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第83号


アジア通貨危機と人民元 友行啓子(経済企画庁海外調査課専門調査員)
中国的なるものを考える20 淮北考(後編) 福本勝清(明治大学助教授)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋



アジア通貨危機と人民元
友行 啓子  (経済企画庁海外調査課専門調査員)

【解題】以下は『[図説]中国経済入門』(蒼蒼社、十二月刊、本体二六〇〇円)の第W部第七章からの抜粋である。紙面の都合上、冒頭の「ASEAN通貨の減価」および「タイ・バーツ減価の要因」は割愛した。

一九九七年七月頃よりタイを中心としたASEAN通貨は軒並み減価した。ASEAN通貨減価の影響が、中国にどのような影響を与えたのかについてみてみよう。

1.中国の為替レート制度

 従来、中国では公定レートと市場レートの二重相場制となっており、公定レートは国家貿易計画に基づく取引、外為取扱銀行との取引の際に適用され、中国の通貨当局が決定していた。また、市場レートは全国各地に設置された外貨調整センターの取引により決定されていた。九三年末時点で、公定レートが一ドル=約五・八元、市場レートが約八・七元で、両者のレートは約五〇%乖離していた。
 中国人民銀行(中央銀行に相当)は、九四年一月一日より人民元の交換レートを一本化し、管理変動相場制を実施することを決めた。これにより、人民銀行が前営業日の外為市場レートの加重平均値に基づいて当日の対ドル基準レートを発表し、対ドル市場レートの変動は、この基準レートの上下各一定幅の中での変動を許容されることとなった。
 さらに、中国は九六年一二月一日よりIMF8条国へ移行している。つまり、経常取引における人民元の交換性が実現されている。しかしながら、資本取引における為替取引には未だ制限が残っている。資本取引における人民元の交換性の実現については一応二〇〇〇年を目標としているが、まだ時間がかかるとみられている。資本取引における人民元の交換に規制があるために、アジア通貨金融危機の影響が軽微にとどまったとみることができる。

2.人民元の為替レートの推移

 ここ数年の人民元の対米ドルレートの推移をみると、資本取引における人民元の交換性の制限や、管理フロート制をとっていることもあって大きな変動はない。九〇年以降のレートの動きをみると、九四年に為替レートを一本化した時点で約三三%切り下がったが、その後はほぼ横ばいで推移している。タイ・バーツが大きな減価を始めた九七年7月以降も総じてみれば横ばいであり、むしろやや強含みで推移している。ASEAN通貨減価の影響は、人民元に対しては全くなかったとみてよい。
 なお、香港ドルの対米ドルレートの推移については、人民元よりもやや大きな変動がみられた。米ドルにペッグ(連動)している香港ドルは、投機の対象になりやすい。実際、九八年七月中旬、八月末から九月初の二回にわたって、香港ドルの減価圧力が高まった時期があったが、その際、香港金融庁は香港ドル防衛のための介入をしたといわれている。
 人民元が、ASEAN通貨の大幅下落の影響をうけず、安定的に推移した要因としては、以下のようなことが考えられる。
 第一に、中国の対外債務は返済能力を超えるほど大きくない。第二に、中国の経常収支は安定的に推移しており、ここ三年間は黒字となっている。第三に、輸出が好調であり、外貨準備も潤沢に保持している。

3.中国の対外債務

 中国の対外債務残高をみると、九七年末で一三一〇億ドルとなっている。中国政府の対外借入は、国家計画委員会が外資利用計画を策定して行っており、借入先としては、世界銀行やアジア開発銀行など国際機関や外国政府からの借款を優先している。
 中国の対外債務は、他のアジア諸国に比べて圧倒的に大きい。例えば、タイでは、九六年末に九〇八億ドルと額としては中国の三分の一以下であり、マレイシア、フィリピンはそれぞれ三九八億ドル、四一二億ドルとさらに小さい。インドネシアは九六年末時点で一二九〇億ドルで、ほぼ中国に匹敵している。
 中国の対外債務残高は、金額としては大きいが、返済能力を超えているかどうかについては、経済規模などに基づいて判断する必要がある。一般的には、対外債務の大きさは、@デット・サービス・レシオ(元利返済額/財・サービス輸出)、A債務率(債務残高/財・サービス輸出)、B債務残高の対GDP比、でレベルをみることが多い。@デット・サービス・レシオは、国際的に警戒ラインとされているのは二〇%となっている。中国のデット・サービス・レシオは、八六〜八七年には高かったもののその後低下し、九七年には七・三%となっている。A債務率は、一般に一〇〇%以下であればよいとされている。中国の債務率は、八五年以降ずっと一〇〇%以下であり、九七年は六三・二%となっている。B債務残高のGDP比率は、警戒ラインは二五%であるが、中国のGDP比率は九七年に一四・五%となっている。
 これらのことから判断すると、中国の債務残高は、金額は大きいものの、経済規模等から判断して返済能力を超えたものではないといえよう。

