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私たちの訴えと取組み

水俣フィールドワーク報告
「水俣病は終っていない」と強く感じた2日間

 昨年7月に成立した「水俣病特措法」、そしてこの3月末の「不知火患者会」訴訟和解と、水俣病の「第二の政治解決」の動きが進んでいる中、3月13、14日の1泊2日で、水俣病について学ぶため、水俣現地フィールドワークを行いました。
一日目は(財)水俣病センター相思社に「水俣まち案内」を依頼、職員の永野さんの案内で、チッソ本社周辺、百間(ひゃっけん)排水口、水俣湾埋立地、坪段・湯堂など水俣病の関連場所を回りました。その後、「水俣ほたるの家」を訪ね、谷洋一さん(水俣病被害者互助会)から被害者や裁判の現状を聞きました。
 二日目は、相思社の水俣病歴史考証館を見学。その後、漁師・杉本実さんの船で水俣湾を視察しました。午後は、市立水俣病資料館、八幡残渣プールなど見学しました。

3月13日(土)

チッソ本社正門前を散策―患者、被害者を拒絶するごう慢さ

 
 フィールドワークは、まず「旧チッソ工場」を見て、チッソ水俣工場周辺を散策しました。
チッソの正面入口は、水俣病患者の闘いの歴史の舞台。59年に工場廃水の排出停止を求めて不知火海漁民が突入した現場であり、71年から川本輝夫さんら「自主交渉派」が1年9ヶ月に渡り座り込みを続けた現場です。
またここは今も昔も、患者・被害者にとって、救済を拒否し続けたチッソの冷酷さのシンボルでもあります。チッソは今も、患者や市民団体の工場立ち入り、見学を拒否しているそうです。正門の横に患者の相談に応じる「患者センター分室」がありましたが、チッソの敷地の外にあること自体、患者・被害者を排除するチッソのごう慢な姿勢を象徴しているように思えました。

百間排水口−「水俣病爆心地」で過去を思い、悪寒

 チッソ正門周辺の次に、有機水銀が垂れ流され続けた現場を訪ねました。まず「百間(ひゃっけん)排水口」。この排水口から、1932年から68年まで70t〜150tもの水銀が垂れ流されたそうです。それゆえ“水俣病爆心地”と言われています。1957年に、水俣病の原因がチッソの工場廃水であると発表されてもなお、ここからの排水が止まらず、海に流され続けたことを想像すると、背筋が寒くなる思いがしました。水俣病発生の原因が工場排水であるという声が高まると、チッソは排水口をここから水俣川河口に移しています。それにより汚染は不知火海一帯に広がっていきました。批判が高まると、その1年後にはまたこっそり百間排水口に戻しました(59年)。

水俣湾埋立地―「エコパーク」のぎまん

 百間排水口から水俣湾にむかって、水俣湾埋立地が広がっています。何の説明もなければ、竹林園や森、スポーツグランドが広がる市民の憩いの場です。しかし、この地下には地下4mに渡って堆積した水銀へドロや、漁師から行政が買い上げた水俣湾の水銀汚染魚をミンチにしてつめた大量のドラム缶が眠っているのです。ヘドロを囲っている鋼矢板は耐用年数50年だそうで、海水による腐食とヘドロが再び水俣湾への流出する恐れは消えていません。ここは「水俣エコパーク」との通称で呼ばれていますが、水銀へドロの溜まり場であることを覆い隠すような胡散臭さを感じました。ガイドの方も、水俣の子ども達が遠足でここにきても、なぜこの公園があるのか教えてもらえない、と語っておられました。
 埋立地の最先端、親水護岸へ行きました。その付近に地蔵が何体もありました。水俣病患者さんたちで作る「本願の会」が設置した魂石(たましいいし)です。悲しい水俣病の歴史を刻み、今後このようなことが起こらないようにという願いで立てられたものです。
 
山王神社近くの丘から「チッソ城下町」を感じる

 水俣は今も昔も「チッソ城下町」です。水俣駅は工場の真正面にあり、まさにチッソ工場のための駅です。実際、工場内まで国鉄の引込線が引かれていた時代もあるそうです。後で山王神社近くの丘から市街を見渡しましたが、チッソが水俣市中心部のまさに中心部に陣取っていることがよく分かりました。
 町のあちこちに「チッソ城下町」が感じられます。例えば、創業者・野口尊(したがう)の野口は町の名前にもなっている(野口町)、工場の隣の小学校の校歌に「希望にもえるベルトの響き…」というチッソを称える歌詞が盛り込まれている、チッソのマークを冠した関連企業や社宅マンションがあちこちにある、夕食をとった居酒屋でのボトルキープはチッソ社員のものばかり、等々。現地の人々がチッソに対して声を上げにくいといわれるのも分かる気がしました。

