蒼蒼ロゴ

第81号


「蛇頭」考  白石和良(農業総合研究所海外部長)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋
連載中国的なるものを考える19「淮北考(前編))」 福本勝清(明治大学助教授)


「蛇頭」考
白石和良(農業総合研究所海外部長)


    
はじめに

中国からの密航者は、相変わらず盛んであり、その結果、「蛇頭」という言葉に接する機会も、相変わらず多い。

ところで、密航斡旋組織である「蛇頭」に関して、矢吹晋教授は、「蛇頭」の英訳は「スネーク・ヘッド」と訳すのは誤訳であり、「ヘッド・スネーク」と訳すべきだとする高木誠一郎教授の説を紹介するとともに、この高木説に賛意を表しておられる。そして、両訳の差を「スネーク・ヘッド」は「蛇のアタマ」の意味であり、「ヘッド・スネーク」はヘッド・マスター(校長)と似た形で「オカシラの蛇」、即ち「首領さま」の意味になるとしている(『蒼蒼』第七三号参照)。

しかしながら、「蛇頭」を「ヘッド・スネーク」、即ち、密航斡旋組織のボス(「首領さま」)の意味と理解して、「蛇頭」に関する中国語の文章を読んでいると、その文章の意味が釈然としないことがある。こうしたことが重なると、「蛇頭」の意味を密航斡旋組織の「首領さま」と解釈するのは、果たして正しいのかという疑問が生ずることとなる。

本稿はこうした疑問から、「蛇頭」の意味を再検討しようとするものである。


一、「ヘッド・スネーク」説では釈然としない経験 

「蛇頭」を「ヘッド・スネーク」、即ち、「オカシラの蛇」、さらに言えば密航斡旋組織の「首領さま」の意味と理解していると、中国語の文章の解釈としては釈然としないことにぶつかると右で述べたが、そこで、先ず、そうした経験を紹介しよう。

事例一
「人民日報」(九五年一月一六日)の記事は、「辺防部隊」の密航取締り状況を次のように伝えている。

「一九九四年、全国公安辺防部隊共査獲偸渡人員六八三八名、抓獲内外“蛇頭”二〇〇名余」(一九九四年、全国の公安辺防部隊は密航者を合計六八三八名逮捕し、また、内外の“蛇頭”二〇〇名余を逮捕した)

右の文章の中の「蛇頭」を密航斡旋組織の「首領さま」の意味とすると、一人の「首領さま」が扱っている密航者の数は、平均で三〇〜四〇名程度である。少な過ぎるのではないかと言う疑問が先ず生ずる。さらに、「首領さま」は密航者より捕まるのは遙かに少ないはずである。そうだとすると、一人の「首領さま」の扱っている密航者の数は更に少なくなるのである。

事例二
「解放日報」(九五年八月二四日)の密航者逮捕に関する記事は次のようである。

「于八月一七日在温州機場安検和民航公安分局的配合下、一挙抓獲包括四名“蛇頭”在内的一八名偸渡人員」(八月十七日、温州飛行場で安全検査部門と中国民航の公安分局の協力によって、四名の“蛇頭”を含む十八名の密航者を逮捕した)

この事例では、十四名の密航者に四名もの密航斡旋組織の「首領さま」が同行していることになるが、こうしたことは極めて不自然である。

事例三
「中国信息報」(九六年五月一〇日)はベトナムからの密航者に関して次のように伝えている。

「去冬的一天夜里、一名中国“蛇頭”和一名越南“蛇頭”相互勾結、領着六名二十来歳越南姑娘従某辺境小道潜入中国境内」(昨冬のある日の夜、一名の中国の“蛇頭”と一名のベトナムの“蛇頭”が結託して、六名の二十歳位のベトナム娘を連れて中越国境の小道から中国領内に潜入した)

この事例では、一名の中国人の「首領さま」と一名のベトナム人の「首領さま」が直々にお出ましになったということになるが、「首領さま」が部下も連れずに単独でこうした危ない橋を渡るのは非常に不自然である。
さらに同記事には次のような下りもある。

「半路上、両“蛇頭”又将・們身上的銭全部騙去、其中三名遭到“蛇頭”強姦」(途中、二名の“蛇頭”は彼女たちの持っていた金銭をだまし取り、彼女たちの三名は“蛇頭”に強姦された)

商品とも言うべき契約者(=密航者)に手を出すのは「首領さま」の行為としては相応しくない行為である。そもそも商品に手を出すような輩は、「首領さま」にまでは到達しえないで、三下程度で終わるのが普通である。麻薬の売人が麻薬に手を出すようなものであり、そのような売人は偉くはなれないのである。


二 辞書に見る「蛇頭」の解釈

1.各種の辞書の解釈

以上のように、“蛇頭”を「ヘッド・スネーク」、即ち、密航斡旋組織の「首領さま」の意味であると理解していると、釈然としないことが多いのである。
そこで、辞書に当たってみたが、その結果は次のようである(注:傍線は筆者)。

(1)『中国民間方言詞典』(段開〇(金+辛)、南開出版公司、九四年)

蛇頭 幇助大陸人偸渡香港的人」(蛇頭 大陸の人が香港へ密航するのを助ける人)(注:使用範囲として、香港、澳門、広州を挙げている)

(2)『漢語新詞詞典』(王均熙、漢語大詞典出版社、九三年)

