蒼蒼ロゴ

第87号


中国を見る基礎用語 竹内 実(京都大学名誉教授)
中国的なるものを考える24 伝播と速度(その一)福本勝清(明治大学助教授)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋



中国を見る基礎用語

竹内 実(京都大学名誉教授)



【以下は竹内実/矢吹晋編『中国情報用語事典』一九九九−二〇〇〇年版の第一章「中国を知る基礎用語」(竹内実執筆)からの抜粋である。同事典は八月初旬蒼蒼社より刊行。A5判軽装七二〇頁、定価:本体四八〇〇円+税)】

中国
 中国大陸のうえに、古代から現代に歴史的に存在し、現に存在しているものの総体をさす。また、中華人民共和国の略称。
◆「中国」というと、「国」の字にひきずられて、「中華人民共和国」を指すとおもいがちである。たしかに、このような意味で使われることは多い。たとえば、日本の新聞の第一面においては、とくにそうである。しかし「アメリカ」といっても、つねに合衆国政府のことではないのと同様、国家としての中国にとらわれず、歴史的、地理的存在として「中国」ということも多い。このばあい誤解をまねかないよう、「中華世界」と称する方法もある。
◆中国政府の当局者が中華人民共和国の略称として、また、国家としての主張や政治行動をいうとき、自ら「中国」と称することが少なくない。中国当局は台湾にたいし、「中国当局がいう“一つの中国”の“中国”とは“中華人民共和国”のことだ」と言明している。
◆古代においては天子の居住する地域(ふつう、城壁で囲まれている)を「京師」とも、「中国」ともいった。この「中国」がしだいに区域を拡げ、領土全体をいうようになった。
◆「中国」のほか、「中土」、「中原」、「中州」、「神州」、「九州」、「中夏」、「中華」、「華夏」とも称した。「夏」、「華」いずれも美称である。これに対し、周辺の区域や人種(民族)を「夷」とか「夷狄」と称した。「中華」、「中国」を主とし、これと「夷狄」をきびしく区別する考え方があり、このような考え方を「華夷思想」、もしくは「中華思想」と呼ぶ。
◆第二次大戦後、新しく成立した中華人民共和国をアメリカが「コミュニスト・チャイナ」と呼び、日本はこれを直訳して「中共」と呼んだ。中国を悪者にしたてる意図をもった呼称であった。さらに「レッド・チャイナ」(Red China)とも呼んだ。「レッド」は共産主義のことで、当時のアメリカでは共産主義者は「敵」として、「共産党狩り」がおこなわれたことがあった。当時は戦火をまじえない戦争、「冷戦」(コールド・ウオー)状態が存在するという認識だった。
◆「中共」は、現在「中国共産党」の略称として使われる。中華人民共和国の略称としては適当でない。
◆日本のなかには、中華人民共和国の成立が一九四九年であるところから、一九四九年以前については「中国」と呼ぶのをやめ、「支那」と呼ぶのが「学問的」だというひとがいる。この提案者は蔑称としての「支那」、もしくは「シナ」を復活させたいのである。現在、日本においては、学界のみならず、一般的に古代から現代までの総称として「中国」が使われている。一九四九年以前にも、「支那」と呼ばずに「中国」と呼んでいた例はある。
◆以前、日本では「支那」、「シナ」という呼称を用いた。京都の学者がフランスの「シノロジー」と清朝時代の「考証学」研究を総合して、新しい学風の樹立をうたった学術誌を『支那学』と命名し、創刊したことがある。また、革命家孫文(孫中山)は日本に亡命したさい、宿帳に「清国人」と記さず「支那人」と記した。これらは必ずしも蔑称ではなかった。
◆しかし、日清戦争以後、思い上がった日本人が、軽蔑した口調で、これを口にしたため、中国人はいちじるしく感情を傷つけられ、その記憶はまだ消えていない。いまは国際化の時代である。相手の感情を傷つけてまで、古い呼称を使う必要はない。「ミヤンマー」、「スリランカ」などは植民地時代の呼称を拒否し、彼ら自らがとなえた国名であるが、いまでは一般的に用いられている。相手が嫌悪する呼称をわざわざ使うのは一種の挑発であり、自らをいやしめる行為である。
◆「中国」の発音を片カナで記すと「チュウン・グオ」である。中国語には四つの声調があり、それでいうと、「チュウン」は第一声、「グオ」は第二声である。中国語の現行のローマ字表記にひきずられて、「チョングオ」と発音したり、ルビをふったりする誤りが散見されるのは嘆かわしい。「チョングオ」という国は地球上に存在しない。

