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第80号


中国の金融改革スチーブン・ハーナー(ドイツ銀行上海代表処首席代表)
連載中国的なるものを考える18蘇北及び蘇北人について 福本勝清(明治大学助教授)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋


中国の金融改革
スチーブン・ハーナー (ドイツ銀行上海代表処首席代表)


(1)金融制度の周知の問題

1中国の銀行が抱える巨額の不良債権

一九九八年一月一二日付『新華金融新聞』は、中国人民銀行の予測として、中国の銀行の不良債権が貸付額の約二〇%、あるいは一兆元以上にのぼると報じている。これは間違いなく過小評価である。

この主な融資先は、国有企業とそのプロジェクトであり、おそらくこれらの借り手の半分は金をなくしてしまい、借金を返済しないであろう。中国の会計基準と銀行経営実務では借り手も銀行もそれを容易に不良債権とは認めない。

実は、銀行資産の三〇〜四〇%あるいはそれ以上が未収、回収不能であり、償却されるべきものである。その額は一兆六三〇〇億〜二兆一七五〇億元、あるいは中国のGDPの二五%以上にものぼる。ちなみに一九九七年の中国のGDPは七兆四七七二億元であった。これは中国の大銀行の事実上の破産を意味し、体制改革の巨大なコスト、重荷を例証している。

2脆弱な経営、政治の干渉、無力な監査

中国の銀行、特に国有の四大商業銀行(工商銀行、農業銀行、中国銀行、建設銀行)の支店を訪れると、これらの機関が問題を抱えている理由がすぐにわかる。

上級幹部は、若い時からその地方の人民銀行で経験を積んできた地方の人間である。あらゆる活動が国家計画の管理下にあったため、信用リスクや銀行経営については何も学ばず、政府公認のプロジェクトや国有企業へ資金をまわすことだけが、銀行の仕事であった。

地方の銀行の経営者のほとんどは、個人的な関係やその共同体の利権のため、地方政府の役人に「ノー」と言ったり、赤字の国有企業への融資をストップさせたりすることができない。人民銀行の職員も地方の人間であり、同じ圧力を受けやすく、取締りシステムが脆弱、寛容で、銀行本店の監査とコントロールがないため、プロ意識に欠け、容易に腐敗につながりやすい。特に、人民銀行やその他銀行の地方の支店がその本店とまるで関係なく動き、全国組織の一部であるとはとても見えないことには驚かされる。

地方政府直轄の信託投資公司や国際信託投資公司のように、外資導入や省市の投資の「窓口」として設立されたにもかかわらず、ほとんど監査をうけず、地方の政治家や官僚の「財布」になっているだけという地方の金融機関さえある。

(2)大改革一年目としての98年

 金融体制改革、特に銀行システムにとって、一九九八年は間違いなく厳しい年になるであろう。朱鎔基総理の改革計画は三年計画であるが、一年目の一九九八年は苦しくも重要な年となるであろう。

1省の壁をうち破る

一九九八年は重要な構造変化が起こるであろう。人民銀行や主要銀行は、支店の配置を大きく見直すであろう。

その狙いは、地方の政治家と銀行家との関係を解消または打破し、銀行の独立性や専門性をさらに高める、そして人員過剰な銀行の人事体制(表3)を見直すことにある。人民銀行と四大商業銀行は、省レベルの支店を廃止し、いくつかの地区・地域に監査機能をもつ地域支店といくつかの直轄支店を設立するであろう。各地域支店銀行はビジネスを行い、ある程度までのリスクを引きうける権限をもつが、一定レベル以上は、本店の許可が必要になるだろう。

2商業銀行法と人民銀行法の履行

人民銀行と政府は、もっと効果的に本腰を入れて一九九五年制定の中国商業銀行法や中国人民銀行法を遵守すべきであろう。

中国人民銀行法は、中央銀行、銀行制度の主な監督機関・規制機関としての人民銀行に改革のための多くの厳しい法的根拠を与えている。また、商業銀行法は、五つのカギになる分野(1専業銀行の商業銀行への転換、2信用供銷(供給販売)合作社の商業銀行への転換、3商業銀行に対する自主権の拡大、4預金者の保護、5経営の安全性の基準と規制の導入)を定めている。

