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第79号


チャイナビジネス──成功の極意と失敗の教訓(『チャイナビジネス』)
連載中国的なるものを考える17「乞食・芸人・飢民」 福本勝清(明治大学助教授)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋


チャイナビジネス──成功の極意と失敗の教訓
『チャイナビジネス』
筧 武雄(横浜銀行国際部主任調査役)


【解題】以下は近刊の筧武雄著『チャイナビジネス──成功の極意と失敗の教訓』からの抜粋です。『チャイナビジネ ス』は前著『チャイナリスク』(蒼蒼社刊、一九九七年)の続編であり、著者の十四年にわたる中国ビジネス支援経験を凝縮して、中国ビジネスリスクを克服するノウハウを開示したものです。
 『チャイナビジネス』は、また単なる実用書に止まらず、ビジネスの視点から中国及び中国人を縦横に論じた質の高い中国社会文化論ともなっていることが、以下の抜粋からお察しいただけると思います。ビジネス領域外の方々からの御批評もお待ちする所以です。

非信用経済社会では日本的常識は通用しない
 日本は法治国家であり、贈収賄、とりこみ詐欺やネズミ講などの違法行為は政治家、実業家、高級官僚を問わず厳しく処罰されます。また、公正取引委員会が厳しく監視していますので、談合や闇取引もできません。また手形小切手法にもとづく不渡り制度があり、カラ手形を勝手に振り出すこともできません。これらの経済犯罪行為を犯した者は法律上の刑事責任と損害賠償の責を負い、判決により強制執行されます。
 ところが、日本では当然のこれらの事柄が日本以外のアジア諸国では希有のことなのです。信用経済は空気と同じくタダという環境に慣れ親しんできた日本の企業が、そのままの感覚で日本国境を一歩踏み出せば、とんでもない目に会うことになります。
 例えば、香港で小切手で支払ってみて下さい。多額のものは誰も受け取りません。小切手を使うことのほうが信用がないのです。香港では、小切手は不渡りとなっても、銀行から返却されて取立手数料をとられるだけで、振出人には何の責めもありません。不渡り手形や小切手は受け取った者の責任なのです。
 同様のことは商品取引でも言えるでしょう。不良品は買った者の責任です。買手が店頭で厳密に商品をチェックするのは当然のことなのです。売上金を回収できないので貴方の請求はお支払いできない、というのも当然の理屈です。払ってくれない相手、あるいは貸してくれない銀行が悪いので、当方にはなんら責任はない、という言い分です。言い換えれば、詐欺事件は騙された者の責任、売掛金の未回収は掛け売りした者の責任だということです。争い事はどちらが正義かということが問題なのではなく、言い訳のたった方、言い負かした方が勝ちなのです。
 これに対する対応は、「貴方の支払いが遅れるのならば、当初の契約どおり毎日○%の遅延利息をいただくのですぐに振り込まれたい。文句があるなら日本の仲裁機関に訴えられたい」ということになります(なお、中国公定の遅延利息は一九九七年十月二十三日の金利改訂で日利一万分の四となっています)。ただし、ここで契約に何も書いていなければ損失は日本持ちということになります。ベテラン担当者ともなれば、「支払えないならば、お預かりしている担保預金は没収させていただく」とか、「この未払い金は別の輸入取引の残金と相殺させていただく」という手に出るでしょう。
 ちなみに、中国に限らず海外からの輸入取引に最初から一一〇%もの信用状を開設してはいけません。まずはバイヤーとしての強みを主張して、六割から七割程度の金額で信用状を開設し、残りは輸入検品後支払いとします。納期遅延、不良品やごまかしに対しては、残金差し引き不払いという手段で対抗するわけです。いったん支払った後でペナルティを戻し送金させるとか、次回の取引で調整する、という対応が非現実的です。
