4年間同じ携帯電話を使っていると、「ずいぶん物もちが良いね」と感心されるのは仕方ないとしても、「白黒画面?!」「へー、カメラついてないんだ〜」と古生代のトカゲでも見るような目つきをする奴には多少ムカつく。
 電話が通じりゃ文句ないだろうが。メールだってできるんだから何の不足もない、と意地を張っていたものの、画像を送られても見られないとか、何かというと「このサイトには接続できません」と断られることが多くなってくると、何となく無人島に取り残されたような気分になってしまう。
 単色、2.8cm×3cmの画面に表示できるのは9字×6行。
 メール本文を入れる時は[本文編集]のタイトルに加えて、[byte数][文字種]の表示に3行取られて残りが3行、たった29字で3行とも姿が失せて次の空白画面になってしまう。従ってしばしば行きつ戻りつしないと文章がつながらない。
 受信は、[差出人][アドレス][発信時刻][表題]の下にたった1行メール本文が見えるだけである。簡単な連絡メールでも最初に見えるのが1行だけだとフラストレーションが溜まる。
 “○○の件ですが、検”……検討したのかしなかったのか、OKかよNGかよ……
 “佐藤様、打ち合わせ”……い、いつなんだよじれってぇな……
 そして次第に電池寿命が短くなってきた。しかも数分で充電ランプが消える。早すぎないかい、とコードを振るとまた充電が始まる。つまり接触不良でもある。不安なのでいつも充電器を持って歩く。これもフラストレーションのもとである。
 それやこれやで、正月に一大決心、買い替えることにした。
 とりあえず駅前の安売り携帯電話ショップでカタログをもらい、研究に入る。
 4年という歳月、携帯電話にとっては40年に相当するのではないか。なになに、財布のかわりになる? 電車に乗れる? テレビが見られる? ナビだ? ムービーだ?
 一体何のカタログを見ているのかわからなくなってきた。
 だからさ、電話だよ、電話。オレが買おうとしているのは。
 とにかく今までのが少し進化するだけで良いんだから、それと馬鹿にされないためにちょこっとカメラがついて、と。
 着メロ200曲?
 これだよ、憎むべき着メロ。オレはあいつが大嫌いなのだ。電話がかかってきたことを知らせるのに何であれほどジャカジャカ大騒ぎしなけりゃならんのだ。なんで音“楽”なのだ。自分が好きな曲なら一人でじっくり聴け。そんなもの200曲も入れてどうするんだ。
 オレは今までどおり自分の着“音”を自分で作る。中途半端な感情の入らない機能に徹した音を。一度に64音なんて要らないよ。せいぜい3音で充分。
 何だと? (註)自作曲はできません?
 そんなのは買わないっ。次。おい、これもできませんだと。これも、これも……
 そうか、便利になるってのはこういうことだったんだな。だれも自分で考えなくなる。
 お仕着せの「有りもの」を取り込んで満足する生活。
 結局カメラつき、自作曲可のP社製に落ち着いた。

 いや〜、華麗ですな〜。4cm×5.4cmのディスプレイ、フルカラー。10文字10行。デジタル20倍ズームカメラ、バーコードリーダー、財布。SDカードメモリー。その他いろいろ。
 さっそく着信音を作る。
 音色を当てはめる段になって妙なことに気がついた。
 前のやつにはいくつかあった「素朴な」電気音、つまり何のエフェクトもかかっていない素のサイン波、スクエア波、三角波、鋸歯状波がないのだ。あるのは変に中途半端なサンプリング音源、つまりトランペットやサックスやギターといった情緒的な音ばかり。
 これは云ってみればダウンロードした音“楽”を再現するためのものであって、呼び出し音という記号のための無機的な音のことは一切排除されているということだ。
 もとより、たかが携帯電話の着信音に、1950年から60年代にかけてカールハインツ・シュトックハウゼンや一柳慧さんや、黛敏郎さんがスタジオで磁気テープを何度も加工して作り上げていた電子音楽のもつ凛とした風格を求めるのは無理な話だと知りつつ、あのころ彼等が行った何週間もの作業を一瞬にしてこなしてしまう能力がなにやら得体の知れない安易な音のために使われてしまっているようで、疑問符だらけの新機種なのである。
 でもカメラは楽しい、って云ってるオレの節操のなさよ。

2005年1月31日



 今年は“バード”チャーリー・パーカー没後50年にあたる。
 そのためか、彼にまつわる催しや話題が目につくが、なかでも「パーカーのサックスが22万5千ドル(2400万円)で落札」という新聞の見出しは一般の興味をそそるものだっただろう。
 生活費やクスリ代に窮してしばしば質入れされたという楽器は、死後ただちに奥さんのChan Parkerがベッドの下に隠したのだという。たぶん債権者などの目を逃れるためだったのではないか。
 1999年に奥さんから娘に遺贈されるまで、このサキソフォンは45年間ベッドの下で眠り続けていたのだ。
 ジャズ・ファン、とくにバードの信奉者にとって、数々の名演を引き出した楽器とあれば巨額を投じても手許に置いておきたいものに違いない。それにしても2400万とは驚きである。一体どういう人が落札したのか。バブル時代だったら日本人ということは充分ありうるけれど。
 このオークションを行ったのはGurnsey'sという会社で、1975年創立、ヴィンテージ・レーシングカーやカストロ体制以前のキューバ葉巻、J・F・ケネディーの書類や日用品のオークションで有名になったのだそうだ。
 今回は社長のArlan Ettinger氏が集めたジャズの巨匠にまつわる品々を出品したもので、2月20日リンカーンセンター内のFrederick P. Rose Hallで催された。
 総数450点、次のような逸品がリストアップされている。カッコ内は落札価格(ドル)。