3現代的銀行システムの構築

一九九八年に商業銀行は、「現代的銀行制度」を実現するよう迫られるであろう。それは、会計やリスク管理システムの改善、融資の格付けシステム基準の確立、全国の支店の活動を検査するための監査委員会を本店に設置することなどを意味する。一九九八年に四大商業銀行は、一九九四年に設定された流動比率(二五%以上)によって貸出量を管理するよう求められるであろう(他の商業銀行は一九九五年からこの方法をとっている)。

4政策銀行の発展、信託投資公司の閉鎖

改革の一部は、三つの国家政策銀行(国家開発銀行、中国農業発展銀行、中国輸出入銀行)の活動をより発展させるものになるであろう。同時に、多くの信託投資会社や国際信託投資会社は、各省市に一〜二行だけ残してあとは閉鎖されるであろう。これらの地方の「窓口」が、投機的なプロジェクト、特に地元政府の役人主導の不動産開発に融資していたことは周知のことであり、そのほとんどが未収のままである。

(3)金利と通貨政策

一九九八年三月、中国人民銀行は前回の引下げから五カ月を経て再度の金利引下げを行い(表5)、朱鎔基体制下における金融の管理と改革に対し新たな積極姿勢を見せた。この動きの中で、人民銀行は国有企業の借入コストを下げ、国有企業改革を支える銀行の融資拡大を図ろうとしている。低インフレまたはインフレのない情勢で中国の実質金利は一九九七年末から一九九八年初頭にかけて史上最高に達した(図1)。

三月二五日、人民銀行は預金準備金制度を徹底的に改正する大きな一歩を踏み出した(表4)。制度改正前には、中国の金融機関は預金の一三%を中央銀行への預金準備金としなければならなかった。さらに、預金の五〜七%に当たる支払い準備金と呼ばれる特殊な準備金を人民銀行から要求された。三月二五日にこの特殊な準備金が廃止され、法定預金準備金は八%に引下げられた。

預金準備金制度改革で巨額の資金が金融機関に放出されたが、財政部はすぐにその資金を回収した。すなわち、四大国有商業銀行(工商銀行、農業銀行、中国銀行、建設銀行)に二七〇〇億元の特別国債を割当てた。銀行は新たに放出された資金で国債を買い、財政部はその資金を新規資本拠出として銀行に戻し、資金を「リサイクル」したのである。この措置で四大国有銀行の自己資本比率は八%に達する。

三月の出来事は、景気の落ち込みに対する北京の懸念を反映しており、人民銀行の金融政策における立場の強化を示している。しかし、金融政策では極端な引締めや緩和はせず、「穏健」を保っている。朱鎔基は、極端な緩和政策をとると、インフレをもたらすばかりか、実質的な生産や成長の増大を見込めないと考えているようである。

図2は、一九九三年から一九九七年末にかけてのM1(狭義の通貨)、M2(広義の通貨)の動向であり、ともに対前年同期比伸び率一五〜二〇%で下げ止まっている。これはインフレなき成長の維持に必要な水準と考えられている。

一九九七年にM2の伸びは一七・三%におちた。これは一九九六年より七・四ポイント下がっている。一九九七年末にM2のバランスは九兆一〇〇〇億元であった。M1は約三兆四八〇〇億元で、一九九六年より一六・五%増であった。M1の伸び率は一九九六年は一九・五%であった。戴相龍人民銀行長は、一九九八年のマネーサプライの目標をM2が一六〜一八%、M1が一七%、M0(現金通貨)が一四%と発表した。

(4)銀行制度の強化

 銀行制度を強化し実績を上げることが緊急の課題である。さらに、銀行制度改革は経済全体と国有企業の改革のプロセスと不可分の関係にある。一つはっきりしているのは、銀行の不良債権の帳消し、自己資本の補充・拡大が必要だということである。これは財政部により実行が求められよう。

財政部によって二七〇〇億元が注入され、多額の資金提供が開始されたことはさきに見たが、われわれの試算では不良債権は一兆六三〇〇〜二兆一七五〇億元あり、二七〇〇億元はほんの一部にすぎない。将来的に、政府、特に財政部に必要なのは、銀行の資本を再編するために新たな資金を調達しつづけることである。おそらく、国債発行を増やすであろうが、今後は公開発行するであろう。

