アレンジでもっとも重要なのはエンディングである。
 エンディングがもつれたときは混乱である。混乱の極限は戦争である。
 戦争でもっとも重要なのは終戦である。
 ゆえにアレンジは戦争である、わけはない。
 要は、ものごとすべて終わり方が大切、ということだ。
 どのようにして、いつエンディングに持って行くか、を考えてかからないと収拾がつかない事態となるのはアレンジも戦争も同じなのだ。
 明治時代の日本は賢かった。日清戦争も日露戦争も、終結の時期、方法を常にさぐっていたから国力ぎりぎりのところで停戦できた。
 アメリカは日本と戦争をはじめるにあたって、戦後の日本をどうするか、まで考えて開戦に踏み切ったのだそうだ。対する日本は、終戦の計画を持たずに次々と戦線を拡大し、ついには国全体が滅ぶまで戦い続けなければならなかった。
 賢かったはずの日本がいつのまにか状況判断のできない国になってしまっていたのと同様、アメリカの頭脳もベトナム戦争あたりから何となく怪しい雲行きだった。
 今回はどうなのだろう。
 ブッシュ大統領がしきりに否定しているにもかかわらず、戦争は次第に西洋と非西洋、キリスト教とイスラム教の戦いの様相を帯びてきたようである。
 アフガニスタンの実体は国家と呼べるようなものではなく、あたかも日本の戦国時代のようにひとつの谷の村ごとに一族が部隊を作り、それぞれの判断で織田方につくか武田方につくかを決めるという。いくつかの村の集合としての地域の重要なことは「ジルカ」という長老の会議(寄り合いと呼ぶべきか)で議論され、イスラム法と部族習慣によって調停や処罰がなされる。(田中宇著『タリバン』光文社新書)
 中央に幕府があっても、江戸時代の日本人にとって「国」は「藩」だった。そして、限られた開明的な思考をする人物以外は、「世界」があることを実感しなくても日々の暮らしに何の不足も感じなかったに違いない。
 アフガニスタンの人々も、カブールのような都市部をのぞいて、このような感覚で暮らしていたのではないか。
 むろん、江戸時代でも「お伊勢参り」で他国を見る機会があったように、彼等もメッカ巡礼で他のイスラム国というものを意識するに違いない。が、意識が及ぶのはそこまでで、その外に広がる非イスラム圏も含む全世界という感覚を持つまでにはならないだろう。ただ外側は不可解な空間が広がっている、と思うだけではないか。
 彼等にとってアラーを信じない人間が悪魔か獣に見えたとしても不思議ではない。日本人にはよくわかる感覚だろう。なにしろわずか150年前には、朝廷が紅毛碧眼の外国人は神州を穢すとして幕府に攘夷を命じたような国だったのだから。
 アフガニスタンに限らず、イスラムの教えを受けた人々は多かれ少なかれ「イスラム圏=全世界」というイメージを持っているはずだ。
 そう考えると、アメリカ側に立っている国々とイスラムの国々との世界観の落差が見えてくる。この落差はどこから生じるのだろうか。
 それはキリスト教世界とイスラム教世界がそれぞれ異なった「精神の座標軸」を持っていて、それらが「越えられない溝」を形成するからだと仮定すると納得できる(むろんアメリカ合衆国にもイスラム教信者が存在するが、あくまでも少数派ということで)。

  • その1 暦:太陽暦vs太陰暦
    西暦622年がアラビア太陰暦のHijrah元年にあたる。ヒジュラの一年は354日、30年に一度355日の閏年がある。西暦2000年4月6日=ヒジュラ1421年1月1日、西暦2001年3月26日=ヒジュラ1422年1月1日。
  • その2 文字:右書きvs左書き
    ローマ文字は右方向へ書いて行くが、アラビア文字は右から左へ向かって書く。ただしキリスト教側の国で唯一イスラエルのヘブライ文字が左書き。
  • その3 音楽:平均律vs非平均律
    言うまでもなく、全世界を眺めると非平均律音楽圏の人口のほうが多い。音楽に限れば、むしろキリスト教世界が孤立しているように見える。