蛇頭 黒社会組織中帯人偸渡越境以獲取銭財的人。参見“人蛇”」(蛇頭 暗黒社会の組織のなかで、人が密航、越境するのを導いて、金銭財物を得る人。“人蛇”を参照のこと)

  そこで、“人蛇”を引き、さらに関連用語を引くと次のようである。

人蛇 偸渡越境的人。也称“蛇客”」(人蛇 密航、越境する人。また、“蛇客”とも言う)
蛇客 即“人蛇”」(蛇客 即ち“人蛇”である)
蛇船 運送偸渡者的船」(蛇船 密航者を輸送する船)

(3)『俚語隠語行話詞典』(上海辞書出版社、九六年)(注:以下では、「蛇頭」以外の関連語も併せて引いておく)

蛇頭 香港黒社会指組織偸渡的人」(蛇頭 香港の暗黒社会で使われる言葉で、密航を組織する人を指す)
 B港、澳黒社会指偸渡去港、澳的人」( B香港、澳門の暗黒社会で使われる言葉で、香港、澳門へ密航する人を指す)
蛇人 香港黒社会指偸渡者」(蛇人 香港、澳門の暗黒社会で使われる言葉で、密航者を指す) 

(4)『隠語行話黒話秘笈釈義』(孫一冰、首都師範大学出版社、九三年)

蛇頭 組織偸渡的人。香港語」(蛇頭 密航を組織する人。香港語)
蛇人 偸渡的人。香港語」(蛇人 密航する人。香港語)
 A偸渡到港澳地区的人。港澳黒社会組織用語」( A香港、澳門へ密航する人。香港、澳門の暗黒社会の用語) 

(5)『語海・秘密語分冊』(李欣、上海文芸出版社、九四年)

蛇頭 香港犯罪集団。蛇:偸渡入境者。指将大陸偸渡者引進港地的犯罪集団頭目」(蛇頭香港犯罪集団の用語。蛇:密航して入境する人のこと。(蛇頭は)大陸の密航者を手引きして香港へ入境させる犯罪集団の頭目を指す)
 A香港黒社会。指偸渡入境者」( A香港の暗黒社会用語。密航して入境する人を指す)
蛇客 香港黒社会。指非法入境者」(蛇客 香港の暗黒社会用語。違法入境者を指す)
蛇竇 香港黒社会。蛇:偸渡者。指窩蔵非法入境者的場所」(蛇竇 香港の暗黒社会用語。(蛇竇は)違法入境者を隠す場所を指す) 

2.各種の辞書の解釈の小括

右の五種類の辞書の解釈をまとめると次のようになろう。

1「蛇頭」=密航の手引き者、組織者。

ただし、右の(5)の『語海・秘密語分冊』だけは、「蛇頭」に「首領さま」の意味を付与しているが、これが誤りであることは後で検討することとしたい。
なお、密航先は、@香港に限定、A香港と澳門に限定、B場所は限定しない、の三種類に別れているが、これは言葉の意味を考える場合の本質的なことではない。

2「蛇」=密航者。
3「人蛇」=密航者。
4「蛇客」=密航者。
5「蛇人」=密航者。
6「蛇船」=密航者を輸送する船。
7「蛇竇」=密航者を隠す場所。

以上を通観して気づくことは、「蛇」とは、本来、密航者の意味であることである。それは、「蛇」と言う言葉それ自体の解釈として、密航者と言う意味が与えられているばかりではなく、密航者(蛇)を運ぶ船だから、その船は「蛇船」と呼ばれ、密航者(蛇)を隠す場所だから、その場所は「蛇竇」と呼ばれていることからも確認できる。

以上のことをもう一度確認しておこう。「蛇」の単独使用を初めとして、密航関係の言葉である「蛇頭」、「人蛇」、「蛇客」、「蛇船」、「蛇竇」の中で使われる「蛇」は密航者そのものの意味であることである。さらに言えば、「蛇」には密航斡旋者の意味は無いのである。つまり、「蛇頭」と言う言葉は、密航斡旋者の意味であるが、「蛇頭」の中の「蛇」には、密航斡旋者の意味は無いということである。

三、何故密航者を「蛇」と言うか

右のように、「蛇頭」と言う言葉の意味は密航斡旋者であるが、「蛇頭」と言う言葉の中の「蛇」には、密航斡旋者の意味は無く、密航者の意味しかないが、そこで問題になるのは、何故、そのようなことになるのかである。

この問題に入る前に、密航者を何故「蛇」と言うのかを考えてみよう。

「人民日報」(九七年五月二四日)は、このことを次のように説明している。

「蛇、昼伏夜出、一日数驚。偸渡人員以及他們的組織者、由于行動詭秘、四処竄伏、酷似蛇類、故以被人們称為“人蛇”和“蛇頭”」(蛇は、昼は寝て夜出歩き、警戒心が非常に強い。密航者と彼らを組織している者は、その行動が隠密で、あちらこちらに潜み、蛇類に似ているので、人々から“人蛇”や“蛇頭”と呼ばれる)

この説明で、密航者が「蛇」(=“人蛇”)と呼ばれる理由は明白であろう。ただし、密航斡旋者(右の例文では「彼らを組織している者」)が「蛇頭」と呼ばれる理由ははっきりとは説明されていない。