 中国華僑、インド印僑、韓国などの財閥は血縁、地縁にもとづいて繁栄してきました。アジア諸国には、大金持ちの個人や財閥は多数存在しても、大企業、特に大手メーカーは育っていない事実は、非信用経済社会とも無関係ではありません。公的な信用秩序を維持する制度が確立していない社会では、血族あるいはそれ同等の友人以外の他人は信用することができません。それがコネ中心の社会構造や、個人の利益を最優先する組織形態、シェア拡大至上主義の何でも手を出すタコ足財閥といった土壌を形成しているのです。
 ことの是非は別として、日本独特の慣れ会い、「甘えの構造」的な感覚では、アジアの非信用経済社会では「裏切られ」て当然であることをよく認識しておかねばなりません。

見も知らぬ中国人に騙し取られたオートテニス場
 バブル時代に人手不足のため、日本国内で採用した中国人女子留学生が、日本での就職ためのビザの切り替えでいったん上海に帰国しなければならなくなりました。帰国したのち、単純な事務職では日本での就労許可が取得できず、しばらくたって当の本人から本社の社長あて、上海に合弁会社を設立しないかという誘いがありました。
 彼女の知り合いに、上海でも有名な体育館関係の高級幹部の息子がいる。彼は、日本からオートテニスの設備を導入し、上海で日本式のテニスクラブ経営をしたいと考えている。もし、彼女自身が合弁会社の役員になれば、研修や会議、業務出張の名目で日本の親会社に長期滞在ができるようにもなる、云々。
 社長がさっそく知り合いの業者を探したところ、たまたま経営危機に瀕しているオートテニス場が見つかりました。そして、五千万円でオートテニスの機械設備一式を譲ってもよいという話なので、意向書に署名し、契約書の作成にとりかかることにしました。
 ここで、すでに六十近い社長が、三十そこそこの中国人女性の美貌に魅力を感じていたことも否定はできません。腹の中では一億円程度の投資で上海の体育館にオートテニスクラブを設立してオーナーになり、彼女をマネージャーに据えて悠々自適の老後を迎えるつもりだったようです。
 社長の独走を心配して、取引銀行の専門家に相談したのは総務部長です。専門家が指摘した問題は以下のとおりです。
 @売上金回収は人民元となるが、どのようにして外貨に交換し、日本に利益回収するのか? また、このような小売りサービス業では中国政府の合弁認可は一般的に難しいのではないか?
 A上海地区のホテルには外人用テニスクラブがあるが、中国人用のはあまり聞いたことがない。経験のない一般の中国人市民に、どのようにしてテニスに興味を持たせ、クラブに入会勧誘するのか?
 B料金設定はどうするのか? 中国人向けでは低料金とならざるを得ないが、採算はとれるのか?
 C当社の本業とかけ離れた事業だが、オートテニスクラブの経営ノウハウはあるのか?
 D社長は彼女を信用しているようだが、事業パートナーの幹部子弟には会ったこともない。見知らぬ相手と契約するのは避けなければならない。
 これらの疑問に対する現地からの回答は、以下のごとくでした。
 現在上海市内では、むしろ人民元のほうが不足しているぐらいで外貨交換は全く問題ない。相手は政府幹部なので営業許可は問題ない。中国人用テニスクラブはすでに多数存在し、特に本件は富裕層を顧客にするので採算面も問題ない。日本側は設備を提供してくれるだけで、運営は全て体育館のプロのスタッフに任せてもらえば問題ない。
 いずれの疑問もまったく問題ないので、すぐに契約に調印して機械設備を船積みして欲しいということでした。この時点で、すでに社長は彼女に上海市内の高級マンションを買い与えており、そこに電話とファクスを架設し、自分の出張宿泊所兼営業事務所としていました。関心は、彼女の紹介による友人の映画女優やファッションモデルの合弁会社への雇用、テニスクラブの制服デザインなどに移っていました。
 先方から送付されてきた合弁契約書の条文に対する日本側専門家のチェック、アドバイスは、中国側から何の抵抗もなく受け入れられ、日本側の要求どおりすべて修正されました。
