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第84号


現実を直視できない中国、歴史を直視できない日本 高井潔司(読売新聞論説委員)
中国的なるものを考える21 省境について 前編 福本勝清(明治大学助教授)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋



現状を直視できない中国、
歴史を直視できない日本

      高井 潔司(読売新聞論説委員)


 「中国元首として有史以来初の来日」と注目された江沢民国家主席の訪問は滞在中、中国侵略に対する日本の反省、謝罪が不十分であるとの趣旨の発言を繰り返したため、日本の対中世論を悪化させる結果となった。当面、関係の冷え込みは避けられないだろう。局面の転換には、今回の訪問で締結された長期的対話の枠組みである「友好協力パートナーシップ」の精神に立ち帰ることだ。

答えられなかった記者の質問 
 「江主席はこれまで歴史認識について繰り返し話されたので、本日は日本の現状について、お聞きしたい。私は、現在の日本は、歴史の反省の下に、平和と経済的な繁栄を築いて来たと思います。主席は、六〇年代以降、何度も日本に来られているが、日本の現状について、どう見ておられるのか。本当に日本で軍国主義復活の兆しを感じることがありますか」
 江沢民の東京での最後の公式行事となった日本記者クラブでの記者会見で、筆者はこう質問した。
 未来志向の長期的な関係を構築するには、江沢民が滞在中、何度も繰り返したように、歴史に対する正しい評価が必要だ。しかし、日中間の歴史は侵略戦争だけではない。二千年にわたる歴史もあれば、国交正常化以来とりわけA小平の来日以来の歴史もある。また、両国の現状をどう評価し合うかということも、今後の関係構築の上で極めて重要な意味を持っている。日本の政治大国化の流れを軍国主義復活と読んだり、中国の改革・開放に伴う経済発展を地域の脅威と見るようでは、長期的関係を築けるはずがない。その意味では、現状認識は歴史認識より重要であるともいえよう。
 質問に対し、江沢民はしばらく想定問答集の回答メモを探していたようだったが、結局、以下のような答えしか返ってこなかった。
 「私が指摘しなければならないのは、日本国内の高い地位の人を含む一部の人が、しばしば歴史を歪曲し、侵略を美化し、中国人民を含むアジア人民の感情を傷つけていることである。これに対して、われわれは反応を示さざるを得ない……」
 これでは、質問の意味をすり替え、歴史認識について答えたにすぎない。中国政府の広報誌『北京週報』などは、質問まで「歴史認識再提起の原因について」と、ねじ曲げて報じているから、あきれてしまう。

答えなかった本当の理由 

 実は訪日の直前直後の日本の新聞を丹念に読んでみると、なぜこうした答えしかできなかったのか、という本当の理由がわかってくる。
 来日当日、つまり昨年十一月二十五日付の『日本経済新聞』に、こんな記事があった。
 「二十四日までの両国の協議の結果、日本国憲法に基づく平和国家としての日本の発展と中国の改革・開放政策を相互に評価する内容が固まった」
 この記事を読んで、私は「わが意を得たり」と喜んだ。というのは、以前から私は現状評価こそ根本的な問題であって、歴史問題でぎくしゃくするのは、実は現状に対する不信感、警戒感(例えば大国化を軍国主義復活であるとか、脅威であると決め付ける現状認識)が背景にあり、歴史問題を、現状に対する牽制の材料として、利用していると指摘してきたからだ[注1]。日経の記事を読んで、ようやく当局者も現状評価に踏み込んできたか、これで長期的な対話の枠組みも可能になるだろう、と感じたものだ。
 この記事は、相互の現状評価の背景に「日本が戦争放棄や専守防衛、非核三原則などを順守すれば、軍国主義が再燃する可能性はなく『両国関係を楽観できる』(陳健駐日中国大使)との現実的な判断があるものとみられる」と、分析している。
 しかし、首脳会談を経て、発表された共同宣言には、そのような下りは全く盛り込まれていなかった。
 といっても、日経の記事は単なる観測記事ではなかった。

過去と現状をめぐる舞台裏の攻防 

 その経過を示すのは二十九日付の『朝日新聞』だ。
 「二十四日夕、外務省での外相会談。『おわびを首相(小淵)が口頭で述べる。侵略は文書(共同宣言)で書き込みたい』。高村外相は官邸側から伝えられた最後のカードを切った。唐家中国外相は拒否しなかったが、主席の意向を確認したいとして即答しなかった。唐外相はこの時『江主席は世代が違うのでこれでいいかどうかわからない』と発言、この問題の最終判断に唐外相が力を持っていないことをうかがわせたという」
 つまり、日本側の最後のカードを拒否したのは江沢民だった。重要なのは、朝日の記事のこの後の部分だ。
 「(こうして)『おわび』が文書に入らない見通しとなり、日本が求めていた『中国側が戦後の日本が平和国家としての道を堅持してきたことを高く評価する』という記述は文書から削られた」  要するに、現状認識と歴史認識が相打ちとなってしまったのだ。
 共同宣言は発表されたものの、署名されなかった。両国のスポークスマンとも、署名の有無は宣言の意義を左右しないと冷静さを装っているが、江沢民の歴史認識へのこだわりは、日本の世論に対して後味の悪さを残しただけでなく、首脳会談の進行そのものにも大きな影響を与えた。会談は、歴史問題と台湾問題に大半の時間を費やした。共同宣言では、朝鮮半島や核軍縮、国連の改革、環境の保護など地域問題や地球規模の問題にも言及され、日中関係は二国間だけでなく、地球規模の問題でも、問題解決のための協力関係を構築したとうたわれたが、それはあくまで建て前と理想であって、現実は歴史問題に引きずられ、そこまで話し合いが進展しなかったのが真相である。

