一年の計が初仕事にあるとするなら、今年は相当ユニークな年になりそうだ。
 なにしろ危うく役者デビューするところだったのだから。
 市原康氏といえば名だたるジャズドラマーであるが、ここ3年ばかり舞台俳優の道に踏み込んでいる。その彼から「ピアニストの役をやりませんか」という誘いだ。劇団の主宰者からサトーを引っぱり出せという密命を帯びてきたらしい。
 一瞬食指が動きかけたが、待て待て、お前は記憶回路に欠陥があるから何も覚える必要のないフリージャズをやっているのではないか。長いセリフがあったらどうする? という天の声にハっと我に返る。
 音楽での手伝いならするが演技は絶対ダメ、と必死に防戦し、紆余曲折の末とにかくセリフも動きも一切なしのかわりに、ずっと舞台に居続けることで合意した。
 そんなことで芝居が成立するのか、とこちらが心配になるくらいの制約だ。しかし脚本家Y氏(実は今話題のテレビドラマのプロデューサー)は奇想天外な発想の持ち主だった。
 イタコの血を引くベーシストが降霊術でピアニストに変身する。
 私はその霊なのだ。
 舞台の後方、すだれ状のカーテンのうしろにもう一台ピアノがあり、降霊したときだけ照明で私が浮かび上がるという趣向。
 なるほどこれならセリフも動きも不要である。

 さて、私はこれまで音楽を通じて映画、TV、ミュージカルなどには何度もかかわってきたから、それらがどのようにできているかについての知識は一応もっている。 
 ただ、音楽はすべての場面に入るわけではないので、台本を読むだけで済ますという部分もある。またTVドラマだとすでに出来上がったフィルムにあとから音楽をつけるから、撮影現場を見ることもない。つまり総体を知っている、とは決して言えないのだ。
 しかしすべてを把握せずとも音楽をつけるのに支障はないとしても、せっかく共同作業をするのだったら異ジャンルの人たちの感覚や思考を知りたいものである。
 たとえばワン・シーン、ワン・カットごとに分断された演技を、あとでひとつの連続体に再現する映画監督の頭の中とか、それとは正反対の、全員が連続した進行のなかに巻き込まれる舞台というものを演出家と演技者とスタッフがどう作り上げて行くのか、などなど。
 で、今回は立ち稽古の段階から完成までの全過程をつぶさに見られるという。しかも本番では舞台上、すだれ越しに客席の反応もわかる。ピアノはときたま弾くだけ。
 こりゃ気楽だし、面白かろう。なかば野次馬気分で臨んだのだが……
 「では15分後にダメ出し開始で〜す」
 通し稽古が終わって一息つく間もなく、演出家E氏の穏やかな、butキツーイお言葉でダメ出し(=点検)、小返し(=修正)が始まる。
 「いまのは1300円、ってところでしょうかね」つまり入場料3300円は取れない出来ということだ。
 「XXさん、せっかくスピードアップしてきたときに、振り向きが遅くて一挙に崩壊でしたね。あそこはもっと畳み込んで下さい。じゃ登場のところから返しましょう」
 というような具合である。
 罵声が飛ぶ、灰皿が飛ぶ、鉄拳が飛ぶ、といった演出家もいるようだが、E氏は常に笑みを絶やさない。けれども、指摘のとおりにやってみると、なるほど一段と向上するのがわかる。そしてそれを身体が覚え込むまで全員が何度も繰り返す。
 こうした細部の詰めと反復を千秋楽、最後の公演直前まで積み重ねるのだ。この集中力と持続力にはすっかり脱帽だった。
 これはどこか兵士を訓練するのに似ているかも知れない。
 戦場で思考してはならないという。一瞬の躊躇がかえって命取りになる。日頃の訓練は「撃て!」「突っ込め!」と号令をかけられたら身体が自動的に動くようになるためにするものだそうだ。
 次の台詞は、などと脳を経由せずに、身体が反応して行くところまで行く。
 ミュージシャンがこういう練習をするとどうなるのだ。クラシックだったら有効かもしれないが、新鮮さイノチのインプロヴィゼーションにとってはむしろマイナス要因になるのではないか。反復練習は手癖が蓄積するだけであるように思える。しかし技術を獲得するにはそれしかない。あらゆるパターンの反復練習をこなして超絶技巧になって、さて手癖に影響されないインプロを、となった頃には時間切れだろうし……などという疑問、実は何十年も前に卒業したはずではなかったか。
 ま、手癖になるほど反復練習するだけの持続力なんてとても持ち合わせていないから、これはあくまでも想像上のお遊びなのだが。

 しかしながら、ダメ出しを俳優さん達といっしょになって聞いているうちに、きっかけのセリフで自動的にピアノを弾きはじめている自分を発見して愕然とした。無意識に行動するのは意外に心地よいものである。誰かの指令に従ってさえいれば良いという環境、楽だな〜。こうして知らぬ間に爆弾抱いて突入か。それもありかなァ。
 おお危ない、アブナイ。

