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主イエスから愛を受けて奉仕する



日本基督教団阿漕あこぎ教会牧師
三重CMCC理事長

        
加 藤  幹 夫

心病む人々との出会いの中で 
 私がCMCCとの関わりを始めたきっかけは、神学校を卒業して4年目に赴任した教会に、多くの精神障害者の方々がおられたことにあります。 中でも何十年も病院で入院生活をされていたOさんが、非常に熱心に伝道され、「教会の礼拝に出ると、神さまの恵みの言葉が聴けるよ!」と声をかけ、 毎週、10名ほど連れて礼拝に来られました。私が授けた最初の受洗者は、その仲間のうちの2名でした。Oさんは病院にいるすべての人に、 教会の週報を配りました。週報の裏に聖書の言葉から短いメッセージを私が記していたので、「これを読んでください」と、 患者のみならず、医師や看護師にも渡しておられたのです。病院では牧師である私が訪問して出張伝道もしました。待合室で、 礼拝をし、賛美を歌い、説教をしていると「何だ、何だ」と押しかけてきます。 こんなに御言葉を聴きたいと思ってくれる人がいるのだと逆に慰められ励まされたことを思い出します。ただ、 今は、病院の改革によって、入院患者が仲間を作って、共にわいわいやっている時代は終わってしまったのが、 少し淋しい思いがしています。そのOさんが「是非、精神障害者や心に重荷を負っている人のための相談をして欲しい」と願われました。 この熱烈な願いが三重CMCCの発足につながったのです。

 私自身、彼らから直接、頭だけでなく肌で学ばされたのは、心を病むことと信仰に生きることとは別だということです。 どんなに心が揺れ動いても、落ち込んでも、喜怒哀楽が激しくなっても、イエス様を信じて生きることは、別の次元にあるのです。 普通の精神医療やカウンセリングは、ゴールが治療や改善にあります。相談電話を受けますと、受け手は「何とかしてこの人を助けたい。 問題を解決してあげたい」という誘惑にさらされます。確かに問題が解決すればうれしいのですが、人間、 そんなに簡単ではありません。一つ解決すれば、また一つ、問題が出てくることが多いのです。いや、解決しないことがほとんどかもしれません。 しかし、わたしたちは主イエスを救い主として信じ、この相談電話に向かっています。自分を信じているのではありません。 むしろ、自分の無力さを知るからこそ、主イエスの御力を信頼するのです。それは、たとえ問題が解決しなくても、必ず主によって救いが与えられてゆくことを信じて奉仕をするのです。

CMCCの活動への思い
 私がCMCCに賛同し、三重にCMCCを設置し、その活動を進めていこうと決意した理由は、この活動が、 単にキリスト教的な愛を以(もっ)て行うボランティアではなく、またカウンセリングを少々身につけて相談に当たる奉仕ではないからです。 キリスト教的な愛の奉仕ではなく、キリストの福音に立ち、その福音を宣べ伝えるという教会的・牧会的な働きを持った奉仕だからです。 CMCC機関誌第1号の巻頭言に当時の会長であった赤星進先生が「教会の福音伝道に奉仕することがCMCCの使命であります」と記しておられました。 発足当時の熊澤義宣先生や平山正實先生も、この牧会的視点に立った活動をされていたことを思い、これなら私も牧師として関わることができると思ったのです。

牧会的な関わり
 誰もが、人との関わりの中で、支えられ、励まされ、慰められて生きています。逆に、傷つけ合い、争い合い、憎しみや怒りに生きることもあるでしょう。「相談にのる」とは、何とかして前者のように生きられるように、友となって寄り添うとイメージするかもしれません。しかしながら、キリスト者として、人との関わりをする時、そこにもう一つの関わり、主イエスとの関わりの中で生きることになります。それは、「ここにイエス様がおられたならば、どのような対応をされたであろうか」と考えながら相手と接するということもあります。しかし、それ以上に、「イエス様は、わたしに何を与えてくださっているのか?」という自分自身への問いかけも生まれてくるのです。いや、むしろ、キリスト者としては、自分自身が、何に立って生きているのかがとても大切なことと思います。  

 パウロは、コリント教会の人たちに「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです(1コリント15:3)」と、 福音を語り始めました。また、「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、 あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます(2コリント1:4)」と、語っています。これは単に苦しみの中にある人に慰めを語るのではなく、 また、自分も苦しんだから相手の苦しみがわかるというのではありません。「自分が主イエスから受けた慰めによって」なのです。それならば、 まず、わたしたち自身が主イエスから慰めを受けているかどうかがポイントになります。相手に水を与えるためには、まず、自分が水を持っていないと与えることはできません。 水が涸れた状態で相手を助けようとすれば、自分が倒れてしまうか、相手に渇きを与えてしまうだけになるでしょう。 わたしたちキリスト者は、主イエスから大きな恵みをいただいています。その恵みを味わい、その恵みに生きてゆきたいと思います。 そこにキリスト者の奉仕、牧会的な業の原点があるといえます。

 キリスト者は、人々からの助けだけでなく、主イエスからの恵みに生きるという関係を持って生きています。 人々からの助けは、確かにわたしたちが生きてゆく上で不可欠な関係でありましょう。しかし、それは、また有限な関係であることも知らなければなりません。 「心を病むことと信仰に生きることは別」という見方もここにつながると思います。わたしたちは、人やこの世との関係、そこで有限の虚しさを味わいます。 しかし、もうひとつの希望、「目に見えないけれども確かに存在し、かたわらに立ってくださる方がおられる!  十字架と復活によってその恵みを確かにしてくださった方が、愛してくださっている!」、この福音に生きることができるか否か、 相談を受けて友となるCMFの一人ひとりに、その問いかけがいつも語りかけられています。