独裁者になった江沢民

 なぜ江沢民はここまで歴史にこだわったのか。日本の新聞報道の一般的な説明では、主席の国内的な権力基盤が弱く、日本に譲歩したような印象を与えると軍や保守派に説明できない、と書いているところが多かった。だが、その根拠を説明した記事は一本もない。要するに、それは憶測報道にすぎない。同じ憶測なら、江沢民こそが対日強硬派と考えることも可能なはずだ。
 実際、先に引用した朝日の記事によれば、唐外相も「主席の意向」を聞かなければと言っているし、首脳会談の前日、野中官房長官と江沢民弁公室(党中央弁公庁主任)の曾慶紅(党政治局候補委員)が最終的な詰めを行っているところから見ても、歴史と現状認識の相打ちは、江沢民自身の意思と考えた方が合理的だ。
 さらに、それを裏付けたのは十二月九日付の『産経新聞』報道だ。それによると、江沢民は十月に開かれた台湾の辜振甫海峡基金会理事長との会談で、自身の戦争体験を踏まえながら「『普遍的にいえば、ごく平均的な中国人は日本を痛恨している』と述べたという」。「痛恨」というのは「ひどく憎む」といった意味だ。古森特派員電によると、「この中国人一般の対日感情の描写のすぐあとに『私も日本人を痛恨している』と熱を込めて明言し、自らも日本人への激しい否定的な感情を抱いていることを率直に吐露した」という。
 こうした江沢民の個人的感情が今回の歴史認識拘泥の背景にある。加えて、米中関係の改善によって、自身の外交手腕を過信した江沢民が、強気に出てきたという見方もできよう[注2]。
 江沢民訪問直前の金大中・韓国大統領の来日の際、韓国には過去の植民地支配について、謝罪を文書で明記したことも、中国側を強硬にさせた。韓国以上に被害を被ったのだから、韓国以上の謝罪が必要だというわけだ。だが、国交正常化時や平和友好条約締結時に、それなりに歴史を総括した日中関係と違って、日韓関係では、二国間の文書で総括してこなかった。したがって、同じ時期に来日したからといって、同様の対応となるかどうかは別問題だろう。
 歴史問題をめぐる江主席の個人的な感情は理解できる。彼自身、当時の日本軍国主義の脅威と被害を直接被った人間の一人であるからだ[注3]。また歴史を反省しない人々が日本にいるのも事実だ。
 だが、一部の人々の発言を、日本全体の意思であるかのような言い方をするのはどうか。江沢民は、日中友好七団体の歓迎レセプションの席でも、歴史問題をぶっている。友好団体に参加している人の多くは、過去の侵略戦争に、贖罪意識を持ち、その償いのため友好運動を続けている。この人達に対して、説教することにどんな意味があるのか。逆効果しかないだろう。
 自身の発言が日本でどのようなリアクションを招くのか、一国の指導者として、個人的な感情をぶつけることがいいのか悪いのか──といった点を考えた場合、日本での彼の言動は不適切であったと言わざるを得ない。
 日本人だけでなく、中国の人々の中にも「やり過ぎ」と考える人がいるようだ。江沢民の直後に来日した私の中国の知り合いも「上海でテレビを見ていて、これは日本人を不愉快にさせただろうと心配していた。やはりそうか」と日中関係の将来を案じていた。これは知り合い一人の見方ではない。
 読売新聞の十二月十八日付夕刊の「風」の欄に、上海・高山特派員が「中国の日本対抗意識、報道と市民に温度差」と題して、「ある日本研究者は、江主席の訪日に触れ、『中国でも古い世代には歴史にこだわらなければならない事情がある。日本に軍国主義が復活するとは思えず、今後十年もすれば歴史問題をめぐるごたごたは自然になくなる』という」と書いている。