 これほど違いのある文明圏の対立は、まかり間違うと底なしの泥沼に陥らないと誰が保証できようか。ブッシュ氏にそこまでの覚悟はあるのか。
 全人類を巻き込んだ終わりなき戦いにならぬうちに、なんとかエンディングに持ち込まねばならない。それも単なる一時停戦ではない完全終止形として。
 そのためのたったひとつの手段は、「溝」を埋めるか、橋を架けることである。対立の根が深いなどと尻込みせず、軽薄のそしりを恐れず、とりあえずできそうなことからやってみるべし。

  • 暦の溝:これは簡単。太陰暦を並記したカレンダーを作ればよい。
  • 文字の溝:縦書き文化圏が調停に乗り出す。すなわち、中国、韓国、台湾、日本が一致して働きかける。北朝鮮も同調すればさらに効果的だろう。
  • 音楽:平均律と非平均律が融合したあらたな音楽を作る。この見事な先例はすでに存在する。ジャズだ。

 アフリカの旋律とヨーロッパの和音が手を結べるのだから、イスラム音楽の微分音と平均律音程が共存できないという理由はない。
 私自身、《アラビンディア;Oud常味裕司、Violoin太田恵資、Tabla吉見征樹》との共演で、アラブ音楽のなかに平均律楽器=ピアノが何の違和感もなく参加できた経験を持っている。むろん音楽的な工夫と協調の努力を経てのことであるが。
 どれほど深い溝があろうとも、双方にそれを越えようという意志さえあればかならずセッション、つまり合同演奏が成立する。
 大切なのは、セッションを行う場所である。かならず両者の中間地点でなくてはならない。どちらかが譲歩を重ねて相手の土俵に引き込まれるようなことではいけないのだ。できることなら「溝」に板でも渡した上が良い。
 そして、双方が互いの暦や書き方を認めあうこと。
 そういうセッションならば、エンディングなんて決めておかなくても自然に終われるのである。
 なんだかランドゥーガの説明をしているような具合になってきたぞ。

【初出:『JazzLife』2002年1月号】



 チ、ツーン、チーンツテン、トン、
 〜信州信濃の新蕎麦よりも わたしゃあなたのそばが良い〜
 なんて都々逸がある。
 しかし、The Nearness Of You、あなたのそばで中途半端にもてなされるよりも正真正銘の新蕎麦のほうがよほど美味に違いない、と薄々感じてはいたのだが、なかなか「これぞ正真正銘」に巡り会う機会がなかった。
 蕎麦好きが高じてかどうかは定かではないが、信州小諸に移住して20年になるO氏夫妻が一反(300坪)の畑に蕎麦を植え、毎年自ら打った蕎麦を楽しんでいる。
 10月はじめ、コンサートの打ち上げで話が盛り上がり、今年のO氏新蕎麦収穫祭に東京組も参加して蕎麦打ち体験をすることになった。
 「正真正銘」を味わう機会到来である。
 O氏を師匠として蕎麦打ち道場が始まる。まず師匠のお手本を拝見してから一人ずつ順にやって行くのだが、なにしろ東京組全員初体験。とんでもないことになると思いきや、各自それなりに蕎麦の格好をしたものを作りあげて大満足となったのを幸い、蕎麦打ちの手順をエラソーに紹介しよう。脇から口を出す「解説者」は帰京後私が買い求めた『蕎麦の辞典』(新島繁著、柴田書店刊)を読んだ御隠居だ。少々うるさいが御容赦。