2004年1月27日



 昼時、新橋駅に近いY屋の前を通りかかったら行列ができていて、テレビカメラマンとマイクを持ったレポーターが店内を覗きこみ、「あの隅の人出てきたらコメントもらいましょう」などと言いつつせわしげに動きまわっていた。
 休日はあまり人通りのないはずの界隈でこの騒ぎだ。
 何ごとによらず、「これでお別れ」「見納め」「食べ納め」となると居ても立ってもいられなくなる日本人の特性は何とかならないものだろうか。
 2月11日。建国記念日は後世「牛丼最後の日」と呼ばれるのかも知れない。
 全国に970も店があるY屋チェーンで販売を停止するのだから、牛丼好きにとっては一大事に違いない。 
 江戸が東京となり、文明開化の一端として登場した牛鍋が牛丼に分化するのは明治の後半らしい。Y屋の創始者も明治32年に店を開いたのだという。現在の玉葱タイプが作られたのは1958年からで、それだけでもざっと半世紀の歴史になる。Y屋以外にも「牛めし」や「すきやき丼」のような名称も含めると、このての牛肉関連の和風食べ物は立派に日本の食文化の一翼を担うものだといえる。
 今まで一度か二度食べたことがある程度の私には大したニュースではないけれど、アメリカからの輸入がストップしただけでこういう事態になるということからこの国の食料問題を考えると、他人事ではなくなってくる。
 Y屋は牛丼のかわりにカレー丼やら鳥丼、海鮮丼などと代替メニューを開発しているらしいが、既存の業種との競合、鳥インフルエンザ等々、苦戦をしているようだ。
 こういうときの経営者は大変だ。
 「冬の時代」をじっと耐えていつかは来る陽春を待つか、玉砕覚悟で積極果敢に攻めに出るか。大勢の従業員の生活もかかっている。決断のときである。そしてひとたび決断したら取るべき道を徹底して進む。躊躇してはならないし、二股をかけるのは最低だ。
 そういう視点からY屋のメニューを見てみると、「守り」たいのか「攻め」たいのかよくわからない。
 オレだったら、「攻め」る。攻撃は最大の防御なり。状況を逆手に取った新メニューを牛丼停止と同時に発表する。

 《BSE丼》!どうだ、参ったか!

 内容なんか後から考える。とにかく牛丼がなくなったという衝撃がおさまらないうちに発表するところに意味がある。マスコミだって飛びつくだろうし、どこかの大統領や首相も食べにくるかも知れない。
 さて内容だ。
 いくつかの選択肢がある。

  1. B=ベーコン、S=スピナッチ、E=エッグ
    アメリカ人の朝食っぽいかな。丼よりサンド向き。
  2. B=鰤(ぶり)、S=笹掻き牛蒡、E=えのき茸
    これは和風。かなり正統的な丼になるはずだ。
  3. B=バジル、S=サーモン、E=エリンギ
    ちょっとイタリアン。白のグラスワインつきで、おしゃれなOL向き。
  4. B=棒鱈、S=さくらえび、E=枝豆
    京風。デザートに抹茶アイスをつける。
  5. B=ブラックビーンズ、S=セロリ(英語だとCだが硬いこというな)、E=エビチリソース
    中華風。鉄観音茶つき。夜はグラス紹興酒のセット。
  6. B=豚肉、S=しらたき、E=えんどう豆
    これ本命かな。

 なに?どれも不味そうだって?
 それなら、次の人たちに試食してもらおうか。

   B=ブッシュ
   S=サダム
   E=エリツィン

 えーい、ついでに《ウイルス丼》も作ってやれ。

   ウ=うなぎ
   イ=いわし
   ル=ルイベ
   ス=寿司めし

2004年2月27日



 今日は大成功!
 演奏は満足できるものだったし、お客さんはたくさん来てくれたし、CDは完売したし、打ち上げも健康的な時間に終了したし、良いことづくめのライブだったなぁ。
 で、ヒロシとボーヤは「もうちょっと飲んできます」とどこやらへ消えて行った。N市の深夜で開いている店のある界隈を知っているとはさすがだ。「よし一緒に行くか」と云いたい所だったが明日の列車は朝10:24発だし、家に帰ったら続きを書かねばならないスコアが机に広げたままになっている。ということで多少の未練を残しつつホテルに戻る。
 シャワーを浴び、ベッドに横たわると数秒のうちに打ち上げで飲んだレアものの地酒の酔いでふうわりと眠りに誘い込まれてしまう。

 どれほど眠ったろうか。
 漆黒の闇のなかからかすかにタカタンタタッ、タカタンタタッ、と規則正しい音がきこえてくる。小さいタムタムか、響き線を外したスネアをスティックで叩いている音である。
 「おいおい、夜中に太鼓叩いてるのかよ」
 音は十秒程続いてふっと止んだ。
 気のせいだったか、と眠ろうとすると今度はタンタタンカッカッ、タンタタンカッカッ、と別のリズムである。
 あ、もしかしてヒロシが帰ってきて酔った勢いで楽器を出してふざけているんだ。さあ大変だ。周囲の部屋を起こしてしまって大騒ぎになるぞ。一応リーダーはオレだから何か起きたらすべての責任を負わねばならない。主催の新聞社にも迷惑がかかる。
 とにかく部屋に電話して止めさせなくては。えーとヒロシは何号室だったかな。
 焦って起き上がった時にはもう音は止んでいる。
 よし、廊下へ出て待機だ。今度始めたら奴の部屋のドアに体当たりしてやろう。
 廊下はしんと静まりかえっていて、どこかで騒動が持ち上がっているような気配は全くない。
 五分ほど廊下の様子をうかがっていても音はきこえてこない。ヒロシめ、つぶれて寝てしまったか。それならそれで安心だ。
 なにしろミュージシャンといえばただでさえ一般社会人からは変な種族と見られる。十五年程前は、この町で一番古い由緒あるホテルのダイニングルームに、明け方泥酔して帰って来たベーシストとその友人数人が入り込んでテーブルをひとつ占拠して朝食時間になってもウダウダ喋り続け、支配人に「慇懃に」追い出されたという事件があった。
 そのときのリーダーもこのオレで、そうか、それ以来N市のコンサートであのホテルに泊まったことがない。やはり出入り禁止になったのだ。
 ヒロシ、頼むよ、このままおとなしく寝てくれ。
 祈るような気持でベッドに帰る。
 眠りが再び脳を侵食しはじめたころ、タタンタタッタッカカカ、タタンタタッタッ……
 もう許せん。アノヤローどうしてくれよう、と飛び起きた時にハタと気付いた。
 このホテルはN駅に隣接して建っている。N駅は新幹線、在来線、貨物線、第三セクターのS鉄道と四種類の鉄道が通る。
 部屋は11階で、窓にはペアガラスが使ってある。線路はすぐ眼下なのだが、分厚いサッシで低音がカットされて、列車の車輪音がまるで小型の打楽器のようにきこえたというわけだ。なぁんだ。あ〜良かった。

