「今までにアルバム何枚作りましたか?」
 この質問が「ジャズを始めたきっかけは?」に次いで多い。
 実のところ、正確な答えを知らない。いや、知らなかった、というのが正しい。
 演奏に参加しただけ、あるいはアレンジを何曲か提供しただけのものまで含めれば、およそ200枚位かな、と思っていたのだが、このほど信頼すべき数字が判明した。
 最新の<MORNING DELUSION>までで298枚だという。
 なぜ今それが確定したかというと、私のディスコグラフィーが完成したからなのである。通常、こういうものはその人がすべての作品を作り終えた時、つまりあちら側へ旅立ってからこしらえるものだと思うのだが、どうしたわけかまだそれほどボケてもいないうちに出来上がってしまった。
 まぁ、生前葬を行う人もいるから、めでたいことなのかも知れないが、実際に本を手に取ってみると、急に自分が歴史上の人物になったようで、ハテ、この書物の主はおれだが、じゃぁここにいるおれはどこのどいつだ、という気がする。
 総ページ数280余、かなり分厚く持ち重りのするこのディスコグラフィーの著者は高橋宏氏。これが高橋氏にとって二作目となるもので、第一作は『富樫雅彦ディスコグラフィー』である。
 氏はかなりの年数にわたって富樫雅彦のライブを聴きつづけ、その音楽に傾倒するに従い、この希有な音楽家の業績を目に見える形で残したいと思うに至った。そして全レコード、CDをリストアップし、さがし出し、ジャケットを写真に撮り、カタログ番号、録音日、場所を確かめ、曲目、演奏者を分類するという、思っただけで気が遠くなるような作業をひとりで続け、1995年に完成した。
 富樫雅彦をずっと聴くということは、共演する機会が多い私をも聴いているわけで、次は佐藤のを作ってみようか、と思われたのだろう。
 しかし、クリエイティブな活動一本で来た富樫雅彦と違って、私の場合はかなりな雑食動物であるから、どのあたりまでを収めるのか、から考えねばならない。第一作よりもさらに煩雑な作業となるのは当初から予想されたことだったが、氏は何の躊躇もなしに突入したのであった。
 昨年の秋の終わり頃だったか、とりあえずはじめの手がかりとして、十年程前に私のオフィスのスタッフがまとめた簡単な作品リストをお渡しした。そこには1969年の<パラジウム>に始まる60枚ほどのリーダー・アルバムはすべて記載されていたのだが、それは何の役にも立たないことだった。すでにこの時点で、高橋氏は200枚あまりの私関連のものを手許に持っておられたのである。
 今年の春には、資料がほぼ出そろったようなのだが、それでもなお5月にいただいたメールに、「手許にないディスクが約45点。今になって未確認資料がゾロゾロと出てきて困っています」、とある。

 氏の人脈には何人かのディスク蒐集家がいるようで、その人たちが氏の目的を知ってさまざまな情報を寄せてくれるのだが、そのなかに「こんなものを前に見たことがあった」というようなものも含まれていて、それが氏を困惑させるのだ。
 それにしても、この情報網はすごい。未確認情報をもとにどこでどのようにして探したのか、当人にもほとんど記憶のない1961〜2年頃のムードミュージックの10インチ盤とか、当時雑誌にはさみこんで売られたソノシート盤を原物で発見してしまうのだから。
 さて、素人目には、こうやってすべてのディスクを集めたらあとは根気だけ、と映るがさにあらず。
 佐藤允彦という、自分ではこれほど分かりやすい奴はそういないだろうと思っている人間を、音楽を通して他人がながめてみると、かなり複雑に入り組んだものに映るらしい。高橋氏も資料を集めるに従って「こいつは一体どうなってるんだ」と感じはじめられたようで、私の全体像が浮き彫りになるか埋没するかは、ディスクの山の分類、整理、つまり系統化いかんにかかっているのだという主旨のメールをいただいたりした。
 全くそのとおりで、いちばん手っ取り早い年代順に並べると、<パンダ・コパンダ>(アニメ映画音楽)と<耶馬台賦>(実験的なビッグバンド作品)が並んでしまったりする。また既存のジャンル別に章を立てようとすると、たちどころに世界の民謡を土台にしたRANDOOGAはどこに入れるか、フリー・インプロヴァイズのTON・KLAMIは?と問題がたちはだかる。
 高橋氏はすべてのディスクを聴きなおした結果、次のような章立てを考えられた。