不幸な阿Q式勝利法

 それにしても奇妙な現象は、これほど日本の世論を冷ました中国主席の訪日について、中国、日本、それに台湾までもが、それぞれ自分の都合のよいように、勝った、勝った、成果があったかのように宣伝し始めたことだ。
 中国は、きちんと言うべきことを言った、その上で、長期的な話し合いの枠組みを作ったし、円借款など具体的な成果もあったという。早稲田大学の講演など江沢民の日本での歴史認識問題の発言を大きく扱い、共同宣言などは小さく扱うという中国側の報道にも、その姿勢が現れている(その実、日本の中国熱をすっかり冷ましてしまった)。
 日本では、謝罪の明記をはね付け、台湾問題をめぐる「三つのノー(二つの中国、台湾独立、台湾の国連加盟を支持しない)」についても、文書化するようにとの中国側の要求を拒否した点で、日本外交の面目を施したとの声が出ている(その実、取るものは取られ、不信感を高め、日中関係は冷めた)。
 一方、台湾では、クリントン米大統領が訪中した際、表明した「三つのノー」を、日本政府が受け入れなかったことに“勝利”を見い出している(その実、共同宣言で、日本政府は「中国は一つである」「引き続き台湾とは民間及び地域的な往来を維持する」と、従来より明確な表現で、台湾問題への立場を表明し、将来の台湾との関係拡大にタガをはめた)。
 三者とも自分の都合のよい部分を取り出して、成果を主張しているだけだ。まるで中国の文豪、魯迅が小説『阿Q正伝』の中で痛烈に皮肉った「阿Q式勝利法」を実践しているのではないか。
 見出し ,段取り 1,行取り 2,ゴシック,文字サイズ 9ポ,中央揃え 何をもって評価の基準とするか  来日の評価には、日中両国にとって、いま何が必要であり、これからどういう関係を作る必要があるのか、それが今回の来日でどこまで達成されたのか──を検証することが重要ではないか。
 参考になるのは、今日の中国の発展を切り開いた、〇(登+都−者)小平(当時、党副主席兼副首相)のちょうど二十年前の日本訪問だ。二十年前といえば、改革・開放路線転換と時を同じくしていることに注目したい。〇小平は平和友好条約の締結のため来日した。ちなみに日本訪問と相前後して、中国はアメリカとの国交を正常化する。当時の中国の最大の課題は、改革開放路線を軌道に乗せることにあり、一連の外交は、路線推進の手段として、日本、アメリカからの支援を引き出すことに狙いがあったことを明確に示している。
 そのために、〇小平は歴史問題をどう扱ったのか。昭和天皇との会見で、「今度の条約は想像以上に大変意義深いものです。過ぎ去ったものは過去のものとして、前向きに今後、両国の平和関係を建設したいと思います」と述べている。そして天皇が「両国には長い歴史があり、その間には一時不幸な出来事もありましたが、お話のように、過ぎ去ったことでもあり、今度の条約ができて、これから長く平和な両国の親善を期待しています」と述べると、〇小平は「全く陛下のおっしゃる通り、まったく同感です」と答えた[注4]。
 この時点で歴史は総括されたというつもりはないが、江沢民のように「歴史は曲げられない原則の問題」と、振り回すのはどうか。〇小平は少なくともそのようなやり方はしなかった。いかにも実事求是(実際に即して何が正しいかを判断し、行動する)の精神を提唱する〇小平らしい対応だ。
 〇小平は記者会見の席で、近代化の重点方針を聞かれて、「顔が醜いのに美人のようにもったいぶっても仕方がない。正直に遅れを認めることによって希望が生まれる。もう一つは学習すること。日本をはじめ発達しているすべての国に教えてもらいたい」と、率直に語り、日本に中国ブームを起こした。

来日の課題は協調外交の総仕上げ

   では江沢民の来日の課題は何だったのか。それには中国のここ数年来の内政、外交の動きを振り返る必要がある。ここでは簡単に触れるにとどめるが、中国の改革・開放は二十年を経過し、八〇年に〇小平が掲げた二〇〇〇年までにGNPを四倍にするという目標を繰上げ達成したものの、沿海地区に育成した輸出加工型産業の頭打ち、沿海と内陸の格差の拡大など、一層の発展を図るには第二段階の改革・開放が必要になっている。内陸地区を全面的に開放・開発し、内需を拡大させる一方、沿海地区の労働集約型産業を技術集約型に転換し、国際的競争力のある企業集団を育成していく必要に迫られている[注5]。
 退陣する李鵬首相と同じ年齢(一九二八年生まれ)の朱鎔基副首相を首相に昇格させたのもこのためだ。だが、切り札の朱鎔基でさえ、アジアの金融危機によって一段と厳しくなった経済を好転させるのは難しい状況だ。
 内陸の開発、内需の拡大といっても、国内資金は不足しているから、外資の導入と両輪で進めることによって初めて可能になる。そのためには、安定した国際的な環境が必要であり、一層の資本、技術の導入を進めなければならない。ここ数年来、欧米、ロシア、東南アジアの大国や連合体と、協力パートナーシップを次々と結んでいったのも、そうした国内的な背景がある。
 パートナーシップ締結は日本が最後になった。しかし、それは日本はずしの試みではなく、利害関係が最も強く、それだけに問題が複雑なために先送りされてきたのであり、むしろ、中国の協調外交の総仕上げであった。
 一方、日本にとっても、政治、外交的には大国化し、ますますアジア・太平洋地域での発言力を高める中国と協調することによって、朝鮮半島の緊張緩和など地域の安定と平和を図っていく必要がある。経済面でも、低迷する両国経済の活性化のためにも、停滞する貿易、投資の拡大策を協議する必要があった[注6]。実際、共同宣言と同時に明らかにされた「二十一世紀にむけた協力強化に関する共同プレス発表」では、そうした協力事業の数々が盛り込まれている。江沢民の来日は、単なる儀礼的な友好訪問ではなく、〇小平同様、今後の中国の発展戦略には不可欠の旅だった。
 不満を残しながらも、共同宣言をまとめたのは、両首脳の努力というよりも、まとめなければならない客観情勢が存在していたからだろう。東西冷戦は終結したが、アジアにおいては紛争と対立は続いている。アジアの金融危機克服の先行きは見えない。一方、ヨーロッパでは、ユーロが誕生し、統合に向けて着々と力をつけている。アジアを担う日中両国が歴史問題をめぐって、にらみ合っている場合であろうか。