「水俣ほたるの家」に谷洋一さんを訪ねる

 「水俣ほたるの家」に訪ね、谷洋一さんと会うことが出来ました。谷さんは長年に渡り水俣病被害者の支援に関わられ、今は水俣病被害者互助会の事務局をされています。
 谷さんはまず、今も胎児性・小児性の水俣病症状が新たに出てきている人がたくさんいる、しかし言い出せない人が多い、と水俣病が決して過去の話でない現地の状況について説明されました。そして、水俣病被害者互助会が関わっている胎児性・小児性被害者9人の原告による裁判について説明されました。その上で、現在、不知火患者会訴訟では和解の話が進んでいるが、自分たちの裁判は、認定基準の見直しなど抜本策を求め、和解に応じず判決をもらうまで闘い抜く、と話されました。谷さんは、関西の水俣病患者さんが22年間闘い続けて勝ち取った、2004年のチッソ水俣関西訴訟最高裁判決と自分たちの裁判について、あの判決があったからこそ、現在の未認定患者の掘り起こしや新たな訴訟につながった、あの判決がなければすべて終りにされてしまっていた、と強調されていました。阪南中央病院の医師はじめ職員が支援した裁判だったのでうれしく思い、また最高裁判決の意義を再確認することができました。そして、今回の特措法による「救済」措置には応じず、判決まで闘い続ける裁判を、支援していきたいと思いました。


3月14日(日)

相思社水俣病歴史考証館を見学―チッソと水俣病の歴史を再認識


 2日目午前は、財団法人水俣病センター相思社の水俣病歴史考証館を見学しました。この資料館は、規模はそれほど大きくないですが、50年以上にわたる水俣病の歴史を、ネコ実験の小屋や、裁判闘争の旗、文書など原資料や、丁寧な解説で学べるようになっており、水俣病とは何かを知るには最適の資料館でした。水俣病とそれに向き合ってきた人々の半世紀以上の歴史に圧倒される思いでした。
 初めて知って驚いたのは、チッソが、戦前は「日窒コンツェルン」という新興財閥として、「大日本帝国」が侵略していった朝鮮半島や満州に進出していたということです。植民地支配に協力して、水力発電や化学肥料工場を拡大し、現地の労働者に苛酷な労働を強い、かつ環境汚染を行いながら、莫大な利潤をあげていたのです(敗戦直後の水俣工場には朝鮮半島から引き上げてきた社員が多くいたそうです)。この戦前のチッソの歴史は、戦後水俣病被害を起こした人間・環境軽視の姿勢と無関係ではないと思いました。
また、チッソで作られる合成樹脂や化成品が私たちの身の回りに多く使われていることも展示で知りました。とりわけ液晶の分野では世界第2位のシェアを誇っているそうです。私たちの生活がチッソによって成り立っている部分があることに複雑な気持ちになりました。

故杉本栄子さんの四男・杉本実さんの船「快栄丸」で水俣湾に出る

 11時から、地元の漁師・杉本実さんに船「快栄丸」を出してもらい、水俣湾を周遊・視察しました。杉本実さんは、水俣病第一次訴訟(1969年提訴)の原告であり、水俣の語り部として活動されていた故杉本栄子さんの4男さん。杉本さんのご家族については、NHK・BSが2000年に「もやいの海〜水俣・杉本家の40年」というドキュメンタリー番組を制作しており、ちょうどこの企画を準備しはじめた昨年12月に再放送されていました。家族を襲った水俣病でご両親、5人兄弟それぞれが葛藤し、離れ離れになり、また家族のきずなを取り戻していく感動的な番組でしたが、4男の実さんは、ご両親が漁業を再開した時、兄弟で真っ先に仕事を辞めて、杉本家の漁業を引き継いでおられます。
 そんな杉本実さんが、所々で船を止めて説明をしてくださりながら、約1時間水俣湾を一周しました。
とても静かな海でした。そして杉本さんから、二度とあのようなことのないように、この恵みの海を大切にしたい、という気持ちがひしひしと伝わってきました。それを感じれば感じるほど、この海やここに生きる魚や生態系を、有機水銀で侵し続け、それを食べて生活してきた人々の健康といのちを奪ってきたチッソや国への怒りがわいてきました。

おわりに

現地をこの目で見て、現地の方々からいろいろお話を聞いて、チッソが水俣病発生時から悪辣な態度であるし、今なお変わっていないことを強く感じました。地域の中に差別を持ち込み、今もなおふんぞり返っている姿を見て怒りを新たにしました。また、自分がこのような企業の作る製品を使って生活しているのを恥だと感じました。
 「水俣病は終っていない」「『特措法』『和解』で終らせてはならない」との思いを強くした2日間でした。

(2010年7月31日)

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