  • 第一章 リーダー作およびリーダー作に準じる作品、主要な作曲作品(年代順)
  • 第二章 共演作品、作、編曲作品など(原則としてリーダーの氏名順)
  • 第三章 アンソロジーやリーダーの特定できない作品(年代順)
  • 補遺  (a) 映画・テレビ音楽作品(レコード化された作品のみ。年代順)
        (b) EP・テープ作品など(原則としてリーダーの氏名順)
        (c) 1968年以前の作品(年代順)
  • 人名索引・曲目索引・年代索引

 一見しただけでも堂々たるものである。これで中身がエリントンとかコルトレーンだったらよかったのだが、私ではどうしても役者が劣る。それはどうしようもないことなので、以後気合いを入れて仕事をすることで、この一冊にこめられた高橋氏の意気とエネルギーに少しでも報いたいと思う。
 さて、高橋氏によれば、本に関する bibriography 「書誌」は「文献学」「古筆学」などと並んで「書誌学」という学問になっているのに対して、discography はまだ「音盤誌学」にはなっていないのだという。資料の蒐集でも、好事家(コレクター)個人のコレクションが図書館や楽器メーカー資料室を凌駕しているのが現状だそうだ。
 しかし私は今回、定義や表記など、さまざまなルールを作ってそれに厳格に対処して行く氏の緻密な作業を垣間見て、これはあきらかに「学」として成立しうるフィールドだと感じた。もっともそれには、対象となる音楽がもっと頑張らねばなるまいが。
 この労作、たった300部しか印刷されない。

◆◆ 詳細は、《Book》ページへ ◆◆

【初出:『JazzLife』1999年1月号】



 ロシア極東へ行くことになった。
 と言ったら、いろいろな人がいろいろなアドバイスをくれた。ほとんどは助言ではなくて面白半分の脅しである。
 「なに?ハバロフスクとウラジオストク?飛行機?飛行機はいけませんよ飛行機は。あのあたりはよく墜落して、さがしてもくれないんだから。三年行方不明てのもあるぜ。え?夜行列車の移動?そりゃもっと危ない。気の毒だが保険を目一杯かけていけよ。あの路線は列車強盗が頻発するからな」「そうだよ。一週間ばかり前にも、踏切に無人のバスを置いといて列車止めて、乗り込んできてホールドアップっていうのがあったばかりだ」「なるべく日本人に見えないような格好することだな。あいつらが金のあるなしを見分けるのは眼鏡と時計と靴だから、そんなメタルフレームじゃまずいな。セルロイドの黒丸、東海林太郎がかけてたような、大正時代みたいなの持ってないか?時計は外して内ポケットに入れとけよ。靴は?ナイキ?とんでもない。布のカンフーシューズにしとけ。」「だめだめ、ダウンジャケットなんて。汚れた毛布を着てるのが安全ですよ。」「サムソナイトのトランクは止したほうがいい。コーヒー豆入れるキャンバスの袋にしなさい」「コンパートメントに入ったら絶対に外へ出るな。戸の隙間から睡眠薬入りのスプレーを吹き込まれたって話もあるから、変なにおいがしたら息を止めて急いで窓の方を開けること。トイレも行かないように。ミネラルウオーターの空ボトルのなかにすりゃあ良いだろう」「知り合いの警備会社から防弾チョッキ手に入れてやろうか?」「日本じゃ手に入らないトウガラシ・スプレーがあるから届けようか?」
 こういう“助言”にすべて従うと、難民かゲリラ兵士かどちらかの姿にならなくては無事に帰って来られないことになる。
 ソ連解体以来未曾有の経済混乱が続き、給料半年未払いなど序の口、マフィアが跳梁し、ほとんど無政府状態。マスコミの言うところを信じれば、こんな風景しか想像できない。
 しかし我々は曲がりなりにも一応、国際交流基金の文化交流使節として派遣されるのだ。銃弾飛び交う激戦地や、他所者と見れば首を取って皮を剥ぐ種族のテリトリーに踏み込むのとは違う。音楽を演奏しに行っていちいち襲われていたのではたまりません。
 今回も総勢三人。ヴァイオリンの大津純子さん、ピアノ調律の小林禄幸名人。そして私。去年の2月には、ペルーの日本大使館人質事件のさなか、中南米ツアーを何事もなく完遂した我々なのだから、おのれの運を信じて寝台車に乗り込むしかあるまい。
 神様だか仏様だか、あれはまだ生かしておこうという思し召しなら大丈夫だろうし、そうでなければジタバタしても始まらない。
 ただし、私と小林名人は自分の身だけのようなものだから良いとして、問題は大津さんと彼女の楽器だ。億の声も聞こうかという1700年代の名器。これに目をつけられたら面倒だ。万一楽器をひったくられでもした時、取り戻そうとすると怪我をする確率はかなり高くなる。前回同様、名人とふたりで「危険だからもっと安い楽器持って行けば」と説得を試みたのだが、姫は「せっかくそういうところの方達に聴いていただくのですから、最善の条件で演奏しなくては」と仰せある。
 身の危険より音楽優先。これぞ音楽家の鑑。この精神力なくして、20年もの間ニューヨークで活躍はできない。
 それよりも、御外套が‥‥。ニューヨークでお召しになっているというショッキング・ピンクのダウン・ロングコートを持参あそばすらしい。
 これを伝え聞いた助言者たち、「ああ、さすがのお前もこれで運の尽きだな。そうそう、このあいだのソロ・コンサートのテープ、俺にくれるって遺言に書いておいてくれよな」。アレンジ・クラスの生徒まで、「先生、行く前に本にサイン下さい」などと言い出す。
 こりゃ何とかせねば、と名人ともども「楽器は我々中年二人がお守りいたします。ですから目立つ御外套だけはなにとぞ御勘弁」と必死に懇願したのであった。
 その甲斐あって、出発当日姫は黒のコート姿でお出ましになり、中年組はほっと安堵のため息をもらし、「もしかすると、無事生還の可能性もありそう」と思った次第。