中国人
 中華人民共和国の国籍をもつ人間をいう。また国籍にとらわれず、いわゆる漢民族をいう。
◆日本では一般に「中国人」と呼ぶが、実体としては多くは漢民族である。彼らじしんも外国人に対しては「中国人」と名のるが、中国国内においては、「漢族」と呼ばれ、自らもこのように名のることがある。「漢族」が「中国人」と称すると、少数民族は「中国人」でないことになるからである。
◆中国国内にいようと、国外にいようと、われわれからすれば、「中国人」にかわりはない。中国人は中国人である。ところが、中国大陸から台湾にたいしてよびかけるときは「台湾同胞」と呼ぶ。大陸に居住する台湾を本籍(中国には日本の戸籍に相当するものはないが)とする人間は「台胞」と呼ばれる。一般的に華僑にたいしてよびかけるときは、「僑胞」という。したがって、われわれが漠然と呼んでいる総称としての「中国人」には、じつは「中国人」「台湾同胞」「僑胞」という三つの区分があることになる。
◆台湾に居住する人間は、自らは「台湾人」と称する。もともと福建省から渡ってきた人間の子孫であるが(これよりさきに台湾に居住していた人間もいるが)、自己紹介するさい、ふつうは「台湾人」と名のる。日本の敗戦後、中国本土からやって来た人間(主として国民党の官僚、高級軍人、その家族、兵士たち)を台湾では「外省人」と呼ぶ。台湾人が「中国人」というとき、じつは「台湾人」でない人間、つまり「外省人」を指している。台湾人は、中国大陸に居住する中国人のことを、「中国人」と呼ぶことがある。これは自らを中国大陸と区別する意識をもって呼んでいて、政治的な呼び方である。台湾人にたいして「中国人」と呼ぶと、ときに反発を買う。
◆中国人としてのアイデンティティ(同一性)を強調して、台湾に居住すると、中国大陸に居住するとの区別なく、おしなべて「 ルビ 炎黄 えんこう の子孫」と称することがある。古代の帝王、炎帝と黄帝の血すじをひくわれわれ、という意味である。このような文化的なアイデンティティは、政治的見解がどうであれ、台湾において根づよい。
◆中国の英語辞書での“Chinese”の訳は「中国人」である。英語の世界では、一般に“Chinese”が使われ、台湾人とか、大陸居住の中国人とかにこだわらない。

中華人民共和国
 一九四九年十月に成立した。中国大陸を主たる領土とし、面積約九六〇万平方メートル、日本(三七・八万平方メートル)の二十六倍。人口は十二億を越える(日本の人口は一・二億)。『憲法』をもつ。社会主義国家をうたうが市場経済を導入し、自ら発展途上国と規定する。国際的には国際連合の常任理事国である。貨幣の単位は元(ユアン)。記号としては¥。「人民幣」ともいう。「中国の特色をもった社会主義を建設する」というのが、現在のスローガンである。
◆行政区画は台湾省を含め三十二。統計には台湾省を含めないのが一般的で、省二十三、自治区五、直轄市四。このほか香港特別行政区がある。ただし中国では香港特別行政区を「行政区画」として数えていない。
◆民族的には漢民族が九〇%以上を占め、ほかに壯(チョワン)、回(ホイ)、ウイグル、蒙古、満州、チベット、朝鮮などの諸民族がおり、「民族自治区」が設けられている。中国じしんは「統一された多民族国家」だといっている。
◆少数民族は省段階の「自治区」のほか、行政の段階に応じ「自治県」などがある。
◆『憲法』は権力は「人民」に属するとうたい、全国人民代表大会と地方の各段階の人民代表大会が、人民が国家権力(立法権)を行使する機関だとする。最高の権力機関は、全国人民代表大会。わかりやすくいえば、日本の衆議院に相当するが、この代表(議員)を選ぶのは住民の直接選挙ではない。三権分立主義でもない。任期は五年。
◆政治の基本方針としては、「四つの基本原則」が「憲法」序言に記されている。@社会主義の道 A人民民主独裁 B共産党の指導 Cマルクス・レーニン主義と毛沢東思想、これら四つを「必ず堅持する」という「原則」である。これは○(登+都−者)小平によって一九七八年にとなえられた。日本語で「原則として」というと、例外もありうるが、中国語の「原則」は例外はみとめない。「四つの基本原則」の束縛はきびしい。
◆建国当初、ソ連の援助をうけた。ソ連人の顧問団が中国に常駐、その指導のもとに、重工業を中心とし、大型ダムの建設などの巨大工事をおこなう五カ年計画をくりかえし、ソ連型の社会主義の国家建設をすすめた。工業、商業を問わず国有化し、農業も集団化し、大学の制度はじめ社会的な諸制度もソ連にならい、外国語といえばロシア語、留学先ももっぱらソ連、なかでも理工系だった。
◆一九七八年十二月、中国共産党は方針転換を決定し、対内的には市場経済をとり入れ、対外的には外国資本の投資を歓迎する「改革と開放」政策をとることになった。ただし、「社会主義市場経済」と称しているところにもみられるように、社会主義を放棄したわけではない。
◆新中国は「革命の国」として注目されたが、現在は「巨大市場」として経済的に注目されている。