四、何故密航斡旋者を「蛇頭」と言うのか

そこで、次に考えなければならない問題は、密航斡旋者が何故「蛇頭」と呼ばれるかである。

この問題を解く第一のヒントは、最近、良く使われる「龍頭」と言う言葉である。例えば、「上海は長江経済圏の“龍頭”である」とか、「農業の産業化推進には“龍頭企業”を確保することが必要である」等と使われている。これらの例での「龍頭」を「蛇口」や「自転車のハンドル」の意味で理解していると、これらの文章の意味は全く通じないのである。

こうした意味で使われる「龍頭」を『現代漢語詞典 修訂版』(中国社会科学院語言研究所詞典編輯室、商務印書館、九六年)は次のように説明している。

龍頭 @比喩帯頭的、起主導作用的事物:〜企業」(龍頭 @先導し、主導 的機能を果たす事物の比喩。例=龍頭企業)

第二のヒントは、中国の「蛇無頭不行(蛇は頭がなければ行動できないの意味)」(『漢語詞典簡本』、商務印書館〔香港:筆者注〕、三七年初版)と言う諺の存在である。

以上の二つのヒントを前提として、推論を進めよう。密航者(または密航希望者)と言うものは、ただただ密航したいだけで、どうしたら良いのかは全く分からないのが普通である。こうした密航者(=蛇)には「頭」(頭脳)が必要であり、その「頭」の役割を果たす密航斡旋者を「蛇頭」と呼ぶのは、自然の成り行きであろう。

このように推論した結果、密航斡旋者を何故「蛇頭」と呼ぶかは明らかになった。そこで、前記二の2の(1)で積み残した問題を検討しよう。前掲『語海・秘密語分冊』は、「蛇頭」を「大陸の密航者を手引きして香港へ入境させる犯罪集団の頭目を指す」としているが、右で見たように、「蛇」(=密航者)の頭脳の機能を果たすものが「蛇頭」であり、それは一人の人間であっても、グループの数人であっても、組織体であっても良いのである。つまり、「蛇頭」という言葉は機能に着目している言葉であって、機能を果たす主体については限定を加えていないのである。「蛇頭」を「犯罪集団の頭目」に限定することは、機能を果たす主体に対して勝手に限定を加えていることであり、それがこの解釈を誤りとする所以である。

また、「蛇頭」を「密航斡旋組織」と訳すのは厳密に言えば誤りとすべきである。この訳語の誤りは、「組織」と訳している点である。右で述べたように、本来、密航を斡旋するのは、一人でも良いはずであり、「密航斡旋組織」と訳してしまうと、一人で密航を斡旋する者は「蛇頭」では無くなってしまうからである。ただし、「密航斡旋組織」を「蛇頭」の範疇に入れることは誤りではない。それは、繰り返しになるが、「蛇頭」の機能を果たすものは、一人であっても、グループであっても、「首領さま」をトップとする組織であっても「蛇頭」と呼ばれる資格があるからである。その内の一つだけを取り出すと誤りになるということである。この点は、密航者である「蛇」についても同様である。長蛇の列をなすほど多数の密航者でないと「蛇」と言わない訳ではなく、一人の密航者であっても「蛇」であることには変わりはないのである。

まとめのために贅言しておくと、「蛇頭」は物体としての「蛇のアタマ」の意味であり、機能的には「密航者の頭脳」の意味である。言葉の用法からすれば、「蛇頭」は「羊頭狗肉」の「羊頭」と同じである。「羊頭」は羊の頭そのものであって、それ以上の意味はないし、したがって、「羊頭」であるか、「頭羊」であるかを議論する人もいないであろう。「蛇頭」についても同じことが言えるのである。


五 従来の「蛇頭」解釈の検討

1.高木・矢吹両氏の説

前述のように高木・矢吹の両氏の説は、「蛇頭」の英訳を「スネーク・ヘッド」ではなく、「ヘッド・スネーク」にすべきであるとしている。その理由は、「蛇頭」は「オカシラの蛇」の意味であるからとしている。結論から言うと、この説は誤りである。そして、この説の誤りの根源は、「蛇」を密航斡旋者としていることである。その結果、「蛇頭」を「ヘッド・スネーク」と訳すべきとする主張の展開となったと思われる。しかしながら、これまで検討してきたように、「蛇頭」は密航者である「蛇」の頭脳であるとの主旨での「蛇のアタマ」の意味であって、「スネーク・ヘッド」としか訳しようが無いのである。

ところで、「蛇頭」を「ヘッド・スネーク」と訳すべきだとの説を香港人が聞いたらどう思うであろうか。彼らの思考の中では、「スネーク=蛇=密航者」となっているはずである。そうすると、彼らは「ヘッド・スネーク」と聞くと、「密航者のリーダー」とか、「密航者のオカシラ」の意味に受け取ることになるはずである。一度香港人の意見を聞いてみたいものである。

2.徳岡仁氏の説

徳岡氏は『中国情報用語辞典一九九六─九七年版』(蒼蒼社、九六年)で、「蛇頭」の語源について、「一説によれ ば、一度食らいついたら離れず、不気味な存在であることから命名されたといわれている」としている。この説も誤りである。理由は、「蛇」を密航者ではなく、密航斡旋者と理解しているからである。