 翌朝、帰りの新幹線でヒロシにこのことを話して「ゴメン、疑って悪かったよ」と言ったら、「オレにしてはリズム良いなって思わなかった?」。
 ヒロシとは村上寛のこと。さすが余裕の応対。恐れ入りました。てへへ……

2004年3月30日



 5月30日。二ヶ月の地獄スケジュールからやっと生還した。
 四種類の書き物を同時進行し、間にそれらの録音やらデモ用の打ち込みが入り、やっと考えがまとまってさあ書こうかという気分になってきた時にツアーとコンサートとライブで中断される。
 長い作・編・奏・筆稼業でもはじめての重なり方だったので、3月の末に4〜5月の予定表を見て息苦しくなった。
 そんなことにならないうちに断れば良いのに、と人は言うが、多少の無理をしてもやってみたい仕事というものがあり、今回はたまたまそれが重なっただけのことなのである。
 だったらそれほどやりたくない仕事をキャンセルすれば、と簡単に言うなよ。先着の仕事をキャンセルするのは余程の理由がなくてはならない。たとえそれが500円玉ひとつのギャラであってもだ。
 こういうときは全体を見渡すと茫然とするばかりなので、大木にとりついた虫のごとく、眼前のこまかい葉っぱを一枚ずつ喰って行くしか道はない。
 30分の曲でも一小節の集まりなのだから。
 しかし、少しずつ曲が姿をあらわしてくるにつれ、「こんなので良いのか」という不安も大きくなる。時には「え〜い全部破棄、最初からやりなおし」としたい気分に襲われるのだけれど、そんなことで締め切りはどうなる? 他のプロジェクトは? ともう一人の自分が囁いて、とりあえず不安を押し込めて先へ進むのだ。
 こんな時は、今まで「使い物にならない」とボツにされたことはないではないか、書いたものはすべて一応受け入れられている、ということだけを心の拠り所にするわけだが、それはすべて過去であり、今日まで地震がなかったから明日もないとは限らないのと同様、この作品が大丈夫だとの保証は全くない。
 つまり不安はただ押し込められているだけで解消してはいないから、次第に圧力が高まって無意識下で脳を圧迫するようになるのだろう。
 それが時々恐い夢となる。

 やっとスコアが完成した。長かったな〜。めでたい。とりあえずビールで一息。デスクの上の打ち合わせのメモをふと見る。バラード7〜8分? おい、アップテンポで衝撃的なイントロ、じゃなかったのか。

 楽譜を抱えてスタジオに入る。
 オーケストラの人たちがあちこちで練習しているってどういうことだ? こんな大編成だったのか? ちょ、ちょっと待って下さいよ。今から書き足すから五線紙ない? じゃ買って来てくれます? とりあえずスタジオ時間延長して、ミュージシャンにもお願いして、しばらく休憩してもらって……

 18時東京駅発に乗る、と。オッケー間に合う。あ、スコアとパート譜その鞄に入れて先に行って下さい。
 東京駅ってこんな改札口だったかな。切符はさっきの鞄の中だ。入場券を買わなきゃ。なんだかずいぶん大きなパネルだな。入場券ってどこにも書いてないじゃないか。入場券どこです? 一度表へ出て左の窓口? もう5分前だよ。とりあえずマネージャーに連絡せねば。わっ、携帯の画面が全部文字化けしてる!……

 このような夢を見るのは、まだ事態がそれほど切迫していない証拠である。
 いよいよ締切り、となるとまとまった睡眠をとっている時間がなくなる。何年か前からFINALEという楽譜ソフトで書いて行くようにしたので、ずっとPC画面を見ていなくてはならない。スコア用紙に鉛筆、も目が疲れるが、ディスプレイはまた違った疲れかたをする。根をつめてやっていると知らぬ間に数時間経ってしまい、目の奥に鈍痛を感じるようになるのは大変危険なことだというから、2時間おきに30分ほど目を休めることを心掛けるようになった。
 これをくり返していると昼夜がわからなくなり、外は晴れやら雨やらも気にならず、風呂に入らず、ヒゲを剃らず、時折冷蔵庫の中を漁り、ポットが空でもボタンを押し続け、電話が鳴っても無視し、というような日々が数日続くと外見はどうであれ、自分としては鬼界ケ島の浜辺をさまよう俊寛のような気分になる。
 このようなことは通常3ヶ月に1回もないのだが、2ヶ月のうちに大俊寛4回、小俊寛2回が続くと体がなかなかもとの調子に戻らない。
 今日も昼間どうにも眠くなってベッドに倒れ込むと、暑くてたまらない。冷房のリモコンをつけるのだが一向に涼しくならない。ベッドの脇を見ると炭火を山盛りにした火鉢が置いてある。おーい誰かこれをどかしてくれーっ、と叫ぼうとして舌を噛んで目が覚めた。ソファの上だった。