4.中国の経常収支と人民元の安定

 タイの通貨下落の要因として、輸出の低迷から経常収支の赤字が拡大し、これが海外からの資金流入によってファイナンスされていたという不安定な資本収支構造が挙げられる。中国の経常収支をみると、九〇年代に入ってからは、九三年を除き黒字となっている。九七年の経常収支黒字は二九七億ドルとなっており、GDP比でみると三・三%と安定している。
 ASEAN通貨減価に関しては、人民元に対する影響はほとんどみられなかった。もちろん、人民元の交換性が完全ではないこと、中国が完全に市場を開放していないことなど、ASEAN各国と中国は状況が異なっている。しかしながら、中国の対外債務や経常収支は堅調に推移しており、外資の流入も、直接投資が中心となっているなど、全般的に安定的な構造となっていることが、人民元の安定の大きな要因である。

5.中国の外貨準備高

 中国の外貨準備高をみると、九八年六月末現在で一四〇五億ドルとなっており、日本に次ぐ大きさとなっている。世界の外貨準備高を大きい順にみると、日本(二〇五八億ドル)、中国(一四〇九億ドル)、香港(九六三億ドル)、台湾(八四四億ドル)、ドイツ(七九八億ドル)、シンガポール(七一八億ドル)、アメリカ(五九七億ドル)となっている(九八年五月)。中国の外貨準備高は、九〇年代に入ってから増加が目立っており、特に九四年以降は、貿易収支の黒字などから急増している。
 また、上記のように香港の外貨準備高も世界レベルでみると大きい。香港と中国の間では、香港が中国に返還された後も基本的に金融制度は全く異なる制度として扱われることになっている。しかし、現在、米ドルにリンクしている香港ドルの為替制度を維持するためには、中国の外貨準備を使うこともできるとされており、中国、香港を合わせた外貨準備高は、日本を上回る規模となっている。
 外貨準備高を輸入月額で除してみると、香港(六カ月)、アメリカ(〇・八カ月)(五カ月)、日本(九カ月)に比べ、中国は一三カ月と貿易額からみても大きい(九八年五月)。一般には、輸入の三カ月分以上の外貨準備があればよいとされている。

6.人民元の切下げはあるか

 九七年七月に起きたアジア通貨金融危機以降、ASEAN、アジアNIEs諸国の通貨が香港を除いて大幅に減価する中、人民元はドルに対して安定的に推移している。その結果、人民元はアジア通貨に対して相対的に増値しており、輸出競争力の面で不利な状況が生じていると考えられることから、中国が人民元の切下げを実施するのではないかとの見方もでている。そこで、中国の人民元を取り巻く状況をみてみよう。
 まず、輸出については、中国の輸出の伸びは、九八年に入ってから徐々に鈍化している。しかし、中国政府は輸出奨励策の一環として、@輸出の際の増値税(付加価値税)還付率引上げ、A輸出企業に対する融資拡大など、人民元切下げ以外の措置を講じて輸出を下支えしている。また、@中国の労働コストは依然としてASEAN、アジアNIEs諸国に比べて優位に立っていること、A九八年に入ってからの輸出の伸びの鈍化は、中国製品の競争力の低下だけでなく、輸入国側の需要の低迷も影響していることから、輸出の鈍化が全て中国製品の競争力の低下によるものとはいえない。
 仮に人民元を切り下げた場合、輸出の価格競争力を増大させる反面、輸入価格の上昇や、外貨建て債務の負担増などのコストが伴うことに留意を要する。
 一方、中国経済の対外面をみると、@人民元は資本取引に関する自由化が行われていないため資金の移動に制限があり投機の対象になりにくく、A中国の経常収支は大幅な黒字であり、B外貨準備も潤沢である。
 以上のような状況が大きく変わらない限り、人民元の切下げが行われる経済的理由は乏しいと考えられる。