日本は反省もおわびもした 

 歴史問題が重要であると中国側が認識する以上、重要であることを敢えて否定しないが、〇小平のように「過去の問題」として処理できることも考えれば、一種の面子の問題ともいえよう。少なくとも、首脳会談での「歴史について突っ込んで話せば話すほど未来が開ける」という江沢民の発言は、考え違いも甚だしい。
 なぜなら、日本側は反省や謝罪を拒んでいるわけはないからだ。今回、日本側は以前に比べても、明確に反省や謝罪の姿勢を示したし、江沢民自身、首脳会談で、「(小淵)首相の歴史認識と台湾問題に関する発言を真剣にうかがった。よい発言だと思う」と述べている。にもかかわらず、会談後、どこの席でも歴史認識をぶって回ったのは、不可解だ。その結果は、日本の世論の中に、「それでもまだ不満なのか」「中国は歴史認識をカードにしている」「中国は常に歴史問題をぶり返す」との反感を植え付けるだけだった。これでは、〇小平以来の大きな任務を帯びた来日が成功するはずがない。
 最近、あるシンポジウムの席で、在日の有名な中国人教授が、「日本人が先に反省の弁を語れば、中国人は許す。だが、反省していないとわかったら、必ず中国人はひと言、言いたくなる」と発言したのを聞いた。都合の良い時には、問題を持ち出さないが、都合が悪くなると、歴史問題をカードとしてちらつかせる。そうした姿勢こそが、むしろ歴史をあいまいにしてきた原因ではないか。歴史は原則の問題で徹底的にやれという議論も成り立つが、東京裁判を見直せという声もあるほどだから、五十年以上の前の歴史に決着をつけるには、両国内で計り知れない政治的エネルギーが必要だ。それをやる損得勘定表を書いてみれば、〇小平の選択の正しさがわかるはずだ。

出発点は共同宣言に

 もっとも、一部は削られたとはいえ、友好協力パートナーシップの締結を盛り込んだ共同宣言がまとめられたのだから、それほど絶望する必要はないともいえる。
 中国側自身、江沢民のやり過ぎを反省したのか、帰国後は、訪問の成果を歌い上げる報道が目立った。主席の功績を称えるための報道にすぎないという分析もあるが、帰国から十日も過ぎた十二月八日の中国外務省の定例記者会見の冒頭、興味深いやり取りがあった。
 国営新華社通信の記者が「江主席の訪日について、外国の報道では評価が様々だが、コメントを」と切り出した。
 これに対し、外務省スポークスマンは、「世紀の移行という重要な歴史時期に、国家主席として初めて日本を公式訪問した。そして、双方の共同努力によって、今回の訪問は過去を総括し、未来を切り開くという二つの方面で重要な成果を収めた」と答えた。その上で「日本側は宣言と会談において初めて過去の中国侵略を認めた。さらに、中国侵略の戦争によって、中国人民に多大な災難をもたらした点について、深い反省とおわびを表明した。(中略)中国側は日本側がこの約束を守り、中日共同声明と平和友好条約の確定した各項目を原則に照らして、両国の各領域における交流と協力を推進し、新たな発展が得られるよう希望する」と述べた。
 新華社の冒頭質問はいつも当局の見解を表明させるためのヤラセ質問であり、しかも回答が六分間に及ぶという異例の長さであったこと、十日も経ってから再び問題を提起したことを見ても、このやり取りは、中国として改めて訪問に、大きな成果のあったことを強調するのが目的だったといえよう。歴史認識について、どこにも不満を残したような表現が見当たらない。この点からいっても、江沢民のやり過ぎの印象を拭い去りたいとの中国側の意向が読み取れる。
 したがって、江沢民の不適切なパフォーマンスにもかかわらず、共同宣言の意味が十分に両国民に伝わり、協力強化の具体的なプロジェクトが推進されれば、両国の関係発展にとって、それほど落胆する必要がないのかもしれない。

中山服は非礼ではない

 しかし、拙著『21世紀中国の読み方』(蒼蒼社刊)で指摘しているように、中国を巡っては、歪んだ報道の問題もある。江沢民の不適切なパフォーマンスはマスコミの格好の餌食となり、極度に強調されたり、ねじまげられたりして、日本国民の冷めかけている中国熱を一段と冷やした。
 最悪だったのは『週刊新潮』十二月十日号の「宮中晩餐会で江沢民主席の中山服は非礼か」との記事である。外務省関係者の談話として「中国の指導者にとって、中山服というのは(天安門事件のような)そういう厳しい姿勢を示す時に着用するものなんです。外務省内には、“よりによって宮中晩餐会に着てくるとは……”という声が期せずしてあがりましたよ」と書き、手厳しく、その“非礼”を批判した。
 だが、私が日本外務省の高官に取材したところでは、晩餐会に、中山服を民族服として着用してくるよう求めたのは、当の外務省だった。正式な晩餐会では、式服か、民族服を着用することになっており、一昨年十月、江沢民が訪米した際、ホワイトハウスで開かれた晩餐会でも、江沢民は中山服を着て出席している。ちなみに中山服は孫文(中山)が辛亥革命の後、日本の学生服を基に、民族服として考案した。天安門事件の直後、テレビニュースのアナウンサーが中山服を着用したのも事実だが、厳粛な雰囲気を出そうとしたのであって、非礼かどうかという問題と無縁のことだろう。こういうでたらめな報道が問題をより複雑にしてしまった。
 このほか、野中官房長官の発言を、ロイター通信が、全く逆に取り違えて報道し、それを中国の英字新聞『チャイナデーリー』が引用して、官房長官を歴史を反省しない「タカ派」と批判するなど中国元首の訪問は、場外でも乱れに乱れた。
 一国の指導者はマスコミの反応も考慮にいれて、発言、行動すべきだろう。

