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第85号


中共中央政治局の派閥構成 和気 弘 (中国人事問題研究家)
中国的なるものを考える21 省境について(続一)福本勝清(明治大学助教授)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋



中共中央政治局の派閥構成 和気 弘

       (中国人事問題研究家)




A.江沢民グループ

 江沢民は現在中共中央総書記として、最高・最大の権力を握っているとされる。しかし、中国で最高指導陣を指す場合の「決まり文句」が「江沢民同志を核心とする党中央」であるように、江沢民はあくまでも中共中央の中心に位置する人物にすぎず、決して江沢民自身が党中央あるいは指導の中心ではない。
 毛沢東は別格としても、〇登+都−者小平でも個人的な権限が中共中央という集団を凌駕していた。一九八九年天安門事件直前に中共総書記の趙紫陽は、「中共第13 回全国代表大会(八七年)以降、われわれは最も重大な問題を処理する際、常に〇小平同志に報告し、彼の教えを受けている」と証言している。しかし、江沢民の場合はそれがない。彼はあくまでも中共中央総書記で、中共中央政治局の一員にすぎないのである。
 党の総書記は現行党規約によると、中央政治局会議と中央政治局常務委員会会議を責任を持って招集し、また中央書記処の活動を主宰するとだけ規定されていて、規約上ではそれ以上の権力を授けられていない。党規約には、党の最高機関は党の全国代表大会とそれによって選出された中央委員会であり、「いかなる指導者であっても、個人が独断専行したり、個人を組織の上に君臨させたりすることは許されない」と明確に規定している。
 江沢民が総書記に抜擢されたのは天安門事件直後の中共第13 期4中全会(八九年六月)であった。当時は趙紫陽の総書記失脚を巡る激しい対立のために中央政治局常務委員から後任を出すことができず、派閥色が薄く地盤も弱く、対立していた各派閥が安心して受け入れられる江沢民(当時上海市党委書記)が抜擢されたという経緯があった。江沢民は中央の派閥構造に大きな影響を与えるほどの実力を備えていない、いわば人畜無害の存在だったのである。
 総書記就任後、江沢民が低姿勢を貫いてもっぱら党内の融和に心を砕き、「安定」と「団結」を強調した
のは彼自身の家庭の事情のためでもあった。江沢民は〇小平の庇護を受けていたとは言え、李鵬、姚依林などの国務院官僚グループ、喬石、李瑞環、呉学謙などの共青団グループに挟まれ、その間でバランスをとることに汲々とする状態であった。江沢民が九〇年に、朱鎔基(上海市党委書記)に中央に来るよう誘ったが、朱鎔基は「上海での仕事を終えていない」という理由で断ったという噂が出たが、これは中央政治局での江沢民の立場の弱さに由来するものだろう。
 ここで注意を要するのは、九二年春に老齢の〇小平が南方巡視を行って改革開放フィーバーを起こした事実である。改革・開放路線は、建前としては党の路線ではあったが、天安門事件直後の反動的な状況の中では、江沢民を核心とする党中央は同路線を実際には積極的に推進し得ていなかった。江沢民としては、改革・開放を推進したいのは山々であったろうが、それを推進すると政治局内の保守・改革の対立が激化して自分が浮き上がってしまう恐れがあり、動くに動けなかったと推察される。それを見て〇小平は、広東省をはじめとする中国南方を巡視して、改革・開放路線によって潤い、より一層の改革・開放を望んでいた沿海地域を巻き込んでフィーバーを起こし、党中央に改革・開放路線の拡大を迫ったのである。
 九二年以降の〇小平路線の定着は、中央政治局全体が改革路線で統一されたことを意味するが、しかし、その時点でも江沢民は強固な地盤がなく、大きなグループを形成できなかった。
 江沢民が名実共に備わった総書記になったのは94年に入ってからである。九四年九月に開催された中共第14期4中全会は、〇小平の特殊権限、すなわち「重要問題では常に〇小平に報告をし、その教えを受ける」という規定を破棄した。14 期4中全会コミュニケでは、「中国の特色を持つ社会主義を建設する理論で党を建設することは、〇小平同志を核心とする第二世代の中央指導集団が創始したもので、江沢民同志を核心とする第三世代の中央指導集団が現在全党を指導して引き続き推し進めている偉大な工程である」と表現された。当時はその意味に気づくものが少なかったが、これが〇小平から江沢民に権力が移動したこと知らしめた公式文書であることを周囲が知ったのは年が明けてからであった。
 「江沢民同志を核心とする第三世代の中央指導集団」の「中央指導集団」とは、中共中央政治局員を指すと見ていい。14 期では江沢民、李鵬、喬石、李瑞環、朱鎔基、劉華清、胡錦濤の七人の常務委員と一四人のヒラの委員であり、15期では江沢民、李鵬、朱鎔基、李瑞環、胡錦濤、尉健行、李嵐清の七人の常務委員と一五人のヒラの委員である。
この「中央指導集団」の中で、江沢民はどれほどの勢力をもっているのかが問題であるが、明確に江沢民派と見られるのは意外に少ない。九八年の時点でも江沢民に近いと見られる中央政治局メンバーは、常務委員の李嵐清、委員の姜春雲、呉邦国、丁関根、候補委員の曾慶紅ぐらいではなかろうか。以下に彼らと江沢民の関係に若干言及しておくことにしよう。