中国共産党
 中華人民共和国の政治、経済、思想を指導する政党。大衆的な政党であり、他にも「民主党派」と呼ばれる政党はあるが実権はない。共産党員は一般大衆とは異なるエリートとみられている。
◆党の現在の目標としては、「社会主義市場経済の実現」をうたう。党員数六一〇〇万人(一九九八年)。総書記は江沢民(チアン・ヅオミン)。
◆一九八二年制定の「党規約」によれば、「中国共産党は中国労働者階級の先鋒隊であり、中国各民族人民の利益を忠実に代表し、中国社会主義事業の核心である。党の最終目標は共産主義の社会制度を実現することである。中国共産党はマルクス・レーニン主義、毛沢東思想を自らの行動の指針とする」。
◆一九二一年七月、上海で第一回党大会をひらき、コミンテルン中国支部として成立した。建党記念日は七月一日。国民党とは二度にわたって協力関係をもった。中国共産党はこれを「国共合作」と称する。第一次国共合作の決裂以後、共産党の軍隊として労農赤軍を創設、国民党との内戦を戦った。一九四九年十月、中華人民共和国を成立させた。元首にあたる国家主席には共産党主席の毛沢東が、中央政府の国務院(当時政務院)総理には、これも共産党の首脳の周恩来が、それぞれ就任した。つまり、一階を国家とすると、党(中国共産党)が二階に当たる二階建ての構造である、ということになる。
◆党員は、自分の所属する大学や工場や行政機関や部隊や地域毎に支部を結成、これを基礎にピラミッド型に指導機関を設け、全国組織をつくる。代議員を代表と呼び、全国代表大会が最高とされ、この大会によって中央委員会委員が選出される。さらに、中央委員会全体会議によって中央政治局員、中央政治局常務委員、総書記が選出される。大会は、五年に一回、総書記によって招集される。一九九七年に第十五回大会。党員数は五八〇〇万人。
◆一九三六〜七六年は毛沢東が実権を掌握、一九四七年からは党主席であった。毛の死後、一九七八年以降、○小平が実権を掌握した。それまで革命ばかりうたっていたのが、○小平によって、経済建設へと活動の方針が転換された。○小平は死去するまえに政治舞台からの引退を声明、後継者として江沢民を指名した。
◆中国共産党は国家機関、司法、軍隊、行政を掌握している。この弊害は少なくない。一九八〇年代には、党と政府(行政)の分離、政府と企業の分離がとなえられ、軍隊も党の軍隊でなく国家の軍隊となることがうたわれたが、やがてこの方針は強調されなくなった。
◆現在党員の腐敗が社会現象ともなっている。北京市党委書記で中央政治局員を兼務していた陳希同は逮捕され、汚職罪と職務怠慢で十六年の懲役判決をうけ、賄賂として得た金は国庫に没収された(一九九八年八月)。
◆政党は中国共産党のほかに民主党派と称される中国民主同盟、九三学社などがある。『憲法』の規定では、共産党と民主党派とは「相互協力、相互監督」の関係である。いわゆる与野党の関係ではなく、共産党の親密な友党であり、参政党(政治に参加する政党)だとされている。民主党派の指導者は高齢化し、世代交代は必至である。
◆民主党派には日本の野党のような活動はみられず、中国共産党による「一党独裁」が指摘される。かつてドイツに出現した、ナチス党による一党独裁とは区別されるべきであるが、「文化大革命」の時期にはよく似た現象がみられた。
◆一九二一年七月成立の当時、共産党は世界的な単一の政党であるとうたい、その統一組織としてコミンテルン(中国語で「共産国際」)があった。本部はモスクワ。
◆一九三六年、コミンテルン第七回大会の方針転換により、各国別(各民族別)の共産党となり、中国共産党もコミンテルンから独立した道をたどった。戦後の冷戦下では、ソ連の側につき、「一辺倒」(イーピェンタオ。いっぺんとう)と称した。しかし、ソ連共産党の厳密な支配下にあり、その傀儡となったドイツや東欧諸国の共産党とは区別される。一九六三年以降、中国共産党は公然と「ソ連共産党は修正主義である」と批判、論争し、ソ連を盟主とする社会主義陣営と訣別した。