転換点は朱首相の早期来日か 

 国際社会では、合意はなっても実行されないことがしばしばある。実行には双方の努力が欠かせない。そのためにはムードが重要だ。政治家がそのムードを作っていかねばならない。内陸開発に協力するといっても、中心となるのは民間である。景気の低迷ですっかり内向きになっている日本の企業を、条件の一層厳しい内陸開発に動員するにはムードを高める必要がある。
 転換点があるとすれば、朱首相の来日であろう。〇小平の思想の神髄ともいえる実事求是の精神を最も受け継いでいる朱首相なら、もっとスマートな対応を行い、日本の世論を引きつけるであろう。もっとも、早期来日を実現するためには、日本側もそれ相応の努力と譲歩を迫られるであろう。
 日本の歴史認識が十分でないのは、江沢民の指摘の通りであろう。また、中国の現状に対する日本の評価も、楽観論から悲観論、脅威論まで百家争鳴のわりには、穏当なものは数少ない。これでは二十一世紀を見据えた長期的な関係構築は心もとない。だが、江沢民来日は、そうした反省の芽さえ摘み取ってしまった感がある。

 *  * *

[注1]例えば『21世紀中国の読み方』(前掲)二二〇ページ〜二二七ページ参照。
[注2]九八年末の民主活動家の逮捕などをめぐり、米中関係も再び陰りが見え始めた。戦略的対話の始まりを過大評価して、日本はずしを試みたり、心配するのは、こうした展開を見ても誤りであることがわかる。米中関係の過大評価、過小評価の誤りについては、前掲書一八八ページ「米中の戦略対話の意味」参照。
[注3]例えば、まだ南京中央大学の学生時代、麻薬追放運動に参加し、麻薬の消却集会の会場で、日本の憲兵隊に銃を突き付けられた回想録などを彼自身残している。(九八年十月十七日付、中華工商時報)共産党に入党する前のことであり、日本軍が組織的に麻薬を販売し、資金を作っていたとの疑惑が中国側に根強くある。
[注4]『日中関係基本資料集』所収の資料一九七「昭和天皇の〇小平副総理御引見についての邦字紙記事」参照。
[注5]『21世紀中国の読み方』の一三〇ページ「朱鎔基を首相に起用させた国内的要因と対外的要因」参照。
[注6]例えば、九八年の上海への日本の直接投資は対前年(十一億三千二百万ドル)比で七七.二%減で、国・地域別ランキングで、九七年の二位から六位に落ち込んだ。これまで、政治的に関係がこじれても、経済関係が下支えをしてきたが、これからは一筋縄ではいかなくなる恐れもある。



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中国的なるものを考える21
福本勝清(明治大学助教授)

省境について 前編


                   省境というと、我々のような革命史から入った人間には、すぐさま「三不管」とか「四不管」といった言葉が思い浮かぶ。どこの管轄にも属していない土地、誰の所管でもない地域を意味するわけだが、往々にしてそのようなところは、歴代、匪賊の根城になっており、それを民国期の革命家たちが引継ぎ、革命根拠地や辺区(解放区)を築いたことはよく知られている。特に三省交界地区とか四省交界地区と呼ばれるような地方は、その傾向が強いが、省境地区は省政権当局の警備がどうしても手薄になることが匪賊跳梁の大きな原因である。つまり、鎮圧のため大量の軍警を投入しようにも、省境地帯の多くは山岳地帯か沼沢地帯であり、重装備の部隊を展開するには無理があることや、人口希薄のため、食料や金品を現地調達しようにも負担すべき人々がいないことなど、費用的に割に合わないことがあげられる。
 また、交界地区は境界が入り組んでいてるため、匪賊たちに格好の逃げ場を与えている。さらに、省政権ごとの縦割りの命令系統では相互に連絡を欠き、効果的な掃討作戦ができない。結局、省側は、匪賊が自分の管轄地区からいなくなればそれ以上追及しようとしないのが普通である。その結果、いよいよ掃討や根絶は難しくなる。
 革命後の新社会(一九四九年から一九七〇年代末)において、そのような省境地区に跋扈していた匪賊が根絶されたのは、新社会が伝統中国とは違った特異な社会であったからにほかならない。おそらく、そのことは、合作社や人民公社のシステムが村落末端まで行き届いていたこと、そしてそれと同じことになるが共産党や共青団が郷村から各家庭にいたるまで、その権威を深く浸透させていたことに大きな関わりがあるはずである。
 二十年ほど前のことになるが、新島淳良氏の話を聞いたことがある。あるサークルの学習会に時々参加していた折、偶然にも話を聞く機会を得た。氏は、民国期においては、省政権の治安維持力もしくは民衆に対する権威は、省都からの距離に反比例し、省都を百とすると省境地区では微々たるものになる。それゆえ、革命の側が装備に劣っていたとしても、省境地区に根拠地を樹立することが出来た。それに対し、新中国では、省都を百とすると、省境地区の村でも、九十数%あり、もう省境地区に匪賊が跋扈する環境はなくなってしまったと述べられた。記憶は定かではないが、そのようなことを述べられ、成る程と納得したことを覚えている。
 省境はたしかに、行政上の境目である。だが、民衆にとってはそうでない場合がある。省境というと、何となく、山脈とか大河によって自ずから相互に隔てられているようなイメージがあるが、中国地図を広げ、省境を眺めると、実際にはあまりそうはなっていない。羅霄山脈(江西と湖南)や武夷山脈(江西と福建)が代表的な例であるが、山で分けられているというのは、実際にはそれほど多くはない。それ以上に大河によって分けられている例はほとんどない。黄河中流が山西と陝西を分け、河南西部と山西を分けている例及び金沙江が雲南と四川南部を分けている例ぐらいであろう(短い距離を分けている例はその他に幾つかある)。両者はいずれも、高原地帯を深く河が削ったところである。考えてみれば、もし平原地帯を大河を以って分かてば、その氾濫の度に省境の帰属を巡って数省が争うということになりかねない。
 省境地帯は確かに省の中では辺境であり、省都を中心に考えれば僻遠の地である。省境の両側に住む住民は相互に省属を異にし、互いに異なった省政府の統治下にある。だが、省境が自然の要害に隔てられているわけでもなく、多分に人為的な行政上の区画に過ぎないとしたら、省境を隔てた人々が互いにあい似た者どうしである場合が多いことも理解できよう。
 留学中知り合いになった考古系の学生は、陝西省銅川の出身であったが、省籍は山東、老郷は魯西の東明集であったと記憶している。その彼が大学に入ったばかりの頃、傍で話している河北中部(冀中)の石家荘や保定から来た学生の口音(なまり)を聞いて、とても懐かしく感じたそうである。父親のなまりとよく似ていたからであった。河北から山東にかけての農民たちの多くは、自分たちは明代永楽帝の頃、山西省洪洞県大槐樹村から移住してきたと語り伝えているが、彼らは同じ方言、帰属意識、文化を共有しているといったよいだろう。
 また、河北、山東、河南の三省交界地区は、ともに黄河下流の氾濫原に属し、アルカリ化のひどい、農業にはあまり適さない土地であり、民国期には沙区と呼ばれていた。沙区の住民たちにとり、省境は極めて人為的なものであった。事実、民国期及び新中国を通じ、省境が何度か引き直され、人も土地もしばしば省属を変えなければならなかった。

