蒼蒼ロゴ

第82号


序 変革迫られるチャイナ・ウォッチング  高井潔司(読売新聞論説委員)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋
白石和良氏の「『蛇頭』考」について 高木誠一郎(埼玉大学教授)


序 変革迫られるチャイナ・ウォッチング
二度にわたる中国駐在経験で肌で実感したこと

 一九九七年二月、最高実力者=〇(登+都−者)小平が死去し、中国は革命世代による元老支配から第三世代の統治に移った。私はこの間、一九九六年一月から九八年一月まで北京に駐在し、この変化を身をもって体験した。
 九六年一月といえば、すでに〇小平が公の席に顔を出さなくなってから、二年を経過しており、その後継者=江沢民国家主席(党総書記兼務)を中核に、ポスト〇小平体制が形成されようとしていた。そして、駐在期間中には、台湾総統選挙をめぐる中国のミサイル演習危機、〇小平の死去、香港の返還、江沢民国家主席による米国公式訪問と米中関係の改善、朱鎔基の首相内定をはじめとした第十五回党大会での新しい人事体制の決定など、中国をめぐる内外の重要な動きが集中した。それらの動きを通して、第三世代に率いられた中国の進む方向も、ある程度示されたといえよう。
 中国はいまや、二十一世紀に向け助走を終えた感がある。
 経済改革が正念場を迎え、経済の先行きがいま一つ不透明とはいえ、天安門事件以来、米大統領としては初めてというクリントン大統領の中国訪問によって、米中間の「戦略対話」が定期化した意味は大きい。中国の国際社会での位置が、これによって安定化し、安全保障や経済、人口、環境、エネルギー、食糧など様々な方面で二十一世紀の不安定要因ともいえる「中国問題」の議論の先行きが、かなり見えてきたと言えるのではないだろうか。
 実は今回の駐在は、私にとって二回目の赴任だった。前回は八六年に、上海支局を開設するために一年間上海に駐在し、さらに引き続き八七年から九〇年まで北京に駐在した。〇小平に率いられた改革・開放路線は試行錯誤を繰り返していた時期で、胡耀邦、趙紫陽という〇小平が後継者として育ててきた二人の総書記が失脚した。(注1)
 八九年四月の胡耀邦の死去をきっかけに発生したいわゆる天安門事件(中国では「六・四」という)も直接、現地で体験した。
 二度にわたる駐在で大きな事件を体験したこともさることながら、八〇年代後半と、今回の九〇年代後半の中国の経済、社会状況の違いや変化を、直接、現地で比較することができたのも、大きな収穫だった。


品不足経済から過剰経済へ──中国市場は根本的に変化した

 八〇年代の赴任では、テレビや冷蔵庫、洗濯機といった電気製品は、日本からわざわざ持ち込んだものである。当時、中国国内で出回っていたこの種の家電製品の多くは輸入品であり、中国の国産品は質が悪く使えるような代物ではなかった。しかも、商品の数が限られていただけでなく、「購買切符」が無いと買えない物も多くあった。八〇年代半ば、上海の南京路のデパートのショーウィンドウには、ソニーのウォークマンが飾ってあったが、それはあくまでも飾りであり、店内では販売されていなかった。
 市場経済(当時は「商品経済」と呼んでいた)はまだ緒についたばかりであり、海のものとも山のものともわからなかった。商品の数が圧倒的に少なかったのだ。商店で品物を手にとって見るなどということは、この売り手市場ではほとんど有り得なかった。商品は、盗まれないようカウンターの内側に陳列されていた。よく中国というと、店員のサービスが悪く、商品を投げて寄越すといわれるが、それは売り手市場での「売ってやる」という当時の姿勢がまだ抜け切れていなかったからだ。品不足だから、八八年の価格改革(公定価格の商品を、市場価格に切り替える。したがって実際には価格の引上げとなる)で、物価が上昇し始めると、人々は先行き不安から買い溜めに走ったし、特権を持つ幹部およびその子弟は、二重価格に目を付け、その権力を使って公定価格の物資を市場に横流しして、私腹を肥やし、庶民の不満を買った。そうした不満が天安門事件の背景にあった。学生のいう民主化などといった抽象的な要求だけで、大衆がついていったわけではない。
 その当時の経済状況と、九二年、〇小平がいわゆる「南巡講話」(注2)を行い、改革・開放の加速を指示し、高度成長政策を推進した以降の状況では全く違う。同じインフレ・物価高ではあったが、都市でも、農村でも九〇年代は実質所得が上がっており、商品もあふれるほどに豊富になった。
 九〇年代初め、日本の多くのチャイナ・ウォッチャーや経済専門家は、中国の高度成長がいずれ破綻をきたし、天安門事件が再燃することを予言した。しかし、それは、八〇年代と九〇年代の経済状況の根本的な違いを知らず、物価上昇率という数字だけを見て、天安門事件前夜より数字が大きいから、大衆は不満を持っている、「中国の共産党体制はいずれ崩壊する」という偏見としか言いようのない安直な分析で予測を展開していたに過ぎない。
私は九五年一月に発表した「日本国際フォーラム」の政策提言「中国の将来とアジアの安全保障」の執筆グループに参加し、その提言を基に出版した『中国の時代』(小島朋之編著、三田出版会)の中で、そうした八〇年代と九〇年代の比較の重要性を指摘したことがある。つまり、九〇年代初めの物価上昇率は、天安門事件前夜を上回っていたが、国民の実質所得の伸びは事件前のようにマイナスではなく、プラスであり、商品も豊富で、貯金を下ろして買い溜めに走るといった社会不安が発生する可能性のないことを指摘した。  しかし、それは日本にいて、中国の資料を読むことによって、推論したことだった。二度目となった今回の駐在では、その違いを体で実感することになった。もちろん内陸の農村部にはまだ市場経済の効果は十分に波及していないが、沿海部のどの都市でも、近代的なデパートや商店に生まれ変わった店頭には商品があふれ、商品を直に手にとって買い物を楽しむ市民の姿が見られる。それは日本をはじめアジアのどの都市とも変わらぬ光景だ。中国はいまや家電、繊維、軽工業品の輸出大国に成長し、国内でも商品があふれ、買い手市場に生まれ変わった。
 わずか七、八年しか経たないというのに、駐在にあたって、テレビなどの家電製品は持ち込む必要がない。それどころか、日本で購入する場合、よく表示を確かめないと「メイド・イン・チャイナ」の製品を買って、わざわざ日本から運ぶという事態になっている。むしろ、中国では現在、九〇年代初めの投資が、過剰で、重複したことが問題化しており、家電、繊維を中心に遊んでいる生産ラインをどう整理し、あらたな消費拡大のためのリーディング産業をどこに見つけるかが大きな課題となっている。(注3)

