4年間同じ携帯電話を使っていると、「ずいぶん物もちが良いね」と感心されるのは仕方ないとしても、「白黒画面?!」「へー、カメラついてないんだ〜」と古生代のトカゲでも見るような目つきをする奴には多少ムカつく。 いや〜、華麗ですな〜。4cm×5.4cmのディスプレイ、フルカラー。10文字10行。デジタル20倍ズームカメラ、バーコードリーダー、財布。SDカードメモリー。その他いろいろ。 |
2005年1月31日 |
今年は“バード”チャーリー・パーカー没後50年にあたる。
どのようないきさつでこのような品物がエッティンガー氏のもとに集まったのかは明らかではないが、Monkの息子のT.S.Monk氏の言葉が巨匠達の遺族の思いをあらわしていると見てほぼ間違いあるまい。 | ||||||||||||||||||||||||||||
2005年3月15日 |
「スロヴェニアへ行く」というと、たいていの反応は「え? それ何処だっけ? 旧ソ連?」である。「ああ、チェコから分かれた国だろう?」、「おいおい、なんでそんな危険な所へ?」なんてやつもいる。
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2005年5月31日 |
4月15日Cankarjev Dom、ソロ45分ノンストップ。気持としては20分だろうか、ずいぶん短く感じた。日本でフリー・インプロをやっているのとどこか違う。集中して聴いてくれているのがよくわかるし、こちらも集中できる。なぜだろう。 リュブリアナ着13日夕方。帰途17日。
Benigar氏、「雨が降っても関係ないところへ行こう」と30分ばかり丘陵地帯の曲がりくねった路を飛ばす。「どこへ行くのか」とたずねると「〜ヤマ」という。 |
2005年6月27日 |
34年目の今年、メールス・インターナショナル・ニュージャズジャズフェスティバルは大きな節目を迎えることになった。 ジャズ祭で名を馳せているメールス市だが、どんな街なのか実は私もよく知らない。 さて、そのメールスで「富樫雅彦の音楽を紹介する」という使命を帯びて演奏することになった。 |
2005年8月8日 |
富樫さん抜きで富樫雅彦の音楽を表現する、というかなり無謀な試みにあえて挑んでみようと思ったのは、35年を越える彼との音楽上の交流を通して「これが富樫さんの音楽の底流だろう」とかなり確信できることをいくつか掴めたからだ。 さて、アレンジャーの眼を通した富樫作品における独自性をいくつか列挙してみよう(富樫さん自身のパーカッション・サウンドをのぞく)。
このほかにもいくつかあるが、これらに共通するのは、すべて西洋音楽(オーソドックスなジャズを含む)では「避けるべき」とされているものばかりである。富樫さんがどんなプロセスでこういう境地に到達したのかを書きはじめると、それだけで一冊の音楽論ができあがってしまうだろうが、本人は恐らく「そんな難しいことは考えてなかったよ。やりたいことを書いただけだ」というに違いない。 |
2005年8月31日 |
音楽以外の難問の最大のものは言うまでもなく「財務」(財布?)だ。 その第一ハードルは峰厚介氏が行ってくれるかどうか、だった。 次に録音である。 その一切は12月発売のBAJ新譜『Live at Moers -Tribute to TOGASHI Masahiko-/SATOH Masahiko & SAIFA』で聴けます。 |
2005年10月3日 |
PCが作業中にすぐ凍結するようになったので、メモリーを増やすことにした。
……簡単じゃないか。えーっと、レバーを開いて、メモリーを差し込んで、何? 切り欠きを合わせろ? 合ってるよな。しっかり押し込む、と。えいやっ。もうこれ以上行かないな。レバーが自動的に……閉じないぞ。もう充分押し込んだけどな。さらに、うーっ、う〜ん。イテテ、メモリーの角が指に食い込むぜ。自慢じゃないが指力には自信がある俺様がこれだけ押し込んだんだからもう終点まで行ってるはずだ。 コンピューターがこれほど体力を消耗するものだとは思っても見なかった。 |
2005年10月31日 |
「H先生の原稿、どうなっていますか。そろそろ締切なので……と編集担当が申しておりますが。佐藤さんのほうから進行具合を聞いていただけないでしょうか」 「もしもし、編集担当のコンピューターには来ていないそうです。念のために印刷所のほうも調べてもらいましたが無いそうです」
もし届かないとしてもHさんへ【送信不能】メッセージが返ってくるはずでしょう? もう一度よく調べて下さいな。 「やはりどこにも見当たらないそうです。ことによると過って削除してしまったかも知れないと云っております。もし御原稿紛失ということになったら大変だ、と一同頭を抱えて」 「何度かけてもH先生が電話にお出にならないということなのですが」
すぐにH氏から返信。
とあって、その後に原稿が続く。これなら、もしまた削除されてしまったとしても、ふたたびH氏を煩わせることもない。私が何十回でも送信できるし、場合によってはプリントアウトして郵送、それでもだめなら持参という究極の手段もある。 と思っていたら翌日、
おいおい、これだけ大騒ぎしておいて「受け取りました」も「お騒がせしました」もないというのはちょいと非常識だぜ。 「印刷所のほうに確かに届いておりました。いや、受け取りのお返事が遅れたわけをお話しする前にですね、Yさんというのは佐藤さんも御存知と思いますがY商事の社長で、当社の顧問もなさっているんです。で、H先生のような高名な方に原稿をお願いするのに、無名の軽輩では失礼にあたるので、Y社長の名前で依頼のお手紙を差し上げた、とまあこういう次第でして、ですからYさんは編集にかかわっていないのです。H先生が送信なさったのは印刷所のアドレスで、A誌編集部ではないのです」 そりゃ受け取りの挨拶がくるわけないよ。 この騒動の原因はどこにあるか。
こういった思い込みの、つまりちょっとした行き違いの積み重ねだろうということができるが、そもそもは印刷所がメールを削除してしまったことから発している。 【A誌原稿】としたのか、原稿の題と同じ【愛のレッスン】だったのか。 H氏のオフィスからならofficeHK@****** H氏個人のPCからだとpink-rabbit1977@****** もし、万一あなたのPCにいままで見たことのない pink-rabbit1977@******という差出人から【愛のレッスン】というメールが届いたとしたら、あなたは開いて見ますか? | ||||
2005年12月1日 |