 こんなわけでしばらく頭が働きませんので、話し掛けて返事が遅くても御心配なく。
 しかしあまりいつまでもそういう状態が続くようなら、当人の承諾なしで病院へ連れて行って下さいな。
 あ〜極楽じゃぁ〜……

2004年6月1日



 アンサンブルとは何だろう、と常々思っている。
 単に複数の楽器が合奏するだけではない。何度も合わせているうちに互いの音と音を包み込む透明な膜とでもいうか、音が触手を伸ばして結びあうような感覚が生まれる。複数の人間がひとつのことに意識を集中すると、なにやら不思議な力が生まれるようだ。
 シンバルレガートとベースのインパクトが噛み合うと、10kヘルツと数十ヘルツという天地ほども離れた周波数の間に落雷の瞬間を捕らえた写真を思わせる電流のようなものが走る。
 ホーンセクションが成熟すると、倍音が中空に立ちのぼって1〜2オクターブ上にもう一群の木管楽器が蜃気楼のように聴こえたりする。私はホーン奏者ではないので実際にセクションの中に座って演奏したことがないから想像するしかないのだが、完璧に合ったときには自分が吹いている音とかマウスピースやリードの振動に何か違ったものを感じるに違いない。
 不思議なのは、このような感覚は演奏者としても聴き手としても味わうことができるのだけれど、それは現場、つまりコンサートやライブに限られていることだ。
 録音や映像などからは決して得られない。
 たぶんどれほど装置や技術が進歩したとしても、固定した瞬間に失われてしまう何ものかがあるのだろう。いくらうまく作ってもスルメはスルメであってイカではない。

 ジャズの周辺でアンサンブルというとたかだか十数人だが、交響楽団となると数十人〜百人超である。このような人数が何年にもわたって練り上げたアンサンブルは、古酒とかヴィンテージ・ワインに匹敵する味をもつようになっているはずだ。そしてどんなオーケストラも本拠地の気候風土や聴衆の気質などによって独特の響きを醸し出す。同じ編成で同じ指揮者で同じ曲を演奏してもオーケストラごとに風合いが違う。
 いわば、オーケストラはその地の紋章のようなものだと言えよう。だから国や市が予算を割いてオーケストラをバックアップしているのだ。
 世界で大都市と目されるところにはたいてい名高いオーケストラがある。ベルリン・フィル、NYフィル、北京交響楽団……。
 東京にも東京都交響楽団(都響)がある。1965年設立。音楽監督は森正、渡邊暁雄、若杉弘から現在四代目のGary Bertini。短期間のうちに世界水準のオーケストラとして評価されるようになった。
 さて、その都響が大問題に直面している。
 東京都が財政立て直しのためにこれまでの「雇用を60歳定年まで保証する」から「全楽員を3年で退職させ、その後は査定をともなう職能給による2年契約」とすると通告してきたのだ。これまでにも補助金を3割削減されたりと運営には常に苦しんでいるところにさらなる追い打ちである。
 そもそもは石原都知事の私的諮問機関【都政を考える懇談会】で音楽関係有識者なるものが「東京に9つのオーケストラは多すぎる。3つで十分だ。都響は潰すか楽員を有期雇用にしろ」と発言したのが発端だそうな。発言の主の姓名を是非とも知りたいものだ。
 それをそのまま取り上げるとは信じがたいことだ。都知事はたしか文学者でもあったと記憶しているが、音楽のことは皆目わからない人物だったか。
 オーケストラに支出するのは楽員を雇用することではない。
 楽員が育てたアンサンブルという無形のものに対する支払いなのである。
 個々の楽員の能力やら貢献度を、仮に百歩譲って公正に査定できたとしても、全員の意識のうえに成り立って、しかも演奏現場でしか出現しえないアンサンブルを誰がどのような尺度で給与に反映できるのか。
 文化とは人間の意識の営みから生まれるものであるはずだ。そこに経済効率の尺度を持ち込むことがいかに無謀で無意味なことであるか。
 都響の問題を東京都の財政というような次元で考えていると、東京は文化的に砂漠化するだろう。

 こんなところに住んで住民税を払うのは恥ずかしい。できればもう少し文化的な町に引っ越したいと思う。

2004年7月1日



 持ち運びのできる楽器をやっておけば良かったな、と思う。
 管楽器にしても、弦楽器にしても、サッと取り出して演奏すれば感心されるし喜ばれる。
 特に外国とか野外とか、電気もマイクもスピーカーもない所で即座にそこの人たちと交流できるのが強みだ。たとえばドクトル梅津氏がタイの農村の田植え時に畦で演奏してお百姓と仲良くなったり、坂田明さんがモンゴルの草原でホーミーと共演して馬乳酒を振る舞われたり、なんてうらやましいではないか。
 ピアニストにはとてもとても。
 よくテレビCMにあるような、高原で白タキシードで白いピアノを弾くなどというのは文字どおり絵空事である。もっとも何年か前にハネケン氏が滝やら寺やらいろいろな所へピアノを運び込んで弾くシリーズを放映していたが、あれだってテレビの企画ものだ。だいいち運搬するにはトラックが要るし、石段やら参道をかつぎ上げる人数も要る。場所によってはクレーンが出動しなければならない。とても自力では無理な話である。
 ピアノ弾きなんて実に不都合なものだ。
 誰の助けも借りずに一人で行けて、独力でその場の空気を一変させてこそ価値がある。
 気の向くままに旅をしているうちにどこかで無一文になって、宿もなく、空腹に耐えかねたとしよう。
 音楽をやっている店があれば、飛び込んで一緒に演奏してしまう。管楽器、弦楽器なんかだったら「お、やるじゃないか、まあ一杯飲め。良かったら俺の家に泊まれ」という運びになるのはたやすい。しかし小さな町のその手の場所にピアノがある確率は五割以下だろう。たとえあったとしても、ピアニストがいるわけだから、そいつをどかさなければ始まらないのだ。
 仮にこちらの演奏が大いにウケたとしてもピアニストの恨みを買う。ウケすぎれば後ろからナイフかなんかでグサッ。
 いやはや不便なものである。
 しかし、楽器ケースを持ち歩くのは、ミュージシャンでござい、と看板背負っているようで何もしないうちからネタが割れてしまう。時には「あれを盗んでやろう」という悪心を起こさせてしまうことだってある。予測させずに名演を披露できることが理想的な形だろう。

