本欄もめでたく21世紀を迎えることができました。ひとえに諸氏御愛読の賜物と心から御礼申し上げます。
 さて、本年はまた私の干支が生まれた時のものになったという、俗にカンレキてぇもんだそうで……

 勝手ながら“赤もの”辞退申し上げます。
 ……ひそかな計画が本格化しないうちに宣言しておこうというわけ。

 昨年はふたりの先輩の還暦コンサートをお手伝いした。6月の富樫雅彦氏、10月のコルゲン鈴木宏昌氏。どちらも盛大かつ感動的な会だった。
 お二人とも『この道一筋、何十年』、名前を見ただけでサウンドが彷佛する方達だ。コンサートのテーマが最初から絞られている。出演するにも、聴きに来るにも、「あの人の会だったらこういう音楽になるだろう」と期待し、結果もその通りになる。盛りあがって当然である。
 したがって、これまで築いて来たものを総覧して、次なる干支サイクルに踏み出すあらたなエネルギーに点火する、ということを本人も周囲も確認できる有意義なセレモニーが成立するのだ。
 このような会に参加させていただいて私としては大変光栄かつうれしいのだが、終わったときが良くない。
 「さぁて、いよいよ来年はサトーさんの番ですね」
 何人もが決まり文句のように言う。
 あるいは、感想を書いて来た知人、友人、ファンのメールの末尾に「サトーさんはどんな会をやるのか」というようなセンテンスがかならず付いている。
 そこで、先手を打って「そのようなセレモニーは一切やらない」と諸氏にお知らせしておくことになるわけだ。
 以下、その理由。

  1. 還暦コンサートは、前に書いたような「この道一筋」のツワモノにこそふさわしい。私のこれまでを振り返ると、道はくねくね、行きつ戻りつ、細々と幾筋にもわかれ、どれが本流やら見当もつかない。そんなものをまとめようがないし、次のステップをどこに踏み出して良いやら迷うばかり。だからやめよう。
  2. それに、それら幾筋もの流れをすべて網羅するとなるとどうなるか。お世話になったり御縁の深かった方々に出演をお願いしたら、ジャズ界、クラシック界、邦楽界、民族音楽界、落語界、等々かなりな人数になってしまう。満員でも大赤字。だからやめよう。
  3. 当人、口先でこそ「歳だ、歳だ」というけれど、その割に年令を意識していない。還暦コンサートには「お前はもう還暦だ、還暦だ」と自覚させる側面がある。いくら自覚したって持って生まれた軽躁な性格はなおらない。時間と労力と資源の無駄遣い。だからやめよう。
  4. 夏目漱石『坊ちゃん』の教頭氏は「赤は体に良い」と年中赤シャツを着ている。浮世絵に描かれた江戸時代の目病み女は赤い布きれで目を拭いている。赤に殺菌作用があると信じられていたからだ。してみると還暦セレモニーで赤いチャンチャンコを着せるのは、表向き長寿を願うように装いつつ、裏で殺菌、つまり六十年も生きれば汚れがひどくなる、さっさと退場して後進に譲れ、という意味があったのではなかろうか。「あんたはもう向こう岸に近い人だよ」、と翌日から“敬して遠ざける”。贈る側がやたらと嬉しそうなのは、なにかにつけて煙たい存在を対岸行きの船に乗せてしまえるからなのだ。こっちは嬉しくも何ともない。だからやめよう。
  5. 赤いチャンチャンコでなくても、赤いベスト、赤いジャケット、赤い鉢巻き、赤いブリーフ、赤い褌、赤い鞄、赤い靴、赤い車、赤い眼鏡、赤い座布団、赤い毛布、赤い棺桶、赤い財布、赤紙、赤字、すべて赤いものはあまり好きではない。いや、赤ワインは別。でもやめよう。
  6. 赤がいやなら青、紫、黒、黄色。あるいは還暦というタイトルがつかなければ良いのか、と言い出す人がかならずいる。しかしそれでは通常のコンサートと変わりない。だからやめよう。
  7. だいたい還暦なんて、人生五十年とされていた時代の祝い事である。人生八十年の現在に換算すれば96歳に相当する。だったら次のサイクル120歳。そうなったら祝ってもらっても良いが、そのころまで生きていたとしてもおそらくボケた当人には何のことだかわからないだろう。だからやめよう。

 このような理由で、2001年10月6日には何のセレモニーもいたしません。また、まことに勝手ながら“赤もの”は固く固く辞退いたしたく、再度お願い申し上げ候。

恐惶謹言。

【初出:『JazzLife』2001年1月号】



 私の六巡目の巳年がやってきた。
 世紀元年と区切りが良い。ここらで今後巳年生まれの私が這って行くべき方向などについて一考してみるのも面白かろう。
 そもそもわが干支である巳とはなんぞや。
 俗にヘビ年という。巳とは蛇のことだ、と当然のように思っていたが、はて、漢字の「巳」に蛇の意味があるのかな。こういうことは第一歩から固めて行かなくてはならない。一応確認のために漢和辞典を引く。【巳】音は「シ」、訓は「ミ」。十二支の第六番目。時刻では午前九時〜十一時。方角では南南東・・・おいおい、蛇だとは書いてないぞ。
 それもそのはず、もとをただせば十干十二支は中国の暦法の周期の名で、単なる記号にすぎなかったはずだ。つまり数字と同じようなものだった。従ってそれらの漢字と動物とはなんの関係もない。これをいつの頃からか十二支獣など言って動物を当てはめるようになった。
 だから「寅年の人は気が強い」とか「丑年生まれは気が長い」などはむろん俗信。いわば血液型信仰みたいなものだ。従って、以下のことからどんな結論が導きだされても、あまり真剣に受け取らないでクダセーヤシ。
 それでも「お前はヘビだ、ヘビだ」と物心ついたときから言われ続けてきたからには、どこかでヘビになっているに違いない。で、ヘビについて考えよう、というわけなのだ。