中国の特色をもった社会主義
 中国の政治を指導するにあたって、○小平がとなえた方針。「中国の特色をもった社会主義を建設する」。ここでいう「中国の特色」については説明がないが、経済発展のためには「資本主義」的なものであろうと、これを大胆にとりいれ、いっぽう「社会主義」的な制限は残すということであろう。
◆○小平は一九八四年六月三十日、つぎのようにのべた。「貧乏なのが社会主義ではない。生産力を向上させ、九〇数パーセントの人をゆたかにするには社会主義によらなければならない。分配も資本主義によっては、絶対多数の人を貧困から離脱させることはできない。対内的には改革を継続して経済を活性化し、対外的にはさらに開放を実施すべきだ。外資、外国の先進的技術(管理を含む)を歓迎すべきだ」。
 この談話は、第二次日中民間人会議の日本側委員会代表団にむかっておこなわれ、『○小平文選』第三巻に収められるにあたり、「中国の特色をもった社会主義を建設しよう」と題された。
◆ただし、これよりさきに「さまざまな活動は中国の特色をもった社会主義を建設するのに役立つべきである」という講話を、一九八三年一月十二日にもおこなっている。『○小平文選』第三巻所収。
◆さらに一九九〇年の中国共産党中央委員会で採択された決議のなかで、「中国の特色をもった社会主義を建設する道の12原則」のなかに、つぎのような規定がある。
 「労働に応じた分配を主体とし、そのほかの方法によってこれを補足する分配制度を実行する。一部のもの、一部の地区が誠実な労働と合法的経営をつうじてさきに富裕になることを許し支持し、さきに富裕になったものを激励し、まだ富裕にならないものを援助し、もって人民全体と各地区に利益をもたらし、ともに富裕になることをしだいに実現する」。(第七の原則。引用にさいし若干の語句を補った)
◆「富裕になる」、「ひとより先に富裕になる」ことが、○小平によって奨励されたのである。このようなことは毛沢東時代には禁止されていた。建国以来、マルクス主義、社会主義をスローガンとした中国において、「おまえは資本主義だ」とレッテルを貼られようものなら、社会的に孤立し、ときには投獄されもした。○小平は党内にあって、こうしたタブー(禁忌)に挑戦し、党の方針としてこれを打破したのである。
◆上記の12項目は「国民経済と社会主義発展の十カ年プロジェクトおよび第八次五カ年計画を制定することにかんする提案」にもみられる。ここには「中国の特色をもった社会主義を建設する道」についての基本的な輪廓が描かれている。
◆今の中国が唱える「社会主義」とは、@中国共産党の権威と指導を維持すること、A社会的公有制(国有制と集団所有制)を確保すること、の二つに要約されよう。ただし、「所有」について「私的所有」をまったく認めないというのではない。上記の二点が維持・確保できるかぎり(維持するためにも)、あえて資本主義的な制度を採用しようというのが、「中国の特色をもった」の含蓄であろう。

人民
 中国本土居住の人々は、公式には「中国人民」と称され、公式の場では彼らじしんも、このように名のる。「人民」は官庁の名称としても使用される。たとえば「人民銀行」。これは、「国立銀行」にほかならない。また誇りをもった呼び名としても使われる。
◆抗日戦争中に、中国共産党が日本の侵略に抵抗する「抗日」に賛成するひとびとをこのように呼んだ。したがって、「人民」に含まれない人間(日本の侵略に協力したり、共産党の抗日政策に反対する人間)は「敵」だった。もともと階級闘争の観点に立つ共産党からすれば、地主は農民の「敵」であるが、抗日戦争中にあっては、地主といえども「抗日」の立場に立てば「人民」の「友人」であった。
◆国民党が支配勢力であった時代に、国民党に抵抗し「解放区」をつくった共産党としては、新国家成立後、自己の行政機関を国民党政府の行政機関と区別する必要があった。それで、行政機関をはじめ、警察、銀行、郵便、鉄道などに「人民」を冠した。『人民日報』は、じつは党の新聞(機関紙)であり、「人民銀行」は国家の中央銀行である。国家の名称「中華人民共和国」の「人民」もこうした命名である。
◆共産党員が自分を共産党員として強く意識するとき、非党員である民衆を「群衆」(チュインチュウン)と呼んだ。「人民」は「党員」と「群衆」に区別されたわけである。
◆中華人民共和国の『憲法』は、国籍をもち、法律上のもろもろの権利をもつ人間を「公民」と呼ぶ。「公民権」を剥奪されると、法律的にはたんなる「国民」となる。中国では、一般的に「国民」といわない。
◆「人民」は俗語の「老百姓(ラオバイシン)」に相当する語感もある。日本語では「庶民(しょみん)」、「民(たみ)百姓(ひゃくしょう)」のことである。「人民」を「老百姓」におきかえると、そぐわないこともある。たとえば「人民銀行」は「民百姓(たみひゃくしょう)の銀行」ではない。
◆犯罪を犯して政治的権利を剥奪された人間は「公民」ではなくなる。ただし国籍はあるから「国民」ではある。厳格な概念をもつ中国語の「公民」を「国民」というあいまいな日本語に訳すのはまちがいである。
◆ひろく日本の人間(国民)を呼ぶとき、中国語では「日本人民」という。中国の外文出版社の出版物では、「日本のみなさん」と訳している。
郷鎮(きょうちん)
 「郷」は農村地帯の末端の行政組織で「県」に属する。「鎮」は、農村地帯の物資の集散地で、ふつう県の役所の所在地。以前は日用雑貨を売る店、酒屋、布地屋、鍛冶屋などが、一筋の通りをはさんで並んでいれば「鎮」といった。
◆一九八四年、国務院は「鎮」の下に「村」をおく行政体制を決めた。「改革と開放」政策によって「鎮」が発展し、「市」に昇格した鎮も少なくない。「郷」という呼称は漢のころからあった。話しことばで「郷下(シァンシァー)」というと田舎のこと、農村のことであった。
◆ちなみに「村」は、もとは農村における共同体を指し、行政単位ではなかった。原始社会の末期に、この共同体が土地を共有し、各家庭に分配して耕作させ、農具や住居は私有とした。土地の使用には世襲をみとめたので、長い歳月とともに私有制に移行し、共同体は崩壊した。
◆「郷」は、日本では「郷愁(きょうしゅう)」「男子志を立てて郷関(きょうかん)を出いず」など、「キョウ」と読まれてきた。しかし郡に属する行政区として「郷」をおき、「ゴウ」と称した時期があったので、これから類推し、中国の「郷」を「ゴウ」とよむむきがあるが、漢字音としては「キョウ」が正しい。「郷鎮」を「ゴウチン」と読むと、戦争中の大本営発表の「敵ノ空母ヲ轟沈(ゴウチン)セリ」を思いださせ、耳で聞いても、きれいでない。「キョウチン」とよみたい。