 蕎麦打ちは「練り」「延し」「切り」の三段階がある。

「俗にいう『一鉢、二のし、三包丁』じゃな。『包丁三日、のし三月、木鉢三年』とも言われておる。してみると最初の『練り』がもっとも難しいことになるな」

 まず、蕎麦粉を計量。師匠は500g、初心者は300g。普通はつなぎとして二割の小麦粉を入れるが、新蕎麦の香りを最大限味わうために敢えて十割(生粉打ち)に挑戦することに。次に水を計量。粉の50%弱。

「蕎麦粉八割、つなぎ二割を二八蕎麦という。しかし二八を蕎麦の値段十六文のことだとする説もある。亨保年間には二六、三四つまり十二文だったのが幕末の慶応年間には二十文を超えておるからして、二八はその間のことじゃな」

 粉を木鉢に入れ、富士山状にして頂上に窪みをつくり、そこに水を一気に流しこんで「練り」に入る。

「木鉢は外径二尺(61cm)、材は栃またはブナ。内側が朱、縁から外側に黒の漆をかける、とあるな。『練り』は前段を『水まわし』、後段を『くくり』と呼ぶ」

 はいはい、御隠居、ここはいかに手早くやるかで蕎麦の出来が違ってしまうからちょっと黙っててください。「水まわし」は粉と水をまんべんなくなじませる作業で、素早く混ぜないとあちこちに固まりができる。私は塊をつくるものだと思って捏ねようとしたら師匠に、違う! 遅い! と叱られた。指を広げ、決して中心を作ろうとしない、優しく、素早く、がコツと見た。
 粉と水がなじんでくると、おから状になり、次第に一体の生地ができあがる。
 「くくり」は団子にした生地を右手拇指丘で中心から右外へ舌状に押し出し、それを左手で中心に折りもどしつつ時計方向に少し回転させる、という手順をひたすらくり返す。

「くり返すうちに、団子の中心に菊の花のような皺ができることから『菊揉み』ともいうそうじゃ」

 団子の表面が滑らかに、艶が出てきたら完了。
 これを「打ち板」の上で麺棒を使って薄く板状にのばすのが「延し」である。

「『打ち板』は別名『麺台』。材は硬くて復元力のある桂が最良じゃな。檜、桜も用いられる。O師匠のは何かな」

 聞き漏らしましたが、檜の分厚い一枚板のようにも見えました。とにかく、打板に打ち粉を撒き、練りあがった団子をまず掌で中心から丸く押しのばす。適度に平たくなったところで麺棒の出番となる。
 まずは「丸出し」。誰だ、スッポンポンのことかなんていうのは。あまり力を入れすぎないように、両手を猫か狐のような平拳にして麺棒に乗せ、前方に押し出しながら中程から端、端から中へとこすりつつ棒を回転させる。
 打板いっぱいにまで広がったところで「四つ出し」に移る。
 生地を向こう側から麺棒に巻つけつつ引きよせる。ロール状になったものを半回転し、棒の左右を逆にして前方へ転がして行く。巻取った尻尾の部分が打板に当ってパタパタと音をたてる位の早さで、と師匠は言われるがなかなかスムーズには行かない。
 これを四回くりかえし、次いで左右方向に四回。
 丸かった生地がほぼ四角になる。えー、なんでー、と一同。
 さて、最後の「切り」である。
 包丁は柄の下まで刃が伸びている、というより幅の広い刃身に切れ込みをつけて、上の部分を柄にしたような感じだろうか。中華料理用の包丁ほどの重さがある。
 生地を四つに畳み、左手に定規の役をする板=小間板(駒板)を持ち、それに沿って切って行く。包丁自身の重みで切れるから力を入れる必要はないというが、初心者はどうしても肩や手先が無駄な力で硬くなる。
 落とした包丁をわずかに左に傾けるとそのぶんだけ小間板が移動する。移動幅が蕎麦の太さになるわけだ。さすが師匠はこれをリズミカルになさいます。こちらは一度落として慎重に傾け、とやっているが、かえって太さが揃わない。もうじき日が暮れる。

