蝶紋 平家の代表紋 234種類

★当店にある蝶紋★

22-01備前蝶 22-02 備前蝶2 22-03 丸にあげは蝶

世界で約一万種類、日本で凡そ二百五十種類の蝶が棲息しています。

その美しさから早くから絵模様として用いられました。

正倉院の御物の遊猟絵模様などが知られています。

平維盛が治承の頃「一一七七〜 一一八一」車の模様に蝶を用いました。

平家家紋の始まりかと思われますが、同じころ敵に当たる源頼朝も鎧の裾金具に蝶模様を使用しており、源平を問わず誰にも好まれた蝶模様でした。

それが蝶紋は平家の代表紋と言われるようになったのは次のようないきさつからです。

源頼朝に攻め滅ぼされた平家の一族の中で唯一生き残った武将がありました。

平頼盛と言う武将です。

彼は清盛の異母弟で母親は「池の禅尼」と言う名で知られています。

京都六波羅に住んで居ましたので六波羅の尼殿と呼ばれていました。

彼女は清盛の父の平忠平の後妻になりました。清盛の継母です。

この池の禅尼が平治の乱で源義朝が敗れた時、義朝の子、幼い頼朝は死を免れない所をあまりにも不憫な事と奔走して頼朝の命を救いました。

頼朝は伊豆に流されました。又腹違いの牛若丸兄弟も助かっているので清盛には天性に人の良さが有ったと思います。

牛若丸は鞍馬寺に預けられました。源氏の嫡流が紙一重の事で残されたのでした。

池の禅尼の働きが大きく日本史を変えたのでした。

この事を深く恩に感じた頼朝は平家打倒の旗揚げ後、池の禅尼の子、平頼盛には一兵も差し向けなかったといいます。

単に攻めなかっただけでなく、所領の安堵を含め相応の処遇をもって頼盛に報いたといいます。情けは人の為ならずの諺がピッタリのエピソードです。

結局あらかた滅びた清盛平家の中で頼盛一族が大変に栄えました。

使用していた家紋が蝶紋でした。次第次第に蝶紋は平家紋と言われるようになりました。しかし蝶紋は平家の独占紋ではありません。

源氏の使用家もありますし、公家の使用家も御座います。

蝶紋の使用家は藤原族が一番に多いと調べられています。

ずっと後年、織田信長の天下統一が成し遂げられるかと言う頃、当時の政治風潮として源平交代説がありました。平家の後源氏、それから北条平氏、次が足利源氏それで次は平家でなくてはいけないと信長は考えました。

信長は自分の先祖は平重盛の子、資盛の後裔として平氏の揚羽蝶を用いたといいます。

織田家は代々織田木瓜と永楽銭を用いていましたから、誰もがそこまでしなくてもと思った事でしょう。

ところが徳川家康が自分は新田源氏の出だと言ったそうで、源平交代説は当時の武将に中々の影響を与えていたことが解かります。

徳川期には大名、幕臣で蝶紋使用家は三百を越えたといいます。

公家では西洞院、松平、長谷、交野、石井の五公家が蝶紋です。

平家落人伝説こぼれ話。

この蝶紋の広告文の作成中、私の弟からファックス通信があった。

弟勝三郎は私の郷里、豊岡で昭和初期より続いているコーヒー豆販売業「蜩コーヒー」を営んで今日に及んでいます。

通信の内容は郷土欄に平家落人伝説の記事が載っていると言う事です。

平家末裔のお方が「丸に揚げ羽蝶紋」を旗を掲げておられます。

私が家紋に興味を持っているので、常にアンテナをめぐらせてもらっている次第です。

私はすぐさま電話して「但馬には少なくても平家落人伝説の村が十七はあると記憶しています。そのうらずけ調査をお願いします」と頼みました。

折り返しすぐに返事をいただきました。

正確には十指を越える村落が所在するといいます。

いずれの地域も人の往来に不便極まりのない所です。

学者の調べでは全国には平家落人伝説は何百とあってその人数を総計すると当時の平家の

総戦士をはるかに越える人数になるといいます。

蝶紋で良く知られているのは揚羽蝶紋と備前蝶とよばれているご紋です。

備前の国、岡山藩の池田氏が備前蝶 鳥取の藩主池田氏も同属

御神紋 鳥取県 松上神社

寺紋 京都市 浄教寺 鳥取県 興禅寺

有名人 中村 吉右衛門 

 参考文献
「家紋大図鑑」 丹羽 基二
「日本家紋総監」 千鹿野 茂