 大巴山脈は四川と陝西を分かつ境目をなしている。自然の要害であるがゆえに、それは当然、文化的な境目にもなっているように思われる。だが、実際にはそうなってはいない。例えば華中と華北を分けるに、稲作地帯と麦作地帯を分ける淮河・秦嶺線を以ってすれば、当然のごとく、大巴山脈ではなく、秦嶺こそ、文化的な分かれ目としてふさわしいということになろう。次は革命史からのものであるが、興味深い例である。
 陳介謀「川陝革命根拠地鎮巴地区蘇区武装闘争概況」(『陝西文史資料』第十四輯)には、一九三〇年代前半の四川陝西省境地帯において、革命根拠地に対峙している各武装勢力の実勢が紹介されているが、省境を隔てた各県の武装勢力の名称や組織性が似ていることに気づかされる。たとえば、一九三三年初め、陝西側つまり陝南鎮巴県側には大本団が十九、神団が三、煙戸団が三、甲団が一、民団が一、土匪が四、合計約三千一百余人であるのに対し、四川側の通江、万源勢は、大本団が一、神団が二、計約一千七百余人がおり、それぞれ紅軍に敵対し、根拠地に襲撃をしかけている。煙戸団は、アヘン栽培農民(煙戸)の自衛組織であろう。大本団や甲団については不明だが、おそらく神団と同じく民団の類だと思われる。また、一九三四年秋の時点における鎮巴県の三十四の武装勢力のうち、四川人を頭目としているものが四部隊あり、日頃より四川人、陝西人といった区別をあまりせず、それぞれ頭目に従い徒党を組んでいたことがわかる。
 残念ながら、この論文以外に大本団に言及した資料を知らない。それに対し、神団については幾つかある。一つは、陝南西郷県の土匪張正万や袁剛に関するものである。彼らはそれぞれ神団を率いていたが、一九三二年冬、紅軍第二方面軍が川北に根拠地を築き、陝南側に紅軍第二十九軍を組織し、土地革命を推進し始めた時、紅軍の傘下に入り、その隊列に加わった。だが、三三年四月、張正万は陝南馬児岩根拠地を襲い、紅二十九軍軍長陳浅倫、政治委員李艮らを三十五名を殺害、国民党に寝返った。革命史において、この馬児岩事件に触れる度に、神団という名前が登場することになる。
 もう一つは、宋登賢に関するものである。宋は河南新鄭の貧農であったが、陝西に出稼ぎに来て、長安県で雑貨店を営んでいた。一九二三年、四川に通じる山道がよく土匪に襲われるのに不安を覚えた富商(士紳大商)たちが、神団をつくろうと、商州から老師を招いたところ、この老師は大金を要求した。故郷の村で老人から法術を習ったことのある宋登賢は自ら名乗り出て、それに取って代わり当地神団の老師となり、土匪の小部隊を掃討する。その後、一九三五年、行商中、紅軍(第二十五軍)に遭遇し、紅軍が民衆の軍隊であることを知った宋は、旧部下を集め、四百余人の西北仏軍を組織する。緑林となったのであろう。翌年四月、柞水県において活動中、再度本物の紅軍に出会い、紅軍(陳先端と鄭位三の部隊)の指導を受けることを誓う。同年十二月、彼の部隊は紅軍第七十四師補充連隊に改編され、その連隊長となる。これが、宋登賢の「神団の首領から紅軍の連隊長に」(『河南文史資料』第二十九輯)なった話である。長安県は秦嶺の北麓にあり、関中に属し、商県や柞水は秦嶺山地の県、陝南山地に属するが(聶樹人『陝西自然地理』)、歴史的には関中との関わりが深い。
 神団に触れたものとして見つけた最北の例は、関中平原の北、陝甘辺の隴県のものである。隴県呉山の土匪王友邦の横暴に苦しんだ梨林川の棗林寨村は指導者閻曲章を頭に民団をつくり、他の地区の民団と協同して土匪に対抗した。彼らは隴県河北区から神団のメンバー三名を招き王友邦匪の掃討作戦への協力を要請した。怒った王は、一九二五年四月の未明、手下千余人を率い棗林寨を襲い、囲いを突破、四十余戸の大部分を焼き払った。死者十余人、さらに十余人を連行した(閻存正「王友邦盤踞呉山紀実」『近代中国土匪実録』上巻)。
 これらから、大体次のようなことがわかる。川陝省境地区の神団は民団に改編されたとはいえ、個々の首領に率いられた武装集団であり、土匪と異なるところはないように見える。神団という名前は、法術による「槍弾不入」を掲げているところから来ているものと思われ、具体的な繋がりは不明だが、湘鄂川黔に勢力を持つ神兵に類似しているように思われる。それに対し、隴県のケースでは、指導者に率いられた村落の自衛武装がまずあり、そこに外から霊的な指導者として老師が招かれるといった手続きにおいて、他の華北諸省、河南、河北、山東などの村の自衛武装としての紅槍会に類似している。宋登賢の場合、両者の中間的なケースに見える。宋が雑貨店を開いたところが村か小鎮か不明だが、そこが商県から老師を招くというのは、何となく華北的な感じがしないでもないし、神団の首領が元部下を集め地方に勢力を築くのは、これも何となく陝南や川北側のケースに似た感じがする。どちらにせよ、サンプルが一例や二例では、そのような気がするというぐらいしか言えないのだが。(続く)