改革の途上、市場化の流れの中で問題を見据える

 十年をはさんでの二度の中国駐在経験でひしひしと感じたことは、こうした生活面の変化だけでなく、中国が政治、経済、外交などさまざまな分野で、大きな転換を遂げたということだ。中国は十年位のスパンで見ていくことが、重要ではないだろうか。
 長いスパンで見れば、中国が変化の真っ只中にあること、言い換えれば発展の途上、改革の途上あるいは計画経済から市場経済への移行期にあることが見えてくるし、そうした変化の中で、発生している現象を分析、予測する目も育ってくる。そうすれば、ある現象の展開が、単なる過去の繰り返しではなく、別の展開もあり得るという幅のある分析にもつながってくる。もちろん過去の繰り返しという側面も全く無いわけではないが、改革の途上、市場化の流れにおいて見るという視点が必要である。
 例えば、国有企業改革は、その推進によって当然、大量の失業者が生じるが、それだけで中国の危機を説明されては困る。そもそも現状からして、企業内に潜在的な失業者を大量に抱えているわけで、それが企業の業績悪化につながっている。世界貿易機関(WTO)への加盟を控え、現状の体質では、国際的な競争にさらされれば共倒れになってしまうという危機感がまず当局にある。現状維持という選択肢は有り得ない。あるのは現状からの後退か、改革の推進かの選択肢しかない。そこで、改革が選択されたのだから、改革によって何が変わり、変わらないか、を分析することが重要で、問題点の羅列だけでは、前途の予測は成り立たない。
 民営企業の奨励や第三次産業の振興という改革によって、雇用を創出することもできる。また社会保障制度の改革によって救済される部分もある。国有企業のリストラによって生じる失業者の数を予測するだけで、将来の危機を結論するのは一面的だ。改革によって創出される雇用もカウントしなければならない。  この問題は、第四章で改めて論じるが、中国の懐は深い。改革の対象となる問題点や無駄は余りにも多く、大きい。だから、改革の前途は困難であり、厳しいのだが、逆にそれだけ改革の余地があり、そこに改善、発展の余地も見出だせるという点も忘れてはならない。
 この二十年間の発展も、実は、単なる資本と労働力の投入によるだけではなく、そうした改革によるところが大きい。
 例えば、経済の成長率に比べ、エネルギー生産の伸びの見通しが相対的に低く、それが成長を制約すると予測されてきたが、エネルギーの生産伸び率とGDPの成長率の比(弾性値)を見ると、八一〜八五年は〇・五七、八六〜九〇年は〇・五一、九一〜九五年は〇・三七で、エネルギー効率が高まっていることがわかる。省エネという“改革”によって、エネルギー生産の不足を補ってきたのだ。(注4)

「中国学の権威」の中国万年危機論の誤り

 「中国は危ない」と言っている方が、保険が効くためか、あるいは中国の改革がうまくいくはずがないという偏見からか、日本では実態から離れた中国報道や分析がまだまだ目立つ。そのために、日本の対中投資や貿易は拡大基調にあるのに、ジャーナリズムにおいては「中国崩壊論」「中国脅威論」が逆に盛んで、あらたな日中関係の発展にブレーキをかけるという構図も生まれている。
 私も決して中国情勢を一〇〇パーセント楽観的に見ているわけではない。私が言いたいのは、中国情勢は、改革・開放路線の展開にしたがって、大きな変化を遂げており、その時々の課題も、危機的要因も変わってきており、その実態に合わせて、こちら側も見方や分析の仕方を調整していく必要があるということだ。  かつてのような独裁体制の下では、自身の欠陥、問題点について、中国は自ら明らかにすることはなかった。もし、問題点を明らかにするとすれば前の政権のせいか、帝国主義の責任に帰した上で、指摘したものだ。
 だが、改革を推進する政権の下では、自らまず問題点、欠陥のあることを認めた上で、だから改革をする必要があるという立場に立つ。したがって、そうした体制改革を、報道したり、研究したりする側も、その見方や分析方法を、変化に合わせて調整する必要があろう。
 しかし、依然として独裁体制と見なして、報道や研究を進める場合、中国自身がいったん問題点、課題を明らかにすると、「そら見たことか。体制自身がその問題点を認めているのだから、よほど深刻で、これは崩壊する以外に無い」という予測に終わってしまう。
 「中国学の権威」と称される学者や評論家のグループの中に、ここ二十年来、「中国崩壊」のご託宣を流し続け、誤りを重ねている人がいるが、彼らの発想の誤りは文革時代の中国と改革・開放時代の中国を、混同している点にある。(注5)
 彼らは改革という要素を考慮の外に置いているため、難点ばかりを指摘して、それで「崩壊」という予測を立てる。だが、そうした難点は、改革政策、また外からの支援、協力を得る開放政策によって緩和され、解消される可能性があるということがわからない。彼らの場合、常に、外部から中国を見ているために、時代の変化を実感していない。そればかりか、日本や欧米の基準で、中国を一刀両断し、それによって誤りを重ねても反省することがないから、始末に負えない。
 先に述べたように、改革を志向する体制は、改革すべき対象があることを前提に成立している。その上で、その問題点をどう解決、克服するかという青写真も示すわけで、ウォッチする側は当然、そこまで含めて検討する必要がある。「独裁体制は、どうせ崩壊する運命にある、そして自ら問題点を明らかにしている、だから崩壊は早い」との結論を導くのでは、余りにも安易過ぎる。改革体制をウォッチするには、複眼で、長期的な視点が必要なのだ。
 特派員やチャイナ・ウォッチャーの間には、中国は悪く言わないと、中国に操られていると見られるのではないかといったコンプレックスがあるように見受けられる。過去のチャイナ・ウォッチャーたちが、中国にまんまと騙され、文化大革命を礼讃してしまったことが影響しているのであろう。(注6)