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中国的なるものを考える21
福本勝清(明治大学助教授)

淮北考(後編)


 文革後、○(登+都−者)小平が再起し、万里が安徽省委第一書記に就任した時のことである(一九七七年六月)。赴任後、万里は全省をくまなく歩き、その実情を自分の目で確かめたが、まさに貧困地区そのものであった。解放前は豊かであったはずの皖南でさえ、ずっと腹を満たすことができないでいると訴えられる始末であった。
 解放前から貧困地区として知られた皖東の惨状は目を覆うばかりであった。訪れた鳳陽県の小さな生産隊では、全隊十戸のうち、家にドアがない(入口ばかりでなく、どんなドアもなかった)のが四戸、水瓶がない家が三戸、テーブルがない家が五戸。もちろん、それすらないという意味である。復員軍人である隊長の家では、十人家族に寝具が一組しかなく、七つの茶碗で食べ、箸は枝切れや藁でつくったものを使用していた。赤貧洗うが如しとはこのことであった。初級合作社の頃には、全隊で一二七人いたのだが、三年の困難期に、飢えに苦しみ、餓死するもの、逃げ出すものが相次ぎ、七七年当時六八人に減っていた。一年の収穫は二万斤前後、一人あたり三百斤であった。手持ちの食糧を食い尽くし、国家からの救済糧で食いつなぎ、後半年は解放前と同じように外に乞食に出てようやく露命をつないでいた。
 歌で知られた鳳陽県は、解放後、一九五五年、三二万の人口を擁し、食糧生産額は二・六億斤、一人あたり約八百斤で、何とか念願だった食糧問題の解決がなったかに思われた。だが、三年間の大飢餓期には、三万数千人以上が「非正常な死」を遂げた。つまり、餓死したり、身体が弱り病死したのだった。二十年以上に渡り、食糧の自給どころか、常に国家からの供給を仰がざるをえず、それでも足りずに、やはり毎年冬になると、あるものは江南へ、あるものは淮北からさらに北上し、至る所で乞食をして食いつなぐことになった。万里が赴任した七七年の冬には、省委に毎日のように江蘇、浙江、福建、上海、山東、河北等の省や市から、頻々と電話がかかってきた。鳳陽から来た「盲流」を引き取りに来るようにとの催促であった。「盲流」の数は、一万三千人以上。彼らは、余所の土地で何とか良民として扱われようと、それぞれ戸口本(戸籍簿)を持ったり、党員の紹介状を携えていたという(張広友『改革風雲中的万里』人民出版社、一九九五年)。
 ここでの鳳陽とは、鳳陽県のことであったが、実は鳳陽が示す範囲は鳳陽県だけにとどまらない。清末の鳳陽府は、北は現在の宿州市や淮北市を含み、南は定遠県、西は寿県や鳳台県まで、その間にある懐遠県や蚌埠市ももちろん含まれる。淮河南北のかなり広い地域であった。前回、淮河の南に位置する寿県人や鳳陽人が、淮北人と同一視されたことを述べたが、もう少し歴史的な由来を知る必要がありそうである。
 先に歌で知られたと書いたが、歌とは「鳳陽花鼓」のことであり、その一節は次のように始まる。
 説鳳陽,話鳳陽,   鳳陽を語れば
 鳳陽本是好地方。
        鳳陽はもともと良い所
 自従出了朱皇帝, 朱皇帝が出てから
 十年倒有九年荒。
       却って十年に九年の災害
 三年水淹三年旱,
      三年の水害、三年の日照り
 三年蝗虫鬧災殃。
    三年の蝗害と、災害に見舞われ
 大戸人家売田地,
        大きな家は田地を売り
 小戸人家売児郎,
        小さな家は男子を売る
 惟有我家没有得売,
     ただ我家には売るものがない
 肩背鑼鼓走街坊。
    肩に銅鑼や鼓を負い路地を流す
(王振忠、汪冰『遥遠的回響―乞丐文化透視』、上海人民出版社)
 朱皇帝とは朱元璋のこと。朱元璋は鳳陽県の「貧農の四男として生まれ、十七歳の時、飢饉と疫病で父母を失い、近くの寺の見習い僧になったのも束の間、食糧の払底によって、乞食僧として各地を流浪」(尾形勇、岸本美緒編『中国史』、山川出版社)したことは、これまたよく知られている。龍座に登ると、朱元璋は自分の故郷に鳳陽県を設置、さらに鳳陽を中都に指定、大規模な造営を始めた。南京と北平(大都)の間にあるから中都と称したのであろう。中都建設のために江南や山西、河南から二十万人を移住させたほか、工匠や軍人など、後には犯罪者(今風に言えば懲役囚であろうか)を含め、さらに数十万人をかき集めたといわれる。洪武帝は自分の陵を鳳凰に築くことを命じ、鳳凰の旧民三三四二戸を賦役黄冊以外の陵戸に編成し、様々な特典を与えた。