 1979年にハーモニカの名手トゥーツ・シールマンスとアルバムを作った時のこと。
 ホテルのラウンジで曲目とかアレンジの打ち合わせをし、一段落してコーヒータイム。家が床屋で、店で遊んではうるさい、と父親が買ってくれたのがハーモニカだったというような話のうちに首から下げていたミニチュア・ハーモニカを吹きはじめた。見事なブルースである。てっきりただのアクセサリーだと思っていた関係者一同、驚くやら感激するやら。
 まわりのテーブルからも拍手が湧き起こったのは当然である。
 長さ数センチで音域は2オクターブだったと思う。クロマティックかどうかは覚えていないが、ブルーノートだのベンドだのそれこそ自由自在。いや〜参りました。

 ライブハウス《Body&Soul》がまだ六本木にあった頃、来日していたミュージシャンたちと終演後にちょっとしたセッションになったことがある。バリトンサックス/チューバ奏者ハワード・ジョンソンが登場。手ぶらである。楽器はどこにあるのだろう、と誰もがいぶかっていると、巨体の上着の内ポケットから取り出したのがなんとピッコロ。
 ハワード・ジョンソンといえば低音、のイメージを打ち破ってしまい一音も発しないうちに場内大ウケとなった。
 こうしてみると何も持っていないようなふりをしていきなり取り出すとするなら楽器は小さいものに限る、となってしまう。必然的に高音楽器だ。
 ポケットに入る位のサイズで、中低音が出せるもの。しかも鍵盤があったら私にでもサプライズ登場の機会があるというものだ。
 そうそう、紙のように丸められるキーボードがある。これにMDほどの音源をつないで……待てよ、スピーカーはどうする? ランプ生活の山村だったら電池切れすればそれまでだし……どう考えても「人力楽器」には太刀打ちできません。
 あ〜あ、変な楽器とつきあってしまったものだ。リセットできないかな〜。

2004年8月2日



 「スタンダードを多めにお願いします」
 「やはりこのあたりにスタンダードを一曲入れませんか」
 コンサートの主催者、ライブハウスのオーナー、レコード会社のプロデューサーなどが決まっていうセリフである。
 そのような場合、私は「あ、良いですよ」と云ってメロディーだけはそのままに、コードは全くもとの姿をとどめない位に変化させ、中身つまりインプロヴァイズのフォームも大改造して演奏することにしている。
 曲目はとくにしっかり紹介するし、メロディーは識別可能だし、聴いているほうははじめのうちそのつもりになれる。次第に訳が分からない世界に入り込んでも最後にまた知った曲らしいものが出てくるから主催者、オーナー、プロデューサーの顔に泥を塗ったことにはならない。そして我が方の創作意欲もある程度満たされる。
 さりげない面従腹背というわけ。
 しかし、なぜこれほどスタンダードにこだわるのだろう。
 スタンダードを何曲か知っていればいっぱしのジャズ通、という妙な基準があるような、ないような。とりあえず名高い曲だと有り難がるのは、テレビに出ている人イコール偉い人、売れてる人と思い込む僻地のオバサン、オジサンと大差ない。
 スタンダード・ジャズ=ジャズメン(アメリカの)が好んで録音したりセッションで取り上げる曲、ということになっているけれど、どこからどこまでがそうなのかを確定する決まりがあるわけではない。主に20世紀初中期のブロードウエイ・ミュージカルやハリウッド映画のヒット曲。そのほかにジャズ・プレイヤーが作ったものが広まったり、ビッグネームが演奏したことによって有名になった曲なども含まれる。'70〜'80にはブラジルものも流入したし、シャンソンだのカンツォーネだってある。
 早い話が、ニューヨークのジャズメンが集まるジャズ村のなかで通用している曲である、というだけだ。
 1950年代あたり、アメリカ文化の洪水のなかで育った世代が青春を懐かしむというのなら話はわかる。またオキュパイド・ジャパン=占領下の日本が何でもアメリカに無条件降伏、だったころ美空ひばりがジャズのアルバムを作ったとて不思議ではない。
 それから半世紀以上の時間が過ぎて、映画『カサブランカ』なんか観たこともない世代の人間が聴き手の大半を占めるライブハウスで、どうして『As Time Goes By』を演奏しなければならないのか。
 星野監督ではないけれど「わしにはよ〜わからん」。