過去の偏見を正して見れば、中国は分かりやすい国になりつつある

 中国に駐在している限りにおいては、中国は、以前に比べて、かなり分かりやすい国になりつつあると感じる。もちろん、「以前に比べて」という条件付きだ。情報公開や報道の自由が制限されているこの国での取材の難しさは言うまでもない。外国人記者の取材を受けること自体危険だと、殻の中に閉じこもる当局者も多いし、いまだに公安の目が光っているのも事実だ。外国人記者をスパイ扱いして、拘束する事件もある。ただ、開発途上国の代表格として、先進諸国と立場を異にするケースもあるものの、国連の場においても、安全保障理事会常任理事国として、国際社会と協調しながら行動しているし、環境保護問題やエネルギー問題などで国際社会との対話に積極的に応じるようになった。国際経済により一層深く参入するため、市場経済化にも努めている。それは中国の改革・開放路線の当然の帰結であるし、冷戦終結の成果でもある。核実験の停止や人権問題での改善についても、この国がいかに国内の動向を見ながら、国際社会と協調しようとしているか、という協調外交の航跡(注7)を読み取っていく必要があろう。江沢民、クリントン両首脳の相互訪問はそうした流れの中で進められた。
 その複雑な対応と改善の歩みは、この国の歴史や情勢を踏まえれば、かなりの部分、理解可能である。理解できないのは、むしろ冷戦思考から抜け切れず、中国を過大に評価したり、逆に過小評価しているからだ。そうした人たちは、脅威論や崩壊論では、説明できなくなると、中国が日本の頭越しでアメリカと交渉し、「日本外し」を始めたと、今度は「警戒論」を流し始める。
 偏見ともいうべき中国論が市場を持つのは、まず、中国情勢が変化の途上にあり、不透明であることからきている。と同時に、中国を観る側の姿勢の問題にも関係している。中国は依然、表向き、共産党の一党独裁の国であり、同時に、分断国家であることから、現政権への不信感を増幅させるために、為にする情報が常に反対勢力から流されるという事情もある。アメリカ在住の反体制団体や台湾当局及びその周辺から出てくる情報である。
 さらに、かつて日本が中国を侵略したという歴史問題が日中両国の間に横たわり、その責任をめぐる非難の応酬によってわだかまりが生じ、両国間の理解の増進を阻んでいる。
 私は、九六年四月に、蒼蒼社より『中国情報の読み方』を出版した。中国報道の舞台裏などを明らかにしながら、あふれる中国情報を、どう読み解き、どう中国情勢を読むか、そして中国とどう向き合っていくかの方法を考えた。その中で強調したのは、爆発する人口や遅れた経済・教育水準を抱える中国の国情、共産主義とナショナリズムが容易に結び付く被植民地支配の歴史を踏まえながら、長期的な視点で、中国を見ようという内容だった。また東西冷戦後、経済という絆は、西側世界だけを結んでいるのではなく、改革・開放の中国とも密接な関係を形成しつつあり、もはや中国を封じ込める、あるいは中国の政権を崩壊の危機に追いやることなどできなくなっているという冷戦後の枠組みも指摘した。そうした視点や認識こそが、複雑にからんでしまった「理解の糸」をほぐし、冷静な分析をもたらしてくれる。
 台湾海峡でのミサイル演習の処理、対米、対日関係のその後の展開、あるいはポスト〇小平体制の推移などに関連して、一部のチャイナ・ウォッチャーは終始、悲観論を振りまいてきた。だが、私は、以上のような視点から楽観的に見てきたし、結果は、かなり私の予測に近いものとなったといえるのではないか。幸い『中国情報の読み方』は台湾で中国語訳されて、台湾海峡をはさんで、大陸と台湾の両岸で、穏当な見方として、積極的な評価を頂いた。(注8)

しなやかな変化をもたらす中国社会の二重構造

 しかし、前著『中国情報の読み方』での分析や方法論が十分というわけではない。この二年間、中国は市場経済化に向けてさらに進展する一方、国際社会における中国の地位はますます重要になっており、より透徹した中国観が求められている。チャイナ・ウォッチングにも「王道」はなく、常に情勢の変化に対応して、その見方を充実させていく必要がある。
 私は中国滞在の二年間、すでに紹介した数々の中国をめぐる事件の取材を通じて、多くの収穫を得ることができたし、チベットなどの現場取材を通じて少数民族や中国社会に対する見方も深まった。また、第十五回党大会の前後に、読売新聞紙上で発表した長期連載「中国共産党」(注9)や、帰国後の九八年二月から三月にかけ同じく読売新聞紙上で行った長期連載「二十世紀はどんな時代だったか」の一環として掲載した「中国革命」編(注10)の取材、執筆を通して、この国の複雑な現代史にも、さらに目を開くことができた。まだまだ不十分ではあるが、そこから現在の中国を見る目も、以前より豊かになったと自負している。  また長期駐在で、中国社会の二重構造を以前にも増して強く感じたことを指摘しておきたい。前著でも、「儒教と道教」の二重性を取り上げ、それが支配層と非支配層の二重構造を生み出してきたと指摘した。それが「上に政策あれば下に対策あり」という言葉に象徴されるように、中央で決定された政策がなかなか下部に浸透しないという現象も生み出している。
 中国には「天高皇帝遠(天高くして皇帝遠し)」ということわざがある。「支配者の力は遠隔の地に及ばないもの」(現代中国語辞典、光生館)という意味だ。例えば、改革・開放路線の下で、農民が農業を捨て、設立した郷鎮(農村)企業、私営企業の先進基地として知られる浙江省温州市などはその典型だ。温州市では、中央政府のある北京の目から遠いのをいいことに、文化大革命の時代から資本主義をやっていたとさえいわれる。その基礎の上に、いち早く、農民たちが家庭単位で簡単な設備、技術を使い、ボタン加工から靴製造などの事業を起こした。
 温州市は急速に発展し、郷鎮企業の一つのモデルとして、内外の注目を浴びた。しかし、郷鎮企業が一定の発展規模に達すると、何と今度は、ニセブランド商品の製造で有名になった。そして、九〇年代初め、アメリカなどとの間で知的所有権が大きな摩擦要因となった時、温州市は批判の対象となり、落ちた偶像となった。
 中央が引き締めれば活力を失い、緩めるとルールもモラルもない混乱に陥るのが中国の二重構造の特徴だ。中国当局が、新聞紙上で「市場経済は不道徳経済を意味するものではない」と、キャンペーンを張らなければならないほど、極端なブレを示してしまう。
 温州市を挙げなくても、中央政府のお膝元の北京市政府でさえ、中央政府が介入できないほどの独立王国ぶりを発揮してきた。文化大革命を上海から発動した毛沢東もかつて北京市政府を「針一本通せない」と嘆いた。八〇年代に入っても、北京市政府を牛耳っていた陳希同・市党委書記(中央政治局委員兼任)が、市政府ぐるみの汚職を重ね、九〇年代初め、事件が発覚した。その不正が裁かれたのは、九八年に入ってからだ。
 中央政府が、地方政府や末端の行政機関に対し、毎年のように、農民から、法律によらない負担金を徴収してはならないと、指示を出すことが恒例になっているのも、中央は中央、地方は地方という二重の構造があるからだ。
 それは、法治主義が浸透しない封建的な政治風土の温床となっている。その反面、同じ一枚岩だが柔軟性がなく、もろくも崩壊した旧ソ連とは違って、一党独裁の弊害をも吸収する柔構造を形作っている。それどころか、第三章で紹介するように、人民公社の解体を促した農村部での家庭請負制や中小の国有企業改革を促す民営化や株式合作制といった改革政策が、末端から創造される基盤となっている。