  • Lionel Hamptonのヴィブラフォン
    1930年代 King George社製
(50,000)
  • Diizy Gillespieのトランペット
    Martin社製custom made
(26,000)
  • Bill "Baujangles" Robinsonのレザータップシューズ
(40,000)
  • John Coltrane母宛の手紙 / 1964年
(16,000)
  • John Coltrane『Love Supreme』
    青インクと鉛筆による自筆楽譜3ページ
(11,0000)
  • John Coltraneのテナーサックス
    ※500,000ドルの設定値が高すぎたか売買不成立
  • Thelonious Monk高校時代(16才)のノート
    “Everyone should read good newspapers”などと記されている
(60,000)
  • Thelonious Monkのスモーキング・ジャケット(室内用上着)
    袖の内側に奥さんの刺繍で“crepuscule with Nellie(ネリーと過ごすたそがれ)”
  • Benny Goodmanのクラリネット
(25,000)
  • Louis Armstrongの電報(Joe Glazer宛)
    Western Union Telegram「自分がもらうことになっている分から500ドルと花を失意のジミードーシーに送って下さい」
  • Louis Armstrongマネージャー宛の手紙31ページ
  • Charlie Parker1951年未発表テープ
  • Peggy Lee '60後半ラインストーン装飾のガウン
  • Billie Holidayサイン入りポートレート

 どのようないきさつでこのような品物がエッティンガー氏のもとに集まったのかは明らかではないが、Monkの息子のT.S.Monk氏の言葉が巨匠達の遺族の思いをあらわしていると見てほぼ間違いあるまい。
 「ジャズファンに人間としての父を感じてもらえるようなアイテムを選んだ。なぜなら父達の音楽はこの先500年経っても残るが、たとえばパーカーを知っていてもその頃に彼の声を憶えている人はいないだろうから」
その意味では、コルトレーンの手紙とか、モンクのノート、サッチモの電報などは人柄を伝えるという点で楽器よりはるかに価値がある。が、同時にモダンジャズ、ビーバップがすでに「歴史の領域」に入っているのであるということをあらためて実感させられる記事で、読みつつ複雑な気持になった。
 それはそれとして、品々のなかには各地の美術館による落札も数多くあって、それらはジャズ・コレクションとして展示されることになるはずである。また遺族達は売り上げをいろいろな基金に寄付するという。そこにはジャズを学ぶ若者にたいする奨学金を給付する基金もあるそうだ。 
 最近のアメリカはすっかり狂って、困った国になってしまいつつあるが、まだまだ良い所も残っているではないか。

2005年3月15日



 「スロヴェニアへ行く」というと、たいていの反応は「え? それ何処だっけ? 旧ソ連?」である。「ああ、チェコから分かれた国だろう?」、「おいおい、なんでそんな危険な所へ?」なんてやつもいる。
 正解は旧ユーゴスラヴィアから分離独立した国だ。
 西がイタリア、北がオーストリア、東がハンガリーに接し、南が同じくユーゴから分離したクロアチア、その南がボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア・モンテネグロ。ここまで来るとコソボ紛争の最中だからとてもジャズフェスどころの話ではない。
 が、スロヴェニアは2004年にEU、NATOに加盟し、来年から通貨もユーロになろうという安心できる国なのだ。面積20,256平方キロ、ほぼ四国ほどのところに199万人、首都リュブリアナで28万人だから、のどかな小国家である。
リュブリアナのシンボルは竜だという。ギリシャ神話に、父の王位を奪った叔父のペリアスから金の羊をさがして来いと命じられた王子イアソンがアルゴ船の一党を率いて遠征に出て、さまざまな試練ののちアイエテス王から首尾よく羊を盗み出す話がある。
 そのイアソンが黒海からドナウ川を遡り、サバ川からリュブリアニカ川に入り、このあたりまで来たとき怪物と遭遇して戦い、退治したのがリュブリアナ・ドラゴンだ、と言い伝えられているそうだ。
 銅像は、背に始祖鳥のような翼が生え尾が蛇になった獣だ。
 旧市街を歩くとそんな伝説を素直に信じたくなるくらい蒼古とした雰囲気に包まれる。
 ホテルの脇の道を少し下ると、ピンクのファサードが美しいバロック・スタイルのフランチスカ教会と、リュブリアニカ川に架かる三本一組の橋Tromostovje(三本橋)のあるPreseren's squareという広場にでる。この橋はリュブリアナ生まれの建築家ヨジェ・プレチニックJoze Plecnik(1872〜1957)が1931年に造った。
 彼の生家が、川から城のある丘へ登る小路にあって今は小さなギャラリーになっている。
 プレチニックはリュブリアナの都市計画にも携わり、いくつもの公共建物、教会、橋を設計し、それが現在のリュブリアナの景観の基礎になっていると聞くと、支離滅裂なトウキョウがひたすら哀れになってしまう。

 演奏会場はホテルから歩いて十分ほどのIvan Cankar Congress Centre、別名Cankarjev Domという1980年オープンの多目的文化センターである。
 Cankarjev Domが毎年主催しているジャズ・コンサートのシリーズ《Cankarjev Jazz》で今年は日本文化フェスティバルを催す。ついては最終日にソロを、という依頼を受けた。
 他の日は3/21 Otomo Yoshihide & Sachiko M.、 3/22 Otomo Yoshihide New Jazz Ensemble、3/23 Ando Masateru、4/8 Nobukazu Takemura、と飛び飛びで(姓名の順もバラバラだが)、どういうわけか4/14 にHenry Grimes - Marc Ribot“Spiritual Unity”が入って4/15が我々となる。
 この日の出演は、藤井郷子(p)+田村夏樹(tp)デュオ、八木美知依(筝)ソロ、佐藤ソロ、最後に一曲佐藤+八木で締めくくり。
日本関係はこれで終わりだが、コンサート・シリーズはまだ続く。6月末から7月2日までは第46回リュブリアナ・ジャズ・フェスティバル。調べていないが、ことによったら秋にも何かあるかも知れない。
 ホールは収容600人、いうならば中ホールだ。
 人口わずか200万足らずの小国で、これだけの数のコンサートをたった600人のホールで催して採算がとれるわけがない。それを何年も続けてきたことだけに対してすら脱帽せねばなるまい。トヨタがスポンサーについているとみえて、文化センター前庭に旗が翻っていたからこちらにも感謝すべきだとしても、である。
 あきらかに累積しているに違いない赤字はどう処理されているのか。
 なにしろ50分一本勝負のフリー・インプロ・ピアノ・ソロのために、日本からの航空運賃+前後一日の余裕+ホテル代+per diem(食費などの日当)+それなりの出演料を支出してくれたのだ。
 中世の街の文化は奥深い。