 ともかく巳の字形がなんとなく蛇のようだから昔の人が流用したのかもしれない。
 一応古語辞典を当たってみる。これにも明確には書いてない。
 書棚にある一番古い『辞海』にやっとそれらしき記述が見つかる。
 【巳】[へみ(蛇)の略]。!?著者は名だたる金田一京助博士だから信用することにするが、なんとなくダジャレみたいな気がしないでもない。ま、良いか。
 とりあえずこれはクリアということにして、次に百科事典を見よう。
 【蛇】爬虫類・有鱗目・ヘビ亜目serpentesに属する動物の総称。中生代白亜期ごろトカゲと同じ先祖から分かれて進化した。世界に広く分布し、約2700種が知られている。盲蛇科(地中に住む)、オオヘビ科(ニシキヘビ、アナコンダなど)、クサリヘビ科(マムシなど)、コブラ科(コブラ、ウミヘビなど)、ミズヘビ科、ユウダ(遊蛇)科、ナミヘビ(並蛇)科などに分類される。
 全身を覆っているウロコは、一枚ずつ独立したものではなく、表皮を折り畳んだものである(ふ〜ん、知らなかった)。
 目には瞼がなく、表皮のうろこの透明なもので覆われている。耳は退化して外耳が完全になくなっている。聴覚のかわりに地面を伝わる振動にはきわめて敏感。嗅覚は鼻と上口蓋にあるジェイコブソン器官がつかさどり、非常に鋭い。二又の舌で臭いの粒子をここに運ぶ(総入れ歯、いや、そう言えばヘビが絶えずチロチロと舌を出すのはこのためだったのを思い出した)。
 人間の皮膚が垢となってたえずはげ落ちるのに対して、ヘビはある程度成長すると古い表皮を脱ぎ捨てる。脱皮。
 昔の人は、ヘビをなにか霊力のある生き物と感じていたようだが、脱皮がその証しのひとつになっただろうことは想像に難くない。

 わたしがまだ一巡目だったころは、東京の真中でも時々ヘビがいた。中目黒の我が家の庭で青大将を見かけたことも再三あった。木の枝に抜け殻が引っ掛かっていたのを取ってきたら、祖母が「これを入れておくとお金に困らないんだよ」と切れ端を大事そうに財布にしまいこんだのを覚えている。
 「神は、<脱皮して永遠に生きられる>という恵みを人間に与えるつもりだった。しかし人間どもがいつまでもつまらぬ争いにうつつをぬかしているので愛想をつかし、それを蛇にやってしまった。それで人間には死が訪れ、蛇は毎年脱皮して若返り不老不死になった」・・・東アフリカやメラネシアにはこんな伝説が各地にあるそうな。
 古代メキシコ、マヤの時代には「人間に文明を運んで来たのは羽の生えた蛇だった」という神話が信じられていたし、古代インドのヒンズーの神、ナ−ガというのは竜王で、原形はコブラである。
 アメリカインディアンのなかには、雨乞いの祈祷師がガラガラへびを体に巻き付けて踊る種族がある。
 もっとも、ヘビはこのような善の力ばかりではない。ヤマタノオロチをはじめとして害悪のシンボルとされることも多い。怨念やら執念(とくに女性の)が往々にしてヘビと化す。『道成寺』の清姫は安珍が隠れた釣鐘にヘビとなって七巻き巻く。鐘は溶けて安珍は灰となる。あな恐ろしや。
 七巻きかぁ。あとひと巻きでそういうパワーが私にも備わるなら、もう少し頑張ってみても良いかな。
 いやいや、そんなことを考えている場合ではない。六巡目を迎えて、新たな気持ちにならなければいかんのだ。なすべきことは、そう、脱皮である。
 古い皮を脱ぎ捨てること。これがヘビ年生まれにもっともふさわしい。
 とりあえずこれまでの五巡でコケが生え、ヨゴレやキズだらけになったわがサウンド、感覚を一度捨てる。弾きかた、手癖をすべて捨てる。
 脱皮したばかりのヘビは新しい皮で空気や地面の振動をどう感じるのだろう。不可能に近いが、それをイメージして頑張ってみるか。
 まずは記憶を捨てて、と、オヤどこかでお会いしたようだが、ドチラサンデシタッケ?