3.『中国語大辞典』(角川書店)の説

この辞典は、「蛇頭」の意味を「香港への水路での密航を取り仕切る人」としている。意味の解釈としては、若干狭い気がするが間違いはない。若干狭いと感ずるのは、「水路」での密航に限定しているからである。ただし、この解釈では、「蛇頭」の「蛇」を密航者と考えているのか、密航斡旋人と考えているかは不明である。

4.莫邦富氏の説

莫氏は『変貌する中国を読み解く新語事典』(草思社、九六年)で、「蛇頭」に「密航斡旋ブローカー」の訳語を当て、その説明として、「密航に関して主導的な役割を果たす者たちが、蛇頭、スネークヘッドと呼ばれる。ぞろぞろと、まさに「長蛇の列」をなして海外へ向かう「人蛇」たちの、まさに先頭に立っているという意味である」としている。大筋としては妥当な説明であるが、厳密に言えば、「果たす者たち」としているのは「蛇頭」に複数要件を課していることであり、また、「「長蛇の列」をなして海外へ向かう「人蛇」たち」としているのは、同様に「人蛇」に複数要件を課していることであるので、これらの点は、前述したように 単数(一人)の「蛇頭」、「人蛇」を排除することとなるので誤りである。ただし、莫氏はこの説明の前段では、「蛇頭」を「個人ないし小規模のグループ」であるとしており、「個人」の「蛇頭」を排除していない。筆の滑りと理解すべきかも知れない。

5.その他

東郷譲治氏は『中国情報ハンドブック』一九九七年版(蒼蒼社、九七年)で、「蛇頭の構成は、ボスの下に勧誘幹部・引率幹部がおり、その下部組織として勧誘蛇頭・引率蛇頭・出迎え蛇頭がいる」としている。これは、密航斡旋機能体である「蛇頭」内部での機能の細分化の進行を示すものであるが、「蛇頭」が機能を示す言葉であるからこそ、細分化後も「勧誘蛇頭」等の呼び方が残りえたと思われる。

おわりに

言葉は生き物である。最初は香港で生まれ、香港だけで使われていた香港への密航者を意味する「蛇」や「人蛇」、香港への密航を斡旋する者を意味する「蛇頭」等の言葉は、既に大陸の隅々にまで行き渡っているようである。中国の東北地方の人が日本や韓国へ密航する場合も、彼らは「人蛇」と呼ばれ、また、その密航を斡旋する者は「蛇頭」と呼ばれている。言葉の最初の意味からすれば、意味の拡大であるが、まだその本義は変わってはいない。しかしながら、生き物である言葉は常にその本義を失い、別の意味に転換させられる危険に曝されている。特に隠語の場合はこうした傾向が強いと言えよう。したがって言葉の本義が明らかなときにその本義を書き残しておくことは有用であろう。本稿を公にするのはそうしたことも一つの理由である。

また、筆者は、広東語は全くの門外漢である。このため、これまでの検討で使った資料は、全ていわゆる標準語の系統の資料である。したがって、広東語の構造なり、表現の仕方などから見て、上記のような推論や断定には、異論や、さらには誤謬があることも予想される。ご教示を願う次第である。



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逆耳順耳
矢吹 晋


米CNNは誤報を訂正したけれど

「米CNNテレビが誤報を認め、謝罪した。米軍の特殊部隊がベトナム戦争中、サリンを使って自軍の脱走兵らを殺した、という報道である。私もこの欄でそれを紹介し、論評した。しかし結果的に、前提とした事実が間違っていた。お詫びする」。

これは九八年七月四日付『朝日新聞』朝刊の「天声人語」の書き出しである。誤報についての率直な謝罪は当然であり、これを歓迎する。問題は一〇年を経ても、依然訂正しない誤報である。

タネあかしは、最後にゆずり、まずは回り道で行こう。

  *   *   *
このところ、『朝日新聞』中国報道のずっこけぶりは、すさまじいものがある。

六月二七日、アメリカ大統領クリントンを迎えて、北京の天安門広場では歓迎式が行われたが、これをどのように報道したかを点検してみよう(六月二七日夕刊、坂尻信義、鈴木暁彦記者)。

「天安門広場に米国歌」と題した記事の中段でいう。「天安門事件を目撃し、映画『天安門』の制作にかかわったフリーの米国人記者、フィリップ・カニングハムさんは、歓迎式典を自分の目で確かめるため、米国の東海岸からやってきた。「大統領と米国市民に向かって、広場には足を踏み入れないと説明したが、あそこは明らかに天安門広場だ」と言った」「式典を中継する米国のテレビは、民主化運動を鎮圧する装甲車の映像と、大統領を重ね合わせて伝えた」「中国を訪れた外国元首は通常、広場の中央にある人民英雄記念碑に献花するが、大統領は「広場の中に立ち入る」ことを避けた」。「中国にとっては、訪中そのものが『勝利』だが、人民大会堂前での式典開催にこだわった(中略)大統領の歓迎式典が「広場で行われること」をことさら誇示した」。

 *  *  *
中国が「国事訪問」格の外国元首を歓迎する際に、天安門広場で歓迎式典をやることは当然の慣例である。これをあたかも特別の出来事であるかのごとく扱うのがまず不可解である。なるほど八九年のゴルバチョフ訪中時には、広場を学生が占拠していたために、やむなく空港で行った。今回のクリントン訪中に際して、広場で行うことは、当然しごくの成行きである。これをことさらあげつらうのは、いかなる判断によるのか。これが第一の疑問である。