 《日本はアメリカの属国か?》《日本は独立国か?》
 イラク出兵、沖縄での米軍ヘリコプター墜落。ことが起きるたびにこのような議論がまき起こる。
 政治や経済でアメリカの鼻息をうかがわなくてはならないのはまだまだ仕方がないことなのかも知れない。なにしろ昭和20年に国が滅んだのだから。とはいえ、文化まで支配されることはないだろう。
古典芸能およびそこからの新しい流れをのぞくと、文化における日本の植民地化は相当深刻だと云わざるをえない。
 ジャズに関しての日本は完全にアメリカの、いやもっと狭いニューヨーク・ジャズ村の支配地である。
 その証拠にヨーロッパからすぐれたジャズプレイヤーが来ても、ジャズ村の二、三流が来日したときほど注目されないし、おなじニューヨークでもジャズ村のはずれからだとあまり騒がれない。
 とにかく、ジャズ村原住民がスタンダードを演奏したり歌ったりしさえすれば土下座して有り難がるという風潮から、そろそろ脱しても良いのではあるまいか。
 むろん私はスタンダードそのものを否定するものではない。なかには世界遺産的なすぐれた歌曲、器楽曲が存在することは確かだ。
 ただ、スタンダードとはアメリカの一地方の尺度での呼び方であり、世界中がそれに従う必要は全くないし、そうみなされている曲を何曲知っているか、というようなことは〈広い意味でのジャズ〉=村より大きな、郡とか県とか州、あるいは大陸、にとっては何の価値もないのだと云いたいだけだ。
 と息巻いてみても“ジャズの流れる店”がオシャレで、BGMとしてのジャズならスタンダード、という状況はしばらく変わらないだろう。
 となると、私の面従腹背はまだまだ続く。

2004年9月6日



 ……続いて台風情報です。非常に強い台風22号は現在潮岬の南南東170キロの海上を、時速約55キロで北北東へ進んでいます。中心気圧は940ヘクトパスカル、中心付近の最大風速45メートル、中心の南東側150キロ以内と北西側130キロ以内では25メートル以上の暴風、南東側410キロ以内と北西側370キロ以内では15メートル以上の強い風が吹いています。このまま進むと東海地方は昼過ぎから、関東地方南部は夕方から暴風域に入る見込みです。台風の影響で秋雨前線の活動が活発になり、関東甲信や東海を中心に大雨となっています。降り始めから今朝9時までの雨量は千葉県勝浦市で294ミリ、神奈川県箱根町で264ミリ……静岡県と千葉県では過去数年間で最も土砂災害の起こる可能性が高くなっているとして気象庁では厳重な警戒を呼び掛けています……今後は台風本体の雨雲の影響で大雨となり、10日正午までの雨量は多い所で東北太平洋側、東海、関東250ミリ、甲信、伊豆諸島200ミリ、近畿南部、東北日本海側、北陸100〜120ミリに達し、雷や突風を伴って1時間に50〜80ミリの非常に激しい雨になる恐れがあります……

 「もしもし、どうも直撃らしいね。ライブどうします? 店のほうはキャンセルしても良いって言ってるけど」「そうだなぁ、でも万一果敢に来てくれた人に軟弱者呼ばわりされるのも口惜しいし、ま、練習ってことで集まろうか」「じゃギャラなし覚悟で」
 ZAGRAPE TRIO、グレープ=ぶどう=武道トリオ、つまり全員何かの武道をやっているトリオ、の名前にもかかわる。槍が降るわけではない、たかが台風で休んでなるものか。

 ……台風22号は強い勢力をたもったまま4時頃には静岡県の伊豆半島に上陸したもようです。石廊崎では3時10分に最大瞬間風速67.6メートル、網代で4時10分に63.3メートルの観測史上最高の風速を記録しました。上陸時の中心気圧950ヘクトパスカルは、東日本で観測史上最大級の勢力での上陸です……気象庁では、台風が通過するまでなるべく外出は控えるよう呼び掛けています……

 おいおい、風速60メートルとはちょっと想像ができない。電車、バスは止まるに違いないから車で行くとして、走行中に吹き飛ばされるか、街路樹が倒れたところに突っ込むか、飛んで来た看板が刺さるか。いずれにせよ何らかのダメージは覚悟の上である。たった15分ほどのドライブ、見なれた街が全く別物のようだ。ワイパーを高速にしても前が霞んでいる、かと思うと突然雨が止んで、いつもの景色になったりと変わりようがめまぐるしい。
 三宿の、パーキングメーター枠の樹のない所を選んで駐車。
 防水コートに野球帽、傘なしでミトラサールまで歩く。246号の頭上を走る首都高から時々水しぶきが降ってくるのが店の窓から見える。窓の外に掲げてある三枚の赤い旗が引きちぎれそうにはためいている。山田晃路氏ベースを抱えて到着。濡れたケースはベース本体より重い、とぼやく。上杉ぶち、こんな日でもドレスと靴、楽譜を入れたキャスターつきの旅行鞄を引きずって来なくてはならない。ヴォーカリストも結構大変だ。ピアノは何もいらない。身体だけ到着すれば良いのだから文句をいうのは止そう。
 リハーサルを終え、恒例のカレ−屋へ。
 横断歩道を渡るときに身体が浮き上がるような風が襲うが、雨はそれほどでもない。カレー屋のドアを開けようとするが鍵がかかっている。閉店ではないのに。中には店員も客も見える。ノックしたらあわてて鍵を開けてくれた。
 「すみません、風でドアが飛びそうなので」
 いつものようにカレーとビールで腹ごしらえをし、外に出ると雨はほんのポツポツ、雲が切れて星空がのぞいている。
 「何だよー、オーバーなことばかり言ってさ。これじゃ損害賠償ものだぜ」「そうだよな、聴きに来ようと思っても外に出るな、じゃあ控えるよな」
 誰もいない、がらんとした客席を想像しつつ店のドアを開ける。
 な、なんと、お客さんが何人もいるではないか。そりゃいつものようではないが、十数人も来てくれている。
 「今日の方達は神様に見えま〜す」とリーダーのドラマー・渡辺雅介氏のアナウンス。演奏が盛り上がったのはいうまでもない。
 翌朝の新聞を見ると、四谷で崖がくずれて中央線が止まったり、新宿大ガード下が池になったり、駐車場でトラックが何台も横転したり、渋谷で下水があふれてマンホールの蓋が飛び上がったり、と所によってはひどかったようである。一体我々の周囲の静けさは何だったのか。狐につままれたような気分になった。
 武道トリオの気迫が台風を追い払った?
もしかしたら風神はジャズが好き?
 そういう可能性なきにしもあらず。
 今後の励みになる“台風ライブ”であった。
 おっと忘れていた。この日は古今亭志ん春こと渡辺雅介氏手作りのらっきょう《志ん春らっきょう》蔵出しライブでもあったのだ。来年もやります。次回こそ、らっきょう好きの方は台風・地震・火事・クーデターをものともせず御来場あれ。