【初出:『JazzLife』2001年2月号】



 朝、目覚めにふと壁を見たら、右の隅に半透明な黒い糸屑のようなものがいくつか張り付いている。
 ん?何だろう。
 よく見ようとするとそいつらはもっと右の方に行ってしまう。
 左を見ておいて急に目玉を右に動かすと、一瞬視野の中入ってくるのだがすぐに水中をただようように右にふわりと逃れる。
 左目を閉じて、右目だけにしても見えるのだから、右の眼球の中のことに違いない。
 透明な、寒天の粟粒みたいなものはずっと以前から左右の眼にひとつふたつあるが、空や真っ白いものを凝視するのでなければ気にならない。しかし今日のは黒い。
 痛くも痒くもなし、読み書き演奏運転には何の支障もないから放っておいてもよいようなものだけれど、いつも右後ろのほうに何かの気配がするというのが気になる。それよりも「黒い」のがあまり感心しない。もしかして眼底出血?
 高血圧家系なのに何の検査もせずに今まで放っておいたツケがまわってきたか。
 少し心配になって『家庭医学百科』を開いてみる。
 硝子体混濁=飛蚊症(ひぶんしょう)。加齢により網膜から硝子体がはがれること(硝子体剥離)によっておこる。40代以降では網膜裂孔によることが多いのでかならず眼底検査が必要である。…よくわからんが要するに眼の玉と感光フィルムがはがれた、で、眼の玉のほうにフィルムの一部が貼り付いてしまって、穴が開いているかもしれないから、一度フィルムをみてもらえ、というのだろう。
 えーと眼科、と。そうそう、ジャズ好きの友人に二人いたっけ。
 いつも酔ってるところしか知らないから腕前のほうは不明だが、あぶない噂がきこえてこないところを見ると、ふたりとも大丈夫だろう、なんてね。これはここだけの話。
 私の音楽が好きなドクターはみな名医なのです、実際。
 それはさておき、暮も押しつまったころO博士からtelあり。「佐藤さん、糸屑はその後どうです?」「だいぶ黒い色が薄くなりましたがまだ居ます」「28日お暇だったら、その日で病院はおしまいだから診てあげましょう」
 恐る恐る病院へ出頭。
 院内のO博士は、ライブハウスで飲んでいるのとはまるで別人。威厳あり、慈愛あり。いやー、見直した。これなら安心して目玉を預けられる。
 事前に看護婦さんが視力、眼圧の検査をする。このあたりは眼鏡店での検眼と同じだ。
 「これから瞳孔を開く薬を点眼します。開いた瞳孔がもとに戻るのに3時間ほどかかりますが、今夜の御予定は?」「6時から忘年会がひとつありますけど」「そういうのだったら大丈夫でしょう。ま、多少字が読みにくくなるかも知れませんが」
 小型の投光器を手にしばし目玉の奥を覗き込むO博士。
 真っ暗な診察室で、眼の中に細い光が差し込む、というのはかつて経験したことがない状況である。なんだか脳の内側を見られているような気になってくる。考えていることが網膜に裏返しの映像で映っているのを読んでいたりして?
 「網膜も血管も大丈夫です。眼底は血管を直接眺めることのできる唯一の場所だから、ここを見るとその人の全身の血管の状況がほぼわかる。佐藤さんはまあ年相応の動脈硬化はあるが、まだ心配ない」という御託宣。
 医者に行くのをためらっていたことのひとつが、「こりゃ大変。重症。今日からただちに禁酒、カロリー制限、あれはダメ、これはダメ」と言われるのではないかという恐れだったから、新世紀を前にしてひとまずメデタシ。
 O眼科を出て夕陽の中を駅へ向かう。
 夕陽?・・・何なんだこれは?
 街は白色光の洪水である。ビルの輪郭は天空から押し寄せてくる光に侵食されて線だけが残り、壁は灰色の発光体になっている。半透明の人間が乳白色の靄のなかから次々にあらわれる。着ている服の色はすぐそばを通り過ぎるときだけ判別できる。それも皆なにやら光沢のある素材のものばかり。
 車のブレーキランプ、信号灯、ネオンサイン、光を出すものからはすべて巨大なウニか栗のように輝くトゲが放射状に出ている。不思議なことに蛍光灯だけはトゲがなくそのままの形だが、青みがかった冷たい色だ。
 足は確かに舗道を踏んでいる。耳に聞こえる街の音もなんら変わりないはずなのに、こういう光景のなかに放り出されると徐々にこの世から離れて行くような気がする。臨終の時に瞳孔が開くけれど、あちら側へ渡るときはこんな光景が見えるのだろうか。
 だとしたらなかなか心地よいものである。電車に乗るのが惜しい。しばらく街をあてどもなく歩き回ることにする。
 瞳孔拡散剤。薬品名をミドリンという。
 以前、胃カメラを飲む前に、看護婦さんが口中に含ませてくれたゼリー状の薬が徐々に喉を無感覚にして行ったのもかなりなものだったが、今回のはそれを数段上回る。
 発想が壁にブチ当ったら、ミドリン一滴。野山を徘徊する、なんてどうでしょう、O博士。
 それこそ、ここだけの話ですが。
【初出:『JazzLife』2001年3月号】