第二の疑問。この記事のなかに、わざわざ米国人記者を登場させて「広場の内か外か」を話させているが、この人物にいかなる意味があるのか。クリントンが国内向けに行ったにすぎない言い訳を日本の記者がなぜ特筆大書しなければならないのか。そしてこの記者について「天安門事件を目撃した記者」と紹介しているが、これは何の「目撃」なのか。文脈からは、あたかも天安門広場を「解放軍が包囲した後の撤退行動」を目撃したと読めるが、この記者が広場に最後まで残った事実は確認されていない(ズバリいえば、この記者は広場におらず、撤退の局面を目撃してはいなかった)。そもそも「天安門事件を目撃した記者」という記述が曖昧なのだ。

第三の疑問。この記事は、直接言及しているわけではないが、「広場における虐殺」を前提して書いている。

英語でいうTiananmen Massacreである。英語でも事実を重んずる人々はこの言い方ではなく、Tiananmen Incidentなどという。

翌日の朝刊で香港二七日=永持裕紀記者はこう書いた。

「台湾は、二七日の米中首脳会談で、「二つの中国」「台湾独立」「台湾の国連加盟」をいずれも「支持しない」という「三つのノー」が強く打ち出されなかったことに安堵している。昨秋の江沢民国家主席訪米時、大統領が口頭で表明したが、中国側は大統領訪中時の文書化を迫り、米中台で激しい駆け引きが続けられていた」。

事実の現場は北京であるにもかかわらず、この記者は「台湾メディア」から取材して、この記事を書いている。

台湾側の反応を台湾で取材するのは、当然だが、米中間でこの問題がどう扱われたかは、クリントン大統領側および江沢民国家主席側から取材するほかないはずである。

この記事の誤りを永持裕紀記者は、後日、次のような形で事実上訂正しているが、ミスリーディングな報道の責任は頬被りである。

「疑心暗鬼広がる台湾、米大統領の重心つかめず」(香港七月三日発、四日朝刊)。
「台湾では、大統領が上海の公開の席で、「台湾独立不支持」など「三つのノー」を語ったことが波紋を呼んでいる」「三つのノー」については、江沢民・国家主席との首脳会談で大統領が口頭で確認したと発表された。(中略)だが、だめ押しのような上海での発言で、疑心暗鬼の空気が広がり、幹部の発言やメディアの論調は変化した」。

記者も認めるように、クリントンの上海発言はだめ押しなのだ。北京での「阿吽の呼吸」的米中首脳会談についての補足である。

私が批判する視点は、ここである。すなわち『朝日』の北京特派員は本筋からまるで離れた問題を追いかけている。他方、香港特派員は北京の動きを確認することなしに、「台湾が安堵」と書いて、その後、「台湾に疑心暗鬼」などと書いている。実は台湾でも政治に敏感な人々は、たとえば宋楚瑜のように国民党主流派の太平楽を批判していた事を香港紙が伝えている(香港『明報』七月二日、「宋楚瑜責当局麻木不仁」)。