2005年5月31日



 4月15日Cankarjev Dom、ソロ45分ノンストップ。気持としては20分だろうか、ずいぶん短く感じた。日本でフリー・インプロをやっているのとどこか違う。集中して聴いてくれているのがよくわかるし、こちらも集中できる。なぜだろう。
 理由として考えられるのは、日本だと時に応じていろいろな形態の音楽を演奏しているから、聴きに来てくれる人たちも様々だ。「今日はフリーです」と宣言しても「一曲くらいスタンダード弾くだろう」とか「民族系やってくれ」と思うだろう。仮に思わなくても、こちらで「そうなのではなかろうか」と潜在的に感じているかも知れない。
 そのあたりが雑念となって、多少なりとも集中を妨げるのではないか。
 早い話、わが未熟から発する。
 この日も気になることがないわけではなかった。ピアノの音質である。
 スタインウエイのフルコン。型としてはむろん不満はない。しかしサウンドチェックの時にわかっていたのだが、このホールは芝居などもできるようにステージ下が奈落、つまり空洞になっている。こういう構造では、ピアノの低音域が痩せるのだ。
 9フィートのピアノがせいぜい5フィート位の響きになってしまう。例えば3リッターのエンジンを具えるべき車を1300ccほどの出力で運転するようなものだ。
 以前ならこういう場合、う〜ん加速しないな〜、とアクセルを床まで踏んで欲求不満になるところだが、最近は「そうか、それならお前さんのできる範囲内で楽しくやろうぜ」と思えるようになった。ま、加齢とともに丸くなった、ということですかな。
 ともかくこちらは至極楽しいうちに終了した。

 リュブリアナ着13日夕方。帰途17日。
 一回の演奏の前後一日ずつ空きがある、というのはなかなか贅沢な日程だ。何ケ所か回る場合、各地の主催者は空き日を作らないように日程を組む。そうしないと、その日の滞在費が前か後どちらかの主催者の負担になるか、演奏者が自腹を切らねばならなくなるからだ。
 プロデューサーのBogdan Benigar氏に感謝しなくては。そうそう、スロヴェニア語で「ありがとう」はhuallaだ。
 しかもBenigar氏は16日に少し遠出をしようという。「スロヴェニアには海もあるんだ。わずかだがアドリア海に面している。良いリゾートだよ。車で一時間半ほどだから、そこでランチはどうか」。こちらは大歓迎だよ。hualla、hualla!
 地中海を見るのは数年ぶりだし、ここへ来てから馬だの鹿だの猪だの山羊のチーズだの、とスロヴェニア料理探究のためにほとんど遊牧民の食事だったから海産物はうれしい。

  

 Morovaという海辺の町の、イタリアなどにくらべるとかなり素朴なリゾートホテルが何軒かならんだところを抜けて、こじんまりしたヨットハーバーの裏手のあたりの一見“小食堂”といった風情の店に入る。アドリア海の色をカメラにおさめるのはメシのあとでゆっくりと、と思ったのが実は敗因で、魚のスープ、山盛りランゴスティーニのパスタなどに圧倒されているうちに大雨となった。地中海のターコイス・ブルーはおあずけ。

 Benigar氏、「雨が降っても関係ないところへ行こう」と30分ばかり丘陵地帯の曲がりくねった路を飛ばす。「どこへ行くのか」とたずねると「〜ヤマ」という。
 え? そりゃここいらは山には違いないが、スロヴェニア語でマウンテンがヤマか? 面白き偶然なるかな。日本語でもマウンテンはヤマなり。否、ヤマとはケイヴなり。ケイヴ? 洞窟なるや? 然り、ケイヴはスロヴェニア名物なり。ああ先刻汝が提案せしこと我只今了解せり。げに鍾乳洞なれば晴雨にかかわらず観光可能なり。善哉、善哉。
 このあたりはイタリアから続く石灰岩地帯(カルスト)で、鍾乳洞が多い。PostojnaにあるPostojnska Jamaがポピュラーで、ヨーロッパ各地からバスツアーがやってくるのだという。
 入口から二人ならんで座るトロッコ列車に乗り、両側の窪みや天井のつらら状の岩がライトアップされているのを見つつ15分ほど地底に下る。約3kmうねうねと進む間ずっとこういう光景が続き、少し飽きたころに小型のドーム球場ほどもありそうな大空間に着いた。
 ここから英伊独仏などガイドの言葉別のグループに分かれ、徒歩で歩く。
 ガイドの受け売りをすると、地底を流れるPivka川の侵食によって生じたいくつもの大小さまざまな空間、4〜5000人以上のコンサート・ホールくらいのものから地蔵さんをおさめる祠程度まで、が複雑に枝分かれした洞窟の通路で結ばれて20kmにもなる。
 洞窟は四層あって、我々が観ることができるのはもっとも地表に近い第一層、現在の川は地底深い第四層を削りとっている最中で、何千年だか何万年後にはそこからさらに陥没して五層目を作るようになるかも知れない。
 川がはるか下を流れるようになっても第一層にはあちこちに池や細流がある。そこにはolm(proteus anguinus/ホライモリ)という薄いベージュ色で眼のない細身のイモリをはじめ、130種もの地底動物が棲んでいる。
 そう云われて、照明がすべて消えてしまった時を想像したら、にわかに背筋がぞくっときた。そうでなくても、今日は暖かいし海へ行くのだから、とTシャツに軽いジャンパーしか着てこなかったので洞窟内の冷気に参っていたところなのだ。
 これで風邪を引いたらどうしてくれる。
 地底怪奇世界はサスペンス劇場より迫力に満ちておりました。