金融機関の定期預金や貯蓄性普通預金の増加額は、一九九七年に約九〇五〇億元であった。財政部が毎年二二六〇億元の国債(預金増加額の四分の一)を発行し、金融機関の資本再編のための資金を利用するとすれば、資本再編には七〜一〇年ぐらいかかるであろう。「ノーマルな」国債発行の年間基準は二六〇〇〜二八〇〇億元である。銀行の資本再編には、財政部は向こう数年、年間借入を倍にする必要があるだろう。

(三菱総合研究所編『中国情報ハンドブック』98年版〔7月初め刊行予定、本体価格三〇〇〇円〕より転載、蒼蒼社編集部・山田かおり訳)





表2 商業融資の金融機関別シェア

(単位:億元)

年月
商業融
資総額
四大商業銀行
その他
商業銀行
農村信用
合作社
都市信用
合作社
金融リー
ス公司
93年12月
95年12月
97年12月
30,892
48,086
70,691
25,581 (82.8%)
37,563 (78.1%)
54,374 (76.9%)
1,235 
2,813 
4,304 
3,143 
5,234 
7,661 
777
2,068 
3,516 
155
  406
  833

(資料)『中国人民銀行統計季報』1998年第1期



表3 国有銀行の従業員数と各レベル機構数

  人民銀行 工商銀行 農業銀行 中国銀行 建設銀行
職員労働者
うち総行(本店)勤務
189,195
2,512
565,955
742
538,780
740
198,555
2,362
387,385
1,030
機構数
 総行(本店)
2,448
2
38,219
1
65,870
1
13,863
1
35,117
1
 省レベル支店
計画単列都市支店
地級市レベル支店
 県市弁事所
都市(郊区)弁事所
 営業部
分理処、営業所 
 貯蓄所
 その他
30
16
319
1,982
8



91
29
14
362
1,981
1,642
370
5,972
23,670
4,178
30
14
324
2,391
896
701
33,260
26,470
1,783
30
15
253
1,522
1,690

3,546
6,788
18
30
14
325
2,002
3,550
506
4,738
20,356
3,595

(資料)『中国統計年鑑』1997年版、 621頁




表4 中国の銀行の預金準備金の改革

  1998年3月25日以前 1998年3月25日以後
法定預金準備金率 13%       8%
支払い準備金率 5〜7%       廃止

(資料)中国人民銀行



表5 中国の預金金利と貸出利子

【預金金利】


93年
5月15日
93年
7月11日
96年
5月1日
96年
8月23日
97年
10月23日
98年
3月25日
要求払い
3カ月物定期
6カ月物定期
1年物定期
3年物定期
2.16
4.86
7.20
9.18
10.80 
3.15
6.66
9.00
10.98 
12.24 
2.97
4.86
7.20
9.18
10.80 
1.98
3.33
5.40
7.47
8.28
1.71
2.88
4.14
5.67
6.21
1.71
2.88
4.14
5.22
6.21

【貸付利子】


93年
7月11日
95年
1月1日
95年
7月1日
96年
5月1日
96年
8月23日
97年
10月23日
98年
3月25日
基準
6カ月
1年
3年
9.00
10.98 
12.24 
9.00
10.98 
12.96
10.08 
12.06
13.50 
9.72
10.98 
13.14 
9.18
10.08 
10.98 
7.65
8.64
9.36
7.02
7.92
9.00
最高
6カ月
1年
3年
10.80 
13.18 
14.69 
10.80 
13.18 
15.55 
12.10 
14.47 
16.20 
10.69 
12.08 
14.45 
10.10 
11.09 
12.08 
8.42
9.50
10.30 
7.72
8.71
9.90

注:銀行は人民銀行から1993〜1995年には貸付利子に20%の上乗せが認められて

いたが、1996年5月に10%に引き下げられた。

(資料)『中国人民銀行統計季報』1997年第3期





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中国的なるものを考える18
蘇北及び蘇北人について
福本勝清(明治大学助教授)


北京留学中、よく上海や南京に足を運んだが、そこで何度も蘇北人(Subeiren)についての悪口を聞かされることになった。上海や南京といった江南(長江デルタ地区)では、蘇北人がひどく馬鹿にされ、蔑まれているようであった。