この新聞は北京支局といい、香港支局といい、相当にずっこけているのではないか、というのが私の感想である。

天安門事件についてのきちんとした総括を怠り、テレビが繰り返した印象画面をなぞるだけでは、中国の現実がますます理解しにくくなるであろう。

このような報道に接して、改めて痛感するのは、NHKの検証がいまだ定説になってはいないというもどかしさである。

そこで旧稿(『蒼蒼』五二号)をもういちど引用して、経過の核心を確認しておきたい。

 
*  *  *
NHK・加藤青延様
『蒼蒼』五一号の玉稿を拝読して、いろいろ感ずるところがありました。歴史の真実がなぜ、どのような過程を経て、隠されるに至ったのかがよく理解でき、戦慄さえ感じさせられました。あなたの編集された番組は、たいへんに時宜を得た、必要な不可欠なものであったと確信しておりますが、放映されたものだけでは、いま一つはっきりしないもどかしさを感じたのでした。つまり、番組を見て、ますますその周辺の事柄を知りたくなったのです。そこで取材メモを公表してほしいとお願いしたわけですが、『蒼蒼』誌にこのような形で発表していただいて、興味津々、一読三読した次第です。この記録を残すこと、つまり誰もが利用可能な共通の資料とすることが望ましいというささやかな提案を受け入れて下さったことに重ねて厚くお礼を申し上げます。くどいようですが、私がどうしても記録にとどめておきたい箇所を玉稿から引用しておきます。すなわち、ジャーナリズムのあり方や中国の現実を考えるうえで、必要な情報と私が判断する部分に下線を引いてみました。* * *
レストレポ記者:素材を衛星を使って送ることは不可能でした。中国当局によって回線を切られていたので。それで香港へ出す必要があったのです。もちろん翌朝〔六月四日〕です。私は当然、その素材を見ていませんでした。ですから私の電話リポートは、前の晩に見たことを、正しく解釈されることを想定して、思い出しつつ行なったのです。残念なことに──この点は大切なので強調したいのですが、ジャーナリストとして私が学んだのは、その時に人は歴史の重要な一頁に身を置いているとはなかなか考えないことです〔天安門事件のような大事件はめったに起こらないでしょうが、ジャーナリスト諸氏にまず拳拳服膺してもらいたいですね。矢吹注〕。電話レポートを送るときに、マドリードの私の同僚たちが他の国と同様に「天安門広場の虐殺」という決まったイメージを持っていたとは考えませんでした〔情報の発信者と受信者との認識ギャップの問題、矢吹注〕。私は錯綜した情報をかき集め、順序立てて送ったつもりでしたが、マドリードにいる同僚たちは、「天安門広場の虐殺」というステロタイプの見方しか持っていませんでした〔この見方を作るうえで決定的に重要な役割を果たしたのは、英BBC放送のジョン・シンプソン記者の架空実況中継ともいうべきレポートでした。彼はベルリンの壁の崩壊、ルーマニアのティミショアラの現場という「八九年の三大現場」を取材したことで〇×賞を得ています。その間の事情は、彼の著書Dispatches from the Barricades, Oxford, 1990, に所収、矢吹注〕。おまけに彼らが受け取ったテープも色々なものが順不同に混ざったものだったので、よく理解できず、結局彼らは国際通信社やプレスの言うことに立脚したコメントを付けてしまいました。結果として、スペイン・テレビのニュースは事実を歪めるものとなってしまったのです。残念なことですが、逆説的なことに、この特ダネ映像が混乱した状況において、事実とは違った事件の話を作り上げることになってしまいました。香港の編集マンはわけが分からなかったでしょう。戦車、死体……やはり虐殺だ、と。[以下略]
追伸。あなたの編集した番組があちこちで話題になっていた六月某日、勤め先の研究室に、珍しい客が現れました。『朝日新聞』の永持裕紀記者です。永持記者もまた、天安門事件の当日、最後まで広場に居残り、広場の真実を最後まで目撃した証人であることはご存じの通りです。私は『ペキノロジー』二二三頁で彼の証言を『朝日人』(朝日の社内報、八九年八月号)から引用したことがあります。永持記者は近く北京支局勤務に派遣されることになったので、目下その準備をしている由でした。中国の政治経済の現状やポスト〇(登+都−者)小平の諸問題について意見を交換したあと、こんどは私が記者を「逆取材」しました。六月三日深夜から四日早暁にかけて目撃した広場の事実をあれこれ確認した次第です。彼は事件後、上海復旦大学で一年間研修し、それから名古屋支局に勤務していたそうです。そして今回ようやく北京の檜舞台に派遣されることになったとのことでした。これまでの教訓を踏まえて健闘されることを祈って別れました(『蒼蒼』第五二号、九三年一〇月「空白の三時間」裏話を味わう)。
 *  *  *

天安門広場で「真実を目撃した証人」でありながら、広場の真実をこの記者は、天安門事件一〇年目の今日に至るも、いまだ『朝日新聞』に書いていない。あろうことか、普通の読者には手の届かない新聞社社内報たる『朝日人』(八九年八月号、一一〜一二頁。「助っ人奮戦記、外交部報部員の目、広場で学生と運命共同体を実感」)にのみ、真実を書いたのである。一〇年前に、目撃した事実を書かなかった記者は、今回もまた北京で発生した事実を台湾報道から取材しているわけ。おかしいですよね。影響力の大きい新聞の紙面では、香港紙に依拠して「虐殺報道」を繰り返し、真実は社内報でこっそりと書いた。それが新聞としてほとんど自殺行為に近いことをいまだ認識するに至っていない。これではほとんど「脳死状態」ではないか。九五年に切断された米中関係(銭其・−クリストファーのチャネル)はクリントン訪中によって修復されつつあるが、この新聞の病はいよいよ重い。

・補足切り抜き1

『朝日新聞』七月四日付夕刊「上海四日=清水勝彦記者」
「中国、米大統領訪問中も宗教弾圧」

この新聞は、いつからFIDES(バチカンの通信社)になったのですかね。オルブライト国務長官が上海のユダヤ教会を訪問したことがそんなに気になるのですか。

・補足切り抜き2 

『朝日新聞』七月四日付朝刊「香港三日=水野孝昭記者」のクリントン訪中の総括記事の結びは以下のごとくである。
「クリントン大統領はまるで選挙キャンペーンのように、米メディア向けに「変わる中国」を売り込み続けた。だが、「対中関与」は本来、中国を望ましい方向に導いていくためのはずだ。それがいつの間にか、現在の中国政府の改革路線そのもののPRになってしまった印象はぬぐえない」。

この記者によれば、「中国の望ましい方向」と「中国政府の改革路線そのもの」とは、矛盾する方向であるらしい。米国政府の対中関与engagement policyを是認しつつ、その政策からの乖離を大統領自身にお説教しているわけだ。夜郎自大もきわまれりというべきか。この新聞はいつから米国議会の広報紙になったのかね。



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中国的なるものを考えるR 淮北考(前編)
福本勝清(明治大学助教授)