 ハバロフスクへは新潟空港から行く。当然のことながら航空会社は「あの」アエロフロートである。数々の苦い経験を話し出したら長くなるから「あの」で済ませておく。
 国際線なら荷物はひとり30kgのはずが、20kgまでだと言って、しっかり超過料金を請求される一方で、機長は両手に自動車のスタッドレス・タイヤを二本ずつ重そうにぶらさげて機内へ。我々の前の、日本のどこかの夜の町で稼いだとおぼしき金髪のオネーさんたちの一団は、各自数個の段ボール箱をチェック・インしていたが、どうもフリーパスだったようだ。
 君たちにもいろいろ世話になった、とはるかに助言者と友人たちに心のなかでそれとなく別れを告げて、アエロフロート・ツボレフ154型に乗り込む。
 機内の通路を歩くと、随所で床の絨毯がめくれあがり、転びそうになる。座席は折り畳み椅子のように背もたれがぱたりと前に倒れるようになっている。キャビンの仕切りは濃い茶色の木目合板。60年代の古いマンションのような色調だ。すべてが良く言えば重厚、つまり重苦しく出来ている。なるほど、もうここからロシアが始まっているのだな、と納得。
 11月2日。
 出発地気温17度、飛行時間たったの1時間25分で到着地気温マイナス4度。
 滑走路は薄く雪化粧。

<つづく> 

【初出:『JazzLife』1999年2月号】



ロシア極東〜プラハツアー (2)
 ニューヨークで活躍するヴァイオリニスト大津純子さん、ピアノ調律の小林禄幸名人、それに私は、国際交流基金によって昨年に引き続き遠隔地ツアーに派遣された。今回はロシア極東とはるか隔たったプラハ。2週間の珍道中をかいつまんで御報告いたします。