そのような蘇北人への差別、偏見は、もちろん解放後始まったことではない。上海事変の混乱の中、共同租界やフランス租界の住民たちが、日本軍の侵攻を恐れ避難した後、もぬけの空となった家々を襲う不逞の輩が出没したが、それは決まって江北人の仕業とされ、江北人は日本軍の手先となっているといった非難が起こった。王礼錫の「戦時日記」(『読書雑誌』第二巻第四期)には、ある弄堂の入り口に、「我々江北人は面子を失ってはならない。自分を助けないで、日本人を助ける売国奴になっては、祖先様に申し訳が立たない。はやく目覚めよ!」と貼り紙がしてあったことを記している。

映画『逆光』(丁蔭楠監督、一九八二年)では、上海の旧租界地区に住む高級幹部と旧中国人街に住む労働者階級の間にある、一種身分的な違いが、背景として描かれていたが、旧中国人街に住む人々の多くは、江北人の後裔である。旧上海の租界地区に住む上流階級と、閘北や旧上海県城を中心とした中国人地区及び、そのまた周辺に広がるスラムに住む下層労働者の対照、それが解放後三十年を過ぎてもまだ残っているとは、問題の根深さを知るには十分だった。

陳中亜ほか著「蘇北人蔑視に関する調査」(『中国研究月報』、櫨山健介訳、一九八七年四月)が、解放後ではもっとも早い時期の蘇北人問題に関する社会調査であろう。外国人の研究としては韓起瀾(Emily.Honig)「論対上海的蘇北人的偏見」(『上海研究論争』第四輯、一九八九年)がある。

現代の子育てと伝統的な村落文化の関わりを論じた李銀河『生育与村落文化』(中国社会科学出版社、一九九四年)に、以下の一節がある。浙江余姚県の南陽村に、貧しくて三十歳を過ぎても結婚できない男がいた。余姚は浙江北部の県。改革開放経済の恩恵もあり、南陽村は比較的豊かな村であった。男はやむをえず蘇北から嫁をもらったが、村人がその“蘇北老婆”を言うときには、いつも馬鹿にしたニュアンスを伴っていた。運悪く、その嫁は、子供に恵まれず、さらに村人にかっこうの噂の種を提供することになった、云々。蘇北人についての偏見や差別が、けっして上海や南京といった江南の大都市だけの問題ではないことがわかる。

では、この蘇北人という時の蘇北とは、具体的にはどこの地域を指すのであろうか。 1長江以北の江蘇省、

2長江以北、淮河以南の地、

3塩城・淮陰以北から山東省境まで、

4最北段の徐海地区、南段(通揚運河以南)の揚州・南通地区を除く淮河流域、

大体以上の四説があろう。

1は江蘇省を長江以南の蘇南、長江以北の蘇北に二分する呼称である。筆者の手元にある本のなかでは、大島一二『中国における農村工業化の展開と農村経済・社会の変容に関する研究蘇南を中心に』(アジア政経学会、一九九三年)に、改革の進んでいる蘇南との対比から、長江以北が蘇北として一括して呼ばれている。

2は韓起瀾の分類。彼女によれば、淮河以北の、蘇北よりはもっと貧しく遅れた地域は、淮北であり、蘇北ではないとのこと。

今日、この場合の淮河とは歴史的な呼称である。というのも、現在淮河は安徽・江蘇省境の洪沢湖に流れ込むにすぎず、従来のような江蘇省を東西に横断する河ではなくなっているからである。一九三八年六月の花園口における黄河堤防の爆破により、黄河は再び南流する。濁流は淮河に流れ込み、淮河河口をつまらせたが、その状態は一九四六年の黄河の北流以後も変わらず、解放後は蘇北潅漑総渠を浚渫して河水を黄海へ放出している。

3は抗日戦争期、長江の南北に抗日根拠地が築かれ、江蘇省を蘇南、蘇中、蘇北の三軍区に分けたおり、塩城・淮陰から隴海線にかけて蘇北軍区が、それ以南に蘇中軍区が置かれたことがある。当時、淮河流域には黄克誠麾下の八路軍第五縦隊(後の新四軍第三師)が、揚州、泰州、南通といった沿江地区には陳毅、陳雲逸、粟裕などの新四軍江北指揮部が展開しており、二つの主力部隊の活動地域を、それぞれ蘇北、蘇中軍区に分けたというのが、実情ではなかったかと思われる。なお、韓起瀾によれば、揚州人は、自分たちは蘇北人ではない、蘇北は塩城や阜寧といった、より北の粗野な連中だと、自分たちが蘇北人と扱われることに不満をあらわにしていたといわれる。揚州人の目には、期せずして 説が妥当ということになる。