 李嵐清は、元来は江沢民との関連が深く、第15期中央政治局常務委員のナンバー7に位置して李鵬総理の後継者としての呼び声が高かったが、九八年全人代では筆頭副総理にとどまった。李嵐清はこれまで貿易拡大で大きな成果を挙げたが、アジア金融危機の発生や国有企業の改革推進など、経済面での問題が山積しているため、より強力な施策を実行できる剛腕の朱鎔基に総理を譲った形である。李嵐清が現政権で担当しているのは教育と科学である。科学・教育による国家振興は、江沢民が強力に主張し、朱鎔基内閣の目玉の一つともなっているが、一〇年、二〇年の長い年月をかけて初めて成果が出てくるものであり、李嵐清の努力の成果を自身が享受するのは難しい。三二年生まれで二〇〇二年に六九歳と、なお次期の総理あるいは総書記就任の可能性を残してはいるが、現在以上のポストは難しいと見た方がよいだろう。
 呉邦国は政治局員であり、四人の副総理の一人である。上海党委書記から九四年に中央に抜擢され、経済を担当して大型国有企業の建てなおしで東奔西走している。四一年生まれで、二〇〇二年でも六一歳にすぎず、次期の総理就任の可能性が充分にある。それには当面の経済問題を解決する必要があり、朱鎔基のお眼鏡に叶うことが先決条件であろう。今後、中国経済が現時点以上に悪化すれば、呉邦国も経済担当の副総理として朱鎔基総理と一蓮托生の運命である。
 姜春雲は、山東省で省長・書記を担当した際の農業と工業の躍進をひっさげて中央入りした。しかし、九〇年代に入ってから、山東省で汚職収賄事件や密輸事件が多発し、しかも姜春雲の元秘書を含めた同省高官が事件に関わっていることが判明した。また、姜春雲の中央抜擢の根拠となった経済の実績に水増し部分があることが指摘された。九八年に全人代常務委副委員長に選出されたことから見ると、以上の犯罪行為に直接関わってはいなかったと見てよいだろうが、指導者としての資格に汚点がついたことは否めない。九八年に就任した全人代常務委副委員長のポストは最終ポストであり、花道コースをたどっている。
 丁関根は、政治局委員で中央書記処にあって宣伝部門を担当し、中共中央宣伝部長を兼務している。一般に〇小平の腰巾着から江沢民派に鞍替えしたという噂が定着しており、党内の人望は薄い。二九年生まれだが、頼みの江沢民に次期がないので、今後、一段上の政治局常務委員昇格は難しいと見られる。
 曾慶紅は、江沢民が八九年に総書記就任に際して上海から連れてきたただ一人の人間である。中央では直ちに中共中央弁公庁副主任に任命され、父親や母親の人脈を使って江沢民の中央での活動を助けたと見られる。しかし、長らく中央弁公庁主任の温家宝を上司に戴き、中央委員でも、中央候補委員でもないただのヒラ党員であった。九七年の第15回大会でようやく中共中央委員に選出され、中央政治局候補委員、中央書記処書記に任命されたが、独自の業績がない。江沢民の腰巾着という世評以上のものはなく、江沢民なしでは現在以上の昇格は難しい。
 なお、朱鎔基総理と江沢民総書記との関係は難しい。江沢民と朱鎔基のコンビは上海時代の党書記−市長以来で、両者の関係は順調のように見える。江沢民と朱鎔基の性格はかなり異なっているが、朱鎔基の鋭さを江沢民の幅の広さが補っている感がある。朱鎔基は独立独歩を主張し、実行してきた人物だから、江沢民が朱鎔基の改革を支持するうちは良好な関係が保持されるだろう。しかし仮に急進的な改革がつまずいて党内幹部の突き上げが激しくなり、江沢民が改革路線の手直しを考え出したならば両者の関係は一転する可能性を含んでいる。
 では、江沢民と軍隊との関係はどうか? 一部では、軍隊を江沢民の地盤と見る向きもあるが、軍と何の関連も持たなかった江沢民が総書記に就任してから一〇年程度で軍隊に強固な地盤を築けるものか?
 軍隊は派閥関係が複雑かつ強固で、毛沢東と言えども自由にならなかったことが文革で明らかになっている。江沢民は大将や上将の任命書を渡すことで将軍たちを掌握したと言うが、将軍たちは江沢民が大将や上将に任命したから偉くなったのでなく、それまでに偉くなっていたから大将や上将に任命されたのであり、任命書を渡すのは単なる儀式にすぎない。軍人をそれぞれのポストに就けるのは、実際には軍隊の特徴を隅々まで理解している軍人の古手で構成される中央軍事委員会メンバーであり、江沢民は党が軍隊を支配することの象徴として、主席に就任しているだけのことである。また、江沢民が中央軍事委主席に就任してから、上将の任命が増大していると言う向きがあるが、それは最近の軍隊が年齢制限を厳しく実行していることを知らないためである。実際問題として、軍の最高指導ポストについた者は年齢制限すれすれの者が多く、四〜五年で引退あるいは年齢制限の緩い国防大学校長や軍事科学院院長などに転任するため、その後任が上将に任命されているのであり、決して野放図に任命しているわけでない。むろん江沢民は中央軍事委主席として軍隊に命令を下すことができるが、それはあくまでも中央委員会あるいは中央政治局の代表としての江沢民であって江沢民個人としてではない。
 以上のように、江沢民の勢力はまだ弱体であると見なければならない。そのために「江沢民同志を核心とする第三世代の中央指導集団」と言った場合に、後者の「中央指導集団」のほうに重心があるという印象は拭いがたいのである。
 