「江戸時代の御定法、並蕎麦の太さは『切りべら二十三本』と言ってな、生地一寸、3.03cmを二十三本に切るのじゃぞ。一本約1.3mmなり。ふぁっふぁっふぁ」

 ええぃ、るっせー、こちとら太打ち田舎蕎麦が食いてぇんだよ。おれはきしめん打ちだ。どうだ、驚いたか、南蛮渡来伊太利国はフェットチーネ打ちとござーい。
 どんな太さであれ、わが蕎麦うまし。
 茹で、つけ汁、とまだまだ秘伝口伝数々あるが、残念ながら紙数が尽きた。

【初出:『JazzLife』2002年2月号】



 「こんなふうに流通経路ができれば理想的だよね」
 地酒のメニューを見ながらS・N氏がため息まじりに言う。
 三軒茶屋の居酒屋《A》は希少な銘柄をそろえているので名高い店だ。
 このところ、こういう店が少しずつ増えて、レコード業界でいうところの「インディーズ・レーベル」にあたる少量出荷の醸造蔵がやっていけるようになってきた。つまり名前ではなく品質で太刀打ちできる環境が整いつつあるのだ。TVCMを派手に打つような銘柄を飲むのはなんとなく野暮だ、と感じる風潮がでてきた、というわけ。
 ためしに《A》のカウンターで「ショーチク梅ある?」とか「ハク鹿くれ」とか「日ホン盛熱燗で」とか「おれワンカップ大ゼキ」なんて言ってごらん。周囲からサゲスミの目で見られる。いやその前にオヤジさんに張り倒されるだろう。

 次作CDの打ち合わせ、という名目ではじまった飲み会だが、話はどうしても「採算」に行き着いてしまう。思い通りの音楽を作ろうとすれば、必然的に大手の路線から外れなくてはならないのが多少なりとも気骨のあるミュージシャンの歩むべき道なのだ。
 つまるところ、自主製作。
 作るまではどうにかできるとして、問題はどうやって「買っていただくか」である。
 ライブやコンサート会場に置いても、聴きにきているのがほとんど常連さんとあっては、皆すでにお持ちなのだから売り上げはあまり期待できない。自力の限界はすぐに来てしまう。
 だから、《A》のオヤジさんのように、自分で飲んでウマイと感じた酒だけを集め、客は「知らない銘柄だけど、オヤジさんが薦めるなら」と飲む、というようなレコード店ができないか、と切実に感じるのだ。
 S・N氏の「オヤジさん、○○、▽▽、**、と来たんだけど次なにが良い?」、に応えて一升瓶のぎっしり詰まった冷蔵棚のガラス引き戸を開け、オヤジさんが奥のほうから取り出したのは、ラベルなし、首に名札がゴム輪でとめてあるだけの瓶だった。
 「試しに一本だけ取り寄せてみたんですがね。なかなかイケるんですよ。お口に合いますかどうか」 「良いねー。謙虚だねー。トーシローの俺たちに向かってさー、『お口に合いますか』なんてそんじょそこらのヒョーロンカなんざ逆さに振っても出ない言葉だよなー。グビッ、う、うまいっ、おそれ入りやした」
 ね、店主に「今度のBAJの新譜、聴く価値あるよ」とか、「あなたの傾向だと佐藤允彦なら『NAGI』だね」と確信持って言われたら誰だって買う気になるでしょう。
 我々はべつにCD作って儲けようという魂胆なんかこれっぽっちもないんだよ。
 じゃ、なんで作るか、とあらためて問われると困るんだけどね。何なんだろうねぇ〜。存在証明かなぁ。特にインプロ系は消えてなくなる「聖なる一回性」イノチ、みたいなところがあって、オレたちもそのノリで突っ張ってきたけれど、時々「今の演奏、残したかった」とか思うことあるよ。何年何月近辺のオレはこんなものでございました、こういうことを感じておりましたってのをとどめておいてもたいしたことはないですがね。
 それはともかくとして、せめて、赤字をです、赤字を三ヶ月位必死にエイギョーやって穴埋めできる程度にとどめたい。そうすればまた次のCDの希望が出て来ようってもんだ。
 エイギョー知らない? エイギョーってのはね、自分の芸を不本意ながら売ることですよ。たとえばどんな? たとえばアタシだったら[[[[[[[[とか]]]]]]]]とか(ヘン集部註:筆者酩酊のため意味不明)。 え? 売れる芸があるうちは良い? あんただれ? あれ、S・Nさんどこ行ったの? お〜い…