「おや八っつあん、今日は帰りが早いな」
「あ、御隠居。いえね、仕事じゃねぇんですよ。満腹寺でビワくれるってえから行ってみたら、とんだビワちげぇでさ。坊さんがベベンベンベンて琵琶弾いてなんだか辛気くせえフシうなってやがるんで。腹へったからけぇってオマンマ食おうってぇ…」
「ほほう、琵琶法師か。いまどき珍しいな。して、何を語っておったのじゃな。」
「どうもあっしにゃよくわからねえんですがね、なんでも熊谷さんてえのとナオザネさんと次郎さんが、敵の大将が海に行くのを呼び戻して討ち取るような話みてえなんで」
「ああわかった、それは『平家物語』じゃ。こういうものではなかったか。エヘン、ウウ〜、戦破れにければァ〜、熊谷の次郎直実ェ〜、平家の公達助け舟に乗らんと、汀の方へぞ落ち給うらん。哀れ好からう大将軍に組まばや。とて、磯の方へ歩まする處に、練貫に鶴縫うたる直垂に、萌黄匂の鎧著て、鍬形打たる兜の緒をしめ、金作の太刀を帯き、切斑の矢負いィィ〜…」
「そうそう、そんなお経で」
「これは経文ではない。熊谷の次郎直実が平の敦盛を討ち取るという、名場面のひとつだな。直実は自分の息子と同じ位の若者の首を取らねばならぬことになって、世の無常を感じ、その後出家してしまう。」
「ふ〜ん、で、のこりの熊谷さんと次郎さんはどうなったんで?」
「熊谷と直実と次郎ではない。熊谷の次郎直実。これでひとりの名だ」
「へぇー、てぇそうなもんだね。一人で三つも名前があるんで…。あっそうか、ぐぇえが悪くなると名前を変えて逃げ延びようてんだな。とんだ悪党だ。」
「ばかなことをいう。これは名乗りと言ってな、武将は自分の領地とか住んでいる土地を名の前につけたのだな。武蔵の国熊谷というところの領主、次郎直実、ということじゃよ。武士ばかりではない、侠客などにもある。清水の次郎長とか、森の石松なんていうだろう。昔はそういうふうに『の』を入れたもんだ。」
「なぁるほど。誰でもそうだったんですかい。」
「まあたいがいはな。」
「ミュージシャンでも?」
「もとはそうじゃ」
「じゃ聞きますがね、マイルス・デビスはどこに住んでたんで?」「舞鶴じゃな。舞鶴のデビスが本当の名乗りだ。それが次第に変化してマイルス・デビス」「オスカー・ピーターソンは?」「大塚のピーターソン」「エド・シグペンは?」「江戸のシグペンじゃ」「チャーリー・パーカーはどこです?」「これは場所ではない。彼はもと槍の名人だ」「へ?槍ってあの長い?」「うむ。血槍のパーカー」「へぇぇこりゃ驚いた。じゃ、ディオン・ワーウイックは?」「京都の舞妓だったな」「えーっ、なんで?」「祇園のワーウイック」
「なんだか怪しいな。御隠居はひとをからかうときはすぐわかるんだよ。鼻の穴がふくらむから。まあいいや。キース・ジャレット」「和歌山の出身じゃ。紀州のジャレット」「チック・コリア」「長野県は小諸付近であろう。千曲のコリア」「千曲川たぁ気がつかなかったな。ウイントン・マルサリス」「彼は人嫌いでな、山野に隠れ住んでおった世捨て人じゃ」「へぇ?」「隠遁のマルサリス」
「おやおや。デューク・エリントンは伯爵だったてぇのは本当ですかい?」「いや、そんなものではない。あれはお前と同業だな」「大工?」「うむ、大工(でぇく)のエリントン」
「御隠居、今日は冴えてるね。バッド・パウエルは?」「居合いの名人、抜刀のパウエル」「ジョー・ザビヌル」「夢想流杖術じゃな。杖のザビヌル」「チャック・イスラエル」「沖縄出身空手何段とか言っておった、ヌンチャクのイスラエルじゃ」「どんどん行きやしょう。ロン・カーター」「これも沖縄。与論のカーター」「ナット・アダレイ」「茨城県水戸の納豆・アダレイ」「じゃ兄貴のキャノンボール・アダレイ」「背中一面にイレズミがあったな。観音彫りのアダレイ」
「ボーカルはどうです。サラ・ボーン」「品川出身、伊皿子のボーン」「ちょっと苦しかったね。カーメン・マクレェ」「この人は唄はうまかったがついに運転免許とれずじまいだったな。仮免のマクレェ」「こりゃ参ったね。じゃ、エラ・フィッツジェラルド」「顎の形に特徴があったな。鰓のフィッツジェラルド。ところで八っつあん、吉祥寺からはすぐれた人材が輩出しておるが御存知か?」「へぇ、初耳ですね。誰です?」「ざっと見渡して、吉祥寺のガーシュイン、吉祥寺のベンソン、はっはっは…」「自分でウケてら。呆れたねどうも。ゆうべ何か変なもの食ったんじゃないの、御隠居。じゃあアレンジャーで、クラウス・オガーマン」
「お前さんもなかなか詳しくなってきたね。結構結構。クラウスね。クラ、ウス、と。」「倉と臼ですかい?」「違うな。暗牛じゃ。暗闇から牛を引き出したような、という。一見ボーっととらえどころのない人物なのじゃろう。以前大平首相というのがこう呼ばれておったな。」「どうだかね。ギル・エバンスは?」「矢切りのエバンス」「演歌だね。それではハーブ・ポメロイ」「城が島は波浮のポメロイ」「イバン・リンス」「これは絶倫モテモテ男だな。毎晩のリンス」「うぷっ、こいつぁ良かった。ステファン・グラッペリは?」「こいつはちょっとした詐欺師だったかもしれん。」「へぇ、そりゃまたどうして?」「契約書を書き換えてしまうという手口だな。捨判のグラッペリ。お前も気軽に捨印、捨判を押さんようにな。」
「へぇ、気をつけます。マッコイ・タイナーなんざどうです?」「群馬県妻恋のタイナーだな」「ツマッコイ・タイナーですかい。鍵盤に指がひっかかってるみたいだな。ガトー・バルビエリなんて人がいますね?」「これは幕府の役人だ。火つけ盗賊改め方の与力、つまり長谷川平蔵の同役。火盗のバルビエリ」「池波正太郎とは気がつかなかったね。ソニー・ロリンズ」「なんでもすぐに訴え出る癖があったのだな。訴人のロリンズ」「コルトレーン」「猫舌で燗酒が飲めなかったな。常温のコルトレーン。おやもう陽が落ちてしまった。最後にひとつオシャレに〆めよう。麝香のパストリアスなんてどうだい?ふぁっ、ふぁっ」
「なんだかうすら寒くなって来やした。ヘークション…さ、さいならっ」
【初出:『JazzLife』2001年4月号】