2004年10月13日



 坂井ベニ氏から留守電が入っている。
 「さっきは電話出られなくてすみません。11月20日オーケーです。よろしくお願いしまーす。あ、ちなみにその日は妻の誕生日で〜す」
 おや、いくら久しぶりのデュオでもそんな日にライブ受けて良いのか。何だか申し訳ないな。キョンちゃん(坂井夫人)にはあとで謝るとして、御好意は遠慮なく受けさせていただこう。埋め合わせに何かプレゼントを考えなくてはいけない。

 近頃のライブハウスはスケジューリングが早い。3ヶ月前には日程を決めなくてはならないのだ。このやりとりもたしか暑い日の午後だったと思う。
 その日がやってきて、裏道伝いに上野毛へ、一瞬環八へ出て第三京浜に入る。今日の演しものはどうするか、Two Blocks Away と Empei Dance は外せないとして、このあいだ《Triangulo Rebelde》用に書いた新曲を試みてみるのは、などと考えているうちに料金所を過ぎて三ッ沢出口……あっいけね〜、プレゼントをすっかり忘れていた。しまったぁ。あのとき手帳にスケジュール書き込んで安心したのがいけなかった。ここまで来てしまって気の利いた店はないだろうし、みなとみらいへ回ってさがす時間もない。仕方がない、酒屋をみつけてベニ氏お好みのラムがあれば助かるけれど……。
 ともかくいつものパーキングに車を入れて近所を物色、と歩きはじめるとすぐに何やら華々しい幟が目に入った。
 なに? ボージョレ・ヌーボー解禁?
 そうか、このさい季節もので許してもらうことにするか。ボージョレにもピンからキリまであるはずだ。ひとつ聞いてみよう。しかしこんなところに酒屋があったっけ? なんだ酒屋じゃないぞ、コンビニだ。コンビニでボージョレ売るとは知らなかった。それにしても誕生日のプレゼントをこんなところで調達ってのもいただけないが、なにしろ開演時間が迫っているし、まぁ“お印”ということで……一本ずつ半透明の手提げに入っているのを陳列棚から取ってキャッシャーへ。
 「あ、プレゼントなのでシール貼らないで」
 ボージョレをさげてライブハウス近くまでくると、向こうからベニ氏がやってきた。
 「メシ?」「いや、ちょっとコピーしに」「あ、じゃ僕は速攻で軽く食べてこようかな。これ、ほんのオシルシだけど、キョンちゃんに。ハッピーバースディ」「えーっ憶えててくれたんですか。そういうつもりで云ったんじゃないんですけど」「いやいや、大事な日をライブに取っちゃったんだから。思い出したのが第三京浜でさ、こんなものでごめん」
 ベニ氏はコピーへ。こちらは蕎麦屋へ。
 そばをすすっているときにハッと大変なことに気がついた。
 ベニ氏がコピーをするのは、私がさっきボージョレを買ったコンビニに違いない。
 彼はコピーをし、そのまま店を出る。手には半透明の手提げが……。
 「もしもしお客さん、それまだお金払ってないですよね」「え?これ?これはさっき友だちにもらったものだよ」「まあまあ、お話はあとでゆっくり聞きましょう。とにかくこちらへ」店員は腕を掴んで有無を言わさず奥の事務室へ。
 「お客さんこういうこといつもやってるの?」「だからこれは貰いものだって云ってるだろう」「いるんだよね、そういう言い訳する人が。うちで買ったものならシールが貼ってあるはずだよ。どこにも見えないじゃないか。つまり万引きっていうの。マ・ン・ビ・キ。窃盗罪だよ。とにかくここに住所と名前、年令、生年月日、職業書いて。常習じゃなければ警察には通報しないから」「やってねーよ、オレは。何度云ったらわかるんだ。ふざけんなバカヤローォォォ」
 キレたベニ氏は大暴れ。かけつけた警官も殴ってしまい、公務執行妨害で逮捕。手錠をかけられてパトカーに押し込まれるベニ氏。
 ……なんてことになってるんじゃないか、今頃。なんであそこでワインを渡してしまったか。すべては私の責任。ああ申し訳ない。
 最悪の場合、今夜はソロになっても仕方がない。なにはともあれコンビニにレシートを見せればわかってもらえるだろう。まずは控え室にベニ氏の姿があるかどうか確かめて、と。
 階段を駆け上がり【DOLPHY】のドアを開ける。
 「ベ、ベニちゃんいる? 帰ってきた?」
 ……………………
 カウンターにはまだお客がひとり。
 「どうしたんですか、そんなにあわてて」
 「万引きで逮捕されたかも知れない」
 「まさかぁ、そんなことありませんよ」
 「本当だよ。ボージョレ渡すんじゃなかった。申し訳ない。私が悪うございました」
 「大丈夫ですよ。心配ない」
 「なんでそう言えるわけ?」
 と見ると、カウンターにいたのはお客ではなくてベニ氏本人だった。
 あ〜良かった。
 その晩のデュオが一層スリリングであったことを書き添えておこう。