 現地語で挨拶と曲紹介をするとコンサートの雰囲気が一挙に盛り上がる。
 昨年の中南米ツアーでえらく好評だったこの試みだが、今回もやってみようか、とうかつにも口をすべらせてしまった。
 スペイン語はほぼその通りにローマ字読みすれば一応通じるけれど、ロシア語となるとそうは行かない。БГДЁЖЗИЙЛПФЦЧШЩЫЭЮЯ‥‥そもそも読めない字がたくさんあったのだった、しまった、と気付いたがもう遅い、いちど宣言してしまったのだから不戦敗では男が廃る。ダメモトデヤッテヤロウジャネーカ。
 出発前日に紀伊国屋書店に駆け込んで買った『ロシア語早わかり』を機中で開いてみても頭のどこかで「泥縄、どろなわ」ともうひとりのオレが呟いているような気がして一向に覚えられない。
 これはもう読むという段階は捨てて、聴覚を頼るのみ、と開き直って、まずは言いたいことを日本語で書く。
 その先は、領事館のロシア人スタッフに訳してもらう。そして一語ずつゆっくり、次いで普通の速さで読んでもらうのをテープに録り、発音とイントネーションを書き込んだメモを作る。メモを見ながらテープを繰り返し聴いているうちになんとか格好がついてくるだろう、というもくろみなのだ。ただし、これだとロシア文字は一字も頭に残らないことになるが、インスタント友好だから仕方がない。
 露訳を引き受けて下さったのは秘書官のエヴゲニア・コブヤコーヴァさん。愛称ジェーニャ。小柄な美女である。こういう先生だと生徒も気合いが入るのは万国共通でありまして、テープを聴く回数が増える。従って上達も速い。
 練習一晩。これを称して一夜漬けという。
 明けて11月4日。小林名人は午前中から会場に入り、ブリュートナーのフルサイズ相手に苦闘数時間。前日下見のときに弾いて唖然とした状態から、どうにか聴けるようにしてしまうのだからさすがである。
 ブリュートナーは旧東ドイツ、ライプツィヒの名高いピアノ。中〜高音が普通3本の弦で鳴らされるのに対して、共鳴弦が一本余分についている。本来ならかなりシブい名器なのだが、そこはそれ、(あくまでも数年前に訪れたときの印象であるが)<メンテナンス>を重視しない、あるいはそういう観念が欠落しているとしか思われない旧ソ連時代からずっと放置されてきたために、ほとんど絶命状態になっていたのだ。
 おまけに、もとからあった脚を、移動に便利なように下にゴムの車輪がついたキャスター状のものと取り替えてある。しかもそれを固定するのにピアノの下側に打った釘が長過ぎて、打弦ハンマーのユニットにまで突き刺さっている始末。
 人間で言えば、シャツのボタンを縫う針が内臓に達してしまったようなものだ。
 「あーあ、良い楽器にこんなことをして」
 ピアノを愛する名人嘆くことしきり。
 リハーサルをしている間にホールのスタッフが照明をセッティングするのは日本と同様だが、一応出来上がったらすべて消灯。非常灯のようなものだけにしていなくなってしまった。
 「オーイ、譜面が見えないよ〜、もっと明るくしてパジャールスタ」
 そうしたらこんな答えが帰ってきた。
 「我々は電気を節約しなければならない。必要なら、電気スタンドを持ってきてやる」
 で、なんとも無骨きわまりない、真四角な鍋状の笠のついた、炭坑の坑道を照らすような1.5mほどもある照明機具が一基ステージ上に据え付けられたのであった。
 さて問題のロシア語である。
 開演前にジェーニャさんに勉強の成果をチェックしてもらう。軟母音を少し直されたほかはほぼOK。「ダイジョーブ、ツウジマス」と合格点をいただきひと安心。
 一曲終わって「ドーブルイ、ヴィェチェール(こんばんわ)」のひとことで大拍手。その後一区切りごとに拍手が来る。こんなにウケるんだったらもっとしゃべりを多くすればよかった、などと考えるところが軽率だっつうの。
 そのうち、しだいに拍手が減って、一部の終わりあたりには反応なしになってしまった。休憩時間に「なんだか通じなくなったみたいだけど」と言ったら、「ソンナコトアリマセン、サトウサンハシャベレルヒトトオモウカラ、ハクシュナクナリマシタ」。
 あ、なるほど、そういうことか。あまりうまく読んでもいかんのか、と思ったら間違えたり、つっかえたりしてしまった。すかさず客席から誰かが訂正してくれて場内大笑い。
 第一回目のコンサートは和やかな雰囲気で上出来でありました。

<つづく> 

【初出:『JazzLife』1999年3月号】



ロシア極東〜プラハツアー (3)
 ニューヨークで活躍するヴァイオリニスト大津純子さん、ピアノ調律の小林禄幸名人、それに私は、国際交流基金によって昨年に引き続き遠隔地ツアーに派遣された。今回はロシア極東とはるか隔たったプラハ。2週間の珍道中をかいつまんで御報告いたします。