 渋谷から国道246号線を通って二子玉川まで行く路面電車があった。
 「タマデン」という。
 三軒茶屋でふた手に別れる支線は、世田谷の住宅地の中を下高井戸まで伸びる。
 都電と同じような形で、全体が緑色、晩期には少し丸みを帯びた芋虫型で上部が緑色、窓から下がクリーム色の車輌もあったと記憶している。発車の合図は後尾の車掌がひもを引くと、運転手の頭上のベルが鳴る、つまりは「チンチン電車」である。
 東京の道路はオリンピックを境に大変貌を遂げるのだが、246号線はその代表格といえる。まず「タマデン」が姿を消し、軌道敷のかわりに脚柱が立ち、その上に蓋をするように首都高速が乗る。「タマデン」は地下鉄「新玉川線」となって、二子玉川で地上に出て多摩川を渡り、先の丘陵地帯の奥深くまで延長される。
 そして三軒茶屋〜下高井戸間わずか5kmの支線だけが残され、「東急世田谷線」と改称、現在に至る。川がせき止められてできた山奥の湖に生き残った古代魚みたいなものである。
 で、古き良き「チンチン電車」の面影は、同じような境遇の都電荒川線(三ノ輪橋〜早稲田)か「タマデン」しかない、と人気が高く、休日にはここぞという撮影ポイントにカメラを取り付けた三脚を据えて電車を待ち構える愛好家の姿がかならず見られる。
 三軒茶屋、西太子堂、若林、松陰神社前、世田谷、上町、宮の坂、山下、松原、下高井戸、と起点終点以外に駅は八つ。二両編成。運賃130円は乗車時に後部の車掌か前部の運転手のところにある小型のスチール箱の透明なプラスチックのスリットから入れる。車掌、運転手は金額を確認すると箱脇の小さなハンドルを廻す、お金が中に落下する、という仕組み。二人とも大きめな革の蝦蟇口のような鞄を持っていて、回数券や釣り銭はここから手渡す。車庫のある上町駅で乗務員が交代するときは、スチール箱を取り外し、蝦蟇口と、木札の運行表、空気圧を調整するレバーを持って降り、次の乗務員が空の箱を取り付け、蝦蟇口を窓の下に置き、レバーを装着して計器類などをすべて「××よし」と指差呼称確認してからおもむろに出発する。
 西太子堂と若林の間では環状七号線と平面交叉する。通常なら電車が近付けば警報機が鳴り、道路を走る車が停止しなければならないのだが、ここばかりは電車のほうが信号待ちをする。いかにも住宅の裏庭を縫って走る電車らしい謙虚さである。
 私はもう20年ばかり世田谷線の沿線に住んでいる。少なくとも週一往復は御厄介になってきた。
 夏は冷房のかわりに天井に取り付けられた扇風機と開け放った窓からの風を受け、冬は座席下のヒーターの熱で木の床に塗られたオイルの匂いが立ちのぼる。誰でも都心での仕事を終えてこの電車に乗ると、何となくほっとする気分になるだろう。すべてが等身大なところが良い。
 デハ80形=1949年製。デハ150形=1964年製。なるほど、御老体が健気にも頑張っているのだから、乗ってなつかしいと感じるのは当然かもしれない。
 これらの車輌は1984年あたりから逐次改造されて、窓枠が金属のサッシになり、床がリノリュームに変わったが、空調だけは旧態依然。
 古代魚はこのまま生き続けることができるのだろうか、と心配になっていたところ1999年に、正面が台形の角張った新型車輌が登場した。なぜか正面にサザエさんの顔が描いてある。床が低く、空調が整い、座席が独立タイプとなって両窓際に一列ずつ進行方向に向いて配され、料金がバスのような自動計算式の「電動」箱となるなど、すべてが新設計である。運転席には降車口を映し出す小型のモニターテレビがあるし、運転もT字形のレバー一本ですべてができる方式に変わった。路線はまだ存続か、と一応安心する。
 この車輌=300形が次第に増えて、ついに今年の2月でレトロな80形、150形が引退した。そして、電車との段差なしで乗り降りできるようにするために現在駅のプラットホームを高くする工事がすべての駅で進行中である。
 こうした乗客の快適さを追求する姿勢は評価されて良いのだが、一方で何を考えているのだろう、と思わずにはいられない事がいくつか生じた。

 その一。車輌全体が広告になった。
 財政難の東京都が、都バスの車体を広告に使うことをはじめたのと同じ発想だ。全身オレンジ、黄緑、清涼飲料やらなにやら。しかし、市街地の道路と違い、ほとんどが住宅すれすれに走る路線で、果たして何人の眼に触れるのだろう。広告代理店にノセられた結果か。

 その二。車輌一編成ずつ塗色が違う。
 広告のない車輌も、レモンイエロー、紫、赤、とさまざまな色になっている。遊園地の電車ならなかなか楽しい、で片付けられるが、静かな住宅地に騒々しい色彩を持ち込むセンスが理解できない。ドイツあたりだったら即座に住民訴訟ものである。

 その三。車内放送。
 「おのりになりましたかたからでぐちとなりますしゃりょうなかほどにおすすみねがいます」。20分ばかりの道中で、こういう敬語過剰とも悪文とも形容しがたい醜怪な録音アナウンスを駅に停まるたびごとに聞かされるようになった。これも、広告代理店のマニュアル作りに一任した結果にちがいない。いつか書いた「これで御注文の品すべておそろいでしょうか」と同根だ。

 車椅子の人たちが三軒茶屋や下高井戸へ気軽に出て行けるようにしたのだから文句をつけるな、という気持ちで自分達の勝手な発想を押し付けられるのだったら、多少の不便や寒暑は我慢するからもとのままにしておいてくれた方がまし、ということにもなりかねない。「がんばれぼくらの世田谷線」というHPがあるが、いまのところ300形にそういう声援を送る気になれないオレは単なる懐古趣味の偏屈オヤジかな。