 「黄河奪淮」はすでに十二世紀には始まっていた。一一二八年、宋朝は金軍の南下を阻止するため、黄河を決壊。南流した黄河は淮河を経て黄海に注ぎ込む。その後淮河流域は、頻繁に水害に悩まされることになった。そのような貧困地帯に育った朱元璋は、何とか故郷の人々に恵みをたれようとしたのであろう。鳳陽県を中心に鳳陽府を設置、その規模は清末の鳳陽府よりもさらに広く、東は現在江蘇省の洪沢湖畔まで、西は河南省境の霍丘県にまで達した。彼は生前、鳳陽農民の負担の減免を謀っている。大いに配慮したはずであった。  だが、鳳陽は中都に値するような土地ではなかった。増大した住民の食糧を供給することさえままならなかった。彼の死後、王朝を簒奪し、北京に遷都した永楽帝は、中都を滅びるままにまかせた。洪武帝が約束した農民負担の減免など、数代もすれば反故同然であった。誰も気兼ねすることなく、ほしいままに農民たちをこき使うことになった。皮肉なことに、太祖陵が鳳陽にあることは農民たちに災いをもたらすことになった。皇帝の太祖陵巡幸や大官たちの陵墓拝謁のたびに、地元官吏に命ぜられ農民たちは夫役に駆り出されたほか、掛かりの費用など様々な負担を押しつけられた。さらに、鳳陽は三年に一度の郷試の試験地に指定されていた。南直隷(江蘇・安徽)の江北各地から多数の科挙受験者が鳳陽にやってきた。試験は七〇日前後続いたが、その面倒も鳳陽で見なければならなかった。交通も発達していず、商業地でもない鳳陽が、その費用や世話を負担するのは無理に無理を重ねる以外になかった。
 そうなれば、逃げ出す者がいても不思議ではない。明初に江南から移民した者は十四万人、だが万暦年間(一五七八年)に残っていたのは一万三千余であり、戸数では七〇%が失われた。そこから「鳳陽花鼓」の起源論に、鳳陽に移住を強制された江南出身者が、芸を売り乞食に身をやつして故郷江南に戻ろうとしたのだ、との説が生まれたのだろう。でも、これは、臍を曲げて考えれば、何となく、昔は偉かった式の精神勝利法的説明に思えてくる。
 『遥遠的回響―乞丐文化透視』の著者たちは、「花鼓」はもともとは鳳陽地方の秧歌だったという。ただその伴奏に、「花鼓小鑼」や「双条鼓」といった地方独特の楽器が使われていた。小さな鑼(銅鑼)や鼓にあわせ歌い且つ踊っていたのであろう。明清期を通じて、鳳陽の貧しさは変わらなかった。清初にはすでに鳳陽からやってきた乞食が南北各地に出没し、歌い踊りながら物乞いをしている様子が記されている。貧しさに耐えかねた鳳陽の農民たちは、自分たちの土着の歌舞を、すきっ腹を満たすために利用することを思いついたのだろう。秋から冬にかけ、農民たちは妻子を携え、或いは群れをなして郷里を離れ、各地を流浪した(身背花鼓走四方)。鳳陽花鼓といえば、鳳陽婆といわれるように、必ず女性が含まれている。女性だけの群や夫婦漫才風の者も多かったと思われる。鑼や鼓も旅装に合わせ、さらに小型化したという。
 鳳陽花鼓は南北を流伝するうちに、「乱弾」諸流や各地の「山歌」と結びつき、次第に「民間小戯」の様式を備えるものがでてくる。華中を中心に広がる各地の「花鼓戯」が誕生する(王振忠、汪冰)。北方の秧歌もそうだが、地方の歌舞が流布するにつれ、次第に伝統劇の要素を取り入れ、さらに二、三人もしくは数人の小規模で素朴な芸から、陣容の整った一座を率いるものへと発展する例は少なくない 鳳陽花鼓の担い手は、もちろん鳳陽県の出身者だけではなく、旧鳳陽府の人々、淮河流域の民衆であった。だが、清代の記録に、江蘇諸府を訪れていた鳳陽の乞食は、
 家住廬州並鳳陽
 鳳陽原是好地方
と歌っていたとあり、合肥、舒城、廬江、巣県、無為といった長江流域(廬州府)出身の乞食たちも鳳陽という「ブランド」を使っていた。淮河流域に比べ長江流域の諸県は比較的恵まれていたとしても、清代にはやはり鳳陽の乞食を輩出していたということになる。
 鳳陽府、廬州府と続き、安徽省の江北側で残る大きな地区としては安慶府になる。話はすでに、淮北との関わりを失っているが、もう少し続けたい。明清期の皖南(徽州府)をフィールドにしている渋谷裕子によれば、清代徽州府の棚民(福建、江西、浙江、安徽の山中に「棚」と呼ばれる仮小屋をたててすみ、山地を開墾している民)の大半が安慶府の出身者であり、江北からのこのような移住者、出稼ぎ者は、安慶人と総称されていたらしい。自然災害や人口増から故郷を離れ皖南にやってきた安慶人は、徽州人の地主から劣悪な条件の山地を借りて山上に住み、食糧用にとうもろこしを植えるとともに、杉を栽培し、炭を焼いたりして生計をたて、何とか村の土地を買い、山から村に移り住んでいったという(渋谷裕子「清代地域社会における棚民像―安徽省徽州府を中心として」)。安徽とは安慶の安と徽州の徽からなるが、いつも江南から江北を見下していたのではないかと思うと、複雑な気持ちになる。
 安慶地区で発達した黄梅戯はやがて皖南にも伝播するが、それは江北からの移住者や出稼ぎのルートに沿って広まったらしい。茶摘みの時期にはたくさんの労働者が江北から皖南にやってきたが、その中の芝居好きや半玄人たちが、臨時に小屋架けし、夜上演したり、雨天には祠堂や廟宇を借りて出し物を振る舞い、働きに来た男女を喜ばせ、何がしかの喜捨をせしめたという。
 王振忠、汪冰によれば、この黄梅戯もまた鳳陽花鼓と関係浅からぬらしい。明清期、災害に見舞われることの多かった黄梅(湖北東端)一帯から淮河流域にかけて(江淮平原)は、災民が行ったり来たりしていたというから、流浪する飢民の間で、互いの芸が真似たり真似られたりすることも、大いにあったと思われる。