2005年6月27日



 34年目の今年、メールス・インターナショナル・ニュージャズジャズフェスティバルは大きな節目を迎えることになった。
 創始者=プロデューサー=音楽監督のブーカルト・ヘネンが今回限りで引退するという。今までも毎年のように「もうやってられん」と言っても、そのつど翻意していたから周囲は「またやるに違いない」と軽く考えていた。しかし今年はかなり早い段階で新聞に決意表明をしてしまった。今後はたとえ新しいプロデューサーのもとで継続するにしてもフェスティバルの大きな様変わりは避けられないだろう。
 ブーカルトはこれまでに世界中のフリージャズ=ニュージャズ系のミュージシャン/グループをほとんどメールスのステージに登場させた。
 グローブユニティー・オーケストラ、アンソニー・ブラックストン、アーチー・シェップ、ミッシェル・ポルタル、ダラー・ブランド、アートアンサンブル・オブ・シカゴ、サン・ラ・アーケストラ、セルゲイ・クリョーヒン……。
 さらに、ユッスー・ンドゥール、フリードリッヒ・グルダ、レスター・ボウイ……とジャンルにこだわらない視野の広さで耳目を集めてきた。
 日本からは山下洋輔トリオ(1974)を皮切りに日野皓正カルテット('78)、井上敬三ソロ('81)、ドクトル梅津バンド('83)、藤川義明イースタシア・オーケストラ('84)、近藤等則&IMA('86)……と毎年のように出演が続く。
 私もソロ('82)、TON KLAMI〜姜泰煥、高田みどりトリオ('91)の二回演奏した。
 82年の時の会場は、公園の中にある市民プール隣の体育館のような所だったが、二回目は巨大なサーカステントに替わっていた。ブーカルトが云うには「ヨーロッパ最大のテント」だそうで、なるほど天井高は20mもあるだろうか。空中ブランコもはるか上空を見上げるような大きさだ。
 ビッグバンドがふたつ位乗りそうなステージを一方に組み、サーカスなら曲馬などが演じられるアリーナにパイプ椅子をならべ、中央やや後方にPA席、周囲三方が木組みの椅子席。2000席以上作ってもまだ通路やステージ前は広く空いている。満杯になったら3000、4000、いやブーカルトが豪語する5000もあながち誇張ではない。
 メールス城址公園に隣接するフライツァイト・パークの広大な森と芝生の広場は、キャンピング禁止の高札が立っているが、フェステイバル期間中は許されているのだろう。小型の色とりどりのテントがあちこちに張られている。
 会場は金網フェンスで仕切られ、正面(来場者)、左サイド(関係者)、裏(楽器搬入、出演者)と三つのゲートがある。出演者は開場前に左サイドから入り、受付でパスを申請する。ポラロイドで顔写真を撮って貼りプラスチックカバーをかけたものを首からぶら下げておけば、会期中どこでも出入り自由だ。
 金網フェンスの中は、テント村にキャンピングカーの展示場を足したような光景である。
 主会場の大テントのステージ裏につながって控え室用のテント。中は黒い垂れ幕で四つに仕切られ、それぞれ別バンドが待機できるのだが、薄暗い電球が二つばかり、パイプ椅子と小机、ミネラルウオーターの箱が置いてあるだけなので皆食堂に集まる。
 食堂テントにはビールの飲めるスタンド(一杯1ユーロ=うまい、安い)、ビュッフェ(無料=ソーセージ、ポテト系はさすがにうまい)、ガラスのグラスに2ユーロのデポジットを払えば一杯1ユーロの赤ワイン(フランス製。なぜかドイツワインは置いていない)など完備しているから、300人ほどが座れる3列の長テーブルは各国の記者、ライター、ミュージシャンでいつも満員。格好の情報交換の場になっている。
 その他にプレス用だがミュージシャンも可、のコーヒーやスナック(無料)を出す小型テント、大テント入口につながったCDや書籍やTシャツを売るテント、関係者入口の事務用テントなどがある。
 食堂テント脇は中継車(放送用の録音ができる)、スタッフ用のキャンピングカー数台、楽器や機材を収納するコンテナ数個などが置かれ、一見野戦陣地のような様相だが皆なんとなくのんびりと仕事をしている。出演者が替わっても毎年同じ布陣で同じ仕事をしてきた余裕かも知れない。

 ジャズ祭で名を馳せているメールス市だが、どんな街なのか実は私もよく知らない。
 で、一応調べてみた。
 ドイツでは、車を締出した商店街が町の中心である。そしてその真中にはたいてい城か教会がある。いや歴史的にはこの逆か。まず城か教会があり、そのまわりに町ができたというべきかも知れないが。ともかくメールスもこの例にもれず、店、レストランなどがある地域を抜けるとすぐにメールス城のある森に入る。
 メールス城およびその領地(すなわちいまのメールス市)は12世紀から1600年までメールス伯爵家の所有。1601年にオランダの将軍Moritz von Nassau-Oranienが相続、1702年プロイセンのBrandenburg家が相続。1794年フランスが占領。1815年プロイセンに返還。1918〜1926年ベルギーが占領。1954年3月3日米軍が占領するまでドイツ領。
 街としてのメールスは1900年頃からRheinprussenn、Pattsbergという鉱山の炭坑労働者の居住地として大きくなったのだそうだ。この鉱山には1936年に石炭から合成燃料を作るプラントができ、ル−ル工業地帯のなかでも重要な役割をになうことになったから、メールスもにぎわったことだろう。しかし1965年に炭坑不況を迎え、1993年には閉山してしまう。
 現在メールス城はGrafschafter Museumになっている。
 メールスはフランクフルトの北西208km、デュッセルドルフの北北西28km、アムステルダムの南東156km、ブリュッセルの東北東171km、直近の街デュイスブルグの西方9kmにある、といえば大体の位置がつかめるかな。