B.上海グループ

 中国で「上海グループ」と言うと、一般には「文化大革命」時期における「四人組」、すなわち王洪文、張春橋、江青、姚文元を指す場合が多い。
 これに対して最近用いられる「上海グループ」は、多義的である。第一には、建国前の上海で学生運動を行なったグループで、それも五〇年代頃から最近まで中共中央対外連絡部および国務院外交部などの外交畑で主として活躍した呉学謙、喬石、銭其△深−水+王などの高級幹部グループを指す。第二には、第一の「上海グループ」に江沢民、朱鎔基、呉邦国、黄菊など上海出身の幹部を含めて用いる場合もある。そこで混乱を避けるために前者を単に「上海グループ」、後者を「大上海グループ」と称することにする。
 まず、はじめに「上海グループ」の存在について説明しよう。これは建国前の上海にあった中共下部組織で活躍した大学生と中学生(ここの中学生は中国の学制による中学生、日本の高校生に当たる)のグループである。彼らは、五〇年代あたりから中共中央対外連絡部や国務院の外交部に集中し、さらに八〇年代から次々に中央政治局委員に抜擢された。第13期中共中央政治局委員(一四名)では喬石と呉学謙の二名、第14 期中共中央政治局委員(二〇名)では喬石と銭其△の二名、さらに第15期中共中央政治局委員(二二名)では尉健行と銭其△の二名が「上海グループ」の領袖である。
 
      表1 建国前夜における上海学生運動の指導者
中共上海市委員会委員───────────陳偉達(45. 8 〜45.10)
同委員───────────呉学謙(48. 春〜47. 9)
学生運動委員会委員────────────呉学謙(44.7〜45.9)
学生運動委員会副書記───────────呉学謙(46. 春〜49.2)
(一時代理書記を担当)                     
同委員───────────銭李仁(48. 7 〜49. 2)
区委員会の3の委員────────────呉学謙(40〜41)   
区委員会の4の委員────────────薛 駒(39.冬〜40)
区委員会の4の書記────────────薛 駒(40.7〜41)  
区委員会の1の委員────────────喬 石(45. 夏〜45)
区委員会の2の書記────────────銭李仁(45. 3 〜45)
男子中学区委1委員────────────喬 石(45. 8 〜46)
男子中学区委2書記────────────銭李仁(45. 8 〜47. 2)
男子中学区委3副書記───────────喬 石(46. 7 〜47.2)
中学工作委員会委員────────────銭李仁(47. 2 〜47末)
男子中学区委委員─────────────銭其△(48. 初〜49. 2)
上海学生救亡協会党団委員─────────陳偉達(37. 9 〜38. 8)
上海市学生連合会党組書記─────────銭李仁(47.11 〜49. 5)
同メンバー────────────────朱 良(47. 5 〜49. 5)
 
注:1)男子中学区委1は、47年2月に中学区委を解散して中学工作委を設立、
   同年末に中学工作委を解散して男子中学区委1〜3を設立。
  2)上海学生救亡協会=中共が直接指導した進歩的大学・高校生の外郭団体
   で、党団は同グループ指導機構内の党指導グループを指す。
  3)上海市学生連合会=中共が直接指導した学生団体で、党組は同グループ
   指導機構における党指導グループを指す。
 