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逆耳順耳 

   矢吹 晋

『北京週報』との和解

 九八年五月二九日、私は天津市の豪華ホテル・ハイヤットにいた。中国社会科学院日本研究所および天津市人民政府発展研究中心の招きで、シンポジウムに参加するため訪れたものである。
 私は今年花甲を迎えた。中国研究を初めてン十年になるが、中国側に招かれて発言の機会を与えられたのは、これが初体験である(正確にいえば、九二年八月、広州で開かれた華南経済圏のシンポジウムに参加し、発言しているが、その主催者は日本の広州総領事館であり、中国側ではない)。
 レセプションの席で、『北京週報』の林国本氏がにこやかに話しかけてきた。
「よくいらっしゃいました。いつぞやのトラブルですが、私は先生にご迷惑をおかけして申し訳ないと思っているのです」。「昔の話ですね」と私が応じた。
 そこで林氏、少し姿勢を正していわく、「当時『北京週報』として謝罪しなかったのは遺憾です。いま私がここでお詫びします」。
 いやいや林先生、もう忘れましたよ、と私は照れた(林国本氏は当時、東京特派員であった)。
 数カ月後の一〇月八日、大学の研究室に『北京週報』東京特派員の賀雪鴻女士が見えて、小一時間インタビューされた。しばらくして取材メモがファックスで送られてきて、掲載してよいかという確認があった。私は了承した。
そこで日の目を見たのが、以下の原稿である。タイトルは「目覚めた中国──市場経済へ進む中国について、矢吹晋教授に聞く」である。これは『北京週報』九八年 分割禁止 一一月一七日号、第四六号、二七〜二九頁に「本誌特派員賀雪鴻」による記事として掲げられた。その内容は、私の持論を繰り返したものであり、特に目新しい意見はなにもない。ただ、編集部があえてこの記事を掲げたのは、私と編集部との和解を示すシンボルであろう。私はこの和解を喜び、『蒼蒼』の誌面を借りて、経緯を少しく説明させていただいた次第である。
 ご用とお急ぎでない方は、『北京週報』九〇年四七号、四八号、四九号および五二号の関連記事をめくっていただきたい。中国も変わり、『北京週報』も変わり、矢吹も変わる。私自身は「不打不成相識」(ケンカは仲良しの始まり)の俗話をかみしめた。九八年一一月二五日、江沢民来日の夜に記す。
    
「目覚めた中国──市場経済へ進む中国について、矢吹晋教授に聞く」

 今年は中国の改革・開放政策実施二〇周年に当たる。二〇年来、とりわけこの一〇年間、計画経済から市場経済へ移行する過程で中国の経済社会は、大きな変貌を遂げた。同時に経済発展に伴うさまざまな問題も生じている。このほど、記者は著名な中国経済の専門家、横浜市立大学商学部の矢吹晋教授にインタビューした。以下は、その内容である。
記者 中国が改革開放政策を実施してすでに二〇年の歳月を経ましたが、この二〇年間の中国の変化をどう見られますか。
矢吹 改革・開放の政策に転換する前、すなわち計画経済の時代には、中国は国際的に孤立した状況にあり、そのため経済的発展が立ち遅れました。しかし、一九七八年に改革・開放政策に転換して以来、これまで眠りに落ちていた中国経済がようやく目覚めたという印象をもっております。私はさきごろ『図説・中国の経済』という本を書きましたが、この本の英訳版のサブタイトルは「巨人が目覚めた」というものです。実はこれはフランスのナポレオンの警句なのです。中国はよく「眠れる獅子」と呼ばれましたが、いつか目覚めてそのときには、世界を揺るがすであろうと彼は予言したのです。中国が長い眠りから目覚め、二一世紀に向かって勢いよく発展している姿は、まさにこのナポレオンの警句を想起させるものがあります。
 一九四九年に中華人民共和国が成立したとき、毛沢東は「中国人民は立ち上がった」と天安門上で宣言したのですが、その後、試行錯誤を重ねて、実際には、中国経済がなかなか進みませんでした。ところが、○(登+都−者)小平氏の新しい政策に転換して以後、今度こそ、中国経済は真に目覚めたのです。当初は沿海地区が目覚めただけでしたが、その後、市場経済の波は少しずつ内陸部に波及し、いまや中国大陸全体が覚醒しつつあるという印象をもっています。