【初出:『JazzLife』2001年5月号】



 「車を洗うと雨が降る」。
 「仲人を頼まれた夫婦は離婚する」。
 「昇進すると会社が倒産する」。
 世の中、えてしてこういう巡り合わせになっているもんだ。
 ミュージシャンの世界では、「CDを出すとバンドが解散する」。
 もうひとつあった。「ユニフォームが出来てくると解散する」。 
 学生時代、バイトでいくつか在籍した「箱バン」=箱バンド、つまりナイトクラブなどのハウスバンドは、あたらしく結成すると大抵ユニフォームを作る。ギャラは安いし、みんな貧乏だったからむろん月賦である。
 『鴨井』、『マイク』、…バンド専門の洋服屋というのがいくつかあって、生地見本を持って楽屋にやってくる。どこで聞き込むのか、初日の音出し前にもう来ている。
 「これなんかどう、ジャズメッセンジャーと同じだよ。サンケイホールで確かめて来たんだから。リー・モーガン、カッコよかったねぇ。サイドベンツ、三つボタン。ウエストをぐっと絞って、丈はそう、このへん。フロントのすそは丸くカットして、と。ワイシャツはこのストライプだよ。ネクタイは臙脂色で決まりだ。あ、ラッパさん、あんたのその靴じゃ合わない。もっと先の尖ったやつだった。何なら私がさがして来てやるよ。代金は一緒にしとくから分割で良いよ。ピアノさん、まえのところの、そうレッド・ローズの分がまだ残ってるけど、どうする? ここのも払うと大変だろ。じゃツェーセン(千円)ばかり上乗せでいいよ」
 当時はなにごとも本場ニューヨークを追いかけていなければならなかったのだ。アートブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズのコンサート。一曲目、ザ・サミット。
 前奏二小節、トランペットとサックスのユニゾン・パッセージからドラムスのアフロリズムとともに緞帳が上がり、ステージ中央に仁王立ちのリー・モーガンとウエイン・ショーター、後ろにLPジャケット写真そのままのアート・ブレイキーが見えた時には背筋を戦慄が走った。
 なにはともあれ恰好だけでもコピー、コピー。
 彼等が身体にぴったりの、やたらと丈の短いスーツを着ていたのだけは覚えている。あとは夢中で音を追うばかりだったのだが、さすがは洋服屋、しっかり生地やシャツのストライプ、ネクタイ、靴まで観察していたとは。
 鴨井洋服店のオヤジの売り込みにまんまと乗せられたバンドは我々だけではなかったということがすぐに判明する。ミュージシャンのたまり場になっているレコード喫茶が、同じようなスーツ姿で一杯になるのだ。
 「なんだオタクもカモイの? え? ユニバース今月いっぱいなの? うちも来月解散だよ。なんでカモイで仕立てるとすぐ解散になるのかねぇ。まぁいいか。次は多分君の所のベースと一緒にやることになる。ユニフォーム作る手間が省けるってもんだ」
 そして性懲りもなく、またぞろ鴨井の餌食になるミュージシャンたち。
 箱バンの給料日はクラブによって違う。20日、25日、月末、翌月10日…しかも、時には遅配もある。不思議なことに、支払日がどれほど不規則でも、ギャラを受け取ってクラブの裏口を一歩出るとそこにちゃんと鴨井のオヤジが立っている。「や、おつかれさん。これであと8回ね」。
 ちらりと影を見つけて、あわてて表口から出ると、そこには鴨井の娘が。
 バンドが解散して、次の仕事場はどこ、と誰にも言っていないから今月は払わなくて済むな、と思っていても、忽然とあらわれる鴨井のオヤジ。
 結局何着作って、何回払って、何ケ所解散になったのか今となっては思い出せないが、「ユニフォーム=解散」という不思議な関係があるということだけは骨の髄にしっかり記憶された。

 さて、私は20年以上前に作ったタキシードをいまだに着ている。ということは体型がそれほど変わっていないのである。主たる局面は例のトリプルピアノだ。
 当時の流行りは比較的細身だった。だから体型が変わらないとは言え、さすがに最近は戻りカツオ風皮下脂肪がこたえるようになってきた。腕も少し太くなっているらしく、長時間演奏すると血の流れが悪くなるような気がしないでもない。間違えるはずのないところでミスするのはそのせいだ。良く見るとズボンの裾が多少ほころびている。それにカマーバンドの縁がすり減ったかな。
 そろそろ新しいタキシードを、と思うのだけれど、そのたびに「ユニフォーム=解散」が頭をよぎるのである。私がタキシードを新調したばかりに、トリプルピアノ解散という事態になったら両巨匠に何とお詫びをすれば良いか。仕事が無くなるのはともかく、この欄のネタが枯渇することだけは何としても避けたい。困った時のトリプル・ネタで何度助かったことか。
 そのようなわけで、いましばらくこのタキシードを着るしかあるまい。
 しかし、あまりに着古してサントリーホールあたりでお辞儀をしたとたんに尻が裂けたりして、それが原因で解散、というのも困るなぁ。
 私はどうしたら良いのだろう。

【初出:『JazzLife』2001年6月号】



 ほぼ一ヶ月ぶりにシャバに出た。
 知らぬ間に桜が散り、薫風が心地よい季節になっている。
 と書くとまるで「塀のむこう側」に行っていたようだが、ま、似たようなものだ。
 綾戸智絵さん+新日フィル+ピアノ、というコンサートのアレンジでほとんど拘禁状態だったのだから。