 以前なら、ここまでくれば翌日は二日酔い、が確実だったけれど、このところ何年かはそう言う事態に陥ったことがない。肝臓の性能は年とともに衰えてきているはずで、量が変わらないのだからこれは酒(私が飲む酒)が変わったと見るべきだろう。
 そのきっかけは、ある本で、二日酔いする酒の条件として、1)低い精米度 2)多量のアルコール添加 3)醸造用糖類添加 4)醸造用調味料の使用、があげられていたのを読んでから、とにかく飲む前にラベルを点検することにしたからだと信じている。
 原材料:米、米麹、とだけあるものにする。原材料:米、米麹、醸造用アルコール、とあったら精米率60%以下のもの。
 これを満たす酒を置いている店なら、料理で裏切られることもまずないし、なにより二日酔いと縁が切れる、ということを経験的に学んだ。
 分類でいえば、純米吟醸、純米。
 これを手がかりに、見知らぬ銘柄を飲み比べる愉しみ。インディーズ地酒がそろっている店のうれしいところなのだ。
 大吟醸、吟醸。タイトルとしては有難いけれど、醸造用アルコールが入っているせいか翌日からだや胃が重かったりすることがあるので一応敬遠することにしている。
 これが功を奏して、酒のうえでの大失態をせずに何年か経過した。運転ならもうゴールド免許をもらえるころである。
 おっと、今回は自主製作CDのオハナシだったはずだが、どこで間違ったのだろう。
 日本レコード協会の集計によると、音楽用レコードの生産が三年連続で前年割れ。'98=6075億円/4億8千万枚をピークに減少、'01=5002億円/3億8千万枚だという。とくにCDシングルが大幅に落ち込んだ。携帯電話の通信代、インターネットによる音楽ソフトのダウンロードに小遣いが使われたのが原因と書いてあった。
 しかし、私はそれよりも、大手レコード会社の提供する、添加物をふんだんに加えたTV銘柄酒造の酒のような音楽の味がとうとう飽きられる時期が来たのだと思いたい。
 これからは、蔵の持ち味を鮮明に打ち出した少量出荷のインディーズ/自主製作・レーベルの時代だろう。日本の音楽を救うのは地酒派CD専門店しかない。