 しかしながら、これらのことで総務部長は逆にますます不信感を強め、五千万円相当の設備を騙し取られるのではないかと疑心暗鬼になっていました。そこで、一計を案じ、人民元の外貨交換を含む先方の約束事項を保証書として文章化し、政府幹部の子弟という相手方に署名させることを最後の条件として契約する旨、上海の彼女に伝達しました。ところが、契約にまだ署名していないもかかわらず、現地の彼女から突然、営業許可証が取得できたのですぐに設備を船積みするよう、社長のところに直接依頼が入ったのです。社長は単独でこれを快諾、業者に搬送を手配させ、手形で支払いを済ませてしまいました。
 総務部長は、すぐ上海に飛びました。彼女に面会し、政府高官の幹部子弟に会わせろと要求しましたが、彼女自身も実は本人に会ったことがなく、間に第三者を仲介していたことが分かりました。「日本本社社長から委任を受けた」彼女と仲介者、仲介者と幹部子弟の間でそれぞれ別の契約が結ばれており、価格を上乗せされたうえに、条件内容が著しく異なっていることも判明しました。しかし、これらの契約はいずれも政府に認可された正当なものであり、現物出資は免税扱いで有効に登記され、貨物も引き取られました。
 こうして立ち上げた上海の中国人向けオートテニス事業は一時的に話題を呼んだものの、その後全くふるわず、料金値下げを続けました。収入の人民元を海外送金することもできず、完全に中国人の経営による娯楽場となりましたが、日本の最新設備は、上海の健全なスポーツ振興に現在でも役立っているということです。
 ちなみに、帰国後、社長夫人に本件を直訴した総務部長は、社長に解雇される羽目になりました。また、当の社長はその後健康を害し、日本本社は銀行返済が延滞し、ほどなく不渡りを抱えて倒産してしまいました。

一度入れたらなかなか出せない人民元
 銀行の窓口に自分の預金を払い戻しに行って、お金が下ろせない、あるいは銀行から払い戻しを断られたという経験をお持ちでしょうか? 日本では時間外に百五円の手数料がかかるだけでも怒り出す人が多いのに、ましてや払い戻しを拒否されたら、何がおきるか想像するのも恐ろしい気がします。しかし、中国では、しごく当たり前のことなのです。
 第一の理由として、銀行に現金がない、という事情があります。
 実は日本の銀行でも、ボーナス支給日などで予想より多くの現金払い戻しが集中した場合、ごくまれに日中に現金が足りなくなることがあります。そんなときは早めに他の支店に緊急依頼をして若手の行員が自動車を飛ばして現金を取りにいくので、来店客に迷惑をかけることはあり得ません。しかし、中国の銀行の事務レベルでは、毎日の現金準備を事細かに予想して対処しているとは考えにくく、こんな事態が何時でも容易に発生し得ると、まず考えられます。
 つぎに、政府がインフレ抑制などのために人民元の流通量を調整し、中国人民銀行(日銀に相当する中国の中央銀行)が現金の発行を直接に抑制しているというケースが考えられます。
 さらには、銀行が外貨資金を他で運用してしまっていてすぐに払い戻しに応じられない(あるいは最悪の場合外貨資金を人民元にエクスチェンジしてしまっていて手元にない)という事情も考えられます。
 中国の銀行で自分の預金がおろせない、という苦情の大半はこのような理由によるものと考えられます。実は、中国の銀行だけがルーズというわけではなく、欧米の銀行でも、自動支払機は現金がなくなったところでストップして終わってしまうのが普通です。
 第二の理由として、中国の銀行の店頭サービスの悪さと混雑があります。
 払い戻しの請求書がどこにおいてあるか、見つけ出すだけでも一苦労です。ロビーに散らばっていればまだよいほうで、普通はカウンターに請求しなければ手に入りません。それも投げてよこすだけで、記入方法やサイン、捺印の場所すら教えてはくれません。キャッシュカード自動支払機もありません。したがって、中国の銀行では中国語会話ができなければ預金を払い戻すことはまず不可能で、日本的感覚で軽い気持ちで行くと、怒りを覚えて帰ってくるだけです。