 『中国共産党上海市組織史資料』から、建国前夜の上海学生運動を指導して最近まで目覚ましい活躍をした指導者を抜き出すと表1のとおりになる。
 表1に記した人物の外にも「上海グループ」に属する者がいる。
 九三年から九七年まで中共中央対外連絡部部長を担当した李淑錚女史は、建国前の四五年に入党して上海の学生運動を指導、建国後は銭其△と同様にモスクワのソ連共青団中央団校で学び、帰国後は一貫して共青団の国際連絡部と中共中央対外連絡部で活躍している。
 また、尉健行は四七年に上海光華大学付属中学校に入学しているが、四九年に共産党に入党しているから、喬石、呉学謙、銭其△などの指導下で学生運動に参加したと見て間違いない。尉健行はその後、大連工学院で学び、東北の工場で働いていたが、八三年に中華全国総工会副主席に抜擢された翌年、「上海グループ」の統帥の喬石が部長を担当する中共中央組織部副部長に転任、翌八五年に同部長に昇任している。さらに八七年には国務院監察部部長に転任、九二年には喬石の後を継いで中央紀律検査委書記に就任、九七年第一五期中央政治局常務委員に選出され、中央紀律検査委書記にも再選されている。九七年は喬石が中央政治局常務委員から引退した年であり、尉健行が再度喬石の後を継いだ形である。
「上海グループ」は、もう一つ共産主義青年団グループが絡む。呉学謙は五三年から文化大革命まで共産主義青年団で胡耀邦の下で働いた、いわゆる共青団人脈の代表的存在であった。胡耀邦亡きあとは一般に胡啓立、呉学謙、喬石あたりが共青団グループの中心と見られてきた(共青団グループとは共青団中央の指導機関に参加した者をいう)。これは文革後に胡耀邦などの改革派が、急速な発展を実現させるために海外の事情に通じた「上海グループ」を積極的に抜擢したという事情があろう。
一方、「上海グループ」と中国外交部門との関係は、「上海グループ」の責任ではなかろう。建国後の中国外交は当初周恩来総理が自ら指導したが、内政全般の責任を負う関係から外交までは目が届かなくなり、五八年当時上海市長を担当していた陳毅に外交部長を押しつけた。何の準備もなしに中国外交の全権を任せられた陳毅は、外交の人材をかつて自分が指揮した第三野戦軍と上海の幹部に頼ったのは自然の成り行きである。上海は建国前から中国最大の都市として外国との接触も多く、外国の事情・習慣にも通じて語学にも優れた人材が比較的豊富に揃っていた。そのために中国の外交部門においては、建国当初から上海閥が形成されたわけである。
 以上のような中央高層における「上海グループ」の存在を考えると、江沢民、朱鎔基、呉邦国、黄菊、丁関根ら上海出身者全員を加えた「大上海グループ」との関連が問題になる。
 事実、江沢民は上海の学生時代に彼らの指導の下で活動している。朱鎔基は上海から中央に抜擢されている。呉邦国は上海文化圏に含まれる安徽省出身で、六七年から九四年に中央に抜擢されるまで上海で活動し、黄菊も上海の隣の浙江省の出身で、六三年に清華大学を出てから現在まで上海で活動している。また、丁関根は上海文化圏の江蘇省出身で上海交通大学を出ている。
 中共中央政治局における「大上海グープ」は、この六名に先の「上海グループ」二名に加えて合計八名となる。中共中央政治局委員全二二名中の八名であるから上海方言で話すことができる者が三分の一以上を越すことになる。「大上海グループ」の存在を問題にするものが出てくるのも当然のことである。自己の勢力がまだ弱体な江沢民は、この「大上海グループ」に依拠して、中共中央において力を得ていると見ることができるだろう。
(以上は三菱総合研究所編『中国最高指導者WHO,S WHO 一九九九年版』〔蒼蒼社、九九年四月十日刊、本体価格二七〇〇円〕の第T部第二章からの抜粋)                  



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中国的なるものを考える21
福本勝清(明治大学助教授)

省境について(続一)


