藍生ロゴ 藍生12月 選評と鑑賞  黒田杏子


奔放の果ての高野のきりぎりす

(京都府)安土八重野

 奔放とは何か。辞書には「伝統や慣習にとらわれず、思うままにふるまうこと」とあります。作者は高野山にのぼり、高野山上に身を置いてこの句を得たのだと私は受けとめました。自分自身を奔放ととらえる。それもあると思いますが、何度も何度も若いときから高野山にのぼり、無量光院さまその他の宿坊に泊めて頂き、故山陰石楠先生のご案内で山上のあらゆる処に身を置き、とりわけ、高野山常楽会に通いつづけ、徹宵の「行」を何年間にもわたり、聴聞させて頂いた者として、私は安土さんが空海というお方を心にイメージして詠み上げられた句と受けとめたいと思います。高野山上に身を置いて、空海というお方の存在と生涯、さらにその墨跡をも心に置いて、限りなく空海というお方に共感している自分自身を見つめて発せられた一行。という風に感じ共感しました。



いくたびも稲妻の刺す湖心かな

(島根県)原 真理子
 宍道湖ですね。松江市に生まれ、東京女子大遊学中の四年間を除けば、61歳の今日までこの湖のほとりに棲み、出雲の地霊と一体となって俳句を詠み続けておられる。そんな作者にして詠み上げることの出来た句だと思います。湖心を刺す稲妻。それもいくたびも。写実を超えて湖と青稲妻が呼応している。湖と稲妻のあたかも魂の共振のようにも感じられます。一字一句すべてに作者の「気」がこめられていて圧倒されます。



無月だ無月だ公明正大な無月だ

(栃木県)半田 真理
 その日きたる。しかし待っていた月は見えない。やっぱり今夜は無月。残念でたまらない。公明正大とは大げさな表現。無月を強調、自分に言ってきかせているようなユニークな句。もう待っていても駄目。あきらめましたと自分に言い含めている人の句。


11月へ
1月へ
戻る戻る