グローバルな視点から中国を観て、日中関係を考える必要性

 社会主義の理想を追求した毛沢東は、一党独裁を貫くためにも二重構造を排除しようと、末端にまで社会主義運動を浸透させたり、あるいは末端から社会主義運動を展開して、末端の活力をそいでしまった。これに対し、〇小平は、毛の失敗を参考に、中央は弊害の出てきた時にだけ力をふるい、平時は権限を下に移し、末端の活力を発揮させる改革・開放路線を進めてきたという図式が描けるだろう。
 そうした二重構造は、政治や経済だけでなく、様々な社会現象においても現れてきている。例えば、政府の厳しい出入国管理体制や密輸取り締まり命令にもかかわらず、末端では警察や軍をも巻き込んだ密出国や麻薬、偽札、銃などの密輸といった犯罪がまかり通っている。日本をはじめ周辺国にまで害を及ぼし、社会主義の看板とは、およそかけ離れた「犯罪王国・中国」というイメージさえ生まれ始めている。
 当然のことながら、二十一世紀において、この二重構造の克服は大きな課題である。少々、類型的な発想だが、朱鎔基首相の誕生はそうした課題克服の方向を示しているかもしれない。革命派の毛は集権型、改革派の・は分権型だが、朱首相は改革派でありながら集権的傾向を持つ中庸の指導者である。上海市長時代、朱鎔基は、妊婦を殴ったバスの車掌がいるとの記事を新聞で読んで怒り、解雇しようとした。しかし、法律専門家に、それは市長として越権行為であり、法律を侵すことになると指摘されると、自己批判し、その経緯を新聞紙上で明らかにしたという。二重構造のバランスをどう取り、最終的にそれをどう解消していくのか、彼の時代には、課題克服に有利な条件が整いつつある。

グローバリゼーションとナショナリズムの折り合いをどうつけるか

 さて、帰国をはさんで、江沢民国家主席の訪米(九七年十月)、クリントン大統領の訪中(九八年六月)という二十一世紀の中国を方向付ける画期的な相互訪問が実現した。相互訪問については、第五章で詳しく論じるが、それによって、中国はアメリカとの建設的で戦略的なパートナーシップの確立に合意し、国際社会において、大国としての役割を担う切符を手に入れた。それは第二章で見るように、二十世紀の中国が、大きな屈辱と混乱を経ながらも、二度にわたる革命と改革・開放を通して実現したものであり、ナショナリズムの成果といえよう。
 だが、冷戦体制を克服した国際社会には、民主主義と市場経済を旗印に、グローバリゼーション(中国語では「全球化」)の波が押し寄せようとしている。これは、中国のナショナリズムと相対立する傾向でもある。天安門事件後、中国は一時期、国際社会から孤立状態にあった。事件の直後、中国は、外からの内政干渉によって共産党体制が崩壊することを警戒し、グローバリゼーションの波にとても付いていける状態になかった。しかし、九二年に、〇小平の号令の下、改革・開放路線に復帰した中国は、対外的には、国際社会との協調路線を進めてきた。
 二十一世紀を前にした中国のナショナリズムは必ずしも、排外主義ではない。むしろ対外開放を推進することによって、国力の充実を図ってきた。クリントン訪中を無事こなした江沢民国家主席は、九八年八月、海外に派遣している大使を一同に集めた五年ぶりの大使会議で、グローバリゼーションについて、以下のように明確に、対処方針を明らかにしている。
 「国際経済の領域において、人々の関心をあまねく集めている趨勢がある。すなわち経済のグローバリゼーションである。それは世界経済発展の客観的趨勢であり、人の意思で移行しているものではなく、いかなる国家も回避できない。今日の世界は一つの開放的な世界であり、だれも世界の外にあって孤立して、自身の経済を発展させることはできない。われわれは、しっかりと対外開放政策を実行し、経済のグローバリゼーションに適応し、積極的に国際経済の協力と競争に参画し、経済のグローバリゼーションがもたらす各種の有利な条件とチャンスを十分に利用しなければならない。同時に経済のグローバリゼーションがもたらすリスクに対しても明確に認識しなければならない」
 この発言は、二十一世紀を迎えるにあたっての中国の経済外交の基本方針である。国際社会への、小出しの譲歩に終始してきたこれまでの慎重な歩みとは違って、中国の改革・開放路線が後退しようのない一線をすでに超えたことを示している。
 それでも崩壊したソ連の代わりに中国を見立てて、新冷戦時代の到来を指摘するチャイナ・ウォッチャーもいるが、次のような北朝鮮のグローバリゼーションに対するコメントと比較すれば、どれ程中国が変化してきたのか、いかに中国との対話が可能になったか、がわかろうというものだ。
 「経済の“世界化(グローバリゼーション)”策動は、冷戦が終息してから帝国主義者が執着する新しい支配主義的手法である。冷戦終息後、世界が“一体化”の方向に進むにしたがって、経済も“世界化”されるべきという帝国主義の主張は、本質において世界に対する経済的支配と際限なき国際的略奪の代名詞である。経済の“世界化”は、他国の民族経済を抹殺して経済的従属化を狙ったものであり、世界経済生活を牛耳るためのものである」(一九九八年八月八日付北朝鮮『労働新聞』論説)
 改革・開放前の中国なら北朝鮮と同様のコメントをしたに違いない。現在の中国と北朝鮮の姿勢の違いを見れば、どれほど中国が変わってきたかわかるはずだ。
 もちろん今後の中国は、高まるナショナリズムと迫り来るグローバリゼーションの波の折り合いをどう付けていくかが、課題となる。アメリカとの戦略対話とは、まさにナショナリズムかグローバリゼーションかの二者択一ではなく、対話によって、その折り合いを見出だしていく枠組み作りである。混乱なくその折り合いを付けることが中国のソフトランディングであり、「責任ある大国」への道でもある。それは中国が望む道でもあり、アメリカをはじめ日本や東南アジア諸国などが望む道でもある。
 中国の将来は、アジアの隣国として、アメリカ以上に、日本の将来に関わってくる。したがって、日本にとっても、中国との戦略的な対話が必要である。日中関係は四半世紀にわたって、“友好”をキャッチフレーズに、発展してきた。それは時として、摩擦を避けるために、中国に対する日本の注文をオブラートで包むきらいがあった。しかし、「責任ある大国」としての中国の課題が明確になりつつある今、日本は、中国への国際社会の要請を率直にぶつけていく必要があろう。また、逆に、日本も責任ある大国として、中国からの日本への注文も、堂々と受け止めていくべきだ。
 九七年のタイの金融危機に始まったアジア経済の急速な落ち込みは、日本経済の先行きにも暗雲を漂わせている。そうした中で、改めて、アジアとりわけ中国との関係を、どのような形で再構築していくかという問題が大きな課題となっている。前著『中国情報の読み方』で指摘したように、日本は、中国問題を「対岸の火事」として、野次馬のように見物できるような立場では、ますますなくなりつつある。金融危機の中で、株価や為替レートの変動がいかに連動しているか、各国の経済の動向がいかに連動しているかが明らかになり、誰が諸悪の根源かという犯人探しではなく、直面する課題を各国がどう協調して解決していくかが、真の問題となりつつある。
 中国をどう見るかという問題は、従来にも増して重要になっており、この二年間の特派員生活を基に、『中国情報の読み方』のいわば“パート2”として、本書を執筆した。日中間の理解促進の一助となれば幸いである。

