《 井筒 井桁紋 (278種類)》   

★当店にある井筒・井桁紋 ★

01-01丸に井桁 01-02井桁に一つ引き 01-03井桁に菊 01-04丸に平井筒 01-05日蓮宗橘

昔は井戸の枠組みで地上に出た木組みの枠の円形ものを井筒と呼び、方形に組まれたものを井桁と言ったが何時の間にか紋章の方では正方形を井筒と呼び菱方形を井桁と呼ぶようになった。
古くから井戸は神聖な場所とされ、神を祀る習慣があった。
今でもこの地球上に谷川から水を汲んでの生活が当たり前となっている部族がたくさんに存在している。

住まいから谷川まで二〜三キロは近い方だと云うから不便な生活である
井戸の発明は人類の生活に措いて革命的な事であった。水を大切にする習慣のそれ以上のものがあって神祀りとなっていると私は思う。
竈の火祀りと同じである。

井筒紋で史上有名なのは井伊直政の家系である。戦闘に措いても井伊の赤備え軍団として敵に恐ろしがられた。赤備えの創始者は武田の旧臣、山県昌景である。武田家は滅亡したが、徳川家康はその武勇を惜しんで井伊家に取り立てたと言う次第。

話は少しずれるが徳川家康は敵方であっても名のある人物は登用して活かしている。

千葉下総の久留里城主は土屋忠直と云うのだが、その父の土屋昌恒は武田の猛将で武田が滅びた天目山の合戦では、勝頼を守りながら織田方の追い手を逃れ自身はがけ下の蔓につかまりながら片手で敵方を切り、がけ下に敵を突き落としたと云われる。

山梨県の田野には「土屋昌恒片手千人斬りの碑」が建っていると言うから話しが大きい。最後は昌恒の刀が折れ勝頼と共に討ち死にした。その昌恒の遺子が五歳の惣蔵、二歳の松姫であったと言う。織田方の探索を逃れるべく二人を醤油樽に潜ませて駿河の国に落ち延びたと言われる。
そこの文充和尚の教育を受けて十一歳の時に、偶々徳川家康が寺に立ち寄り給仕に出た惣蔵を見て「あの千人斬りの忘れ形見がこの子か、誠に敵ながらあっぱれであった。惣蔵は予が預かる」と云って徳川秀忠の近習として千石の知行を受けたと言うのだから破格な処遇だ。

慶長五年関ケ原の戦で軍功があって秀忠の「忠」をいただいて忠直と改名、久留里城を預かって三万石のお殿様と出世した。妹の松姫も奥女中として秀忠に仕え、秀忠の媒酌で相馬十万二千石利胤の室となっている。その嫁入り調度品には三葉葵の紋が付けられていたと言うから嫁にもらった側がさぞ困惑の事であったろう。
土屋昌恒自身は悲運であったが子は立派に出世した。家康は日本中の武将の生き様をじっと見ていたに違いない。

話を元に戻そう、丹羽先生のご本に載っている 「井筒井桁の井伊の紋、赤い指物、金の文字、それ繰り出すぞ赤備え、何でもいいから突っ掛かれ、なんでもいいからやっつけろ。」

井伊の赤備えは敵方からは何とも手強い軍団であった。

井伊家発祥の地は、遠江国引佐郡井伊荘、現在の引佐町である。
この井伊家の家紋は井筒に橘であるが、是には次のような伝承に依る。

井伊家の始祖は藤原冬嗣六世共資は男子に恵まれず女の子ばかりであったので、良い婿を求めていた。
この時井伊谷の八幡社に神童がいると聞いて迎えたのが共保である。この共保の出生は神秘な話となっている。
或る時井戸の中より一子を抱いた化人が現れて橘を一子のわきに置いて姿を消した。
八幡社の神主は赤子の泣き声に驚き、神より授かった子として育てた。この子が井伊家の始祖井伊共保であると言うと云う伝承である。以上の由来に依って井伊家の家紋は井筒紋、橘を持って生まれたので井筒の中に橘紋となった次第です。

日蓮宗も井筒に橘紋で全くの同紋ですが、これは日蓮のご先祖がこの井伊家から出たと言う伝承に因ります。

井の着く苗字の多くの方が井筒紋か井桁紋のいずれかである。
日露戦争で有名な乃木大将は「四つ持ち合い井筒」と云う大変にめずらしい家紋です。

 参考文献
「家紋大図鑑」 丹羽 基二
「日本家紋総監」 千鹿野 茂