 さて、そのメールスで「富樫雅彦の音楽を紹介する」という使命を帯びて演奏することになった。
 ブーカルトが以前から希望していた富樫雅彦の招請が不可能となってしまった今、世界のフリージャズ・シーンの重要人物をメールスに網羅するという目標に少しでも近付くために出てきたアイデアであろう。
 富樫さんの音楽を最も良く知っているから、と私が選ばれたのは嬉しいとしても、富樫さんなしで彼の音楽が成立するか、となると??? である。
 むろん30年以上のつき合いで、彼の還暦コンサートでは大編成のアレンジを担当したし、J.J.SPIRITTSのレコーディングや曲作りで多少の助言もしたり、とかなり深く関わってきたとはいえ、それらはすべて彼の表現をサポートするためのもので、彼の叩き出すサウンドがあって初めて完結するのだ。
 それにブーカルトが求めているのは『Masahiko plays Masahiko』#1〜3のような音楽ではなく、富樫さんがフリーインプロヴァイズで表現する世界だ。
 富樫さん抜きの富樫雅彦の音楽とは……?
(続く)

2005年8月8日



 富樫さん抜きで富樫雅彦の音楽を表現する、というかなり無謀な試みにあえて挑んでみようと思ったのは、35年を越える彼との音楽上の交流を通して「これが富樫さんの音楽の底流だろう」とかなり確信できることをいくつか掴めたからだ。
 富樫さんが現場で創り出す音(=improvise)を料理だとすると、それを盛る〈器〉にあたるのが曲である。
 富樫さんの音を本人以外が創るのは不可能だが、器は再現できる、とは誰しも思うところだろう。しかし、彼の曲は一見シンプルだけれど富樫さんと演奏したものでないとわからないことがたくさん隠れている。
 オーソドックスなジャズを演奏することを主眼にした『J.J.SPIRITS』をのぞいて、富樫バンド(『ESSG』『TRIAL』『INTER-ACTION』など)のレパートリーの楽譜はすべて1曲が五線紙1枚である。
 むろんそれは再現可能な形としての正統的なスコアではない。あるいは武満さんのいくつかの作品のような図形譜でもない。あるのは原メロディー、またはジャズでいう「riff」と、場合によってはベースパターン、それに続く簡単な楽想を指定した「improvise」という文字だけである。
 彼はリハーサルでかなり細かいニュアンス上の注文を出す。一番多いのはポルタメント(ある音から次の音へ無段階で上昇あるいは下降する)の付け方であった。また同じ旋律を吹く管楽器同士の“ずれ”、そしてリズムパターンの“伸縮”、といったもので、なるほどこれらを逐一譜面に書いたとしたらとても複雑で解読不可能なものになってしまうだろう。
 つまり富樫音楽では古武道や伝統芸能のような〈口伝〉が重要な役割を担っているのである。従って、固定されたものと見られる〈器〉にも富樫音楽が息づいており、これだけでも富樫音楽は充分にユニークなのだ。
 富樫さんが演奏の場から引退してしまった今、〈口伝〉を継承するのはバンドのメンバー、すなわち私を含む数人であり、なかでもいくつかのコンサートで大きな編成のスコアリングを担当した私が〈口伝〉をいくぶんかでも形にしておかなかったら、彼の音楽は録音されたもの以外すべて消滅してしまうことになる。

 さて、アレンジャーの眼を通した富樫作品における独自性をいくつか列挙してみよう(富樫さん自身のパーカッション・サウンドをのぞく)。

  1. 【にじみ】上にも触れたが、たとえばソプラノ・サキソフォン3本のユニゾンを互いに少しずつ前後して吹くことによっ生じる。シンセサイザーで言えば「コーラス効果」にあたるが、それよりも複数の尺八のような奥行きを感じる。旋律の性質によっては墨絵の「にじみ」を想起させる。
  2. 【断裂】静かな旋律から短いパッセージを介して突然高速のフリー・インプロヴィゼイションに突入する。あるいは予期できない休止。聴き手に「なんで?」と思わせるテクスチュアの断裂、意外性。
  3. 【同時進行】速度の異なる流れを複数併走させることで生じる緊張感。
  4. 【非定速】たとえばオスティナート(繰り返されるリズムパターン)は一定の速度を守ることが鉄則だが、富樫音楽にあっては奏者の状況判断によって変化するのが当然。

 このほかにもいくつかあるが、これらに共通するのは、すべて西洋音楽(オーソドックスなジャズを含む)では「避けるべき」とされているものばかりである。富樫さんがどんなプロセスでこういう境地に到達したのかを書きはじめると、それだけで一冊の音楽論ができあがってしまうだろうが、本人は恐らく「そんな難しいことは考えてなかったよ。やりたいことを書いただけだ」というに違いない。
 デューク・エリントンのサウンドを研究して『Line Writing』理論を構築したハーブ・ポメロイによれば、「なぜここでこういう音を書いたのですか」とエリントンに尋ねたら「君はこの音が嫌いか?」という。「素晴しいと思います」「そうか、それが答えだよ。良いと思ったから書いたのさ」。
 天才とは概してそういうものらしい。後付けの論理化は我々凡人の役目なのだ。
 それはともかく、このような手法を骨格として組み上げて行くことによって、富樫音楽の〈器〉が成立するはずである。
 当初、ビッグバンド+3フレンチホルン+木管、くらいのサイズで行くことができれば理想的、と考えたのだが、メールス側では予算の制約もあって10人内外で来てほしいという。
 これはかなり困る。人数が多ければ〈器〉組と〈料理〉組、つまり読譜のエキスパートと過激なインプロヴァイザーという役割分担が可能なのだが、10人となると両方の能力に秀でたプレイヤーでなくてはならない。
 残念ながら我が国にそういう人材は多くない。そのうえ、これは、という人はみな一国一城の主で多忙である。仮にスケジュールがOKでも、ライブハウスのチャ−ジバック程度のギャラでドイツまで行ってくれるか。
 音楽以外のことで難問が山積するプロジェクトなのだなぁ……。
(さらに続く)