 地方の銀行に行くと、防犯のためかカウンターはようやく手がひとつ入るぐらいの小さな穴があいているだけで、そこに何人もの中国人が群がって手に伝票を握りしめて殺到していることがよくあります。何の係の窓口なのか中国語を理解するだけでも大変なのに、群れの中に割り込んでいって無事払い戻しを受けるだけの気力があるでしょうか? さらに、窓口に座っている係員も横柄で笑顔ひとつしません。サービス精神など微塵もなく、こちらが少しでも文句を言おうものなら食ってかかってきます。私自身の経験では、中国銀行の本店で一万元の現金をアフリカ人の他人に間違って払い戻しておきながら、平然として謝まらない窓口の女性係員と大喧嘩したことがあります。
 中国の銀行で自分の預金がおろせない第三の理由としては、中国独特の預金制度や外為規制の複雑さがあります。
 法人を設立しても、資本金が全額払い込まれるまでは臨時口座としての取り扱いとなり、外貨管理局の事前承認がなければ預金を払い戻すことを銀行窓口で拒否されます。
 また、預金口座に入金された外貨借入金を人民元に両替して払い戻すことも、外貨管理局の事前承認がなければ、銀行窓口で拒否されます。
 さらに、海外から送金されてきた資金は、それぞれの内容に応じて資本金口座、経常資金口座、借入金口座などに区別して入金しなければならず、払い戻す場合もそれぞれの使途を銀行窓口で書類等により確認しなければ、原則として払い戻しを拒否されます。
 あるいは、技術使用料や借入金利息を口座から払い戻して海外送金するためには、あらかじめ外貨管理局への登記を済ませておかなければならず、さらにその都度事前に税務局で一〇%の源泉税を納税し、その領収証を提示しなければ払い戻しと送金は銀行窓口で拒否されます。
 これらのことは法律や規則で決められていることですから仕方ありませんが、問題は窓口の係員がただ「できません」と言って無愛想に通帳と伝票を投げかえしてくることです。理由をたずねても丁寧に説明してくれることなどまずなく、聞いてもよくわかりません。外貨管理局や税務局などどこにあるのかも教えてはくれません。最初のうちはわけもわからず、ただ涙を飲んで帰ってくるだけです。
 もし、以上のような謎が最初の訪問時に一度に解けて、スムースに払い戻しができたとしたら、非常に幸運であると言えるでしょう。こんなことから、一度入れた現金は二度とおろせないと信じている人も少なくありません。
 さて、以上のような卑近な事情のほかに、実はもっと構造的な問題があります。たとえば、台湾や韓国では長い間、問外貨の国外持ち出しには厳しい制限がありました。現在でも外国為替規制がまったくないのはアジア諸国ではインドネシアだけです。かく言う日本も、パスポートの裏表紙に海外に持ち出す米ドル金額を記入して日銀の許可印を受けていたのはそんなに昔のことではありません。ましてや中国からの外貨持ち出しに制限がないはずはありません。
 いったん人民元に両替したあとで、これを外貨に戻すためには、当初の両替証明書がなければなりません。これがあっても半分の金額までしか戻せません。ちなみに人民元現金の売りと買いの相場のレート差は一元につき一円あります。
 小額両替でもこれだけ厳しいのですから、ましてや数百万、数千万、数億の規模ともなれば、個別に外貨管理局に申請して事前に許可を受けなければなりません。もともとの輸入などの取引が当初から認可されているものでなければ、人民元の外貨への交換はまず不可能です。当初から認可されていたものであったとしても、すぐに外貨手当てがつくかどうかも確実ではありません。
 外国投資企業に対する中国政府の基本的な姿勢は、「海外に持ち出すことのできる外貨は、自分で海外から稼いだ外貨の範囲内とする」ことであり、外貨を稼げない、つまり輸出をしない事業は原則としてそもそも最初から設立認可されません。最近では経常資金に限り、証拠書類にもとづいて銀行窓口で外貨への交換が可能になりましたが、これは外貨管理局への申請という手間が省かれただけで、基本的には前述のとおり、当初から当局の認可を受けた取引でなければ外貨の海外持ち出しは認められません。