 「なに?、水道工事は△○工務店?」「週刊☆◇だってよー」「鮮魚の魚政?」「◎▽本舗ってなんだっけ?」「お菓子屋さんでしょ」「おやおや、□×マヨネーズだってさ」
 ハバロフスクでも、ウラジオストクでも、街中を行き交う車の八割方は日本の商用車である。日本の企業が進出しているのではない。輸入された中古車なのだ。
 それも、日本だったらとうに廃車にされてスクラップ、あるいは野積みになっていそうなのが立派に現役をやっている。凹み、スリ傷など当り前、左右のドアが色違いとか、バンパーなし、なんてのも臆した様子はみじんもない。
 それらが日本時代の塗装そのままに走り回っているので、ここは何処だったかと一瞬迷ってしまう。日本車だから当然右ハンドルで、道路が右側通行。妙な光景だ。韓国の車のほうが都合が良いだろうに、どういうわけかたまにしか見かけない。小樽港あたりから積んで来るほうが安くつくのかも知れない。
 もっとも車の外見など取り繕う気にもならない道路状況であることもたしかだ。
 夜間零下十数度でのアイスバーンも昼間の日なたは溶けて流れ出し、鋪装のひび割れにしみ込む。それが夜にはまた凍る。凍ればひび割れが成長して裂け目になる。この繰り返しで北国の道路というものは傷みやすいのだが、政府が財政難とあって補修がままならず、坂の下などは泥水が溜って沼状態となっている。そこへたいして減速もせずに突入しようというのだから。
 しかし車が汚れるのは道路のせいばかりではない。なにしろロシアの経済はきびしいのだ。私の即席ロシア語の発音を教授してくれた領事館員、ジェーニャさんのお母さんはアエロフロートの技術者だそうだが、ここ5ケ月間給料は半分しか支給されていないという。
 最初のコンサート終演後のレセプションでお会いしたハバロフスク・シンフォニーの常任指揮者のチツ氏は半年間無給。
 ウラジオストクで聞いたところによると、極東のロシア人の月収は一般に200ドル前後、300〜400ドルあたりが無くて、外資系企業に勤めるか、うまく行っている自営業で600ドル位だという。変わっているのは、医者と大学教授が最も低収入なのだそうだ。
 こういう混乱期に儲けるのはいうまでもなく闇のルートにコネのある輩、いわゆるマフィア系で、時折日本車を蹴散らすように走るメルセデスやロールスのリムジンのフィルム張り後部座席が彼等の指定席のようだ。
 雪のちらつく朝に、長い列を作っていつ来るとも知れぬバスを待つ人たちは、磨きあげられたその手の車が通っても一瞥すらせず、自分達とは縁のない別世界のものだとでもいうようにじっと俯き加減に立っている。
 『待つ』というのはロシア人の特質の最初にあげるべきものだろう。滞在中の送迎を受け持ってくれた領事館つきの運転手達は、我々の食事や打ち合わせが長引いても、あるいは公邸で総領事とのお話が盛り上がって深夜に及んでも、じっと車の中でラジオを聴きながら待っている。
 「良く言えば辛抱強い。悪く言えば愚直。ロシア人をからかっていう話ですが、ここに居ろと言ったのを忘れて旅に出た主人が三年経って戻ってきたらまだ同じところにいた、とか、ここを掃除しろと言うとゴミひとつ無くなっても掃いている。そのかわり、脇にどれほどゴミが山積していようと見向きもしない、とかね。」とこの地にずっと滞在している日本の商社員氏はいう。
 ロシア語のダーチャの日本語訳は別荘だが、実体は家庭菜園らしい。平均的ロシア人はほとんど郊外に一軒持っていて、そこで野菜、じゃがいもを作り、鶏、豚を飼う。酢漬けのキャベツ、塩漬け肉などの保存食にして地下室に貯蔵する。暖房なら薪スト−ヴ用に林へ入って落ちた枝でも拾ってくれば良い。
 「食べるのに現金はほとんど使わない。だから半年やそこら給料もらえなくたって困らないんです。要るものがあれば、青空マーケットで交換するとこともできるし。要するに極東ロシアは貨幣経済ではないんですな。多少苦しくてもじっと待つのはなんでもない。とにかく懐が深い。日本だったらとっくの昔にパニックでしょうがね。」
 つまるところ、『国家』という視点で見れば大変なことになっているようだけれども、食うことができればそんなことはどうだって構いはしない。「お上のことさ」ということなのだ。どんな大名が領主になろうとおれたちは土から恵みをもらっている・・・なんとなく江戸時代までの農民の姿を見るような気がする。
 大平洋戦争の頃、都市の住民は食べ物に困って宝石だの衣類などを持って農村に行き、三拝九拝して米や卵に換えてもらったのだけれど、現代は日本全体が都市になってしまっているわけだから、ひとたび何事かが起こったとき、国として衣類宝石のたぐいと食料を交換しなければならなくなる。そうしたら、ロシア極東は日本の新車だらけになり、日本人は酢漬けのキャベツで露命をつなぐのだろうか。
 日本の食料自給率はいま何%なのだ?