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逆耳順耳 

   矢吹 晋

日中関係の冬──春遠からじ

 江沢民国家主席の日本訪問は、あえて率直に言うが、大失敗に終わったと評すべきであろう。問題は、外交交渉レベルの経緯や妥協点にあるのではない。日本の人々の心に不快きわまりない「中国冷え」現象をもたらした事実を直視しなければならない。
 日本マスコミの一部では、かねて中国脅威論が語られてきたが、大方の日本人はその種の迷論の影響を受けているわけではなく、比較的健全な眼で中国を見てきたといってよい。今回の出来事は、そのような善意の日本人に大きな衝撃を与え、中国脅威論を振り回す右寄りの人々を喜ばせる結果を招いた点で失敗なのである。味方を敵に回し、敵を喜ばせるほどまずい外交はない。この種の日中関係の摩擦を全世界に示すことが中国にとってどれほどの利益になるのか、これもきわめて疑わしい。中国から見ても、おそらく訪日が成功とはいいにくいのだ。
 日中共同宣言では、歴史問題と台湾問題が焦点になったが、あまりにも細部にこだわり両国の不協和音、あるいは同床異夢のイメージを拡散させた。共同宣言において「過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した」と明記したのは、村山首相の「戦後50年談話」(九五年八月十五日)およびこれを継承した日韓共同宣言(九八年十月八日)のラインである。他方、「心からのお詫び」については、小渕首相が「口頭で述べる形」で処理した。中国側は韓国のケースのように、宣言に書き込み、署名することを求めたとも伝えられるが、日韓関係と日中関係の差異を無視したものというほかない。
日中関係においては、九二年十月二十三日天皇訪中時の「お言葉」のなかに「不幸な一時期」を「深く悲しみとするところ」とする表現があり、すでに天皇訪中という形で戦後処理が基本的に片づいた形であった。韓国との関係においては、天皇訪韓はいまだ実現するに至っていないし、対北朝鮮関係に至っては戦後処理さえ終わっていない事実に留意する必要がある。この文脈で、対朝鮮半島の関係と対中国関係とは峻別されなければならない。このように異なる「戦後史」を反映して、両者間に異なる対応が生まれるのは、当然である。もし「大きな中国」は、「小さな韓国」以上の謝罪をかちとるべきだと考えたのなら、思慮ある判断ではなく、夜郎自大の「頭脳発漲」というほかない。
「戦後処理史」の経緯を踏まえて、二一世紀のアジア、あるいは世界のなかの日中関係を展望することが課題であったにもかかわらず、「未来指向」や「平和と発展のための友好協力パートナーシップ」という大きな柱が行方不明になった。台湾問題について、日本側は「日中共同声明の中で表明した台湾問題に関する立場を引き続き遵守し、改めて中国は一つであるとの認識を表明」した。これは一九七二年九月二十九日、田中角栄首相の訪中より国交正常化が行われた当時と同じ立場である。クリントン大統領が「三つの不支持」(二つの中国、台湾独立、台湾の国際機関加盟)を表明して以後、日本に対しても同じ立場の表明を求めるとの報道もみられた。日本政府がそのような態度をとらなかったことについて、「日本外交の勝利」を意味するとの解釈も行われたが、これは二重の意味で間違った見方である。まず第一に、今日の台湾問題の発端は日清戦争による台湾割譲にあり、日本は当事者であるのに対して、米国にはその種の経緯はなく、台湾問題における日米の立場はまるで異なる。中国が米国と同じ立場を求めたとすれば、みずから内政干渉を招くに等しい愚行であろう。あるいは台湾当局側の情報操作に踊らされたものというほかない。
 台湾海峡双方からのさまざまな声のなかで、日本政府が選択しうる台湾政策の幅は限られている。「三不」の言明なし、について「台湾側に贔屓したもの」などと解するのは、木を見て森を見ない愚論である。
 私は各国のマスコミから取材を受けて、彼らがいかに日本の立場を誤解、曲解しているかを痛感した。彼らが私に求めた解説は、基本的に次の二点である。
 一つは、「対中国の共同声明」が対韓国のそれと異なるのはなぜか。
 もう一つは、日本政府の台湾政策は結局何なのか、であった。
 前者に対する私なりの答えは、「歴史的経緯および戦後処理史の違い」である。後者についての私の答えは、(ポツダム宣言と日華条約を経て)、日中国交正常化以後に日本政府が選択してきた一貫した政策的立場、である。
 今回、改めて気づいたのだが、日本政府の立場はあまりにも誤解されている。その一因は、良識を欠いた政治家の不規則発言にあるが、政府とりわけ外務省の広報宣伝活動の不足によるところも大きいのではないか。私は今回のブリーフィング不足を念頭においているのではない。外交交渉の駆引きレベルの話ではなく、日本政府の基本的スタンスが曖昧模糊だと誤解されている事実が問題なのである。日華条約を「終了」させて、日中の正常化を行った経緯とそれに際しての日本政府の立場はほとんど理解されていない。当時、台湾問題について明示的な言及を行っていないことは、フリーハンドを留保したものだと言いなす向きが現れるのは、不勉強も甚だしい。当時の栗山条約課長(後の駐米大使)が国会でどのように説明したかを十分に復習しておく必要がある。
 いずれにせよ、日本は圧力を加えさえすれば、あるいは利益で誘導しさえすれば、どのようにでもなびくと誤解されている嫌いがあるのは困る。一国の安全保障にとって、これほど危険な誤解はない。  江沢民訪日の失敗は、一言でいえば、戦後の日本政治経済や社会の発展の内容を十分に認識できず、軍国主義論の色眼鏡で誤解し、そのような日本イメージを前提として、教訓を垂れようとした指導者の錯覚に起因するものと私は解している。人民解放軍や保守派からの圧力説を私は採らない。
 顧みて日本人の中国の国情に対する誤解にも反省を要することは多いが、中国指導者の日本誤解を解くことは、さしずめ喫緊の課題であろう。ただし、「日中関係の冬」が相互誤解に起因するとすれば、「雪解けの春も遠からじ」、と私は楽観している。中国が鎖国をやめて以後、改革開放20年の相互交流のなかで、理解は着実に広まり、深まっている。