   前回、省境が行政的な境界であったとしても、統治されている民衆には必ずしも境界であるとは限らないという話を述べた。具体的にあげたのは、陝西・四川の例である。両省の省境には大巴山(この場合の山は山脈や山地のこと)があるが、文化的な境界はむしろその北にある秦嶺山脈にある。秦嶺の北を関中、南を漢中と呼ぶが、漢中社会はむしろ四川的なのである。
 民国期の漢中については、陳翰笙「破産中的漢中的貧農」(一九三二年十二月)が参考になる。同人には「崩壊中的関中的小農経済」(一九三二年十月)もあり、同じ陝西省にありながら対照的な両社会を比較することができる。
 漢中は漢水の上流地帯であり、その中央を西から東へ漢水が流れている。長江流域に属す。黄土地帯に属する関中に比し、黄土が少なく、灌漑を利用した水稲栽培が主力であった。この点において、関中が他の華北農村と同じく小麦地帯に属するのとは、様子を異にしている。漢水両岸に水稲を持ち込んだのは、十八世紀から十九世紀初頭に、湘、鄂、川三省から流れ込み、田畑を開墾した難民たちらしく、陝南が華中に属するのも、地理的もしくは気候的要因のほかに、そのような歴史的事情が大きく影響しているのだろう。
 関中が他の華北農村と同じように、自作農が比較的多い社会であったのに対し、漢中は四川などと同様、小作民が圧倒的な多数を占めており、地主・小作関係が厳しい社会であった。ここにも、華北と華中の対照がある。両地区は、一九二〇年代末には、いずれも軍閥混戦と軍閥の苛斂誅求に苦しめられることになり、どちらの農民が幸福であったのかを言うことはできない。
 一九三二年末、突如、川北に現れた紅軍第四方面軍は、そこに根拠地を築くが、その領域は陝南側にも伸びる。川北根拠地が川陝根拠地と言われる所以は、単に領域が陝西側まで拡大したということだけではなく、川北にできたものが陝南側に受け入れられる素地がもともとあったということに注目しなければならないと考える。
 話はそれるが、陳翰笙は中央研究院の社会科学研究所副所長であり、一九三〇年代の農村社会調査を主導し、銭俊瑞や薛暮橋、孫冶方ら左翼インテリを指導した人物として知られる。彼自身は一九二六年、李大●金+利−禾の薦めでコミンテルンのエージェントになっており、コミンテルン籍のコミュニストであった。リヒアルト・ゾルゲが中国に派遣されていたおりには、ゾルゲは尾崎秀実を通して連絡を取り合っており、中国におけるゾルゲ・チームのメンバーであった可能性もある。また、尾崎秀実の尋問調書には、尾崎にスメドレーを紹介した(かもしれない)人物としても登場する。
 川陝省境地帯にふさわしいコミュニストといえば、武志平を忘れることはできない。川北に出現した紅四方面軍が根拠地を陝南側へと拡大しつつあった一九三三年、陝西を支配していた楊虎城の第十七路軍と紅四方面軍との間で、相互不可侵の協定が結ばれようとしていた。国民党中央軍と対峙関係にあった西北軍としては、蒋介石に命じられた紅軍討伐によって自らの力を消耗させることを望んでいなかった。さらに、楊虎城の周囲には宋綺雲(西北文化日報編集長)や張漢民(警備第三旅旅長)といった共産党員が残っており、中共との間の橋渡し役が揃っていた。中共は楊虎城と親しい杜斌丞を通して秘密協定が双方に利益があることを悟らせることに成功する。
 武志平を双方の連絡役に選んだのは宋綺雲であった。武志平は旧軍隊の出身。十七路軍に身を投じた後、宋綺雲と知り合い、その教えを受ける。武が陝甘各地の軍閥軍に連絡役として派遣された時などは、宋綺雲は彼にその土地の様子、軍事地理、軍と民の関係、回族部隊などについて詳しく報告させ、それを整理し上部組織(中共中央軍委駐滬弁事処)に届けていた。
 一九三三年初め、武志平は中共に入党する。所属は宋綺雲と同じく特科即ち情報系統であり、西安の責任者は王佑民、上部組織は中央軍委白区残留組織(駐滬弁事処)であり、指導者は王世英であった。