 アジア地域全体の経済を概観すると、まず日本経済の高度成長が約三〇年間続きました。その後、韓国、台湾、香港、シンガポールのいわゆる「四匹の小さな龍」が高度成長期を迎えました。さらに、タイ、マレーシア、インドネシアなどのいわゆる「三匹の小さな虎」がこれに続きました。このような動きに追いつき、追い越すかのごとく、中国経済の高度成長が始まりました。改革・開放に転換して以後も、いくつかの曲折がありましたが、九二年初の○小平氏の「南巡講話」以後、本格的な高度成長期に入りました。この成長の波はおそらく、すくなくとも約三〇年程度は続くものと予想されます。これは経済の離陸期には比較的長期にわたって高度成長が続くという「経験則」による見通しです。いわば勘によるものです。この大きな流れは、昨年来のアジア通貨危機による混乱によっても変わることはないと私は見ています。
 毛沢東は半植民地の中国を独立させる事業においては功績を挙げたのですが、その後の経済建設においては大きな失敗をくり返して、結局成功できなかったと思います。これは中国だけの失敗ではなく、旧ソ連でも東欧でも、すべて失敗したわけですから、問題は計画経済体制と考え方自体にあったことがわかります。
 その反省の上に各国は市場経済への転換をはかりましたが、独立国家共同体(CIS)ではその過程で大きな困難に直面しています。東欧では順調に進めている国もありますが、旧ユーゴスラビアのように、分裂状態に陥ったところもあります。割合順調なのは中国とベトナムであると評価できると思います。
記者 今年三月、朱鎔基総理が国務院の仕事を主宰するようになって以来、国有企業の改革、政府機構の行政改革、金融改革など一連の新しい改革を推進していますが、これをどう思われますか。
矢吹 私は朱鎔基総理のリーダーシップをきわめて高く評価しております。なによりも人格が清潔ですし、エコノミストとしての能力も抜群ですね。○小平氏が「経済の分かる男」と評したのは、正しい評価であると思います。ですから、朱鎔基総理の陣頭指揮のもとで、中国経済の舵取りには大きな問題はないと見ています。
 ただ、感想を加えるならば、これらの改革にはもっと早く着手すべきでした。市場経済の進展に対応して、その動きに遅れないように改革のプログラムを提起できればよかったのですが、さまざまな理由から、少し遅れており、その結果、改革の実行がより困難になったと見ております。朱鎔基総理が三年で改革を断行すると公約しているのは、遅れを取り戻すために、背水の陣の構えで臨む決意だと思います。エコノミストとしての朱鎔基氏の実績は、過去数年の中国の経済指標としてすでに現れています。たとえば外貨準備高は九三年には約二〇〇億ドルでしたが、九七年には約一四〇〇億ドルであり、七倍に増えています。貿易は九三年には一二二億ドルの赤字でしたが、九七年には四〇〇億ドル以上の黒字です。海外からの直接投資の受入額も著しく増加してきました。これらは、人民元の交換レートが安定していることによってもたらされたものです。つまり、正しい為替レートを設定することによって、中国経済と国際経済とのリンクを確実なものとすることができたわけです。国内総生産(GDP)の成長率を割合高い水準に維持しつつ、物価を安定させるというマクロ・コントロールにおいても成功したことはいうまでもありません。
 政府機構の改革案のなかで、私が最も注目しているのは、国家計画委員会を国家発展計画委員会に改組し、国家経済貿易委員会を大幅に拡充する構想です。計画経済を推進した時代には、国家計画委員会の役割が重要でした。いまや市場経済の時代ですから、国家発展計画委員会の役割は相対的に小さなものになり、市場経済を推進する役所としての国家経済貿易委員会の役割が大きくなります。時代の要請に合わせて断固とした改革を行う決断力は尊敬に値します。日本では行政改革の実行があまりにものろく、中国のスピードと対照的です。