喜劇と悲劇、二つのシナリオ

 国家主席としての初めての訪日であるからには、中国外交部も日本外務省も周到な準備を進めてきたはずである。その準備状況の一端は、訪日前後の日々の新聞をたまに手にするだけでもわかるほどに、さまざまに書かれていた。突然の来客にあわてふためいて周章狼狽といった事態は、ありえないはずである。となると、中国外交には、もしかしたら二つの系統があるのかという疑問につきあたる。両国政府の外交当局は、それぞれの国内事情を説明しつつ、妥協点を探る交渉を重ねており、それなりの落としどころを考えてきたはずである。
 あらかじめ想定した線に落ちなかったのは、「もうひとつのシナリオ」が隠されていたのか、という推測にいきつく。江沢民の訪米では「喜劇」を演じて、訪日では「悲劇」を演じるというシナリオがそれである。クリントン大統領の北京大学での講演は学生との丁々発止のやりとり(実は丹念にリハーサルされたものといわれるが)が話題になった。マスコミへの統制の厳しい中国としては、大胆な試みに映った。しかもこれは、突然決定されたらしい、という成行きが話題を盛り上げた。中国外交部は「米提案拒否」の線を貫いていたが、実は江沢民オフィス、すなわち中共中央外事領導小組(より具体的には中央弁公庁)が外交部の頭越しに受け入れを決めるパフォーマンスをやったのではないか。
 訪日も同じパターンになる。外交部は外務省とかけひきを繰り返した。両者は一定の了解に達したが、最後のツメができない。そこへ外事領導小組のコワモテ路線が登場した可能性が強い。
 なぜ二本足の外交なのか。ニホンが相手だからではない。アメリカのホワイトハウスを真似ようとしているらしいのだ。アメリカ外交の担当者はむろん国務省(オルブライトおばさん)だが、安全保障などではホワイトハウスの安全保障担当補佐官のイニシャチブが大きな役割を果たしている。クリントン大統領訪中のシナリオを書いたのは、チャールス・フリーマン(ニクソン訪中時の通訳、のち国防次官)であり、実行者がレイク補佐官、バーガー後継補佐官であるとする見方はかなり流布している(『ヘラルド・トリビューン』九八年六月二二〜二三日、バートン・ゲルマン記者のスクープ)。
 このアメリカ流の二本建てを真似て、中国外交もまた国務院外交部と中共中央外事領導小組のチャネルを平行して使うことを考えた人物がいると解釈すると、今回のトラブルは分かりやすい。
 では、外事領導小組の責任者は誰か。むろん江沢民である。だが、多忙な江沢民が訪日のシナリオ書きまでできるとは思えない。となると、虎の威を借りる狐どころか、猿回しのごとくにトップを動かす「知謀の士」を想定せざるをえない。江沢民を動かすシナリオを書ける高官とは、曽慶紅(中央弁公庁主任、政治局候補委員)以外にはない。かくて演じられたのが、アメリカ版喜劇のあとに登場した日本版悲劇であるらしい。曽慶紅の次のシナリオが要注意である。


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