 三三年春、武志平は西北軍の一翼孫蔚如部に従い漢中に着いた。公開の身分は西北軍参謀であった。そこで孫蔚如と打ち合わせをした後、三三年五月、彼は赤十字会のメンバーを装って南鄭を出発、大巴山脈に入った。回想によれば、漢中城から紅四方面軍総部の所在地、通江城までは二百五十キロ以上もあり、北側を十七路軍が、南側を紅四方面軍がおさえていたとはいえ、大巴山中の五〇〜百キロは土匪が自由に跋扈する、文字どおりの「三不管」地帯であった。彼は川陝省境の小鎮西河口で、この一帯に勢力を張っている民団徐耀明の部下と知り合いになる。この男の口から、彼より前、この地区を通って川北根拠地に派遣された張含輝(元山東省委書記)が、任務の帰途、民団に捕まり、西河口近くで惨殺されたことを知らされる。
 徐耀明の部隊を何とか離れた後、東に向かうが、危険な山道を抜け出そうとしたところ、今度は西郷黒風洞の土匪袁剛の部下に捕まってしまう。馬児岩事件の後であり、ぴりぴりしていた袁剛の手により危うく殺されそうになるが、徐耀明の名刺(名片)を見つけた袁剛は彼に謝り、一転客として扱われる。黒風洞に二晩泊まった後、死地を脱した武志平は、ようやく根拠地の前線にたどり着く。道中、道案内もなかなか見つからなかったので、一人で間道や道なき道を辿り、山を越え谷を渡らなければならなかった。また、獣に襲われないようにと大きな松樹に登って夜を明かしたこともあった。彼によれば、この一帯では、赤十字の通行証や会員証よりも徐耀明の名刺の方が効き目があり、紅幇の合い言葉の方が霊験あらたかであった。
 その後、三五年四月、紅四方面軍が川陝地区を撤収し、長征に出発するまでの二年間、武志平は陝南と川北を行き来し、相互不可侵の協定が遵守されるよう骨を折ったほか、川北紅軍が必要とする軍需物資、地図や医薬品、無線器材などを調達し、根拠地に届けている。また、袁剛をそそのかし、徐耀明を始末することにも成功する。が、これだけなら、普通の優秀な党員とどこが違うのということになる。実は、武志平は陝南から川北間の往来をできるだけ安全なものにするため、土地の顔役の娘と結婚し、その顔を利用していたらしい。つまり川陝省境の匪のネットワークを紅軍のために使っていたのである。その娘の父が土豪だったのか哥老会のボスだったのか、記入したカードを紛失してしまいはっきりしない。『中国革命を駆け抜けたアウトローたち』では、省境地帯の匪のネットワークの例として取り上げるつもりであったが、結局カードは見つからないままであった。
 省境のなかには省境地帯に住む人々の間に、かえって一体感があり、それが「三不管」や匪のネットワークを生んだり、或いは民国期のようにそこに根拠地が樹立されやすい環境をつくっていた。たとえば、鄂豫皖根拠地を構成する豫東南地区の場合がそうである。大別山地に築かれた鄂豫皖根拠地は、鄂東北、豫東南、皖西の三地区からなっていた。革命史の上では、悪名高い張国〇壽+烈−列が専制の大権を振い、大粛清を行ったことで、暗いイメージが付きまとっているが、それは土地の革命家たちの責任ではないだろう。
 大別山北麓に広がる豫東南地区は、河南省に属するとはいえ、淮河の南にあり、もはや華北ではない。他の河南各地、豫北、豫東、豫西、豫西南(南陽地区)らがすべてが、小麦地帯に属し、華北的な相貌を持つのに対し、一人豫東南だけは、水稲地帯に属し、華中的なのである。一九二〇年代に輩出した豫東南の革命家たちが、形式上は開封の河南省委に所属していたとしても、実際の行動の上では、同じ淮河南岸の安徽皖西地区の革命家たちと共闘したり、或いは大別山南麓の湖北黄安・麻城地区の革命家たちと親交を結び、指導を仰いでいたことは当然といえば当然のことであった。
 湖南西部の山岳地帯に住む人々、湘西人たちが、平原部の漢人を長沙人と呼び、対抗意識を燃やしていたが、彼らは隣接する鄂西(湖北西部)や四川△水+倍−人陵地区、黔東(貴州東部)の住民たちと親しい繋がりを持っていた。それが賀龍らの湘鄂川黔根拠地の由来であるといってよいだろう。土地革命期(一九二七〜一九三七)最大の根拠地である中央根拠地は□章+灸−火+貢南(江西南部)、●門+虫西(福建西部)に築かれたが、この両地区が、広東東江地区とともに、客家の大三角地帯を構成していることはあまりにも有名で、ここでこれ以上触れるには及ばないだろう。(未完)  