中国的なるものを考える24
伝播と速度(その一) 福本勝清(明治大学教授)



 前回(「省境について」続二)の最後の部分で、大刀会の話を持ち出したが、少し唐突であったかもしれない。今回は、大刀会の話から始めたい。
 一九二六年一月、広東高要県の徳慶、広寧両県に近い農村において、地主と農民が互いに武器をとり激しくぶつかりあった。高要の地主たちは、広東国民政府の下で広がりを見せる農民運動に恐れをなし、徳慶、広寧の地主と連合し、農民協会に猛攻を加え、死者、負傷者多数を出す。地主連合軍は、土匪、民団のほか大刀会を加え、三、四千人の武力をほこっていた。
 事件(高要惨案)を報告した阮嘯仙によれば、
■事件の背後には広寧の大地主李済源がおり、香港帝国主義や買弁陳廉伯(広東商団総司令)、さらに軍閥陳炯明ともつながり、以前より巻き返しの機会を狙っていた。
■李済源は、佛山の大地主で佛山商団司令でもある陳恭受と、西江地区において勢力を二分しており、
■西江地区反動地主の大本営が同善社であり、
■大本営の下には、土匪、民団、大刀会の三つの武装勢力が存在した。
 彼らは無知な農民を「皇帝大一統天下」のスローガンで騙し、大刀会に加入させていた(『阮嘯仙文集』)。
 阮嘯仙の報告では、この大刀会は神打(団)とも、神軍とも呼ばれている。邵雍『中国会道門』では、高要慘案の後、葉挺独立団が到来し神打を掃蕩し、地主たちはやむをえず大刀会の解散に応じたとある。また、神打は一九二五年には北江、西江流域に広く分布していたとある。邵雍は、この神打すなわち大刀会を、当時北方の農村を席巻していた紅槍会運動の一翼である大刀会と同じものとして論じている。だが、それに疑問がないわけではない。というのも、大刀会が北方から広東まで伝播した道筋が不明だからである。
 これが清代ならば、流布のルートがはっきりしないのは当然である。白蓮教諸派にせよ会党にせよ、秘密結社である以上、伝播や流布の具体的な経路ははっきりしないのが普通である。が、民国期では、紅槍会や大刀会などの武装自衛結社、或いは同善社や一貫道などの類似宗教が、どのような経路で広まったのかをある程度跡づけることができる。
 たとえば、連立昌『福建秘密社会』に、福建大刀会は、山東の大刀会に由来し、浙江、安徽等より伝わったとある。その時期については、少なくとも民国初年には△(門+虫)北に出現したとしている。福建各地に出現した大刀会について表にしているが、それによれば一九一二年には沙県に僮子軍、一三年には尤渓に無銭会、そして二三年に南平に大刀会が出現している。ただ、一二年、一三年の例と二三年の例は、同じ大刀会の系統に属するとしても、別に論じるべきであろう。後者は一九一〇年代中期以後の紅槍会運動期の大刀会の流れである可能性があるが、前者はそれ以前のものである。
 突拍子もない喩えであるが、同じ学生運動といっても、六〇年安保期と七〇年安保期では、組織形態、目標、参加者の意識や肌合い等が大きく異なる。同じ民衆結社とはいえ、それくらいの相違が、義和団運動期と紅槍会運動期にあるだろう。苦し紛れの思いつきだが、今のところはそう考えている。
 二三年の南平の例では、法師の名は王楽民、安徽の人である。王楽民が安徽のどこからやってきたのかについて述べられてはいないが、彼が皖南人であった場合、皖南から△(門+虫)北へはわりと簡単に行くことができ、また長江北岸の人であっても、長江をわたり皖南から浙西もしくは○(章+灸−火+貢)東北を経て、△(門+虫)北、△(門+虫)中へと旅しただろうことは、前回の旅芸人の話から確かであろう。  上記西江流域の神打については、以上のような流布の道筋を明らかにするような記録や著作は、未だ目にしていない。広東や広州の文史資料をあたっても、今のところ神打に関しては収穫ゼロである。それゆえ、推測のそのまた推測でしかないが、神打がもし大刀会に関わりがあるとすれば、紅槍会運動期の大刀会の流れではなく、義和団運動期もしくはそれ以前の系譜に属するのではないかと思われる。『中国会道門』には、湘鄂川黔の神兵の記載がないのが残念だが、湖北における大刀会の変種、白極会(北極会)について触れており、白極会は大刀会や紅槍会の前身ともいうべき金鐘罩の系譜に属するとある。神打も同じような存在である可能性がある。