【初出:『JazzLife』2002年3月号】



 毎年正月十五日、皇居正殿松の間で『歌会始の儀』が催される。
 前年に発表された『お題』で詠んだ歌(いうまでもないが、ミソヒトモジの短歌)を両陛下の御前で披露し、最後に両陛下の御作をいただいて詠む、という儀式である。
 選者、召人(めしうど)、一般から詠進して選ばれた十人の歌、選者の歌、召人の歌、皇族方の歌、の順に節をつけて朗詠=文字どおり「歌う」。
 この儀式は鎌倉中期、亀山天皇の文永4年(1267年)から始められたというが、新作の和歌を朗詠して披露する『披講(ひこう)』と呼ばれるものは後冷泉天皇の時代(1060年頃)にはすでにあったようだ。
 南面して玉座。向かって右側に妃殿下方、左側に宮家方、フロアの中央に司会役と詠みあげる役の披講席。その後方(北面)に詠進者、選者、召人の席、左右(東西)に陪聴者席。
 『読師(どくじ)』と呼ばれる司会進行役が席に着いて式がはじまる。
 すべて無言、無音での悠揚とした進退。宮中の時間の進みかたは千年来変わっていないのだろう。
 静寂のなかで歌われる古来の旋律を聴くと、時空を越えたような感覚になる。
 まず『講師(こうじ)』が詠み人の名を古式で「○○県、○○の○○」、たとえば「東京都、佐藤の允彦」と呼び、歌をゆっくりと同じ高さの音で読む。
 次に『発声(はっせい)』が第一句(はじめの五文字)を節、と言っても少し抑揚のついた一音でうたい、第二句以下を四人の『講頌(こうしょう)』が加わってうたう。
 旋律のおおまかな形は、第一句をラとすると、第二句は中心音ラからシへ上がってラにもどり、シ−ファ−ミを二回、第三句はミが中心で、ミ−ファ♯−ド−シ、第四句レ−ミ−ファ♯−ド−シ、第五句レ−ラ−シ−ファと下がってミで終止する。
 すべてがこの型ではなく、ときどき第二句のなかにラ−シ♭−レ−ミ−シ♭−ラと一瞬上下行するものがある。さらに、歌いだしが4度ほど高く、したがって全体が高くなる型もある。
 いずれにしても、これらの旋律型は<催馬楽(さいばら)>や<朗詠>といった日本古来の歌唱の姿をとどめているものとされる。
 日本古来とは、大陸から雅楽や仏教が伝来する前からあった歌のかたちである。

 この旋律はシンプルであるが大変魅力的だ。とくに第二句のファ−ミが第三句でミ−ファ♯となるところが良い。現代の用語で言えばモーダル・インターチェンジ。こんな旋律感覚を我々の先祖が千年も前に持っていたのなら、日本人の音楽的才能も捨てたものではない。
 しかし、雅楽や仏教音楽の声明(しょうみょう)が古来の旋律にどの程度影響しているのか、あるいはまた祭文(さいもん)や和讃(わさん)、御詠歌(ごえいか)のようにひとたび民衆化された大陸の旋律が、宮廷に逆流したのかどうか。そのあたり、研究者でない私にはよくわからないので、第二句と第三句の同型4度移調を独断手放しで賛美して良いものか迷う所だけれど、こまかい詮索はさておいて、正月のひとときを古雅な気分ですごすのは悪くない。
 普段耳にしない[やまとことば]もまたのどかである。なるほど、皇太子殿下は[ヒツギノミコ]、雅子様は[ヒツギノミコノヒメ]か。
 両陛下の御歌の段になると、『読師』が進み出て歌の書かれた紙(懐紙という)を机上からいただいて席にもどり、うやうやしく広げて『講師』に渡す。
 皇后陛下の御歌は、
 「はる─────────────ぅ、ということを詠ませ給える、きさいのみやの、みうた」と唱えられ、二回繰り返しての朗詠。

 (ここに御歌を引用したいのだが、畏れ多いという意見があり、見合わせ)

 第五句の終止に二回目の発声が重ねて出るところは一瞬のフーガをおもわせる意外性がある。
 最後に天皇陛下の御製。全員が起立して拝聴する。
 「はる─────────────ぅ、ということを詠ませ給える、おおみうた」

 (ここに御製を引用したいのだが、畏れ多いという意見があり、見合わせ)