4説を具体的に述べたものはまだ見ていない。だが、最北段の徐州、海州(連雲港市)地区は、歴史的に山東、安徽などとの繋がりが深く、それ以南の地区とは若干区別されて論じられているように見受けられる。呉必虎『歴史時期蘇北平原地理系統研究』(華東師範大学出版社、一九九六年)では、徐海平原と蘇北平原が区別されており、また、徐海地区は中原官話に、蘇北平原以南は江淮官話に分けられている。それに対し、南段すなわち長江沿いの諸県、諸都市は、江南(蘇南)文化の影響を受け、それ以北の地域とかなり異なった雰囲気を持つ。それゆえ、最北段、南段を除く淮河流域、明清期には淮安府下にあった地域を一つのまとまりとして把握しても間違いではないように思う。“整個蘇北”(蘇北全体)という言い方もなされるが、その場合は4に等しくなる。

実際には、蘇北をどのように理解しても、蘇北人という呼称の、その軽侮を含むニュアンスは否定のしようがない。揚州人が自分たちは蘇北人ではないとどう息巻いても、江南における自分たちへの偏見を跳ね返すことは容易ではなかった。

では、どうして江南の人々にとって蘇北人が、侮蔑の対象となったのであろうか。韓起瀾も、忻平『従上海発現歴史現代化進程中的上海人及其社会生活(一九二七−一九三七) 』(上海人民出版社、一九九六年)も、十九世紀以前は、揚州を中心とする蘇北が、江南に匹敵する繁栄を誇っていたことを強調している。南北を結ぶ大運河と淮河の各支流が交差し、交通の便に恵まれた明清期の蘇北は、農業も発達していたこと、特に揚州は江南の食糧を北へ送る中継地として、華中の塩業の中枢として、その繁栄は蘇州や江寧(南京)と並び称されたことをあげている。その繁栄がなければ、明代泰州学派(王学左派)の隆盛もなく、清代揚州画壇(揚州八怪)や戯劇の興隆もなかったであろう。

だが、十九世紀に入ると、大運河を使った糧食の輸送が、海運に代わったことによって、蘇北は大きな打撃を受けた。黄河の土砂でつまりがちな大運河北段を避けるために始まった海運の利用は、一八四〇年代には主要な輸送手段となり、大運河の比重を著しく低下させることになった。多数の水夫が失業者として放り出され、揚州以下の市鎮が衰退していく。

それに追い打ちをかけたのが、一八五三年の「黄河奪淮」であった。黄河が河道を改め、淮河支流を南下、洪沢湖に流入、蘇北を貫通して海に注ぐことになった。黄河の大量の土砂が淮河に注がれ、淮河をつまらせ、各地で洪水を引き起こした。当時太平天国軍や捻軍との戦闘に明け暮れていた清朝には、それに対処する余裕は残っていなかったと思われる。

さらに大運河の比重低下は、蘇北の治水に対する関心を低下させた。反乱が鎮圧された後、曾国藩、劉坤一、左宗棠ら大物漢人官僚が両江総督として治水の責を負ったが、頻繁に洪水に襲われるようになっていた蘇北の窮状を解決するにはいたらなかった。

十九世紀後半以後、蘇州から上海への中心都市の変更といった変化はあったにせよ、次第に近代的な商工業を備え、発展し始めた江南に比べ、蘇北は大きく立ち後れる。二〇世紀初頭には、豊かな江南に比し、蘇北は貧困の代名詞となる。十九世紀後半以後、或いは自然災害に追われ、或いは冬場、飢えに苦しめられた蘇北からの流民が続々と江南に向かう。上海、蘇州、無錫といった都市ばかりでなく、江南の農村に入り込み、太平天国の戦乱により荒れはてた農地や江南農民が匙を投げた荒蕪地、或いは太湖畔の低地を小作して、どうにか露命をつなぐことになった。江南農民にとっては耐え難い悪条件でさえ、蘇北農民にとってはましであった。「なにしろ、ここでは少なくとも飢えは満たされるのだ。蘇北では大根や芋しか食べられなかったが、江南では米を食べられるのだ」。