(注1) 『〇小平』(矢吹晋、講談社新書)によれば〇小平は「万一、天が崩れ落ちてきたとしても胡耀邦と趙紫陽が支えてくれるから安心だ」と語っていた。その後、〇小平自身は『〇小平文選』第三巻(中国・人民出版社)三八〇ページで、文化大革命後に自身が実権を握って以来、後継者問題を常に念頭においてきたし、二人の後継者を見いだしたが、「二人とも失敗した。しかも二人とも経済面に問題があったのではなく、ブルジョア自由化反対でつまずいた。これは譲るわけにはいかない」と指摘している。
(注2) 『〇小平文選』第三巻三七〇−三八三ページ。邦訳は『〇小平文選』(一九八二−一九九二年)
(注3) 第四章第二節参照
(注4) 『図説 中国の経済』(矢吹晋・S.M.ハーナー共著、蒼蒼社)七四ページ
(注5) 例えば『中国発の危機と日本』(徳間書店、長谷川慶太郎・岡崎久彦共著)では、中国経済が危ないといった分析が伝わらないのは、中国当局がビザを出さないと記者や駐在員を脅しているからだといった趣旨の発言が続く。事実は、中国経済が大きな難問を抱えていることは中国当局自身認めているところであり、日本の新聞や雑誌でも、危機説の方がもっぱらであるし、そうした悲観的な見方を書いたからといって、新聞社の特派員が追放されたり、ビザを拒否されたなどという話は聞いたことがない。中島嶺雄・深田祐介『アジアは復活するか』(PHP研究所)にも、同様の議論が目立つ。

(注6) 『誤報』(後藤文康、岩波新書)八七−九二頁。朝日新聞の文革報道への批判は多いが、この本では朝日新聞内部での反省の一端を知ることができる。
(注7) 第五章参照
(注8) 『中国情報の読み方』の中国語訳は、楊鴻儒訳『中国真相』(新中原出版社、台北、一九九七年六月出版)
(注9) 一九九七年八月二十六日付から九月二十四日まで連載。一部は本書第二章に加筆収録。
(注10) 一九九八年二月八日付より連載。読売新聞社出版『二十世紀はどういう時代だったか』に加筆収録。



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逆耳順耳 
矢吹 晋

八人組


 「四人組」逮捕は一九七六年のことであるから、すでに二二年を経た。この歳月を経て、歴史の真実が少しずつ浮かびあがってきた。いわゆる「四人組」が江青、張春橋、王洪文、姚文元を指すことはいうまでもない。これに毛沢東を加えて「五人組」とする解釈は当時広く行われたが、「八人組」説は今回初めて知った。
 胡績偉著『従華国鋒下台到胡耀邦下台』(香港明鏡出版社、九七年一一月初版、九八年四月二版)のことは、前から気にしていたが、最近になってようやく開いて、興味津々である。  裏表紙には七六年九月一二日早暁、中南海撮影小組杜修賢の写した一枚のカラー写真が掲げられている。毛沢東の柩の前で手をつなぎあう八人組の姿を鮮明に写している。向かって左から数えると、張春橋、王洪文、江青、華国鋒、毛遠新、姚文元、陳錫聯、汪東興である。この八人組の並び方およびそれぞれが手をつなぎあっている姿、そして厳粛な表情が印象的である。
 七六年九月一二日早暁というのは、九月九日の死去三日後である。そして一〇月六日には、この八人組から「四人組」が作られ、華国鋒と汪東興は「四人組」逮捕の主役を演じることになる。八人組を「一分為二」して対象をしぼり、逮捕劇の主役をそのなかから選ぶという脚本がどのように書かれたのか、粗筋を書いたのは誰かなど、これまでの公認の説明とは異なる真相への道が当時の『人民日報』社長、総編輯の手で切り開かれたわけだ。今年は真理基準論争二〇周年であり、その舞台裏でどのような闘争が行われたのか、華国鋒の功罪をどのように評価するのか、新聞界の覇王胡喬木批判、開明派胡耀邦への挽歌など、この本は「屍を借りて、魂を還す」ことを防ぐための回想録である。「屍を借りて、魂を還す」とは、元来は胡耀邦の言葉だという。すなわち「四人組の捲土重来はありえないが、専制主義の魂を保守派が還すことはありうるので、これと闘うべしとする改革派の気概を示すものである。この本は大陸ではまだ出版を許されていないが、八二歳の胡績偉老自身は大陸で矍鑠と生きている。