記者 アジア通貨危機という嵐のなかで中国の開放政策は軌道修正が必要だとお考えですか。
矢吹 中国の人民元が資本取引を含まない、経常収支ベースで外国通貨と自由に交換できるようになったのは、九六年一二月にIMF(国際通貨基金)規約の「第八条」適用国になったときです。中国の開放政策は、まだドアを半分開いただけの状態にたとえることができます。このため、中国は嵐の襲撃に対して巧みにこれを防ぎ、被害を最小限にできたと思います。
 問題は今後の対応です。ヘッジ・ファンドの暗躍のように、世界経済を攪乱させる要素はいろいろありますが、だからといって開放政策を遅らせるのは、賢明な措置であるとは思えないのです。中国が人民元を資本取引をも含むレベルで自由化し、またWTOにも積極的に参加していく方向は、世界経済にとっても、中国経済にとっても、ぜひとも必要な道です。だから結論は、一方では世界経済の秩序作りの再検討を進めつつ、他方で十分な国内対策を用意しつつ、着実に開放政策を進めることこそが唯一の選択肢であることを確認することだと思います。いいかえれば、鎖国経済への逆戻りは、中国をふたたび孤立化させる道であり、孤立化した時代に中国経済が大きく立ち遅れた事実をかみしめるべきでしょう。だから、この選択肢はありえないでしょう。