2005年8月31日



 音楽以外の難問の最大のものは言うまでもなく「財務」(財布?)だ。
 十人分の航空券を負担するだけの余裕なんて、わが零細オフィスにあるわけがない。どこかから救いの手をさしのべてもらわねばならない。
 まず考えたのはレコード会社である。以前ベルリン・ジャズフェスティバルにトリオで出演する時、ライブ録音テープをもらってくるかわりに飛行機代と滞在費を出して、と頼んだら一発OKしてくれた。当時ヨーロッパ往復は今より3倍位高額だった。にもかかわらずほとんどディレクター一存で決済できたのだ。
 そんな記憶もあってお伺いを立てたところ、「そりゃ聴いてみないと何とも言えない」というつれない返事。考えてみれば当然だ。これまでのBAJレーベル25タイトル、そのほとんどがいまだ採算点に達せず、親カンパニーの脛をかじりっぱなしなのである。そろそろ勘当、と思っているのかも知れない。
 ここはひとつ「お上」に頼るしかないか。
 国際交流基金に助成を申請してみよう。もし駄目ならあきらめる。
 しかし、それにはかなり大量の書類にさまざまな事柄を記入し、決定が出るまでにいろいろなやり取りを経なければならない。手順を書いたものを見ているだけで気が遠くなる。50段のスコアを書くほうがよほど簡単だ。
 今回はプロデューサーBurkhard Hennenの長年の友人である評論家・副島輝人さん経由のことなので、面倒な手続きの取っ掛かりは副島さんにお願いしたが、それでもオフィスのMs.Kには相当の事務量だったことだろう。私自身ですべてやらなければならないとしたら最初にギブアップである。
 それに申請期限が12月ときている。翌年5月の一週間スケジュールを仮押えしてもらっておいて、助成決定3月末に「だめでした。キャンセルして下さい」と言わなくてはならない確率50%。その場合に発生するキャンセル代はどうする?
 えー? 来年5月ですか? そのころ新譜が出る予定で全国ツアーがあるかも知れない。ド真中一週間仮押えはキツイなー、なんて人もいるだろう。
 それやこれやを考えると、不確定要素が多すぎて十人の最強メンバーを年内に揃えるのは大変だ。しかし富樫雅彦の音楽を世界に発信するのは日本のジャズのためでもあるし、Burkhaldの思いでもあるし、最終的には私自身のためでもある。どれほどの困難があろうともこのプロジェクトを実現しなければならない。

 その第一ハードルは峰厚介氏が行ってくれるかどうか、だった。
 彼は富樫雅彦J.J.SPIRITSでの同志だし、富樫さんの音楽を体現できるサキソフォン奏者は彼を措いて他にいない。先月書いたような楽譜にあらわれない富樫さんの感覚を直接体験した唯一のプレーヤーなのだ。
 幸運なことに峰さんOK。
 この時に、お、これはもしかしたら成功するかも知れない、と思った。
 峰厚介(ts)、山口真文(ss)、多田誠司(as)、田村夏樹(tp)、松本治(tb)、山城純子(b.tb)、加藤真一(b)、岡部洋一(perc)、安藤正則(dr)。
 これだけの布陣ができたのはきわめて幸運というべきだろう。
 次にグループ名を決めなければならない。それも急いで。
 ちょうど何やかやと忙しい時期で、じっくり考えている暇がない。とっさに思い浮かんだのは「この規模の編成ならSAIFAだな」、であった。
 SAIFA −サイファ−は5管3リズムで、レコーディングをしようと計画中に日野元彦氏の死去で果たせなかったバンドだ。メンバーは中川昌三(fl)、山口真文(ss)、土岐英史(as)、佐藤達哉(ts)、松本治(tb)、桜井郁雄(b)、日野元彦(dr)。
 今回はその山口、松本の二氏が加わってくれるのだからあながち根拠のないことではなない。それに、これをきっかけにまた活動を再開できたら良いかも知れない。書き下ろしが何曲も眠っていることだし、等々多少の欲張りも交えて決定した。
 音楽的には何の心配もない。リズムセクションはTipo CABEZAのユニットに若手のホープ安藤君でパンチ力とスピードなら任せておけ状態だし、管楽部は世界に誇りうる面々だ。
 問題があるとすれば、アレンジによって富樫雅彦色が薄まり、佐藤允彦色が突出してしまうことであろう。しかしこれまでの『Mahiko plays Masahiko』#1〜3、東京フォーラムでの《Next Cycleコンサート》、遡って《Spiritual Natureコンサート》までたどっても、私の解釈とアレンジにたいして富樫さんから異論が出たという記憶はない。従って私は安心してスコアを書くことができる。
 しかし、最近作『Masahiko plays Masahiko』#3あたりまでは富樫さんとかなり綿密な打合せをすることができたのだが、このところ体調があまり良くないこともあって、彼から長時間にわたって細かなイメージを聞き出すことが難しい。ここは彼の音楽とのこれまでのつき合いの蓄積を心の支えとして作業を進めることにする。

 次に録音である。
 1982のソロ、1991のTON・KLAMI、ともに会場用のPAのラインから録音したテープをもらってきてCD化したもので、音質的に決して満足できるものではなかった。今回は管楽器5本のバランス、パーカッションとドラムスのバランス、ピアノの音質、とさまざまな点で気がかりなことが多い。フェスティバルでは充分なサウンドチェックの時間が与えられるはずもなく、私自身がピアノを離れて調整卓で指示するのはむろん不可能だ。気心の知れたサウンド・エンジニアがPA席にいてくれたらどんなに有難いか。
 というわけで、広兼輝彦氏に無理を言って同行してもらうことにした。彼はこれまでのBAJレーベルすべての録音をお願いしている私が最も信頼するエンジニアである。
 録音用のラインを別に構築するのは時間的にも機材的にも(むろん経費的にも)無理なので、ステージ上の音はPAからのラインを分けてもらうしか方法がない。これだけなら前二回と同じような音にしかならないだろう。むろん管楽器のバランスなどを変えることはできない。そこで広兼さんは別にマイクを立てて客席の雰囲気を録るというワザを用いた。
 メールスの大テントという独特の音場、超満員の拍手と歓声が見事に録音されて、我々の少々荒っぽいがボルテージの高い演奏とともに広兼さんのPCにおさまったのである。