 このような問題を「外貨バランス問題」と呼びます。外貨バランス問題は中国だけでなくベトナム、ミャンマー、インドなどでも存在します。冗談かも知れませんが、これらの国内に支店を持つ日本の銀行の支店長は毎週のように米ドル現金をアタッシュケースに詰め込んで飛行機で持ち込んでいるという噂もあります。また、優良取引先からの強い要請を受けて、やむなく行員みずからの給与をもって外貨への交換に応じているという話を聞いたことがあります。

キックバックやリベートはエスカレートする一方
   上海で外資系企業の総経理を務める中国人総経理の年収は一千万円を下らないと言われています。その大半が、採用する中国人からの「採用手数料」、購買する仕入先からのリベート、発注した中国建設会社からのキックバックなどのオフバランス(帳簿外)収入です。
 中国国内での商取引代金は、請求されるまで支払わないのは当然で、請求されても全額支払わないのが普通だと言われます。少なくとも購買担当者に個人的なキックバックを支払わないと、全額代金回収が出来ないというわけです。キックバックやリベートは以前から存在しているようですが、最近では益々エスカレートする一方のようです。
 ある広東省の合弁事業では、建築代金が値上がりしたため日本側が代金支払いを猶予したところ、間もなく中国側パートナーから資本金の払い込みが不可能になったとの連絡が入りました。どういう事情か調べてみると、中国側パートナーは建築公司からのバックリベートを自らの出資金に充てる手はずであり、これが入らなくなったために出資金払い込みが不可能になったというのです。二倍にも跳ね上がった工事代金を支払わなければ、合弁事業そのものが不成立になるため、この日本企業は泣く泣く代金を支払わざるを得ませんでした。
 とにかく、何から何まで裏金でつながっています。いや、中国ではこれらは裏金ではなく、正当な手数料と認識されていましょう。これらは一時的に拒絶できたとしても、あとからあとから手をかえ品をかえて要求され、結果として拒絶することのほうがコスト高となってしまうのです。
 中国共産党中央規律検査委員会の第十五回党大会への活動報告によると、中国共産党は一九九三年一月〜九七年六月の四年間で全国で合計七十三万一千件あまりの腐敗分子摘発立件があり、党と行政の規律処分を受けた者は六十六万九千三百人あまり、そのうち党から除名された者は十二万一千五百名あまり、除名と同時に刑事処分を受けた者が三万七千四百九十二人いたということです。また、総額百六十億元の国家損失を回収した(収賄・公金流用等を回収した)ということです。
 要するに、毎年三万人の党幹部が腐敗分子として除名され、その四分の一が刑事罰を受けていることになります。これだけ厳しく反腐敗闘争が展開されていても、「経済犯罪行為」は犯罪ではないという意識が強いようです。その典型的な事例として、ある日中合弁企業の中国人総経理の弁明を例に挙げます。
 「中国では、取引先や知人、肉親、関連党幹部などが当地を訪ねてきたとき、滞在費などの経済的負担を全て当方で持つことが常識です。ところが、外資系企業では、これらのコストを社費として計上することが認められません。この負担を欠くと、将来さらに大きなコストとなって跳ね返ってくることになります。私はやむを得ず、各方面から個人的に手数料を徴収し、これら接待費の資金としています。自分で蓄えているわけではなく、自分の会社を愛しているが故にやっていることであり、合弁会社の円滑な経営を維持していくうえで必要なことなのです」。
 これを屁理屈ととるか、ホンネととるかは聞き手しだいです。どんな事情があるにせよ、日本では贈収賄、横領、ピンハネなどは犯罪行為であり、犯人は逮捕され、社会的地位はなくなり、制裁を受けます。それが中国では当然の経済活動であり、むしろ愛社的、献身的なこととされるのです。
 日本でも総会屋に多額の現金を渡していた一流企業、一流銀行、一流証券会社の総務部長などがいました。彼らも愛社精神でやったことなのでしょうが、日本では許されることではありません。わかりやすく言い換えれば、中国合弁企業の営業部長、総経理は日本の総会屋対策プロジェクトチームレベルの手腕、映画「ミンボーの女」的な手腕が要求されるということでしょう。