<つづく> 

【初出:『JazzLife』1999年4月号】



ロシア極東〜プラハツアー (4)
 ニューヨークで活躍するヴァイオリニスト大津純子さん、ピアノ調律の小林禄幸名人、それに私は、国際交流基金によって昨年に引き続き遠隔地ツアーに派遣された。今回はロシア極東とはるか隔たったプラハ。2週間の珍道中をかいつまんで御報告いたします。

 駅がやたらに明るいのは日本だけなのかもしれない。
 ヨーロッパの鉄道は薄暗い駅を音もなく発着する。アナウンスも無愛想そのものである。よほど気を付けていないと聞き逃す。自分の乗る車両の確認も一苦労だ。
 ところがそれに輪をかけて、ハバロフスク駅は暗い。闇である。ロシア革命前の石造りの駅舎の重厚さにそぐわない薄っぺらなソ連製バネ式アルミサッシドアを押して構内へ入るとホールで、そこからゆるい下り坂の地下道になってプラットホームへの階段へ行くようになっている。足下は敷石がすり減って凹凸があり、地下水だか外から靴についてきた雪だかがなかば凍って半ぬかるみ半アイスバーン状だ。すれちがう相手の顔もほとんど識別できないトンネルの暗がりを、大勢の人間が黙々と行き来している。
 プラットホームに出てもほとんど星明かりだけで、すでに入線している列車の窓から漏れてくる室内灯の反射をたよりに重いトランクをゴロゴロと曵いて歩く。
 荷物を列車内に運び込むのがまた大変な作業である。地上と列車の床の段差は優に私の身長を超える。その間に二段の急で狭いステップがあるから、20kg以上あるトランクを一動作で床に上げることは私の体力ではできない。無理をすればなんとかなるかもしれないが、旅先でギックリ腰にでもなったらたいへんである。
 小林名人が先に乗り込み、持ち上げると同時に上から引っ張りあげてもらうという連係動作しかない。階段の昇り降りと、この運び込みで、氷点下にもかかわらず汗をかいた。
 われわれの車両は、いわばグリーン寝台で、2ベッドが一室。三人で二部屋占有する。
 大津姫の一室は、誰かが乗り込まないようにひとり分余計に払ってある。車内通路に人影がないのを見すまして、姫の部屋から御提琴(hあいおりん)と御提袋(はんどばっぐ)を中年組のコンパートメントに運び、頭上の荷物入れに置き、毛布をかぶせる。これさえやってしまえば、姫は安心して御寝になれる。
 総領事館の城間さんによる車中のしきたりと注意:
 1.車掌がシーツを運んでくるから、ひとり1.5ルーブル払う。2.そのあとで紅茶の注文をとりにくる。頼めば3ルーブル。3.売り子が水やチョコレートなどを売りにくる。水は1.5リッターびんが1.5ルーブル位。4.駅に停車するときは30分前からトイレが使用禁止になるので、通路の壁の時間表で確かめてから行くこと。5.途中の停車駅では絶対にホームに降りないように。
 「実はさきほどウラジオストクから電話で」と城間さんが申し訳なさそうに切り出したので、何事が起こったかと緊張する。「あちらのホテルは午前十時に給湯が止まり、暖房はなし、ということなのですが」「‥‥‥」
 一瞬絶句するが、ま、つまり前回(1992年)のロシアツアーでのリトアニアの夜をもう一度やれば良いだけの話ではないか、どうということはありませんぜ、ハッハッハ。