 その一切は12月発売のBAJ新譜『Live at Moers -Tribute to TOGASHI Masahiko-/SATOH Masahiko & SAIFA』で聴けます。

2005年10月3日



 PCが作業中にすぐ凍結するようになったので、メモリーを増やすことにした。
 A社のネットショップを見ると、わがPCは購入1年8ヶ月だというのにもう2バージョン古いのだと知っていささか気落ちする。そのうえ各バージョンで増設メモリーの製品番号が微妙に違っているようだ。画面にはそのあたりの説明が全くないのでとりあえず確認するために電話をかけてみる。
 この手の電話は例外なく合成音声案内だ。「製品の御購入は1、ご購入後の御質問は2、テクニカルサポートは3……」というやつ。それで通じるかと思うと「只今電話が大変混雑しております。順番にお繋ぎいたしますのでそのままでお待ち下さい」、で、妙な音楽が延々と流れる。この会社は『Take Five』をずっと聴かせるつもりらしい。しばらくするとまた「只今電話が大変混雑しております……」〜『Take Five』〜「只今電話が……
 拷問だ。
 これに耐えたものだけがやっと人間に応対してもらえる。
 二日後にメモリーが届いた。
 PCの冊子〈設置ガイド〉を開きつつ、取り付け作業開始。

  1. コンピューターの電源を切ります。
  2. 電源を切ったら5〜10分ほど放置して、コンピュ−タ−内部の部品が冷めるのを待ちます。
  3. 体から静電気を除去するために、コンピューター背面部にあるPCIアクセスカバーの金属部分に触れます。
  4. コンピューターからすべてのケーブルと電源コードを取り外します。
  5. 側面パネルを持ち、コンピューターの背面にあるラッチを持ち上げます。側面パネルを取り外します。
  6. エアディフレクタ、およびファン部を取り外します。
  7. メモリースロットの取り外しレバーを外側へ押して、スロットを開きます。
  8. 片手をコンピューターの背面に当てて支え、メモリーの位置と向きをスロットに合わせてから、タブが水平になり、取り外しレバーが所定の位置に固定されるまで、メモリーを押し込みます。
    重要:メモリーの端子部には触らないでください。メモリーは縁の部分だけを持って取り扱って下さい。
    図 :メモリーは一定の向きにのみ差し込むことができます。まずメモリーの切り欠きの位置とスロット内部の仕切りの位置を合わせて下さい。次に図のように取り外しレバーを開いておいてから、しっかりと固定されるまでメモリーを押します。取り外しレバーは、自動的に閉じます。

 ……簡単じゃないか。えーっと、レバーを開いて、メモリーを差し込んで、何? 切り欠きを合わせろ? 合ってるよな。しっかり押し込む、と。えいやっ。もうこれ以上行かないな。レバーが自動的に……閉じないぞ。もう充分押し込んだけどな。さらに、うーっ、う〜ん。イテテ、メモリーの角が指に食い込むぜ。自慢じゃないが指力には自信がある俺様がこれだけ押し込んだんだからもう終点まで行ってるはずだ。
 あまり押してスロットが壊れたら大変だ。
 レバーを閉じてみよう。あれ、閉じるけどまだ少し開いてる。もとのメモリーはどうなってるんだ? ははぁ、側面の切り欠きにレバーの頭が食い込むようになってるんだな。で、新しいやつは?……うーむ切り欠きがあと2mmばかり奥ならぴったりなのか。しかしこの2mmが、もう、うーっ、は、入りまっ、せっ、せ、んっ。
 ということは、だ。メモリーの型が違うか、合ってるとしたら製品ムラか。
 テクニカルサポートへ電話をかける。ふたたび、
 「只今電話が大変混雑しております……」〜『Take Five』〜「只今電話が……
 拷問に耐えて、
 「製品は間違いございません。充分に押し込んでいただいてもなおレバーが閉じないとすると、申し訳ありませんがサービスセンターにお持ち込みということになりますが」
 レバーがちゃんと閉じなくても使えますか?
 「それは私どもで保証できかねますが」
 とにかくサービスセンターへ持って行く時間的余裕がないので、他の手段があったら教えてくれませんか。
 「やはりお持ち込みいただかないと対処できません」
 え〜じゃ結構。こちらでさらにやってみます。あ〜あ、拷問と時間を無駄にした虚脱感を乗り越えて再度挑戦するか。疲れるよな〜。
 型が合っているとしたら製品ムラの公算大である。
 装着済みのメモリーとどのくらい切り欠きの位置が違うかを確かめよう。
 こいつを外すにはレバーを開いて、と。お、かなり固いぞ。こんなに力を入れて折れないか。せ〜のっ。ガチッ。
 驚いたね〜。ここまでがっちり入ってるんだ。
 えーと切り欠きと切り欠きを合わせて……おいおい、ピッタリじゃないか。
 となると何かい? おれがあれだけ全力で押し込んでも、まだ2mm先がある?!
 よ〜し、やってやろうじゃないか。スロットが裂けてサイドパネルを突き破ってもやってやるぞ。しかしもう指は限界だ。タガネと金槌か。最後はそいつに行き着くとして、とりあえずドライバーで押す。いや待て、静電気の問題があるから固いゴムが良いな。そうだ、鉛筆の尻に消しゴムのついてるのがあったっけ。これこれ。
 こいつをメモリーの縁に当てて、いち、にの、さんっ……

 コンピューターがこれほど体力を消耗するものだとは思っても見なかった。
 そうならそうとマニュアルに書けよ。「指で押し込んだくらいではダメです。専用の工具を必要とします(別売)。」
 もう金輪際『Take Five』なんかやるもんか。

2005年10月31日



 「H先生の原稿、どうなっていますか。そろそろ締切なので……と編集担当が申しておりますが。佐藤さんのほうから進行具合を聞いていただけないでしょうか」
 え? Hさんからはずいぶん前に「書き上がったので送信しておいた」というメールをもらっていますよ。もう1ヶ月になるかなぁ。封書ではなくてE-mailで行ってるはずです。編集のかたのコンピューター調べてみて下さい。
 「そ、そうですか。では早速」