 一九三七年夏、中共皖西北特委指導部は、長く途絶えていた党中央との連絡を回復させるために、孫仲徳を延安に向け派遣した。孫仲徳は皮革商人に変装し出発した。彼は途中、人のはした仕事を手伝ったり、日雇いをして日銭を稼ぎ、さらに曲馬団の荷車を引いたりしながら、苦労の末、ようやく西安の八路軍弁事処にたどりつく。そこからは車で延安に送られ、延安では中央統一戦線部副部長柯慶施に面会、これまでの活動報告を行うとともに、中央の指示を受け取っている。
 もっと苦労したのは、郭子華など徐州特委(正式には徐海蚌特委)の残党が組織した蘇魯辺区臨時特委の例である。成立したばかりの臨時特委は、上部組織の指示を求めて、一九三五年、郭子華の同郷で、楊虎城の下で『西北文化日報』主筆として活躍している宋綺雲と連絡をとるため、郭日高を西安に送った。だが、彼らには郭日高の切符を買う金がなかった。郭日高は蕭県(当時江蘇省、現在安徽省)まで行ったところで、共産党と怪しまれ捕まってしまう。何とか地方の名士に口を利いてもらい釈放されたが、出獄後も郭日高は西安行きを諦めず、物乞いをしながら、ついに西安にたどりつく。
 三五年秋、西安に中共西北特別支部が成立、西北軍、東北軍らの情報収集を担うとともに、上海、北平、延安らとの間の情報連絡に当たっていた。蘇魯辺の党組織は、宋綺雲を通じて西北特別支部の指導下に入るとともに、ようやく延安の党中央との連絡もつく。
 主題からそれるが、宋綺雲について一言。彼は、〇(胚−月+都−者)県人、郭子華と同郷(〇県は当時江蘇省属、解放後山東省に改属)であり、武漢の国民党中央軍事政治学校(黄埔軍官学校第六期)で学んだことがあり、土地革命期初期には〇県県委の主要メンバーの一人であった。楊虎城の下で働くようになってからも、上部組織(山東省委・江蘇省委)との連絡を失い困っていた郭子華ら蘇魯辺の党組織に、いろいろと援助の手を差しのべていた。実は、宋綺雲自身が中共中央軍事委員会(白区残留組織)駐上海弁事処につながる地下工作者であった。楊虎城の信任があつく、そのため、西安事変の後、国民党に捕らえられ(一九四一年)、楊虎城とともに重慶の中米合作社に収容される。一九四九年、解放前夜、楊虎城とその妻子、宋綺雲とその妻子はともに惨殺されている。『紅岩』のモデルの一人でもある。
 孫仲徳や郭日高の例から、農村党の真骨頂が窺える。安徽や蘇魯辺の農村党員の面目躍如と言いたいところである。孫仲徳については、張如屏「八年苦闘」(『革命史資料』第十輯)に孫大胖子(pangzi)と呼ばれたとあり、大柄でがっしりした体格であったらしい。皖西北の紅軍遊撃隊も農民に向かっては「俺たちは孫大胖子の部隊だ」と称していたとあり、彼らの活動地域ではよく知られた存在であった。延安行きは、彼自身も望んでいたことであったが、彼が以前商団でならした経験を持つこと、行幇(ギルド)の事情に詳しかったこと、さらに地下活動では、行商人や米の商いなどを隠れ蓑にしていたこともあり、彼ならば何とか困難をくぐり抜けられるだろうという読みもあったと思われる。ここでの商団とは、鎮あたりの民団(自警団)のことであろう。
 郭日高については資料がないが、リーダーの郭子華については、彼が医者や薬屋を隠れ蓑に、江蘇・山東の省境地帯の、弾圧を辛うじて生き残った党員をまとめながら、党組織を再建したことが知られている。医者といっても、正式に医学を学んだようには書かれていないので、独学の見よう見まねか、中医(漢方医)かであろう。九流のなかに、医も薬売りも、占卜や風水、役者などとともに入っており、旧社会では、かなりいかがわしい存在であったかと思われる。もちろん、郭子華たちがいい加減な治療を行っていたり、偽薬を売っていたなどと言っているのではない。むしろ、そのようないかがわしい装いを利用して、国民党の弾圧を逃れていたと言えよう。貧しい農民たちには、医者や薬売りのちょっとした親切も、大歓迎であったであろうことは疑いがない。
 張如屏らの活動について近著(『中国革命を駆け抜けたアウトローたち』中公新書)でも触れたが、「八年苦闘」は、彼らの革命運動以外についても、いろいろと興味深い事実を教えてくれる。鄂豫皖根拠地(大別山地)の東側、六安、舒城、肥西などの国民党支配地区で遅まきながらの遊撃戦争を行っていた彼らは、ゲリラが挫折した後、活動場所を移し、巣湖と長江の間の廬江、無為、巣湖一帯で地下闘争を行っていた。一九三六年夏、劉敏(劉文)と張如屏が教育救国会(国難教育社)の夏期講習会参加を名目に彼らの船で上海に出たおり、偶然、共青団江蘇省委の指導者、朱(陳国棟?)に会う。朱はわざわざ彼らの船を訪れ安徽のアジトに同行、そこで皆に一二九運動勃発後の新しい情勢について説明したほか、「中央紅軍はすでに陝北に入った。中央との連絡を取りたければ、陝北に行け」とアドバイスした。その後、彼らは孫仲徳を延安に派遣することになったのだが、準備中に西安事変が勃発、出発を延期せざるを得なくなった。