 高要慘案をめぐる注目すべき存在としては、さらに同善社をあげなければならない。この同善社が、一九一七年、四川永川の彭汝尊(彭汝珍)が北京政府の批准を受けた修養団体(というよりは類似宗教)同善社と同じものかどうか、阮嘯仙の報告からは不明である。が、邵雍(前掲書)は、陳独秀が『新青年』(一九二一年)において同善社を批判し、「私が北京にいた折、同善社がたくさんの怪しげな行いをしているのを聞いたことがある。その後、長江一帯においても邪説を奉じるものが急速に増えているのを知った。現在、広東にもたくさんいる。主催者たちはいずれも辮髪の味方であり、政界軍界の腐敗分子である、…この邪説は…王朝復活の働きをしている」を引用し、同善社の本質を射抜く評論だったとしている。
 実はこの発言は、一九二一年春、湖南進出をはかっていた同善社に対し『湘譚日報』が批判文を連載したところ、同善社と結託した県府の発禁措置に遭い、その支援を買ってでた陳独秀の読者への公開書簡として発表されたものであった。邵雍は後段において、同善社は広東においては慈善団体の名義で活動しており、広東西江同善社は、二八年六月、西江都城(鬱南)の市の期間に、四川重慶純陽洞祈天祷劫大会印と記された「挽劫文」を撒いたと述べており、そこからも西江同善社が、一貫道と並び民国期を代表する宗教結社同善社と同じものであることがわかる。
 法輪功など現在の気功集団もそうだが、民国期の同善社や一貫道、在理教(理門)らも、一面では修養団体、慈善団体であり、かつ成員に対し創始者(教祖)への絶対的忠誠を求めており、一種の新興宗教もしくは類似宗教など、全体としてどのように呼んだらよいか迷う場合が多い。なお同善社や一貫道、在理らが宗教と呼べるほどの教理や信仰心を持ち合わせていたのかどうか疑わしい。
 さて同善社だが、一貫道や在理教に比べやや影が薄いようにみえるが、実のところ、その活動ぶりやいかがわしさは、一貫道にけっしてひけをとらない。同善社は、教義的には先天道を吸収し、無生老母を崇拝し、儒仏道の三教合一を主張し、道徒三千万を擁すると称していたとされる(『中国民間秘密宗教辞典』)。が、彭汝尊の野望は自ら皇帝になることだった。弥勒下生を唱える彭汝尊にしてみれば、それは野望ではなく、衆生の救済のためだということになる。北伐後、国民政府は同善社の活動を禁止している。
 表面では何を言おうと、彭汝尊とその一党の手法は武力を手に入れることに向けられていた。彼らが軍閥に擦り寄っていたのは、合法化を手に入れるためだったが、そのほかあわよくばその武力を獲得する狙いもあったと思われる。が、実際に彼らができたのは、農民の自衛武装勢力を傘下に収めることであった。
 一九一九年にはすでに、湘西に進出した同善社の、永順の道首王和甫が龍山神兵を篭絡しており、一九四三年には、同じく永順を中心として神兵大刀会を組織している。四五年春、永順、龍山、桑植三県の神兵が「抗兵、抗糧、抗税」を合言葉に蜂起、すぐに弾圧されている。一体どのような脈絡のなかから、このような事件が飛び出したのか不明だが、福建同善社と大刀会の関係に、その辺がある程度うかがえる部分がある。
 連立昌によれば、抗日戦争期に入るや、福建大刀会の多くが同善社の操縦するところとなっている。大刀会の持っている武器が同善社には魅力であった。福建は一九一〇年代以来、軍閥混戦と土匪の跳梁に悩まされていた。やみくもな徴税や徴兵、苛斂誅求に苦しむ農民たちに大刀会結成を呼びかければ、ただちに多くのものが呼応した。大刀会を掌握すればすぐに武装化が可能となる。そこに同善社が目をつけたのは当然である。三〇年代始め、○(章+灸−火+貢)東の紅軍は、福建大刀会に阻まれ、農民の支持を獲得することができなかった。そこで、みずから赤色大刀会(紅帯会)をつくり、支持者の拡大と農民大衆の武装化をはかったが、それと同じようなことを同善社がやったまでであった。
 それゆえであろう、同善社が掌握した大刀会はよく官府や軍警とぶつかることになった。なかでも四三年春の寧祥八仙会暴動、及び同年秋の△(門+虫)東大刀会(福安穆陽鎮、寧徳飛鸞)暴動が大規模なものである。前者では、県城を攻略した後、八仙会会首羅占開は「替天行道、除暴安良」の布告を出し、天運と改元、ついで逃げおくれた官吏を殺している。
 同じような関係は、四〇年代の安徽南陵大刀会と同善社の合作にも見える。指導者馬閲鎮は、同善社と大刀会の文武両壇の唯一の道首であり、その他の大刀会会首もみな同善社の信徒であった。
 これらの同善社と大刀会の関係は、上部組織と下部組織のようであり、党と大衆組織の関係によく似ている。同善社、恐るべしというべきか。(続く)

