憶している。「なんでこっちまで蝶ネクタイしなきゃならないんだよ、タキシード持ってなかったら音楽聴くなってことか」と文句をいう人が多かったらしく、その後そういったお達しは聞かれなくなった。
 クラシック音楽の本場のほうでは、シーズンの初日などに正装して出かけるのはなかば常識だ。これを音楽が王族や貴族の庇護で成り立っていた時代の名残と見るか、または、たとえばベルリン・フィルならベルリンの市民に「自分たちのオーケストラ」だという意識が浸透しており、シーズン開幕を我が事として祝う気持ちのあらわれと見るか、いずれにせよ、「ハレ」の場=正装の風習が根付いているのである。ま、洋服のほうも本場だから当然のことだというべきか。要は服装のカルチャーが出来あがっているのだ。
 新しいホールを作るからには、日本にもそのような聴き方を定着させよう、コンサートをもっと文化全体でとらえよう、と理想に向かって踏み出したのだが、残念ながらこの国の洋服カルチャーはそこまで成熟していなかった。

 ニッポンコクにも、以前は立派な正装があった。紋付、羽織、袴というやつ。
 いまでは婚礼か初詣か葬式のための衣装でしかないが、少なくとも私の祖父の時代までは誰でも一式持っていて、多少なりとも改まった席には必ず着用したようだ。落語に出てくる八っあん熊さんも、奉行所からお呼び出しが来れば大慌てで大家さんに羽織を借りる。
 戦争に負けたとき、この国が放棄した古来の価値観のなかに、服装の文化も入っていたのだ。で、かわりに着ることになった洋服は、形だけを真似て、それと共にあるはずの考え方や感じ方、伝統、それらをすべて包み込むもの、つまり文化を移植しなかった、あるいはできなかったのだろう。
 話が硬くなってしまったが、簡単に言えば和服の時代に持っていた座標軸が消滅したのに、それにかわるものが成立しなかったから、いまのような「格好はなんでもあり」の時代になった。それだけのことだ、で片付けてしまっても良いのだが、服装の文化度からみるかぎり、江戸時代の人々のほうが上だったというべきかもしれない。
 映画『タイタニック』からも想像できるが、クイーンエリザベスのような客船の旅にも服装の取り決めがある。夕食は原則として正装だから、ダークスーツかタキシードを持っていないと飢え死ぬことになる。もっとも、船底に近い安いクラスの船室だったら何でも構わないらしい。そのかわり、ダイニングルームも食事の質も厳格に差別化されているという。
 以前ロンドンのホテルで、軽い昼食をとるためにティーラウンジに入ったことがある。ラフな服装のときは通りに面した席を断られ、次の日にジャケットを着て行ったら頼みもしないのに公園が見とおせる明るい席に通された。同じウエイターにである。
 通りから見える席に安っぽい格好で座られたらホテルの格式が落ちるということなのだろう。

 そうそう、ガラ・コンサートである。
 さるホールの十周年記念で、ガラの一角に登場する栄に浴することになった。やれやれ、またタキシードか、と覚悟していたら、意外にも服装自由。ジャズのコーナーだけでなく、オーケストラも名高いソリストの方々も同様だという。
 私達トリオは共演者のリチャード・ストルツマンとも相談のうえ、下が黒、上はカラフルなシャツということにした。
 当日のストルツマン氏の服装は以下のとおり。
 上=かなりヨレた紺色のシャツ。下=茶、赤、グレー三色太縦縞のイージー・パンツ、ノー・ベルト、紐結び。黒靴下にサンダル履き。
 氏はクラシック・クラリネット界の重鎮でありながら気軽にジャズやラテンのCDもこしらえてしまうようなところのある人なので、ある程度の奔放さは予想していたものの、これには驚かされた。「まるで空港から今着いたばかりだね」というと、「良いんだ良いんだ、演奏がスィングしてりゃ」と、根っからのジャズマンもどきのご発言。
 思うに、洋服の本場民族からすれば、このようなときに正装でないということは寝間着以外みな同じなのだ。つまりホールだろうが野外のジャズ・フェスティバルだろうが変わりない。この徹底した大陸的発想を、洋服後進国民はいまさらながら学ぶべきなのかどうか、私にはなんとも判断しかねるところではある。
 この日の衣裳の圧巻は、オーケストラをバックに篳篥(ひちりき)を演奏した東儀秀樹氏だった。平安時代から続く雅楽の正装、狩衣に烏帽子。音を聴く前に「一同頭が高い。控えおろう」状態である。
 ここまでくれば西洋の正装も顔色なし。完勝というほかない。
 そこで提案。我々は21世紀を迎えるにあたってタキシードやら燕尾服をやめて、平安時代とまでは言わないが伝統衣裳に立ち戻るべし。幕末に初めてアメリカへ行った親善使節の堂々とした正装姿に、かの地の人々は尊敬のまなざしを向けたというではないか。