記者 市場経済への歩みのなかで、中国にはさまざまな問題が現れていますが、これらの問題を先生はどう見られますか。
矢吹 中国は人口大国であり、歴史大国ですから、問題も山積しています。ただし、多くの問題を単に列挙するだけでは、解決への道を探ることは不可能です。私の考えでは、問題を現実的に提起すべきであり、そのような問題提起によってこそ現実的解決が可能なのです。人々の生活にとって最大の問題は雇用を確保し、失業者を減らすことではないでしょうか。そのためには経済成長のテンポを高く維持することが必要です。ハイテクだけではなく、時にはむしろロウテクによって雇用を可能なかぎりふやし、人々の生活を保証することが肝要ですね。
 中国政治においては、中国共産党が指導する体制のもとで、「民主集中制」のうち「集中」はやりやすい。これはメリットですが、その反面として汚職や腐敗の危険性は大きいことに着目すべきですね。政治の民主化の問題は「敏感な問題」ですが、私は経済的条件が整わない段階で政治改革を急ぐのは賢明ではないと考えています。韓国や台湾、シンガポールでは高度成長期を経たあとで、経済的社会的条件の成熟を待って段階的に民主化を進めたので、成功しています。これに対して旧ソ連では、「ショック療法」あるいは「ビッグ・バン・アプローチ」のような形で一挙に民主化を進めようとした結果、混乱に陥りました。私は韓国や台湾の経験は「正面教師」であり、旧ソ連の経験は「反面教師」であるとみています。中国はこれら二つの経験と教訓から多くのものを学べると思います。地球環境問題や地域環境問題は、それぞれに軽視できない問題です。これらの問題は経済成長の過程でのみ、解決への道を模索できるはずです。経済成長が問題を発生させるから、経済成長自体を止めるべきだという議論には私は賛成できません。経済成長は問題を発生させると同時に問題を解決する条件をも作ることに着目すべきだと思います。「持続的発展の道」というコンセプトを私はこのように考えています。

記者 近年の中日関係についてどうお考えでしょうか。
矢吹 日中経済協力が広まり、深まりつつあることは、周知のとおりですが、私は最近、日中間の相互誤解の大きさに衝撃を受けました。日本経済の不況が深刻であり、そのために日本から中国への直接投資は今年は、近年来初めて実行ベースで対前年同期比減少になります。直接投資と貿易は深くかかわっており、日中貿易も今年は対前年同期比で減少確実ですね。これは基本的に日本経済が苦境にあるためです。その結果、日本円が売られ、円安になっています。この現実について、中国側には、日本が意識的に円安を政策として実行していると誤解したり、あるいは中国から日本への輸出(日本の輸入)が増えないのは、意図的な政策のためだと誤解している向きがあります。国交正常化以来二五年以上経て、中国側の日本経済に対する理解は深まったはずだと私は解釈していたのですが、いくつかの現象をすべて日本の政府や大企業の意図的な政策によるものとみるような誤解は、市場経済体制のもとでは、政府の機能に限界があることを忘れた議論ですね。
 計画経済の要素をまだ残している「中国経済を見る眼」で日本経済を見ることは大きな誤解につながります。同じことは日本側の中国理解についてもいえます。過去一年、日本のマスコミは「人民元切下げは必至」と間違った観測を書き続けました。彼らは朱鎔基氏の舵取りのもとで、中国のデット・サービスレシオがどのように改善されたのか、中国の外貨準備高と対外債務残高との関係はどうなっているのか、アジア通貨危機以後の環境で中国の輸出商品の競争力はどうなっているのか、といった具体的な条件を検証することなしに、中国経済の実力あるいは底力をみくびって、間違った記事を書き続けたのは、きわめて遺憾だと感じています。中国経済の実情に疎い若い日本記者たちは、不況のなかで疑心暗鬼になっている日本読者の願望に合わせて中国を描いており、それは中国経済の実像からはるかに遠いのです。
 二一世紀の日中関係を豊かなものにするためには、日中双方とも、自国の物差しに合わせて相手を測るような愚行を避けるべきだと思います。私の尊敬する先達朝河貫一(一八七三〜一九四八、比較法制史家)はかつてこう指摘しました。「外交とは、相手の精神の理解をとおして、自分の目的を達成することである」と(『朝河貫一書簡集』所収)。
 日本は中国の人々の考え方をもっとよく理解すべきですし、中国の友人にもまた日本理解を深めて欲しいと希望しています。


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