 朱から抗日闘争の任務について説明を受けた彼らは、無為県の六峰山の麓で、田舎芝居に出くわす。農民たちが金を出し、京劇の一行を招いて設けた舞台であり、一千人以上の農民が集まっていた。彼ら十数人は学生に化け、舞台を三元で借り、抗日の演説をぶつことにした。本来は曹雲露が話すはずであったが、彼が壽県人であり、壽県出身者はここでは「淮北△(人+袴−衣)子」と呼ばれていたため、やむをえず合肥人である孫仲徳が替わりにやることになった。孫仲徳はやさしい言葉で即席の演説をおこなったが、見物人の熱狂的な支持を受ける。「△子(kuazi)とは田舎っぺの意、辞書(中日大辞典)によれば、北京人が山東人のことをいうことが多い、また南方人が北方人のことをいうことがある、とある。
 因みに壽県は淮河南岸の県であり、淮北ではない。だが、貧しい淮北の代名詞ともいうべき鳳陽もまた淮河南岸に位置するように、淮河の北か南かは、あまり関係がないのかもしれない。
 池子華『中国近代流民』(浙江人民出版社)は、後進地域の流民問題を論じた力作である。主要なフィールドは淮北(及び蘇北)に置かれており、それと皖南、蘇南が対比されている。淮北の後進性、貧しさと皖南、蘇南の先進性、豊かさ。淮北と江南は極端なコントラストを有する二つの世界であり、それは生態学的な相違に基づいており、主体の素質の差異でもある。皖南たとえば徽州は、山がちで、しかも耕地が少なく人口稠密であるにもかかわらず、人々は商に従い、ついには全国にはばたくことができた(明清期の新安商人のこと)。だが、淮北人にはそのような創業精神がない。農業は天に任せ、座して収穫を待つばかり。消極的で、怠惰で、災害にあえば、耕牛をつぶし種籾を食い、土地を売り払い、それも尽きれば乞食や物取りとなる。まったく身も蓋もない、良いところなしである。
 淮北にも素質の高い人たち、紳士はいることはいる。ところが、彼らといえば、どのようにすれば彼らの生活環境を改善できるかというところから農民を指導するのではなく、乞食の群を率いて、自らその首領となり、官印を施した保護依頼書を携え、各地で救済にあずかろうとするであった。淮北人が読めば、これでもか、これでもかと、責められている気がして、たまらないだろう。  池子華の言う皖南、蘇南に対比される淮北とは純粋に淮河以北のことだけではないだろう。淮河以南のかなりの地域もまた含まれると思われる。というのも、彼が学んだ南京あたりでは、上記の例では壽県人も鳳陽人も淮北人であったように、淮河の南北を厳密に区別してなどいないはずである。
 王会昌『中国文化地理』(華中師範大学出版社)では、中国本土が中国伝統農業文化亜区に分けられ、さらに十二の副区に細分されているが、長江以北の江蘇、安徽両省は併せて淮河流域副区にまとめられ、皖南、蘇南及び浙江が呉越文化副区に分類されている。淮河の南北を一つの文化地域として認めているばかりか、呉越、淮河流域の二つの文化副区は対照的なものとされている。
 この王会昌の分類は、淮河の北では麦が植えられ、淮南では米が取れるという我々の常識からすれば、やや違和感がないわけではない。淮河を境にして、稲の田と麦の畑の二つの景観に分かれる、そう我々は教えられてきた。手元にある幾つかの地図(植被、土壌、農業などの項)を見ても、淮河の北と南は明確に区別されている(当然のごとく多少の出入りはあるが)。北は麦作地区に属し、南は水稲地区に属す。しかも、淮北と淮南にはかなりはっきりとした経済格差が存在する。同じ淮河流域でも南は北よりも豊かなのである。
 しかし、王会昌は、このような淮河をもって、南方と北方の分界点とする見方を一応認めながらも、むしろ中国の二つの文化中心地域、江南(呉越)と華北(中原・斉魯・燕趙)の中間地帯、もしくは移行地帯として、淮河流域(淮北、淮南)を一体なものと考えているようである。最もおもしろいのは、この淮河流域の文化を代表するものとして、「鳳陽花鼓」をあげている点である。鳳陽花鼓は歌舞を伴った一種の大道芸、乞食芸であるが、淮河の南北を問わず広がり、ついには華中、華北、江南の様々な地域の歌舞や戯劇(伝統劇)に影響を与えるにいたっている。
 伝統劇といえば、淮河流域では、淮北から徐海(江蘇)、魯南にかけ、「拉魂腔」を基礎とした泗州戯、淮海戯、柳琴戯が流行し、また南部では、安慶一帯から黄梅戯が生まれており、いずれもそのやわらかな言い回しと情切々たる戯劇音楽が、淮河流域文化の特色を表していると結んでいる。
 いわゆる「黄河奪淮」(黄河の水が南下し、淮河に流れ込むこと)以後、淮河流域の人々はたえず水害の危険にさらされることになった。淮河の北であれ、南であれ、米をつくっていようと麦をつくっていようと、同じ厄災に見舞われることに違いはなかった(実際には淮河以南でも米の裏作に小麦が植えられている)。ところが、同じ淮河以南でも、長江流域の人々、長江沿いの人々には、そのような一体感はなかった。それぞれ別々の運命に身を任せていたからである。淮河以南・長江以北の地に住む人々が、淮河流域と長江流域の人々に分かれる所以である。先ほどの皖西北党の例でいえば、曹雲露の壽県は淮河流域にあり、孫仲徳の合肥は長江流域にある。孫仲徳の話が長江沿いの無為の農民にうけたのも道理である。だが、さらにつけ加えれば、皖南人の目には、淮河流域だろうが、長江沿いだろうが、長江以北は同じく江北人であり、田舎者、遅れた連中であることに変わりがなかった。(続)
       

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