江南に押し寄せる蘇北の流民は、年々増え続けた。豊かな江南民衆から見れば、着の身着のまま、群を成して押し寄せる蘇北人は異様であり、飢えを満たすためなら何でもやりかねない彼等は胡乱(うろん)な存在であった。

上海は大都市であった。どんな仕事もあった。だが、上海の象徴である近代的な商工業の担い手となるためには、文字を知り、技術を有していなければならなかった。いずれにせよ大多数の蘇北人に無縁であった。上海に押し寄せた蘇北人ができる仕事といえば、人力車夫、波止場人足、清掃労働者、皮なめし職人といった、江南の労働者がやりたがらない重労働であり、きつく、きたない仕事であった。

蘇北人にはない器用さを誇る揚州人は、上海の“三把刀”を支配下に治めていることが自慢だった。三つの刃物とは、床屋、修脚(xiujiao)、料理人である。だが、それとても、一般の上海人には、蘇北人の地位の低さを示すものでしかなかった。「蘇北人是“三把刀”」とは、床屋から肥え車引きの、下賎の輩だ、ということになった。楊樹浦や滬西、浦東など工場地区の周囲に広がるスラム(棚戸区)住民もまた、そのほとんどが江北からの流入者であったといわれている。

寄る辺なき彼らが、例のごとく青幇など幇会に多数のメンバーを供給したのは勿論である。胡訓〇王+民、賀建『上海幇会簡史』(上海人民出版社、一九九一年)によれば、上海青幇の隆盛は、清末から民初にかけての、徐宝山、張仁奎など蘇北幇会の東遷によって、その口火が切られたとある。だが、全盛期の上海青幇を代表する三人の大ボス、杜月笙、黄金栄、張嘯林はいずれも江南人である。


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逆耳順耳
矢吹 晋


死後而己

前号で余白が生じたので、急遽補ったのが朱鎔基会見であった。総理就任直後の記者会見で述べた「鞠躬尽瘁、死而後已」の八文字について実に意外な反応があった。これが諸葛孔明「後出師表」に基づくことは、三国志の読者にとってあまりにも当然の事柄である。

しかし、世の中には、まるで逆の理解を示す向きがあり、その事実の意外性に私は驚いた次第である。

わが国の某英字紙は「朱鎔基は死ぬまで総理を辞めない」と語ったと解説した由である。「死してのち已む」とは、「死ぬまで辞めないこと」だという受け取り方は、一見論理的だが、「情は人のためならず」を「ためにならないから、情けをかけない」と解するのと同じ誤解である。

国民からほとんど見放されても、「代わりがいないから」といった理由で、権力の椅子に恋々とするどこやらの政治家の不見識とつきあわされ、それが習い性となると、その種の形式論理でコトバの意味を理解することが「情理(条理)を備えた」解釈になるのであろうか。恐ろしい世の中になった。

友人が英字紙を点検したところによると、Asian Wall Street Journal紙は、原意を正確に訳していた由。おそらくこの記者は、英語ができるだけでなく、中国文化についても常識を欠いてはいない部類に属する記者であった。

もう一つ。朱鎔基が総理就任の結びにおいてこの四文字を用いたことについて、朱鎔基周辺のアドバイザーは「適切な引用とは言いがたい」と評した由である。

不適切とする識者の論理は、「負け戦に望む心境」がまずいという意味らしい。そのあたりの歴史の文脈を百も承知のうえで、さらりと言ってのける。そこが朱鎔基の魅力なのだ。その種の危うさに人はシビレ、言葉が人を動かすのである。これは「名も知らぬ朱鎔基アドバイザー」に対する私自身のアドバイスである。

鬼神探し

歴史学者・黒田日出男のエッセイ「鬼神探しを楽しもう」(『朝日新聞』九八年四月八日夕刊)のなかに胸のすくようなセリフがあったので、抜き書きしておきたい。

中世の学者とは、限りなく鬼に近い存在であったことになる。というより、学者とはまさしく鬼であったのだ。(中略)

現代でも、学者の本性は鬼であると私は思っている。この社会とさまざまに対峙する(他者としての)鬼である。(中略)

だが、現在の大学にいる大部分の学者は、凡庸な「鬼」たち、「鬼」になりそこねた学者たち、さらには鬼になるつもりなど全くない学者たちであると言い得るのではなかろうか。