 車内は異常な暑さである。そのうえ各コンパートメントの天井、通路のあちこちに埋め込まれてあるスピーカーからアメリカンロックのようなものが大音量で流れてくる。
 とりあえず寝床をこしらえて落ち着きたいのだが、音楽がうるさいのと過度の暖房でそれどころではない。どこかに調節用のスイッチはないかと見回すが、それらしいものは見当たらない。やっと窓の上方に何の表示もない小さなつまみがあるのに気付く。「あれじゃないかな」「非常ベルかもしれないよ」「まさか。だったら何か書いてあるはず」
 こわごわ左にひねったら音が小さくなった。問題がひとつ解決。
 音楽が突然ロシア民謡<アムールのさざなみ>に変って、列車が動き出した。定刻、19:10である。ホームでは本池副領事、城間さん、ジェニアが手を振っているようなのだが、窓に顔をつけても良く見えない。いつ駅が終わったのかもわからぬまま、闇のなかを730km彼方のウラジオストクへ。今回もっとも危険だと言われた夜汽車の旅がはじまった。
 となりの、ロシア人が二人入っている部屋では相変わらずの大音量である。夜通しこの調子だったらとても眠れたものではない、と心配していたら、30分ほどして元のほうで切ったらしく、静かになった。
 しかし、やたらと暑いのはそのままだ。30度を軽く超しているだろう。窓は開くようになっていないので、外気を入れることはできない。が、通路のほうはいくぶん涼しいから、ドアを開けさえすればよい。そのかわり、朝起きたら所持品一切消滅かもしれぬ。灼熱地獄で苦眠か、安眠して泥棒か、究極の選択、さあどっちだ。
 中年組だけの旅ならばそういう選択も成り立つが、頭上の棚には時価何千万両の姫の御提琴があるのだからして、たとえ身体中の水分が全部出尽くして干物状態になろうとも扉を開けることはできぬ。このままひたすら眠ろうと努力するしかないのだ。
 ‥‥竹の樋を次々に涼しそうなそうめんが流れて行く。箸ですくいあげ、つゆの入った椀に入れようとすると、ギギッと大きな音がして箸が重くなる。そうめんではない、何やら黒っぽいぶよぶよした塊が箸の先でうごめいているから、ワッと叫んでほうり出す。そいつは地面に落ちるとまたギーギギッと鳴く。
 目を開く。闇の中でまたもやギギッ‥‥音源はとなりのコンパートメントのロシア人のベッドである。寝返りをうつたびにひどく軋むのが、暑さとねむけで朦朧とした半睡状態の夢のなかへ入ってきたのだ。
 列車は停まっている。どうやら駅らしいが、カーテンを少し開けてのぞいても外の様子はよくわからない。月が出ているのか、20mばかり離れたところで、低い折り畳みテーブルのようなものをならべ、あたまからショールをかぶり、厚いコートを着たおばさんらしき人影が何か売っているのがぼんやり見える。列車を降りて買いに行く人もまばらにいるようだ。
 40分ほどして、警笛もアナウンスもなくふたたび闇夜のなかへ。丑三つ時の極東ロシア。暑いよ〜‥‥‥

                               <つづく> 

【初出:『JazzLife』1999年5月号】



ロシア極東〜プラハツアー (5)
 ニューヨークで活躍するヴァイオリニスト大津純子さん、ピアノ調律の小林禄幸名人、それに私は、国際交流基金によって昨年に引き続き遠隔地ツアーに派遣された。今回はロシア極東とはるか隔たったプラハ。2週間の珍道中をかいつまんで御報告いたします。

 暑いのと隣室のきしみ音で怪夢と半醒のあいだを行き来しているうちに夜が明けてきた。
 もっとも危険な夜汽車の旅も無事終了しそうだ。と思っていたら、ガンガンと乱暴にノックの音。答える間もあたえずにいきなりスライドドアが半分ほど開いた。90Kgは越していそうな車掌のオバさんが半身のぞかせて何か言いながら、外へ出ろ、というような仕草をしている。わかったというと次の部屋へ行ってしまった。どうやら、もう朝だから起きろということだったらしい。それにしても、見るからに頑丈なL字型の掛けがねをドアの太いボルトにかけ、そのうえ戸袋側の方にも短冊型のさしこみ式ロックがしてあるのに、なんで開いたのか今もってわからない。姫の部屋も同じように開けられたという。
 帰ってから事情通に聞くと、「あれを外から開かなくするには、太い針金か何かで掛けがねとボルトをがんじがらめにしておかなくてはだめなんだよ」という。
 中からはびくともしないが、外からは開けられるマジックドア。金田一先生もびっくりだろう。
 「ウラジオストクに着いたら、駅が立派でヨーロッパへ来たかと思いますよ」
 ハバロフスクの森総領事が言われたとおり、駅舎は少しピンクがかった石積みで、目地に白い化粧がほどこしてある、ちゃんと掃除を行き届かせればかなり洒落た造りである。そうは言ってもハバロフスクのくすんだ灰色に比べて、の話で、ヨーロッパはヨーロッパでも、ポーランドあたりの地方都市の中央駅位のものだ。
 しかし、19世紀の末に、冬も使える不凍港を求めて東へと進出してきた帝政ロシアが、太平洋への拠点としたところだから、当時としてはかなりな力を注いだのだろう。街の名からして、“東方を征服する”という意味なんだそうだ。
 日露戦争のときは言わずと知れた極東艦隊の基地。ヨーロッパから回航してきたバルチック艦隊が、これと連携してしまったら日本の制海権は消滅し、大陸に展開した日本陸軍は座して死を待つのみ。敵は太平洋まわりか日本海を通るか。こちらの艦隊は一編成しかない。さあどうする秋山真之。‥‥司馬遼太郎『坂の上の雲』を夢中になって読んだものとしては、敵の本拠地金角湾をひとめ見てみたい、と平野副領事にお願いして展望台に連れて行っていただく。
 ソ連時代は完全な軍港都市で、外国人はもちろん、一般市民も周囲何キロからは入れない、それこそ鉄のカーテンに閉ざされた街だったという。
 展望台は寒風が吹きすさんで、5分もしたら顔がひりひりしてきた。じっくり見ることもできず、ヴィデオをざっと回して車に逃げこまなくてはならなかったが、深い入江が入り組んだ湾内のあちこちに、灰色一色の軍艦が停泊している様子は、腐ってもロシアの巨大な軍事力を垣間見るようで、威圧的であった。
 「空母とか、原潜とか、見せたくないものはあの半島と島の向こう側にいます。もっとも肉眼で見えなくてもアメリカあたりは偵察衛星ですべてチェックできますから」と平野氏。丸腰国家の国民にとって、ここから見える高い艦橋と砲を装備した灰色の艦隊だけでも充分おじけづくには充分だ。入江の奥の巨大なものどもは隠れたままでいてもらいたい。
 しかし、兵隊は給料を半年一年ともらわなかったら、いくら衣食住を支給されていてもストレスは溜まるだろう。赤塚富士夫の漫画に、気に入らないことがあるとすぐに発砲する警官がいたけれど、ミサイルでもぶっ放してスッキリしようぜ、などという事態を招かないためにもエリツィンさんにはしっかりしてもらいたいものだ。