 最近は細かい音符を書くのが面倒になって、ビッグバンドやオーケストラのアレンジはなるべくお断りすることにしている。南の島か山あいの草原で、うたた寝をしながら過ごすのを理想的生活と思っている私であるからして、何十段なんて五線紙など見ないで暮らせるものならぜひそうしたい。
 しかし、大手のレコード会社がどこも見向きもしないような音楽ばかりを創り続けて、さっぱり採算ベースに乗らないわが<BAJ>レーベルが消滅しないでいられるのがひとえに大本のE社のおかげであり、綾戸さんがそこの屋台骨を支えるアーチストであってみれば、M社長じきじきの御依頼をお受けしないわけには参らぬ。ククッ…
 気が重いながらも引き受けてしまったのは、「たまには編成を気にしないで書いてみたい」とアレンジャー本能が心の底の方から囁いたからかもしれない。
 平素は、制作時間も制作費もきわめて限定された状態で、できるだけ人数を絞って、しかも沢山いるように聴こえるにはどうするか、という「究極の合理化」ばかり考えなくてはならない。「ここでイングリッシュホルンがいたらなア」「う〜ん、ハープのアルペジオ、シンセで代用するか」という思考回路になっている。
 それが「75人好きなように使えます」なんだぜ。
 昼食はコンビニ弁当か牛丼か、30円のために5分歩くか、と悩んでいたオトーサンがシャンパンつきフルコースのランチに招待されてしまった図を想像して下され。
 メニューを見ただけで気もそぞろ、前菜で胸が一杯。
 絢爛豪華な昼メシならば食べるだけでよいのだけれど、こちらはその前に当然の事ながら実現のための労働が要求される。レストランに行っても材料が用意してあるだけで「勝手に作って食え」と言われたようなものだ。
 三管編成=管楽器(フルート、オーボエ、クラリネット、バスーン、トランペット、トロンボーン)が3人ずつ、ホルンが4ないし6、チューバがひとり、ハープ1台、打楽器3人、弦楽器がこれらの人数に拮抗できる人数(第一バイオリン、第二バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスが14、12、10、8、6人)、それにヴォ−カル、ピアノ。これを書くためには最低26段、できれば28段の五線紙が要る。
 つまり、全員で「ジャジャジャジャーン」と演奏するなら、一回の「ジャ」に最低3×6+4+1+1+3+5=32。その三倍の96。さらに「ジャーン」のための32、計128個のオタマジャクシと、アクセント記号、フォルテやらピアノやらの強弱記号、クレッシェンドの松葉印、打楽器にはシンバルだのティンパニーだのスネアドラムなどの楽器指定を書きこむ。それではじめて「ジャジャジャジャーン」…

 全十四曲。
 完成までにどのくらい時間がかかるのだろう。わが怠惰、遅筆を考えずに「やります」と言ってしまった軽卒を恨んでも手遅れだ。
 コンピューターの楽譜作成ソフトとキーボードを駆使して何百人のオケでもたちどころにプリントアウト、の前田憲男御大なら「ンなものア三日で書け」とのたまうところだろう。しかし、せいぜい8段位しか見渡せないディスプレーとA4判プリンターという私の装備では手書きのほうが早い。一曲2日として28日で書けるか。いや書かねばならぬ何事も書けぬは人の書かぬなりけり。
 ということで、四月は我と我が身をみずから缶詰めにすることになった。
 教室へ出るのが三日、前から決まっていたライブ一日、トリプルピアノ一日をのぞいて家を出ず、ひたすら書く。身体がナマルのを防止し、頭の血流をスムーズにするための体操、気分切り替えのピアノ練習、食事。夜は十時過ぎに寝て、朝三時に起きて作業。昼寝して午後作業。そんな毎日にどこまで耐えられるか。ストレスが溜まりに溜まって中旬あたりに「ジョーダンジャネェ、コンナモンヤッテラレッカ」という爆発が一度はあるだろう。それを計算して三月の終わりから取りかかった。
 恐れ、なかば期待する爆発はいつ来るか。
 一週過ぎ、二週すぎてもその前兆すらなく、作業は淡々と進んで行き、ついに予定より五日早く刑期満了、釈放の日を迎えてしまった。
 アレンジを考えるという行為と、A3縦判28段にこまごまと音符を書き込んで行く単純労働が双方の鬱積をうまく解消し合ったということなのだろうか。
 どうもそれだけではないようだ。
 音の厚いところは当然音符が多くなる。たとえば主旋律、対旋律、ベースラインという三つの動きを全段に書き込んだところを少し遠くから眺めると、三種類の線がないまぜになったタペストリーのようである。
 「お、なかなか美しいではないか。ちょっと右上のほうが薄いかな、なにか一筆加えたほうが良いかな」と思わず画家の眼になっていたりする。
 こんなページが増えるにつれ、いかにも堂々たる仕事をしたような充実感が味わえる。
 オーケストレーションという作業は、大きな画布を細い筆で埋めて行く日本画とか、九谷焼や友禅の細密な絵付け、彫金などに似ているのではないだろうか、とさえ思うのだ。
 音のことを考えているときより、音符で模様が出来上がっていくのを見るほうに喜びを感じるというのはアブナイぜ。もしかしたら私は音楽よりそちらの道をすすむべきだったのかも知れない。手仕事職人…いまさら手遅れだけどね。