 「もしもし、編集担当のコンピューターには来ていないそうです。念のために印刷所のほうも調べてもらいましたが無いそうです」
 無い? 変ですねぇ。私の所にはHさんのメール、確かに存在しますよ。えーと読み上げてみましょうか。件名は【お約束のエッセイ】、10月4日付けです。

昨日E-mail指定のY様アドレスに拙文送信しておきました。1300字チョットかなぁ? 内容や分量に訂正や御希望があるようでしたらその旨お知らせ下さい。

 もし届かないとしてもHさんへ【送信不能】メッセージが返ってくるはずでしょう? もう一度よく調べて下さいな。

 「やはりどこにも見当たらないそうです。ことによると過って削除してしまったかも知れないと云っております。もし御原稿紛失ということになったら大変だ、と一同頭を抱えて」
 いや、頭を抱えるまえにHさんに再送信を依頼されたら済むことではないですか? 私はHさんと偶々知り合いだったから御紹介したまでで、直接御連絡なさったほうが早いと思いますよ。
 「H先生のようなお忙しいかたに直接お電話するのも失礼ですし、紛失のお詫びをお電話で、というのも……」
 メールがサーバーの具合で届かない可能性もあるわけだし、再送依頼で構わないですよ。原稿は彼のPCに残っているでしょうから。

 「何度かけてもH先生が電話にお出にならないということなのですが」
 知らない番号からのは出ないようにしているのかも知れませんね。メール入れてみたらどうですか。
 「いやー、申し訳ありませんがここはやはり佐藤さんにお願いできないでしょうか」
 わかりました。じゃ、メールしておきますから、今度は削除しないように気をつけて下さいね。

H大兄;今朝、A誌からTELあり。貴兄の玉稿は? というので、もう10月3日にYさんにメールで送っているはず、と返事しました。ところが、あちらのPCには来ていない、というのです。なにかの拍子に削除してしまったのかも知れません。大変申し訳ありませんが、再度送信していただけないでしょうか。あるいは私のほうにお送り下さってもよろしいかと存じます。お忙しいところを恐縮の極みであります。允

 すぐにH氏から返信。

Y様;原稿をお送りしす。因みに2005/10/3に1回送信してあります。念の為同じものを佐藤允彦様にも送信致します。

 とあって、その後に原稿が続く。これなら、もしまた削除されてしまったとしても、ふたたびH氏を煩わせることもない。私が何十回でも送信できるし、場合によってはプリントアウトして郵送、それでもだめなら持参という究極の手段もある。
 これにて一件落着。

 と思っていたら翌日、

佐藤尊兄様;某Y氏からは原稿を再送したにも関わらずウンでもなきゃスーでもなく音沙汰無しなんですが、如何致しやしょうか?

 おいおい、これだけ大騒ぎしておいて「受け取りました」も「お騒がせしました」もないというのはちょいと非常識だぜ。
 A誌にTEL。
 原稿、Yさん宛に送ったとHさんが云っていますが、ちゃんと届いているのでしょうか。受け取ったという返事がないのでHさん心配してますよ。
 「え? それは失礼しました。すぐに調べます」

 「印刷所のほうに確かに届いておりました。いや、受け取りのお返事が遅れたわけをお話しする前にですね、Yさんというのは佐藤さんも御存知と思いますがY商事の社長で、当社の顧問もなさっているんです。で、H先生のような高名な方に原稿をお願いするのに、無名の軽輩では失礼にあたるので、Y社長の名前で依頼のお手紙を差し上げた、とまあこういう次第でして、ですからYさんは編集にかかわっていないのです。H先生が送信なさったのは印刷所のアドレスで、A誌編集部ではないのです」

 そりゃ受け取りの挨拶がくるわけないよ。
 印刷所は印刷するだけだから、入稿したらレイアウトを考えて雑誌を完成することに専念するだろう。原稿の依頼や受け取りは編集部の仕事だから印刷所のほうは当然そちらで返信したと思うはずだ。
 ところがH氏のメールは編集部を素通りして印刷所へ行っている。編集部から受け取りメールが発信されることは永久にない。

 この騒動の原因はどこにあるか。

  1. A誌編集担当者は原稿依頼の手紙にY氏の名を使い、原稿送付用の封筒を同封した。
    ⇒これまでの執筆者は高齢の人が多く、すべて原稿は封書で編集部に送られてきていたために、H氏も当然そうするだろうと思い込んだ
  2. A誌編集担当者がなぜか印刷所のメールアドレスを書いた(あるいは印刷所のレターヘッドを用いたか)。
    ⇒H氏は(というか最近はほとんどの人が)原稿をメールで送っている。当然のこととしてメールアドレスを原稿送付先と認識する。同時にそれがY氏のアドレスだと思い込む。まさか印刷所とは思わない。
  3. 印刷所は、上に書いたように原稿依頼、受け渡しは編集部の仕事だと思っているから、当然原稿の受け取り返礼など編集部が済ませているものと思い込んだ

 こういった思い込みの、つまりちょっとした行き違いの積み重ねだろうということができるが、そもそもは印刷所がメールを削除してしまったことから発している。
 なぜ削除したか。
 ここから先は私の推理である。H氏に直接確かめれば済むことだが、お互い多忙だし、わざわざ電話をするほどのことでもない。彼と会う機会があったらきいてみるつもりだ。

  • メールの件名
     【A誌原稿】としたのか、原稿の題と同じ【愛のレッスン】だったのか。
  • 差出人アドレス
     H氏のオフィスからならofficeHK@******
     H氏個人のPCからだとpink-rabbit1977@******
  •  もし、万一あなたのPCにいままで見たことのない pink-rabbit1977@******という差出人から【愛のレッスン】というメールが届いたとしたら、あなたは開いて見ますか?
     それとも?? 

    2005年12月1日