 さて、ホテルの部屋にいろいろなものが領事館のスタッフによって運び込まれた。電気ヒーター、湯沸しポット、コーヒーメーカー、コーヒーカップ、皿、スプーン、箸、コーヒー、クッキー、トイレットペーパー、スリッパ。給湯がままならず、暖房もいつ切れるかわからないというので、領事館員のご家族が貸し出して下さったのである。タッパーにはいなりずしまで入っている。「せっかく来てくださったのに、こんな事態で申し訳ない。もし風邪でも引かれたら大変ですから」ということだが、われわれはほんの三日ほどで移動してしまうけれど、館員とご家族は何年も“こんな事態”のなかで暮らさねばならない。申し訳ないのはこちらの方である。日露間の意志の疎通は、こういう方達の日々の努力の上に成り立っているのだから、ロシア極東にいる間だけは我々も同じ条件ですごさねばならないのではなかろうか。
 コンサート会場は古めかしい劇場である。ここの音楽ディレクターは我々がひそかに“ウディー・アレンの干物”と名づけた神経質そうな銀縁メガネ。このコンサートは日本総領事館の主催で、会場は借りただけだから、このおじさんの出る幕ではないのだが、なんだかんだと口をさしはさんでくる。ロシア人の縄張り好き、と何度となく聞いたのはこのことか、と妙に納得してしまう。司会者が一曲ずつ曲目紹介をしてから演奏すべきだとか、この会場は音響が最高なのだからうしろの屏風はいらない、などの文句に対してご機嫌を損ねないようにひとつずつ論破できたのは秘書官の山本千津子さんの語学力のおかげであった。ま、何事も日露親善である。テーブルをひっくり返してはいけない、いけない。
 コンサートは好評。何曲か終わったところで、突然男がステージに駆け上がってきて姫の方に近づいたから、むむっ、これはまず御提琴と御弓をお守りせねば、と身構えたのだが、男は姫に花束を押し付けると客席に戻って行った。ロシア人のウケの表現はすごいですね、あれはこちらの風習ですか、と山本さんに聞いたら「私もはじめて見ました」ということで、結局はちょっと変わった人に過ぎなかったようだ。やれやれ。

 日本を出るときに周りが心配したようなあやういことは少しもなく、われわれはウラジオストクからモスクワへアエロフロートで飛んだ。零下21度の赤の広場で硬直し、隣接した地下三階の巨大かつ豪華なショッピングモールに驚き、旧ゴーリキー通りでレストランをさがしあぐねて凍えそうになる。翌日はプラハ着いて街並みに感激するのであるが、あっと驚くような話題に欠けるので、これをもって報告終了。

【初出:『JazzLife』1999年6月号】