アレンジでもっとも重要なのはエンディングである。
これほど違いのある文明圏の対立は、まかり間違うと底なしの泥沼に陥らないと誰が保証できようか。ブッシュ氏にそこまでの覚悟はあるのか。
アフリカの旋律とヨーロッパの和音が手を結べるのだから、イスラム音楽の微分音と平均律音程が共存できないという理由はない。 |
【初出:『JazzLife』2002年1月号】 |
チ、ツーン、チーンツテン、トン、 蕎麦打ちは「練り」「延し」「切り」の三段階がある。
まず、蕎麦粉を計量。師匠は500g、初心者は300g。普通はつなぎとして二割の小麦粉を入れるが、新蕎麦の香りを最大限味わうために敢えて十割(生粉打ち)に挑戦することに。次に水を計量。粉の50%弱。
粉を木鉢に入れ、富士山状にして頂上に窪みをつくり、そこに水を一気に流しこんで「練り」に入る。
はいはい、御隠居、ここはいかに手早くやるかで蕎麦の出来が違ってしまうからちょっと黙っててください。「水まわし」は粉と水をまんべんなくなじませる作業で、素早く混ぜないとあちこちに固まりができる。私は塊をつくるものだと思って捏ねようとしたら師匠に、違う! 遅い! と叱られた。指を広げ、決して中心を作ろうとしない、優しく、素早く、がコツと見た。
団子の表面が滑らかに、艶が出てきたら完了。
聞き漏らしましたが、檜の分厚い一枚板のようにも見えました。とにかく、打板に打ち粉を撒き、練りあがった団子をまず掌で中心から丸く押しのばす。適度に平たくなったところで麺棒の出番となる。
ええぃ、るっせー、こちとら太打ち田舎蕎麦が食いてぇんだよ。おれはきしめん打ちだ。どうだ、驚いたか、南蛮渡来伊太利国はフェットチーネ打ちとござーい。 |
【初出:『JazzLife』2002年2月号】 |
「こんなふうに流通経路ができれば理想的だよね」 次作CDの打ち合わせ、という名目ではじまった飲み会だが、話はどうしても「採算」に行き着いてしまう。思い通りの音楽を作ろうとすれば、必然的に大手の路線から外れなくてはならないのが多少なりとも気骨のあるミュージシャンの歩むべき道なのだ。 以前なら、ここまでくれば翌日は二日酔い、が確実だったけれど、このところ何年かはそう言う事態に陥ったことがない。肝臓の性能は年とともに衰えてきているはずで、量が変わらないのだからこれは酒(私が飲む酒)が変わったと見るべきだろう。 |
【初出:『JazzLife』2002年3月号】 |
毎年正月十五日、皇居正殿松の間で『歌会始の儀』が催される。 この旋律はシンプルであるが大変魅力的だ。とくに第二句のファ−ミが第三句でミ−ファ♯となるところが良い。現代の用語で言えばモーダル・インターチェンジ。こんな旋律感覚を我々の先祖が千年も前に持っていたのなら、日本人の音楽的才能も捨てたものではない。 (ここに御歌を引用したいのだが、畏れ多いという意見があり、見合わせ) 第五句の終止に二回目の発声が重ねて出るところは一瞬のフーガをおもわせる意外性がある。 (ここに御製を引用したいのだが、畏れ多いという意見があり、見合わせ) 朗詠は三回繰り返される。はじめの二回は4度高い型で、三回目は低いほうで歌われ、最後はふたたび古代に帰って行くように長く余韻をのばして消える。 数年前に『歌会始めの儀』をテレビ中継で見るまでこの旋律の存在を知らなかったのはお恥ずかしいかぎりだが、その埋め合わせと無知の反動で、これをモチーフに筝の曲を作ってみたりしたものだ。 |
【初出:『JazzLife』2002年4月号】 |
ジャズが好きで、よくライブコンサートを主催して下さる和尚さんから、「住職に任命される『晋山式』という式典をやるのだが、その後の祝宴で演奏をしてくれないか」、という依頼があった。 この程度だったら許していただけるのでは。と考えたのが、ソウのつく曲づくし。 式がおこなわれるのは大阪府堺市の海会寺(かいえじ)。臨済宗の古刹である。 本堂の前庭にテントが張られ、椅子をならべ、「俗」界の人達が拝観できるようになっている。式次第をいただいて待つ。 さて、ギョームレンラクをふたつ。
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【初出:『JazzLife』2002年5月号】 |