ヘビアタマとアタマヘビについて ──白石法学士に答える
 『蒼蒼』第八一号の「蛇頭考」を読んで、感じたことを書き留めておく。


 私はこれまで、二回、白石法学士によって救われた体験がある。最初は、例の何新事件である。なにしろ、中国共産党中央委員会の機関紙『人民日報』(九〇年一二月一一日)がとんでもない捏造記事を掲げたのであるから、私はブッたまげた。おろおろする私を叱咤激励して、抗議文の書き方を手ほどきしてもらった。この恩義は忘れがたい。当時は、天安門事件の直後、そして旧ソ連解体の前夜であった。中国にとって、国家非常時にあたり、中国共産党も『人民日報』も狂ったわけだ。このとき、私は断固とした立場を堅持し、私自身の名誉を守ることができた。それはなにがしかの意味で、『人民日報』自身が頭を冷やす契機になったものと私は確信している。『人民日報』論調のその後の変化は、それを示唆する。いわゆる皇甫平論文である。
 そのときに登場したキーワードの一つが「帯頭羊」である。これは皇甫平第一評論「改革開放の導きの羊たれ」(『解放日報』二月一五日)のタイトルであるから、文字通り「帯頭語」である。この「頭羊」を白石検察官は、どのように説明するのか、興味津々である。
 「羊頭は羊の頭そのものであって、それ以上の意味はないし、したがって、羊頭であるか、頭羊であるかを議論する人もいない」と切り捨ててよいのか。
 蛇や龍についてのみ、「頭脳」を感じ、羊について同じ扱いをしないのは不当である。「羊頭狗肉」は北方世界の話、「狗頭羊肉」こそが南方のペテン師の世界であることも重要な視点であろう。
 白石法学士にもう一度救われたことがある。ある著名な出版社がわれわれの『チャイナ・クライシス』全3巻(蒼蒼社)に関わる剽窃事件を引き起こした。共著者の私も村田忠禧もこの種のやりとりにはまことに暗い。ひたすら、怒るばかりだ。ここでただひとり、白石法学士が冷静な頭脳を働かせて、事態を分析し、孤軍奮闘した。先方の有力弁護士(大出版社のお抱え弁護士が無能では勤まるまい。先方は私と同じ世代、同じ大学で学ぶ優秀な法学士であったことは、和解後に知った)の論理を逐一論破し、ついに先方の非を認めさせ、われわれは勝利した。
 ただし、勝利の代価はン万円也であり、限りなく千円札に近かった。これに費やした時間と得た代償は、コスト・ベネフィット・アナリシスからは、とうてい問題にならない。われわれはただ、白石法学士の「論理」でわれわれの「名誉」だけをまもることができたにすぎない(名誉を守るために、これほどのコストがかかる社会とは、市場経済の論理が貫徹していないね。著作権法の世界は基本的に泣き寝入りの社会なのかも)。
 さて、『「蛇頭」考』だが、これは白石法学士の頭脳構造、論理構造を知る最良の証拠資料である。読者の便宜のために、あらかじめ、私の結論を提示しておく。
 南方語「頭家」(タウケー)が私の証人である。
 いま愛知大学編『中日大辞典』を開くと、「賭博の胴元」のイミしか書かれていない。『現代漢語詞典』には、「胴元」のほか「庄家」「上家」という説明があるが、基本的にバクチがらみ語彙である。最後に「方言」として、「店主、老板」と説明されているが、私の求めたのはこの意味である。
 三〇年前、東南アジアを放浪して、しばしば耳にしたのが「タウケー」であり、これはバクチの話ではなく、「老板」を指していた。つまり、「タウケー」の漢字は「頭家」だが、南方語(ここでは福建語)の論理では、これは「頭+家」ではなく、「家+頭」なのである。「家人」「家属」「家小」に対して「家頭」なのである。したがって北方語の「家長」と類似のコトバであり、商家ならまさに「老板」である(三〇年前に触れたコトバを突然想起するのは、近頃はすっかり落ち目になったかに見えるが、「華人ネットワーク」論などといういかがわしい議論の危うさに気づかない日本人の無知を憂えてのことだ)。
 白石検察官の結論は以下の通りである。 まず前提として、「蛇とは密航者」である。この定義に対しては私も異論はない。同意する。
(1)「蛇=密航者の頭脳の機能を果たすものが蛇頭である」。
(2)蛇頭は、「一人の人間であっても、グループの数人であっても、組織体であってもよい」。
(3)「蛇頭という言葉は機能に着目している言葉」である。
(4)「機能を果たす主体については限定を加えていない」。
 以上の分析に基づいて、白石検察官は被告に対して、こう有罪を宣告する。
 「蛇頭を犯罪集団の頭目に限定することは、機能を果たす主体に対して勝手に限定を加えていることであり、それがこの解釈を誤りとする所以である」と。
 白石検察官は、(2)蛇頭は、「一人の人間であっても、グループの数人であっても、組織体であってもよい」、と犯罪者の主体が「単独犯」か、「複数犯」か、あるいはその複数者が組織を構成しているものと認定できるかどうかに注目している。
 ここで白石検察官は、(3)において、蛇頭という言葉は「機能に着目している言葉」だと念を押しているが、実は、それは(4)から分かるように、機能を果たす(犯罪者の)「主体」に着目しているにすぎない。要するに、検察官の目から見ると、「単独犯」か、「複数犯」か。その複数者が「組織である」と断定できるかどうかに注目しており、それ以外には関心はないごとくである。かくて、このポイントに焦点をしぼり、矢吹(高木)が「頭目、首長、オカシラ、首領さま」と説明したことは、誤りであり、有罪だと宣告するわけである。