 朗詠は三回繰り返される。はじめの二回は4度高い型で、三回目は低いほうで歌われ、最後はふたたび古代に帰って行くように長く余韻をのばして消える。

 数年前に『歌会始めの儀』をテレビ中継で見るまでこの旋律の存在を知らなかったのはお恥ずかしいかぎりだが、その埋め合わせと無知の反動で、これをモチーフに筝の曲を作ってみたりしたものだ。
 聴くのが正月だということもあって、いつもはほとんど意識しない[トヨアシハラミズホノクニ]やら[やまとびと]について思いをめぐらすことになる。
 今年もそういう時間を持つべくテレビのスイッチを入れた。
 はて、去年もこうだったかな。肝心の朗詠になると、アナウンサーが待ち構えていたように「○○さんはどういう職業で、どこそこへ行ったおりにどうとかこうとかがどうやらこうやらしたのを見て、なんたらかんたらの気持ちでこの歌を詠みました」「○○の宮妃殿下○○さまは、O国へ御旅行のとき……」とすべての歌についてだらだらとコメントするのだ。
 一首もまともに聴けなかった。よくぞ徹底したものである。
 歌番組でイントロの間は黙っていて、歌が始まったら隙間なく解説がしゃべり続けたとしたら、視聴者から抗議が殺到するだろうに。
 この放送局は、短歌とは読むもので、歌うほうはオマケだと思っているのだろうか。
 そういえば、「ではこのへんで音楽を。××の演奏で○○○。首都圏の皆様には交通情報です」というのもこの放送局だった。
 一生懸命演奏して録音した××さんの思いも、「オッ、××だ、聴こう」と身構えたファンの期待も空しく、確実に聴き取り不能のかぼそい○○○にかぶせて、「首都高午後からの入口の閉鎖は十ケ所です」なんてアナウンスすることが平気で行われているのだ。
 私の「トヨアシハラミズホノクニ」の静寂も清浄もみごとに踏みにじってくれた今年のNHK、おっとつい実名を出してしまった。ま、良いか。
 はてさて、音楽をこのように粗末に扱うと、朗詠の旋律祖型を作った千年前の御先祖様のお怒りに触れるぞ。
 ほらほら地面が揺れだした……

【初出:『JazzLife』2002年4月号】



 ジャズが好きで、よくライブコンサートを主催して下さる和尚さんから、「住職に任命される『晋山式』という式典をやるのだが、その後の祝宴で演奏をしてくれないか」、という依頼があった。
 もちろん喜んで、とお答えしたものの、ただ演奏するだけでは芸がない。なにかひと工夫をせねばオレらしくなかろう。さて一体何を弾くべきか。
 どちらかがジャズ関係の結婚式ならばめでたそうなタイトルの曲がゴマンとある。バツイチがらみなら"Second Time Around"、老齢同士なら"What Are You Doing The Rest Of Your Life"、デキチャッタ婚なら"The Child Is Born" ……エエカゲンニセェ
 内輪が集まって騒ぐ披露宴ノリではいかんのだ。厳粛な宗教儀式の続きで、宗派の偉いお坊さんもお集りになることだし、それ相応の曲目でなければならない。かと言ってバッハ? 仏教でキリスト関係はいかんなぁ。そもそも西洋音楽でホトケサンにふさわしい曲なんかあるわけないだろうが。
 う〜ん、ホトケ…寺…お坊さん…坊…僧…ソウ…
 そうだっ。そうしよう。そうするしかあるまい。

 この程度だったら許していただけるのでは。と考えたのが、ソウのつく曲づくし。
 "僧 in love" "You'd be 僧 nice to come home to" "僧 many stars" "僧 what" "Hallelujah I love her 僧" "僧 nice" "僧 lar" ……
 しかしこういう一種のワルノリがわかってもらえれば問題ないけれど、「不謹慎な。この場をなんと心得る!バッカモン、喝!」という事態にならない保証はどこにもないのだ。