逆耳順耳
  矢吹晋



眼底出血

 物忘れの話は「もう書かないほうがいいですよ」と親切な友が忠告してくれたが、これは重大事なので、やはり書いておく。二月末のある日、パソコンの画面が突然真っ白に変わった。またしてもウインドウズ型シャットダウンか、と思いながらも念のためにもういちどENTERキーを押してみる。ギョギョ!! パソコンは動いているではないか。
 ここで初めて眼の異常に気づいた。片目ずつつぶって画面をみる。右眼をつぶると画面一杯に「白雲」が浮かび、文字は読めない。左眼をつぶると、おや見える。
 パソコンでやられたかと危惧しつつ、近所の眼科医へ。瞳孔を開いて検査した女医の診断は簡単明瞭。  「眼底出血です。紹介状を書きますから、大きな病院へどうぞ」。
 翌日から四日間、連日計一〇・五時間の点滴を受け「血液をさらさらにする薬」(カルナクリンとバファリン)を服用した。すでに三カ月を経過し、病院通いは週一から月一になったが、眼底に浮かぶ「白雲」は消えない。したがって利き目の左は補助的にしか使えず、これまで使っていなかった視力の弱い右を使う。これまでは本を読んだり、パソコンを使うときは裸眼であった。いまや眼鏡は不可欠になり、そのため視野がかなり小さくなり、仕事の生産性は二分の一あるいは三分の一に落ちた気がする。
 かくて「視野狭窄」は文字通り争えない事実となったからには、これからは、「心眼」で視野を広げるほかない。血圧が高い中年、老年がパソコンに熱中するのだから、このような事態は予想されたのだが、いまやパソコンはほとんど手足の一部に近い。血管がつまったのと、パソコンがつまったのと判別しがたいほどに入り組んでいるわけだ。
 連休前、研究室にデル社OPTIPLEX−GI(三二万円也)が入った。そこで連休中に三日も研究室に通い、性能を試した。ハードの容量といい、処理スピードといい、素晴らしいパフォーマンスだが、旧来のMOディスクが読めないのは困る(六四〇メガのディスクが読めない問題は依然解決していないが、二三〇メガディスクなら、使えるので、当面はこれで糊塗する)。
 と喜んでいるうちに、身近かで常用していたビブロで通信とインターネットができなくなった。今度は眼底側ではなく、マシーンの故障らしい。NTTの電話相談ISDNをたしかめ、ATERMの故障診断をやり、ついでNECのサービス・センターで同様の診断(ATの初期化)をやったが、らちがあかない。ついでNECの営業所でAT新品の交換してテストし、結局はCOM1の問題らしいという結論になる。
 そこで今度はパソコンメーカーの営業所へ行くが、そこにはISDN回線がなく、マシーンはそのまま修理センター(長野県佐久市)へ。少なくとも二週間程度かかるという。これはチョー不便である。実に困る。誇張するが、片手片目と脳味噌の半分くらい奪われた印象である(実際にそのような方には申し訳ない比喩ですね。ごめんなさい)。
 応急措置をどうするか。ほこりをかぶっていた旧オアシスに再度電源をいれてみたが、これは動かない。もはや「産業廃棄物」ですね。娘のパソコンに新フォルダーを作ろうとしたが、これもドライブが単一なので、混乱を生じて失敗。現状回復に苦労する始末。かくなるうえは、とパソコンショップを物色するが、気に入った薄型のバイオは二〇数万円台だから、少しためらう。といって、一〇万台のものではものたらない。そこへ、修理センターから電話あり。あと一週間で愛用機がもどる。そうか、当面は無為無策でいこう。
 六月一日、修理済みのビブロを受け取る。保証期間内なので、メインボードを交換したのに無料である(しかし、マシーンを持ち込んだ帰路、一斉検問に遭遇してスピード違反一万五〇〇〇円也を警視庁にもぎとられている)。ところで、ハードは治ったが、佐久の工場で実験のためにインプットしたオムロンのモデムが通常のやり方では削除できない。結局オンラインの指示に従いつつ、二時間を費やして、BIOSの再設定をやりなおし、ようやく動き出すまでに丸々一日かかりました。まずはメデタシメデタシ。
 六月一七日、研究室に二台目のデル(二五万円也)が入り、二一日インターネットに接続成功。自力でインターネットに接続できたのは初体験だが、これまでにご教示を仰いだ友人知人の講義実習の時間はかなりのものだから、「学習成績」は劣悪に属する評価であろう。しかも、これがただちに私の学習効果と呼べるかどうかは疑わしい。この間、マシーンの改善が著しく、私よりはむしろマシーンのほうがより深く学習した形跡が濃厚である。
 さて、経緯はあったが、研究室のパソコン環境が著しく改善されたのは、学生のおかげである。というのは、学生の論文執筆のために資料入手環境を整えることは、教師の義務であると考えて環境整備に務めたからである。これまでは旧式ワープロ一台という貧しさであった。私の研究室は自宅だから、それで間に合った。今後も私の研究室は自宅、勤務先の研究室は学生用になるものと思われる。