【初出:『JazzLife』1999年11月号】



 私の加入しているインターネットのプロバイダーが大手の会社に吸収されたために、Eメールのアドレスが変わります、という「お知らせ」がきた。
 10月1日からだが、併用期間が2000年9月末まであるのでその間にいろいろな変更をするように、とのことである。
 まだ一年ある、とのんびり構えていたら忘れてしまうに決まっているから、早速友人知人に知らせる。私の周りには反応の早い人間が多い。10月1日になって、「新住所で出したけど、エラーになって戻ってきた。どうなってるんだ」というメールが数通も来た。
 まさかオレがなにかミスしたかな、と彼等に出したメールを点検したが、落下すべきコンクリート片も見当たらず、仕方なくヘルプデスクに問い合わせてみる。
 「10月1日から変わると言うことでしたが…」「あ、それはですね、アメリカの10月1日で、日本は時差がありますから、2日からになります」
 当然でしょう、とでも言いたげな口調で答えられて私はしばし茫然としてしまった。
 ニッポンはいつからUSAの<時間の傘>の下に組み込まれたのか。このあたりの時間はあちらでなんと呼ばれているのだろう。FAR EAST STANDARD TIMEか。
 21世紀はアメリカ合衆国ニッポン州になるのか。
 電話を切ってから、次第に怒りがこみあげてきた。
 「お知らせ」にそんなことはひとことも書いてなかったぞ。
 だいいち、一度読んでもよくわからないあの文章は何なのだ。あまりにまわりくどいので英語のほうを読んで確かめたくらいだ。どれほどのものか、かなり長くなるがお目にかけよう。自分のコンピューター上でするべきことがすぐにわかった人はエライ。

<サービス名変更のお知らせとご対応事項のお願い>

 拝啓 平素は△インターネット接続サービスに格別なるご厚情を賜わり、厚くお礼申しあげます。
 すでにご案内させていただきましたとおり、△インターネット接続サービスは本年8月1日をもって▲に契約を移管させていただきました。
 これに伴い、今回1999年10月1日から「△インターネット接続サービス」は「▲ビジネスインターネットサービス」とサービス名称を変更させていただくことになりました。
 この新しいサービス名称は、お客様のビジネスやプロフェッショナルなニーズに一層重点を置いたサービスの提供に務め、お客様のご満足をより高めさせていただく事を目指しております。今後は▲として、お客様のビジネスやプロフェッショナルなニーズに一層重点を置き、お客様によりご満足いただける高品質なサービスの提供に努めてまいります。
 ▲としてこれまで同様のご愛顧を賜りますよう、よろしくお引き立てのほどお願い申し上げます。

 よくぞここまで繰り返しを多くしたもんだ。ほとんどボケ老人の繰り言に近い。読み手の思考力を減退させるのが目的ならば大成功。

 また、併せてサービス料金の一部値下げを実施させていただきますが、お客様には、電子メールアドレスのドメイン名の変更等により、2000年9月30日までの間に何点かご対応いただく必要事項がございますのでこの点に関しましてはなにとぞご理解・ご容赦いただきたくお願い申し上げます。(中略)

  • 電子メールアドレスの変更について
    現在△インターネット接続サービスをご利用のお客様の電子メールアドレスは(例:user-id@△.net)となっておりますが、新しいドメイン名は▲となり、新しい電子メールアドレスは(例:user-id@▲.net)となります。
    ※ユーザーID部分、例のuser-idの部分についての変更はございません。
  • 各サーバー名称の変更について
    ▲ビジネスインターネットサービスの開始に伴い、電子メール送受信及びその他にご利用いただいております各サーバーの名称が、電子メールアドレス同様ドメイン名の部分については△.netより▲.netに変更になります。
    △ダイヤラーをご利用でないお客様の場合は、併行期間をご準備致しておりますので、お手数ではございますが、併行期間が終了する前に新サーバー情報へのご変更作業を行っていただけますようお願い申しあげます。詳しくは以下をご参照ください。(後略)

 ダイヤラーうんぬんの部分で告知すべきもっとも大事なことは、コンピューターの設定を変えなくてはいけない、ということだ。なのに「新サーバー情報へのご変更作業」だけとはいかにも不親切。英文ではちゃんと「あなたのコンピューター・ソフトを訂正すること」とわかる表現になっている。
 このだらしない文章を要約すれば、2000年9月までに@以下を△から▲に変える、電話回線に自動接続する△社のダイアラーという機能を使っていない人は、自分でコンピューターの接続設定を変える、ということなのだ、と私は英文のほうで理解したのだ。数十年間培った日本語力では読み解けなかったものが、受験生にも劣る英語力でわかるとはどういうことだろう。
 担当者の翻訳の悪さと、公式文書をことさら丁寧に書かねばという緊張感がかくも無残な結果を招いたのか。これをチェックする係とか上司はいなかったのか。誰も変な日本語だ、と思わなかったとすれば△社社員すべての日本語能力を疑うしかない。
 それとも、この国の外資系会社すべてがこういう状況なのだろうか。さらに日本全体の症状になっているのか。「ワタクシガ、ココロヨリオウッタエサセテイタダキタイノハ」などと大声で叫ぶ政治家が舵取りする国だから、なにがどうなっても不思議ではないが。

【初出:『JazzLife』1999年12月号】