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逆耳順耳 

   矢吹 晋

恥の上塗りの話

 
 九九年一月某日、同志社大学経済学部の篠原総一教授の招きで同大学へ行き、九八年の中国経済と九九年の展望についてのセミナーをやった日の出来事である。
 昼過ぎ、新幹線に乗るべく、ペルー大使館事件のシプリアーニ司教もどきのカートを引いて、玉川学園で小田急に一駅乗り、町田駅でJR横浜線に乗り換え、新横浜で降りる。ハプニングはそのとき起こった。
 シプリアーニ・カートは、確かに引いたが、網棚に載せた、背負い鞄を車内に忘れた。京都行きの新幹線の発車時間まであと三〇分はあるが、鞄を追跡したのでは、約束のセミナーに遅れること必至だ。問題はその鞄にセミナー用のレジュメが入っていること。まあ、レジュメがなくともおよそのことは頭にはいっているが、やはり図表などは痛い。いや、携帯パソコンに資料は入っているから、それをコピーすれば、レジュメの問題は解決できる。
 とっさに以上の判断ができたのは、私としては上出来だが、大事な鞄を忘れるのは、やはりボケ以外のものではない。新横浜駅の横浜線窓口は、駅員が一人しかおらず、数人の行列。時間は刻々と流れる。ようやく遺失帳簿に必要な事項を書き込み、新幹線に乗る。
 まいった、まいったといいながら、ビールなどを飲んでいると、忘れ物のことはすっかり忘れてうとうと居眠り。雪のため少し遅れて京都着。ただちに同志社大学にタクシーを飛ばし、西村理先生の研究室へ。フロッピーディスクを借りて、レジュメをコピーし、それを同研究室のパソコンで印刷してもらう。
 他方、私は届け出をしたときに教えてもらった新横浜駅の遺失物係に電話するが、誰も出ない(没人接)。京都駅で桜木町の電話を調べてもらったが、これは鉄道専用電話なので、一般の電話からはかけられない役立たずの番号。やむなく一〇四で桜木町を調べて電話すると、「そのような忘れ物は届いていない」とにべもない返事。万事休すか。
 まもなく、篠原教授が奈良県との境界にあるキャンパスから戻り、弁当を食べ、セミナーが始まる。セミナー後、烏丸京都ホテルでそばを食い、それからバーで赤ワインを飲む。一一時すぎ、部屋へ。
 あまりにも肩が凝ったので、マッサージを頼む。広州から来た中医の腕は確かで、すっかりリラックス。そのまま寝込む。
 翌朝、自宅に電話すると、妻が呆れ声。妻の不機嫌な声をすっかり忘れて、メールを接続したところ、初体験なのだが、一発成功。メール三通を受け取る。気分がいいね。と思って、モジュラーを電話に繋ぎ直してまもなく、リンリン。おかしいね。この部屋番号を知ってる者はないはず。今朝もホテルの番号は伝えなかったはず。
 妻の声でした。「磯子駅から、鞄が届いている」との連絡があった。なるほど、妻は一〇四でホテルを調べた由(カラスマの名は、一度口にしたらしい。私は記憶にないが、妻は覚えていた。ここでも自信喪失)。
 明日までは磯子駅で保管するが、その間に受けとれるかという趣旨である。今日は大阪に行く用事があるから、妻に引き取りを依頼。鞄の中身を伝える。
 ということでめでたし、めでたしだが、このボケ病は今後ますます進行するはずであるから、行く末が思いやられる。
 前から、三つのうち一つは必ず忘れる、という「三分の一の法則」には気づいていた。今回明らかになったのは、カートとコート、そして鞄と数えれば、従来の法則にあてはまるが、コートは着ていて、脱いで、その後着て、と数えると、カートと鞄の二つであり、その一方を忘れたのであるから、「二分の一の法則」に発展した可能性がある。脳細胞の崩壊は恐るべき進展ぶりではないのか。
 
『現代中国国有企業U』紹介

 このたび吉備国際大学学長萬成博教授から『現代中国国有企業U』(東京・白桃書房、三〇八頁、一九九九年三月一日刊)を贈っていただいた。
 昨年一〇月一四日、私は内外情勢調査会の招きで倉敷のアイビー・スクェアで中国経済についての講演を行った。私の未熟な議論に熱心に耳を傾けて下さった聴衆のなかに萬成学長がおられた。その席で、『現代中国国有企業』(東京・白桃書房、三〇〇頁、一九九七年九月二六日刊)を頂戴したが、今回の本は、その続編である。これら二冊の本は、吉備大学社会学部と中国広東省中山大学社会学系、中国人民大学社会学系、中国国家科学技術委員会に所属する研究者の共同研究に基づく報告書である。
 今回の第二報告書の冒頭に萬成学長は「改革下の中国国有企業」と題した「序論」(一〜二四頁)を執筆している。その第2節は、「対立する評価と研究仮説」(八〜一三頁)を扱っているが、そこで、楽観的見解の一例として、矢吹・ハーナーの共著『[図説]中国の経済 第2版』の見解を検討している。私の見解をこのような形で検討していただいたことに感謝の意を表しつつ、その紹介部分を抜き書きしておく。
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 これまで国有企業の改革についての国家政策を記述してきた。社会主義体制のもとで国有企業を市場経済化し、資本主義化し、また民営化するという中国の大ベンチャーの成否は、世界の注目の的である。ところが中国国有企業の市場経済化の試みに対する評価は中国国有企業の専門研究者のあいだでも分かれている。伝統的な共産主義体制(計画・命令経済)から、市場商品生産体制への移行をロシアと中国において研究したギルバート・ロズマン(Gilbert Rozman、1992)は、政治・経済体制の変化について二つの研究仮説を設定した。ひとつは楽観的モデルであり、他は悲観的モデルである。
 仮説1)は、「政治指導者が上からの改革によって市場経済化を開始し、企業が国家機関に協力して、その後に時代遅れとなった国家指導と保護を縮小し、経営者が企業家精神をもち、労働者も近代的な勤労の価値観を持つことによって新しい市場経済に適応して、最終的に経済的成功の報酬を享受する」というモデルである。
 仮説2)は、その反対である。「上からの命令による市場経済化は、実際には企業における政治的指導をますます強化し、経営者も労働者も新しい市場的価値観に曖昧な態度をとり、市場経済を混乱させる」。
 ロズマンはこの二つのモデルをもって一九九〇年前後に始まったロシアと中国の市場経済化を対比・分析しようとした。われわれは以下においてロズマンの仮説に基づきながら、中国国家国有企業の市場化政策と現実を評価してみる。
 