文革の時代と私

 大学に入学したときに第二外国語として中国語を選択したが、卒業当時、中国でメシを食うことになろうとは、予想だにしなかった。  昭和三七年ごろの日本経済は戦後復興を終えており、経済学部で日本農業論や日本経済論を学んだ卒業生にとっては売り手市場、旅費土産付きで地方の工場見学を勧誘されるような時代となっていた。私はそのような日本資本主義の全貌をこの目で確かめたいと念じて東洋経済新報社に入社し、週刊『東洋経済』の記者となった。石橋湛山という大きな傘のもとで、俗称「東洋山経済寺」には、折から廖承志・高碕達之助覚書貿易協定に基づいて来日した第一陣の中国の記者たちが出入りするようになった。彼らに日本経済の実情を知ってもらうべく代表的な工場を案内したり、宿舎の川口アパートに招かれて家庭料理をごちそうになったりした。
 一九六六年、文化大革命が始まると、彼らとの交流が断絶した。隣国で何が起こりつつあるのか、私は自分で確認したくなり、(いまはジェトロに吸収された)旧アジア経済研究所に職場を変えた。時は六七年一〇月。文革なかりせば、私が中国研究に転ずることはなかった可能性が強い。
 当時のアジ研は東畑誠一会長、小倉武一所長の薫陶を得てリベラルな学問的雰囲気が横溢していた。ロシア革命史から勉強してみたいと申し出ると、研究所は六カ月間ロシア語の特訓を受ける機会さえ与えてくれた。他方で熊代幸雄教授の『済民要術』研究会も傍聴させてもらった。さまざまな形で日本に流入した「紅衛兵新聞」を読むのは、だいぶあとのことである。
 七一〜七三年、海外研修の機会を与えられたが、中国大陸は受け入れてくれない。やむなく私はシンガポールの南洋大学、次いで香港大学に遊学した。
 二カ年の在外研修から帰国した翌七四年、『毛沢東思想万歳』のコピーに接した。折から研究所では文化大革命をテーマとした研究グループがスタートしたので、その資料として私はおよそ一〇日間で『毛沢東、政治経済学読書ノート』を翻訳した。この所内資料が七四年夏に現代評論社から公刊されると、身辺に大きな騒ぎが持ち上がった。翻訳はあたかも「ファラオの墓を暴く」ような行為だ、日中友好に反する「政治的」行動だと断罪され、研究所内外の「友好分子」から糾弾されるはめに陥った。
 私は学生時代にいわゆるスターリン論文「ソ連邦における経済学の諸問題」を宇野理論によるコメントを媒介として批判的に読んでおり、毛沢東による別の角度からのスターリン批判には、大きな関心を抱かせられた。私は研究の資料として『万歳』を扱ったにすぎず、政治運動からは距離をおいていたつもりだが、いきなり日中政治の渦に巻き込まれ、苦い体験を味わった。ペルソナ・ノングラータ問題はその一例にすぎない。文革後期の段階で、文革の掲げる高邁な理念と身辺に生じたあまりにも次元の低いトラブルとの間で理念と現実の相剋を実感していた。
 私が中国大陸の土を初めて踏んだのは一九七九年四月であり、五八年に中国語を学び初めてから二一年目の春であった。続いて七九年から八〇年秋まで、私は香港総領事館の特別研究員として香港で暮らした。
 この一年半は私にとって実に得難い研究機会となった。奇跡的なカムバック後、大胆な軌道転換を始めた○(登+都−者)小平路線を、私はいわば最良の観察地点でウォッチすることができた。○小平による実事求是路線のもとで次々に暴露される毛沢東時代の負の現実は私を驚かせるに十分であった。とはいえ、すでに毛沢東時代の社会主義の内実を再考するための準備はできていた。「禍福はあざなえる縄のごとし」の格言通りであった。願望に反して七〇年代初頭、私は中国大陸で研究する機会を与えられず、シンガポールや香港、あるいは東南アジアの華僑・華人社会を放浪していたが、その体験ゆえに○小平路線の目指す方向を体感できた。
 シンガポール時代はリクワンユーによる国づくりの進展ぶりとそれを新植民地主義と非難するイデオロギーとの間で揺れていたのだが、まもなく東南アジアの左翼ゲリラに対する支援が停止され、リクワンユー路線そのものに対する肯定的評価も聞こえてきた。これは東や南から吹き出す春風が中国大地の凍土を溶かす構図であった。私はいわば風源にいたおかげで、○小平の路線転換の方向性を実感できた気がする。
 文革は「封建的社会ファシズム体制」と呼ばれた帰結を生み出すことによって、毛沢東型社会主義の破産を劇的な形で暴露した。他方、戦後の世界資本主義は豊かな生産力に基づいて福祉国家の実現に成功したが、これは社会主義国家が約束して実現できなかった夢を、条件を備えた資本主義の側が実現できたことを意味する。貧しい社会主義は豊かな市場経済に敗北した。ただし市場経済による過剰な生産力はいま地球環境問題を生み出している。この難問を解くうえで、かつて社会主義が掲げた「乏しさを分かち合う平等主義」の意味は失せない。社会主義は現実の政治経済体制としては破産したが、人々が社会主義に託した願望のすべてを市場経済が満たしたわけではない。地球環境問題などはさしづめ、社会主義に勝利した資本主義につきつけられた大きな課題というべきであろう。


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