2004年11月24日



 渋谷区の南西部は大山、上原、西郷山、南平台、鉢山といった地名が示すようにずっと台地が続く。
 この高台は西側が目黒区を流れる目黒川の谷に向かう急斜面なので、晴天ならどこからでもはるかに富士山が見える。
 台地の南端が代官山である。谷から代官山への坂道は相当きついものだったのだろうか、登り切ったところに鎗ヶ崎という尖った地名がある。今でも駒沢通りは中目黒から急カーブの登りで、免許取り立ての坂道発進練習には好適だ。
 鎗ケ崎交差点のあたりを猿楽町という。面白い町名だと思っていたが、由来をつい最近知った。

 ヒルサイドテラスといえば、世界的な建築家 槙文彦氏の設計になる代官山を代表する建物である。所在地が猿楽町。入口の旧山手通りからは奥まった三階建てにしか見えないが、斜面を利用しているので目黒区側からは五階建てになる。しかも鬱蒼とした木立に囲まれて、一歩入るととても東京の真中とは思えない。「自然との共生」を字義通り実感できる環境をつくりあげた希有な集合住宅の例である。
 その敷地の中に【猿楽神社】があるんだよ、と朝倉君が云う。
 もとは猿楽塚ってただの小山だった。7世紀頃からのものらしいがね。その上に社を建てて神社にしたんだ。毎年秋に例祭をやっている。町内の人が列席して神主さんが来てお祓いをしてもらって、そのあと直会(なおらい)っていうのかな、宴会になって、なんてね。
 朝倉君とは中学でとなりのクラスだった。大学も同期なのだが、学部が違うこともあってそれほど深い付き合いはなかったのだが、このところ顔を合わせる機会が多くなった。なぜかというと、ヒルサイドテラスの中にあるホール、ヒルサイドプラザで何回かコンサートをする機会があり、そしてヒルサイドテラスのオーナーが朝倉不動産なのである。
 朝倉家は江戸時代このあたり一帯の総代、つまり村民の取りまとめをする庄屋に相当する家で、敷地内の猿楽塚をずっと守って来た。村民も塚を尊んでいたのだろう。
 いまの当主は彼のお兄さんだが、兄弟ともに旧家の出らしい風格の持ち主だ。ヒルサイドテラスを運営する方法の鷹揚さも朝倉家代々の家風を反映しているに違いない。
 で、今年なんだけど、お祓いのあとで何か演奏する、なんてどう?
 え? 奉納演奏かい? 面白い、やるやる。でも猿楽神社というからには猿楽の神様だろう? 猿楽ってのは祭礼のときに演じる芸能じゃなかったか。神様を楽しませるための芸能、の神様とは一体何なのだ??? あらためて考えてみるとよくわからない。

 ものの本によると……
[猿楽] 散楽、申楽、散更(さるごう)とも書く。中国大陸伝来の散楽=軽業、手品、物真似、曲芸など=の転訛(てんか)したものともいう。古くは随の時代以降に西域=中央アジア、西アジア=から入ってきたさまざまな芸能を、宮廷の音楽である雅楽に対して散楽と呼んだらしい。日本では天平時代に雅楽寮のなかに散楽戸という部署を置いて保護したとか、752年に東大寺大仏開眼供養会で他の芸能とともに奉納されたという記録がある。しかし散楽戸は、芸の持つ庶民性や猥雑性のために宮廷にはふさわしくないとされ、782年桓武天皇の時に廃止となった。
 その後は民衆の間にひろく行き渡り、平安から鎌倉時代には祝言的な芸能として田植え前の豊作祈願の「田楽」となったり、祭礼に欠かせないものとして社寺の保護下で芸団=「座」=を作って領内祭礼での独占権をもつようになった。
 このような「座」から発展したものが「能」である。

 ……なるほど。してみると猿楽とは、もとを正せばユーラシア大陸の民族芸能だということではないか。だったらそれらを統べる神様にうってつけの音楽があるぞ。“STOY”だ。
 よし、決まり。いや、しかしそれだけではひねりが足りないな。大陸と倭国の間には海がある。猿楽の神様が倭国へ渡来なさるについて海神さまが船の手配をされたことだろう。となればここはひとつ海神さまにも楽しんでいただかねばなるまい。ならば海の国々からの音色も加えたい。名称は? 《環大平洋楽》なんてどうだい。
 さいわいインドネシア、オーストラリア由来の神々、じゃなかった楽器奏者ともつき合いがあるし、と構想が次第に明確になって行く。
 当日は塚の登り口にテントを張り、頂上の神社に向かっての演奏である。
 楽器と出自、演奏者はこうなる。

ウード       アラブ・チュニジア      常味裕司
タブラ       インド            吉見征樹
ヴァイオリン    西アジア〜東ヨーロッパ    太田恵資
クンダン      インドネシア・バリ島     和田 啓
ディジュリドゥー  オーストラリア・アボリジニ  河田嘉彦

左から河田、常味、和田、吉見

左から太田、常味、和田、吉見

 残る当人はなにを奏するか。ピアノ以外は無芸なのが弱味だが、不参加というわけにはいかない。さいわいタイかどこかの土産でもらったフィンガーシンバルがあるのでこいつを持参して、好き勝手に間の手を入れることにした。

 このようにして世界初演の《環大平洋楽》の摩訶不思議な音色が、11月18日昼近く、おだやかな晩秋の日射しの中、代官山の空に立ちのぼったのであった。
 神々が照覧あらせられたに違いない。午後からは滝のような大雨となった。
 え? なんだか怪しい?
 その通り。猿楽とは怪しげで、毒があって、そして楽しい土俗の音楽だったのだよ。

2004年12月8日