TOP : Noritake Takahara and his BRABHAM BT36 with Mitsubishi R39B engine.
(C) Photograph by H.Makino.
 田中 弘選手がマーチなら、俺はブラバムだ!
マーチが近年主流となっているアルミモノコックシャーシなのに対して、若手成長株の高原敬武は実績のあるブラバムシャーシ(鋼管スペースフレーム)を選んだ。しかしこれは、富士グランチャンにおいて、田中がスペースフレームのシェブロンを選び、対する高原がモノコックのローラを選んだこととは相反すること。しかしながらエンジンは田中同様三菱よりレンタルされたR39Bエンジンを搭載する。高原は本気で日本グランプリを勝ちに行くつもりだった。

TOP : MANA 08 which Kenji Mimura designed. 
This car was chosen as the second prize in this contest. 
(C) Photograph by H.Makino.
 昨年のデザインコンテストにおいて特選デザイナーとなった“三村健司”は、今回コンテストには、国産フォーミュラ2を出展し、準特選に選ばれている。エンジンは、富士グランチャンでも有名となったコスワースFVC(1800cc)を搭載していた。
デザインは、ウェッジでサイドラジエーターという当時の流行だったが、シャーシ&サスペンションなどは、実戦を考慮して比較的オーソドックスなものとなっている。
 当初このマナ08は、鮒子田 寛選手の日本グランプリ出場用として計画されていたが、実際にはフシダ・レーサーズよりエントリーはしたが、米山二郎選手が乗ることとなった。余談だが、当初搭乗予定の鮒子田選手は、R39B搭載のブラバムBT36でのエントリーとなり、総合3位を得た。

TOP : Mitsubishi COLT F2000/R39B
 1971年日本グランプリは、初めてフォーミュラカーに日本グランプリの冠が付けられた記念すべきレースであった。前年までは、春のJAFグランプリ(フォーミュラカーによるグランプリ)、秋の日本グランプリ(グループ6,7などのプロトタイプ/CAN-AM carによる長距離レース)を基本としていたが、70年に排ガス規制等の理由によりニッサン、トヨタがレースより撤退。その影響でJAFは、急遽フォーミュラによる将来のF1開催を睨んで(!?)の開催となったと思われる。
 その最初のレースは、プロトタイプカーのレースと同様に、富士の6Kmフルコースで開催された。当時バンク付きのサーキットでフォーミュラレースを行なうのは異例だったといえる。そのためか、1972年の日本グランプリは、日本CAN-AMと同じ、左回り4.3Kmショート・コースでの開催となった。

 このコルトF2000は、三菱自動車が初めて2000ccのエンジンを開発し搭載したもので、当時世界最強の2リッターエンジンだと言われた。
シャーシは、ブラバムを基本とした改造だったと思われる。このマシンの前身である“コルトF2D-I”は、丁度革新的な“ロータス72”の発表と重なり、サイドラジエーターなどの配備は、さすが三菱自動車だと賞賛された。
 71年のレースは、永松邦臣選手が独走しポール・ツゥ・ウィンを達成。生沢 徹のロータス69はついていくことも出来ないほどのであった。
そして72年、三菱は、レースより撤退。しかし、エンジンをレンタルする事となり、メンテナンスは続けることとなる。

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(C)Photographs, textreport by Hirofumi Makino.