 だが、ここがまさに白石検察官の弱点になるであろう。それが弁証法の論理というものである。
 まずは検察官の証拠を点検しよう。
 事例1の典拠は『人民日報』九五年である。「密航者六八三名、蛇頭二〇〇名余」から、検察官は両者の比率を問題にする(被告の声。密航者が蛇は当然、蛇頭は密航斡旋組織の大ボス、小ボスを指す。首領もボスも同じこと)。
 事例2の典拠は『解放日報』九五年である。検察官は「一四名の密航者に四名の蛇頭」が同行したことを問題にしている(被告の声。基本的には事例1と同じだね)。
 事例3の典拠は『中国信息報』九六年である。検察官曰く「部下のいない首領さまはおかしい、商品に手を出すのは三下」だ(三下とは、むろんバクチ打ちの仲間で一番身分が低い者のこと)。
 では、白石検察官に反論しよう。
 まず第一の事実は、これらの辞書の出版がいずれも一九九五〜九六年であること。すなわち記載内容は、きわめて新しい。これは歴史的実証に耐えうるであろうか。「蛇頭の原義」から乖離した用法によって汚染されているように思われる。
 第二に、これらの媒体の出版地はいずれも、北京あるいは上海であり、広東省のものではない。書き手は、おそらくは広東語(あるいはタイ語、ミャオ語)など南方語についての知識を欠いている可能性が強い。ここで特に着目すべきは、『人民日報』(九七年五月二七日)がヘビについての特別な発明を行っている事実である。「蛇は、昼は寝て夜歩き、警戒心が非常に強い」といった解説は、生身のヘビを知らぬ者に必要なものである。蛇を龍と名付けて食し、そこから「補身」のスタミナを得ようとする。あるいはこれを飼育し、家畜同様に珍重する南方人にとっては、有害無益な解説である。この種の偏見を免れないヘビ・イメージに基づく論断からは、公正妥当な判決を期待できない(白石検察官が京劇「白蛇伝」に詳しいことは承知しているが、あれは龍の話だ)。
 次に検察官は、辞書の解釈をまとめて「蛇は密航者そのもの」と総括する。
 ここで検察官が用いた辞書は
(1)『中国民間方言詞典』(天津)
(2)『漢語新詞詞典』(北京)
(3)『俚語隠語行語詞典』(上海)
(4)『隠語行話黒話秘笈釈義』(北京)
(5)『語海・秘密語分冊』(上海)
である。
 被告(矢吹)が注意を喚起したいのは、まずこれらの辞書の出版地である。すべて上海以北であり、広東は含まれていない。次に、これらの辞書の性格である。(1)は「方言」、(2)は、「新詞」、(3)は「俚語・隠語・行語」、(4)は「隠語・行話・黒話」、(5)は「秘密語」である。五種類の「辞書」のうち、(2)を除けば、すべてこのコトバが「正統的な漢語」ではないことを示唆している。フツーの漢語辞書にはないコトバなのだ。
 かくて、白石検察官の論告求刑に対する被告の弁論は、以下の論理構成となるが、まず訴えたいのは、「蛇頭」なるコトバは、いつ、どこで生まれたのか、どのように使われてきたのか、についての考察である。
 検察官は「一九九五〜九六年の資料」に基づいて、「釈然としない経験」を語っているが、これは現代北京標準語の「書き言葉」の語感で、南方中国語の「話し言葉」を扱うものであり、はなはだ遺憾である。
 ちなみに、北方中国語の帝国主義的発想からすると、このコトバは、せいぜい「方言」、「新詞」である。これらの表現は許容するとしても、「俚語・隠語・行語」、「隠語・行話・黒話」、「秘密語」としか認定しないところに、検察官の自大主義、権威主義が露呈している。これでは正当な判断は期待しがたい。この点、はなはだ不満である。
 第二に、これらの媒体はいずれも、北京あるいは上海のものであり、南方中国のものではなく、それゆえ広東語(あるいはタイ語、ミャオ語)など南方語についての正確な判断を期待し難い。
 検察官の不当な求刑についての弁明は以上の通りだが、この際、被告としてあえて強調しておきいたい論点がある。
 それは検察官の論理のすり替え問題である。被告は元来、南方中国語の基本的特質として、形容句が名詞の後に位置する順行構造の例として、「大哥大」と並べて「蛇頭」をあげ、これは北方中国語的表現方法によれば、「大(大哥)」、「頭蛇」の含意である、と論じたものである。このエッセイを読んで旧友高木誠一郎教授は、おそらく「セ・タウ」なる耳慣れない表現とともに、香港の巷の匂いを想起したものである。そこで矢吹・高木の感性は、一致して「酒量」が一段と増え、「首領」なる日本語が意識に上ったものである。検察官は、この「首領」概念を強調して、「単独、複数、組織」にこだわり、ここから一点突破、カシラヘビを粉砕しようとした。ヘビにカシラがあるのならば、カシラのようなヘビがいてもおかしくはあるまい。「羊頭狗肉」があれば、「帯頭羊」もあるのだから。
 重要なポイントは、やはり広東語と北方語の語法である。この論点を外した論証は、以下に精緻なものであれ、判断に際しては排されるべきである。この意味で、本件は、棄却さるべきものと思料する。ただし、検察官が集めた証拠調べは用意周到であり、歴史的に北方語に蹂躪されつつある南方語の運命を示唆した点では、意味のある考察と評価されるであろう。この意味では、検察官の論告文中、「最後の八行」にこそ真実が宿ると被告は確信している。