楽観的見解:矢吹晋教授
 矢吹教授は中国の政治と経済の動きを分析する多くの研究著作を発表している。同教授は第15回党大会における江沢民主席の政治報告を次のように論評している。
 「今回の報告は過去一〇年にわたって模索してきた市場経済化への移行の道筋を集大成したものである。株式制についての議論であれ、それを裏付ける公有制についての解釈であれ、これまで幾つかの都市で、幾つかの国有企業で実験してきたものを総括し、これを党大会で正式に追認し、実験段階から全面的移行の段階へ移そうとするものである。………この意味で目新しい提案はないとしても、中国共産党が国有企業の“安楽死作戦”に着手することは大きな試みであり、その成否は刮目に値する」(矢吹晋「国有企業の安楽死作戦に本格着手」『世界週報』時事通信社、一九九七年一〇月一四日号、九−一〇頁)。
 仮説1)にしたがいながら、矢吹教授の中国国有企業の改革にたいする評価を考察する。一九七八年の改革開放の開始以来、中国国有工業企業の総生産額に占める割合は、年ごとに減少している。一九九五年には三二・六%に減っている。つまり三分の二がすでに市場経済に転換していることを指摘した。
 さらに国有企業は他の企業形態にくらべて過剰な労働力を雇用していることは、中国の内部でもまた外部でも広く信じられている。
 ところが中国雇用統計を正確に調べた上で、矢吹教授は国有企業の一九九五年の人員は、すでに三一・六%まで減少していることを最近の著作で報告した(矢吹晋、S・M・ハーナー著『図説・中国の経済(第2版)』東京、蒼蒼社、一九九八年、一四四頁)。
 したがって国有企業の地位は、他の所有制企業(集団、私営、個人、連合、経営、株式、外資系)にくらべて、総生産額も従業員数もすでに大幅に後退している。
 国有企業部門における赤字経営は、一九八九年の天安門事件以降に顕著になった現象である。国有企業の多くがなぜ赤字に転落したかについては、その経営の不能率に帰せられるのが常識であるが、矢吹教授は一九九五年の第三次全国工業センサスに基づいて中国工業の赤字状況を記述している。国有企業八・八万社のうち赤字企業は、一九九五年には約三万社である。すなわち全体の三分の一である。中国では三社に一社が赤字である。これを企業規模別に見ると大型は三割弱、中型と小型は三割強である。金額ベースで見ると大型企業の赤字は中小型企業にくらべて少ない。
 同教授は中国国有企業の赤字問題は主として中型以下の企業の問題であるとしている(上掲書、一四八頁)。
 外資企業や郷鎮企業とくらべて国有企業の経営を困難にさせる理由として、矢吹教授は中国社会主義の特殊事情をあげる。国有企業では、住宅、医療、学校などの費用が、総投資額の一割五分から二割を占めている。退職した労働者も社宅に居住している。約三割の余剰人員を抱え、さらに職員・労働者総数の二五%に相当する離職者(元幹部)と退職者(元労働者)の人件費を負担している。現役労働者に対する賃金は、余剰一人員と退職者に対するそれと半々である。これでは国有企業の経営は困難にならざるをえない。
 これらの費用は市場経済社会では国や地方政府の負担である。国有企業の赤字は市場化路線の進行につれて現在進められている国の社会保障政策によって解決されるべき問題である。
 国有企業改革は政府の計画通りに進行しているか。矢吹教授の国有企業の改革のシナリオは、別の研究報告とも一致しているのでそれを引用しておく。
 「一九九五年一〇月には選別淘汰(抓大放小)の方針が打ち出された。基幹部門の大型国有企業(一〇〇〇社)については、強力な改革と支援措置を実施し経営活性化を図る。他方、一般中型は資産混合制所有企業に、小型企業は段階的に非国有化、斜陽企業は整理されることとなった。この結果、大型企業では政府の支援と外資との提携をテコに経営改善が進むが、中小は経営困難に直面し、大方は民営化の方向となるとみられる。国有企業の再編、改組(非国有化)の中で、国有企業のシェア低下はいっそう進んでいくと考えられる( 経済企画庁経済研究所編『二一世紀中国のシナリオ』中国の将来とアジア太平洋経済研究会報告、大蔵省印刷局、一九九七年、五一頁)。
 中国の国有企業の前途には、多くの不確実性が存在するが、上に引用した「二一世紀の中国のシナリオ』を描いた経済企画庁経済研究所編「中国の将来とアジア太平洋経済」研究報告書においても、また矢吹教授も中国は今後二〇一〇年までは市場経済への移行を達成すると展望している。


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