【初出:『JazzLife』2001年7月号】



 祝JAZZ LIFE誌復刊!
 まずは、ここまで不退転の努力を続けてこられた編集長・編集部員はじめスタッフ諸氏に敬意を表します。それから、このページを継続することを決定された英断にも感謝。
 私はといえば、十数年間毎月巡ってくる締めきりとテーマさがしから解放されて、定年退職したサラリーマンが味わうであろうちょっとした虚脱感と、降って湧いたこの空き時間を何に充てようかと考えることのささやかな喜びに浸っていた。一度回転が停まってしまったペースをおいそれと元に戻せるかどうか一抹の不安がないでもない。
 旧刊時代このページに《音楽から見えるもの聴こえるもの》という素直なタイトルをつけたのは私ではない。開始にあたって、コラムの名称を編集担当者に一任したら、こうなったのだ。
 音楽誌だから毎回音楽に関する話題を、とは思うのだが、もともと自分のものはもとより他人の音楽をほとんど聴かない、コンサートに行かない、CDは買わない、で、毎月音楽のことを書こうとしても書けるわけがない。不本意ながらタイトルとはほど遠いものばかりだったにもかかわらず、要望、苦情一切なし。いや、「たまには音楽のことも」と遠慮がちに言われたことが二、三回あったかもしれないが、「気にいらなかったら『もう結構です』、と言ってくるだろう」と何の反省もせずに続けてきたのだった。
 だから、たとえ復刊になったとしても再登板はあるまい、この先は自分のHPに折々書く、と決めた矢先だったので実のところ驚いた。

 さて、JAZZ LIFE廃刊(と、当時は誰もが思った)の報が伝わると、いろいろな方面から「残念だ」の声があがった。なかでも地方在住のジャズ・ファンから「東京や大阪にでかけるとき、どこのライブハウスへ行ったら良いかを知る唯一の手がかりだったのに」というメールをいただいて、そうか、迂闊だったな、と虚を突かれた思いがしたものである。
 理由はふたつ。
 ひとつは、これほどネット上での検索機能が充実して活字離れが進んでも、印刷された情報は存在理由があるということだ。コンピューターの画面上では、都内にたくさんあるライブハウスすべての月間スケジュールのなかから気に入った演奏者や、これはと思う顔合わせ、料金、場所などいろいろな条件をスクロールやらページ移動なしで見渡すことはできない。
 これは活字が細かくて見にくいのを差し引いても印刷の勝ち。
 ふたつ目は、旧版ジャズライフに、[地方の読者へ]という意識はおそらくなかったのではないか、という点だ。毎号一応目を通していたが、誌面作りの苦心は伝わってきても、どんな人たちに向けて、なのかが明確にイメージできないもどかしさがあった。なにより、私のページが“浮いて”いたのだ。
 おぼろげに想像される読者層に私の話題はなじまないな、という違和感である。だからといって今どきのオンガクについて今どきの筆致で書くような芸当ができるはずもなく、かといってクビにもならず。
 このチグハクさが廃刊、おっと失礼、休刊に立ち至った理由の何パーセントかを占めていたかも知れない。
 そのようなわけで、めでたく復刊を果たし、再出発の意欲に燃えている新編集部に失礼を顧みず、私なりに本誌の発展を願って、部数増の道を行くための検討事項をいくつか考えてみようと思う。

  1. ジャズを「ポップス化して行く音楽」ととらえ、CD売り上げの多いアーティスト、レコード各社のスター作り路線を軸にした誌面にする。広告収入増大(主なスポンサー:大手レコード各社)。巻頭特集例:『有名タレントの持っているエレクトリックギター一覧』。対象読者層:Jポップスを追いかける若者。佐藤允彦のページ:不要。
  2. ジャズはアメリカ。アンプは△△、スピーカーは▽▽。CD評に重点を置き、オーディオメーカーの機器売り出し路線を軸にした誌面にする。広告収入増大(主なスポンサー:オーディオ各社)。巻頭特集例:『ブルーノート再発CDによる新型スピーカー徹底比較』。対象読者層:S社と競合。佐藤允彦のページ:不要。
  3. コンピューターなくしてジャズなし。どんなジャズでもサンプリングとMIDIキーボードとハードディスク・レコーダーで制作可能。楽器メーカーとコンピューターソフト・メーカーの売り出し路線に沿った誌面作り。広告収入やや増(主なスポンサー:電子楽器メーカー)。巻頭特集例:『君にもできる夢の共演! マイナスワン・サンプリングCDの作り方』。対象読者層:マックファン、月刊PCと共通。佐藤允彦のページ:不要。
  4. ジャズはあくまでも生身の音楽。そしてもはやアメリカの専売ではない。ヨーロッパ、アジア、日本のジャズにも広く目を向け、ライブ重視。音楽の幼児化に警鐘を鳴らす。広告収入減。巻頭特集例:『中央アジアのジャズ・ロード最新情報』。対象読者層:?? 佐藤允彦のページ:編集テーマに適した原稿のみ掲載。
  5. ジャズの本質はインプロヴィゼイションであるという命題を編集の基本方針とし、一貫してインプロヴィゼイションを通して音楽を考えて行く。世界に類を見ない音楽誌として評価が高まる一方で広告収入皆無。巻頭特集例:『インプロヴィゼイションの社会学』。対象読者層:通俗音楽界をのぞく全人類。佐藤允彦のページ:フリー・インプロヴィゼイションとその周辺の話題に限って掲載。

 いやー、なかなか難しいものだ。売れ筋に沿えば読者もそれなりの層になって行き、おそらく部数が増えるだろう。が、音楽のためにある雑誌、という理想からはかけ離れて行く。理想を追おうとするとスポンサーが逃げる。スポンサーに忠ならんと欲すれば音楽に孝ならず。広告収入と記事内容。あたかも磁石のN極とS極のように互いに反発する両者をバランスさせるのは並大抵のことではない。
 雑誌作りはさながら多次元方程式を解くようなものなのかも知れない。とても私ごときが口出しすべき問題ではないのだった。
 編集部のご健闘を祈る。

【初出:『JazzLife』2001年12月号】