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白石和良氏の「『蛇頭』考」について
   高木誠一郎(埼玉大学教授)


 先日届いてから数日たった『蒼蒼』八一号を何気なく手にして吃驚した。冒頭で白石和良氏が大論文を書いて、「蛇頭」の意味に関する「高木・矢吹説」を詳細に批判しておられたからである。
 『蒼蒼』は欠かさず購読していたが、実はここ一両年まさに「積ん読」のみで、一昨年の忘年会で矢吹晋先輩に酒の勢いも手伝ってお話しした筆者の思いつきが「高木・矢吹説」になっていたとは。あわてて第七三号を読み、矢吹先輩に、約束不履行を暴露されてしまっただけでなく、「思いつき」の紹介までしていただいたことを知り、汗顔の思いであった。
 白石論文はまさに博引旁証、多くのことを勉強させていただいたが、その結論は必ずしも納得できるものではなかった。矢吹先輩も反論を書いておられるとのことであるが、それだけで済ませてしまうのはあまりにも「おんぶにだっこ」ということになってしまうので、筆者なりに白石説に納得がゆかない理由を記してみたい。多少なりとも議論の深化をもたらすことができれば幸いである。

 その前に、思いつきの経緯を簡単に記しておきたい。もうずいぶん前のことになるが、『蒼蒼』第五八号の「順耳逆耳」を読んでいて、「大哥大」の説明の中で南方語では形容詞がそれによって形容される名詞の後に来ることを指摘した後に、「蛇頭」が取り上げられているのを見てハタと膝を打った。それまで新聞の解説などで「蛇頭」の意味について、蛇は尾を失っても頭は生き残る、という「トカゲのしっぽ切り」のような説明を読んで何となく納得がいかない思いをしていたからである。ナールホド、「蛇頭」というのは南方語であり、その意味するところは蛇の「アタマ」ではなく「オカシラの蛇」であることを指摘しようということか、と思ったのである。
 ところが、読み進んで見るとそこには懐旧談あるのみで拍子抜けする思いを禁じ得なかった。そのことをたまたま酒席で矢吹先輩にお話ししたという次第である。
 従って、白石氏が批判の対象としておられるものを「高木・矢吹説」と呼ぶのはあまりにも烏滸がましく、矢吹先輩自身この文章の中で「蛇頭」を非合法移民を送り出すボスとする認識を示しておられるので、以下では「矢吹・高木説」とさせていいただく。

 さて、白石氏は「矢吹・高木説」に対する批判の冒頭に、「蛇頭」を「ヘッドスネーク」と考えると「釈然としない」事例を挙げておられるが、これはあまり意味がないと思われる。白石氏自身結びの部分で述べておられるように、言葉は生き物である。「矢吹・高木説」が問題としているのは言葉の本来の意味であり、現代の用法における意味によってその当否を論ずることはできない。現代の「革命」論は、その言葉の由来が「易姓革命」にあることにこだわれば、かえって「釈然としない」ものになることは明らかであろう。
 また、事例の解釈にも問題があると思われる。白石氏は人民日報の記事によって、逮捕された「蛇頭」と密航者の数を比較して、「蛇頭」=「オカシラの蛇」と考えると、前者一人あたりの後者が少なすぎるとしておられる。しかしながら、「蛇頭」が密航の斡旋をするのが一回限りのことではないことを考えれば、必ずしもそうは言えない。
 白石氏はまた「蛇頭」が密航者よりも捕まるのが遙かに少ないとの推定を「蛇頭」一人あたりの密航者が少なすぎるとする判断の前提としておられるが、この推定は妥当であろうか。もちろん、絶対数においては確かにそうであろう。そもそも、「蛇頭」の総数が密航者の総数よりも遙かに少ないのであるから当然のことである。しかし、全密航者における逮捕者の比率と全「蛇頭」における逮捕者の比率を比べるとどうであろうか。言うまでもなく、このような統計が手に入ることはあり得ないが、前者の方が後者よりも高いとは必ずしも言えないのではなかろうか。むしろ、後者の方が低いと考えるのが妥当であるとすれば、白石氏が挙げる事例の一と二は必ずしも「蛇頭」=「ヘッド・スネーク」説を否定するものではない。
 「蛇頭」が単独で部下も連れずに「おでましになった」り、女性密航者を強姦したりその金品を奪ったりしたとの報道によって、「矢吹・高木説」に対する反証とするのは、「蛇頭」といってもその中に様々なレベルがあることを無視し、その地位や道徳性を過大評価するものといわざるを得ない。
 全体として、白石氏の「矢吹・高木説」に対する「釈然としない経験」は、現代では特定の国でしか使われない、「首領さま」という表現に引きずられている嫌いがあるように思われる。
 白石氏が「矢吹・高木説」を「誤りである」と断ずる最大の根拠は、「蛇」が密航者を意味するにもかかわらず、この説では密航斡旋者としている、という判断にある。この点については、まさに「釈然としない」と言わざるを得ない。なぜならば、「蛇頭」=「ヘッド・スネーク」ではないかとの筆者の「思いつき」の根拠の一つが、まさに「蛇」が密航者を意味するという認識であったからである。白石氏は密航者と密航斡旋者を画然と区別し、「蛇」が前者を意味する以上「蛇頭」=「オカシラの蛇」が後者を意味することはあり得ないと考えておられるようである。
 しかしこのような考え方は、機能的差異にとらわれたあまりにも近代主義的なものであり、「蛇頭」といった表現を生み出した人々の心性とは無縁のものであるように思われる。密航者も密航斡旋者も共に「蛇」であり、後者が前者の「オカシラ」であると考えることはきわめて自然なことなのではないであろうか。
 現に、白石氏の引いておられる『人民日報』(九七年五月二四日)の記事の「密航者と彼らを組織しているものは、その行動が隠密で、あちらこちらに潜み、蛇類ににているので、人々から“人蛇”や“蛇頭”と呼ばれる」という記述は、まさにこのことを裏付けているのではないだろうか。白石氏の論断に反して、この記事は密航者を「蛇」(人蛇)とする理由を説明しているだけでなく、密航斡旋者を「蛇頭」とする理由をも十分に説明しているものと思われる。
 中国の「フーゾク用語」では、娼婦が「鶏」で、街娼(私娼)が「野鶏」、売春組織の元締めは「鶏頭」と言うそうである(『中央公論』一九九四年一二月臨時増刊、二八六頁)が、これも同じ発想なのではではないだろうか。
 白石氏は「蛇頭」は、物体としての「蛇のアタマ」、機能としての「密航者の頭脳」を意味すると主張する。
 これに対して筆者が疑問に思うのは、中国語の自然な発想として、身体部位としての「アタマ」=頭脳という考え方があるのだろうかということである。白石氏の説は日本語の「アタマが良い(悪い)」といった表現が、「アタマ」=「頭」という形で、中国語にもあることを前提としているように思えるが、果たしてそうであろうか。「羊頭狗肉」の「羊頭」に羊の「頭脳」という意味が含まれいるとは思われない。たしかに「竜頭」の「頭」には「頭脳」の意味が含まれているかもしれない。しかし、それは近代的な意味づけであり、本来の意味ではないのではなかろうか。
 いずれにせよ、白石説の論拠となっている「羊頭」や「竜頭」という表現は、北方のものなのではないだろうか。
 また、密航者と密航斡旋者を全体として一つの人体のようなものと考え、後者がその頭脳、前者がそれ以外の身体部位(たとえば手足)とするような「社会有機体」的考え方は中国の伝統的民間思想にはなく、近代以降の外来思想なのではないであろうか。
 以上すべて、筆者が寡聞にして知らないことばかりであり、自分で調べてその答えに到達する自信もない。白石氏および識者のご教示をお願いする次第である。


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