 式がおこなわれるのは大阪府堺市の海会寺(かいえじ)。臨済宗の古刹である。
 12世紀末に南宋から帰った栄西を開祖とする日本臨済宗は、座禅とともに問答を重視する。「公案」という師から与えられた課題を考えることを通じて禅の境地を高めて行くのだ。課題はむろん論理で解けるようなものではない。「万物は一に帰する。この一はどこに帰するか」「片手で拍手をするとどういう音がするか」等々。師は答を聞けばどのあたりの段階か判断できるのだという。問答に関する本には、いきなり胸ぐらを掴んで張り倒したり、「そこのヤカンを取ってくれ」とか「ワッハッハ」などという答をした禅師の話が出ていたりする。これまた論理では解明できない。おそらく返答のタイミングとか、声の調子とかで師にはわかるのだろう。どこかでフリーインプロヴァイズのやりとりに通ずるような気がしないでもない。
 一山の主となるまでには、そうしたさまざまな厳しい修行を経てこられたのだから、『晋山式』には我々世俗の人間が考え及ばない重い意義があるに違いない。

 本堂の前庭にテントが張られ、椅子をならべ、「俗」界の人達が拝観できるようになっている。式次第をいただいて待つ。
 すでに本堂の内には「曲ろく」(「ろく」という字は碌から石偏を取った、ツクリだけなのだがコンピューターの漢字表には見つからない)=漆塗りの椅子に管長猊下をはじめ高僧の方々が着座されて荘厳な雰囲気。
 突然回廊の太鼓が鳴らされる。『法鼓(ほっく)』、式が始まる合図だ。
 新住職が山門(平地にあっても山門だ)に到着し、『山門偈』という寺の主となる覚悟と心構えを述べる。マイクを通して庭の我々にも聞こえるようになっている。前段は難しい禅用語が多くてよくわからなかったが、最後は「仏道修行を志すものは我の尻へに従い来れ、カァァァァァツッ」。いつも物静かな紹隆老師(禅宗では年令に関係なく悟りに達した人を老師と呼ぶ)のどこからあれほどの大音声が発せられるのか、と驚いた。さすがに修行した身体はちがう。
 「観音帽子(かんのんもうす)」と呼ばれる円錐を途中で切ったような形の、肩の下まで垂れのついた錦のかぶりものに金襴の袈裟、という正装に威儀を正した新住職が本堂に入る。
 『献燈・献華』『晋山法語』『焼香三拝』『祝聖諷経回向』……と式が進み、『辞令伝達式』に続いて『管長猊下祝辞』になった。
 臨済宗東福寺派管長福島慶道猊下。新住職の人柄や修行の履歴などを紹介され、堺の地で仏道のために働いてほしい、と結ばれる寸前、「寺という字は土に寸と書く。紹隆君もドスンと腰を据えて」と言われたので場内に笑いが起きた。
 オ、猊下はもしかしてシャレのわかるお方かも知れない。このぶんなら『僧づくし』は大丈夫かも、と安心したのである。
 禅を極めるということは、ふたたび日常に戻ってくることなのではないか。人間界の日々のなかに仏が見えるようになるのかな、とふと思ってしまうお言葉「ドスン」だった。
 式の最後は『総茶礼』で、同じ釜の湯でいれた茶を全員で飲むことでひとつの道統に連なることを感じ取るのだという。「喫茶養生記」を書いて喫茶の風習を広めた栄西の遺風を伝えるものだろうか。
 祝宴での演奏は「一喝」を頂戴することなく無事終了。猊下もお楽しみだった様子。私はほっと胸をなでおろしたというわけ。

 さて、ギョームレンラクをふたつ。

  1. 三冊目のエッセー集が完成しました。タイトルは『一拍遅れの一番乗り』です。ただし、本屋さんでは売っていません。ネット販売のみ(※管理人注:詳しくはトップページをご覧下さい)
  2. これを機に、本欄(※管理人注:『ジャズライフ』誌連載「音楽から見えるもの聴こえるもの」)を終了とさせていただきたいと思います。20年にわたる長い間の御愛読ありがとうございました。自由に書かせて下さった編集部と、毎号すてきなイラストで華を添えて下さった水玉画伯に感謝。
    今後は折にふれてホームページに書きますので、時々覗いてみてください。
【初出:『JazzLife』2002年5月号】