もしかしたら

某月某日、あわてて家を出る。着いたとたんに、ああくたびれたと、駅のホームでベンチに座り込む。「ン? おかしい」。

ところが何がおかしいのか、気づかない。しばらくして私の右足と左足と靴の色が異なることに気づく。やむなく駅員に断り、中途出場。駅員が慰めていわく、「電車に乗る前でよかったですねぇ」。

というわけで、私の判断能力はかなり怪しいのである。「もしかしたら」、こちらの判断がおかしいのかもしれない………と首をかしげることがこのごろあまりにも多い。〔という次第で、以下省略。お蔵入りにします。〕

『甦る朝河貫一』あとがき

朝河貫一研究会は生誕一二〇周年を記念して、『朝河貫一の世界』を出版した。その経験を踏まえて、没後五〇周年を記念して『朝河貫一の世界 2』(略称パート 組み方向 2 )を刊行する構想は、一九九六年一月の研究会で提案された(『朝河貫一研究会ニュース』第二四号、九六年四月)。金井圓会員が「朝河関係研究文献一覧」の増補・公刊を提案し、これに触発されたものである。同年四月二九日、福島テレビは『甦れ朝河貫一・日米開戦を阻止しようとした男』を放映したが、このタイトルを承けて、『〜世界 2』の正式タイトルは『甦る朝河貫一』と決定した。英文タイトルKan'ichi Asakawa: Pioneer Historian Re-evaluated は、オーシロ・ジョージ会員のアイディアによるものである。

会員諸氏が最近の研究結果を四〇〇字二五枚以内でリーダブルなエッセイにまとめる方針も確認され、締切りは九七年五月の連休明け、出版は九七年末と決定した。出版社に関しては、結局『書簡集』『朝河貫一の世界』の時にも印刷の面でお世話をいただいた国際文献印刷社に、出版を含めて依頼することになった。

内容から考えて、全体を二部構成とした。すなわち

第一部 朝河貫一を語る

第二部 朝河貫一「珠玉のことば」

である。第二部の編集作業は主として金井圓、石川衛三両会員が担当した。

第一部、第二部ともに会員諸氏の「個性」を最大限に尊重する方針を堅持したために、テーマも内容も、スタイルもさまざまである。不統一と思われる向きもあろうが、研究会は個性的なメンバーのグループであり、画一的な統一になじまない。読者のご寛容を請う次第である。第二部「珠玉のことば」は、独立させても、これだけで十分に朝河博士の思想と行動が分かるように編集・注釈した。『甦る朝河貫一』は、研究会メンバー各位のさまざまな努力によって刊行にこぎつけた。この意味で、本書は会員全体の努力の結晶だが、とりわけ言及しておきたいのは、以下の方々である。

本書に序文を寄せていただいた早稲田大学奥島孝康総長、福島県佐藤栄佐久知事、井出孫六氏(作家)、および英文序文を寄せていただいたハーヴァード大学入江昭教授および『朝河貫一書簡集』序文の転載を快諾された、永井道雄氏に感謝の意を表したい。本書のカバー・デザインは、『朝河貫一の世界』と同じく、安積高校の美術担当・日下部正和先生の絵筆になるもので、和文書名をイメージしたものである。

『書簡集』編集から『朝河貫一の世界』へ、そして『甦る朝河貫一』へと朝河研究、顕彰の活動はゆるやかな歩みながら前進しつつある。朝河貫一の没後五〇周年記念祭は一九九八年八月一一日である。本書をその約半年前に刊行するのは、編集・出版活動を通じて、朝河貫一顕彰運動を盛り上げていくことを祈念してのことである。

本書の刊行を一つのステップとして、現在も続けられている朝河貫一研究会での研究発表と相互の討論を通じて「朝河学」をさらに深め、国際理解、国際交流の一助とすることができれば幸いである(一九九七年八月三〇日)。

追記。イェール大学名誉教授ジョン・W・ホール博士が、一九九七年一〇月二一日、アリゾナの自宅で逝去された。享年八一歳。同博士は朝河貫一遺稿集『荘園研究』にKan'ichi Asakawa: Comparative Historian を執筆されたのを初めとして、アメリカにおける日本史学、朝河学の権威であった。謹んでご冥福を祈ります。

〔これは『甦る朝河貫一』(朝河貫一研究会編、東京国際文献印刷刊、九八年一月)の「あとがき」草稿である。研究会代表峰島旭雄教授との連名で印刷された。〕


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