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中国的なるものを考える17
乞食・芸人・飢民
福本勝清(明治大学助教授)


たぶん一九八六年頃だったと思うが、当時中国の文芸各誌に掲載され、評判をとった張辛欣『北京人』のなかに、解放前、包頭の乞食集団(丐幇)「梁山」に属していた老人の話(「第一百零九将」)が載っていて、とても興味深く読んだことがある。文学にせよ、歴史にせよ、それまでの決まり切った題材や紋切り型の手法にうんざりしていた我々には、それはとても目新しく感じられたものであった。実のところ、この包頭の丐幇「梁山」については、劉映山「包頭死人溝的“梁山”」が一九六三年八月発行の『内蒙古文史資料』第二輯に掲載されており、同年九月発行の『文史資料選輯』第三十八輯にも、劉映山「包頭流氓低層社会的“梁山”」として転載されている。一九九〇年代に入り次々と出版され始めた「江湖」もののなかで、乞食について書かれたものは必ずといってよいほど、この包頭の「梁山」に言及している。
このような「物ごい」現象やその集団への関心を高めたのが劉漢太『中国的乞丐群落』(一九八七年十月刊、江蘇文芸出版社)であることはいうまでもない。日本語訳は二つ出たはずだが、筆者の手元にあるのは岡田陽一訳『阿Qの王国―中国浮浪者列伝』(一九九一年、草風館)のみである。曲彦斌『中国乞丐史』(一九九〇年、上海文芸出版社)にも、劉漢太『中国的乞丐群落』が世を驚かせ、乞食現象や乞食集団への興味をかき立てるきっかけになったことが書かれている。なお台湾においても曲彦斌『中国乞丐縦横談』(一九九一年、雲龍出版社)が出版されているが、これは『中国乞丐史』の繁体字本であり、横書きを縦書きに直しただけのものである。なお奥付には、合法的に大陸以外での独占的版権を取得したことが記されている。
さて、劉漢太に、次のような一節がある。「思いもよらぬことだが、一九八五年の秋に、安徽省北部の一部の村の人たちが、こともあろうに幹部に率いられて山東省、河南省、河北省地方を物乞いして歩き、衣類から食料、金銭、食料配給券などに至るまでほとんどなんでも手に入れていた。彼らの物乞いの名目は“水害罹災者”ということだった」。彼らは証明書をもっており、それには「××郷××村党支部」との真紅の丸い公章印が押されており、「この公章が乞食に護符のような効果をもたらしている」。証明書とまではいかなくとも、戸口本(古籍にあたるもの)や党員の紹介状を持ったりして、自分たちが流氓ではなく、れっきとした良民であることを証明するつもりのものもいたのである。
文革後、打ち続く不作や飢饉に困りはてた貧しい地方では、やむをえず郷外に出て物乞いして回ってもよいという許可証というか、証明書を出したといったことをしばしば聞いたことがあったが、そのことを言っているわけである。
たとえば、張辛欣の『北京人』には、機械でポップコーンづくりをしながら各地を回る少年の話が出てくる。彼もまた安徽淮北の阜陽人であった。災害の年、彼の田舎の政府は、彼らが乞食(討飯)に出ることは認めなかったが、彼らが町に出て暮らす(討生活)ことを認め、男たちはポップコーンづくりで生活をたてたり、蚌埠や合肥の工程隊に入り建築労働者として働き、女たちは町で「老媽児(お手伝い)」として働くことになった。この少年は張辛欣たちに、我々は生産隊から証明書をもらって北京で商売しているのだと語っている。
本来は指導者として農民たちを何とか暮せるように地方の生産を復興させ、民政を安定させなければならないはずの人々が、率先して貧民を率いて郷外へ物乞いに出かける、しかも官のお墨付きを持参し、行く先々でその地の官と交渉し援助を請う、などといったことは、随分昔からあったことであり、別に改革開放政策が始まった後のことではないといわれている。とくに安徽北部、江蘇北部からは豊かな江南に向け、たくさんの乞食たちが押し寄せたことが、池子華『中国近代流民』(浙江人民出版社)や沈寂等『中国秘密社会』(上海書店)にも書かれている。
安徽北部は解放前も解放後もたくさんの乞食を各地に流出させた地方として知られている(張広友『改革風雲中的万里』人民出版社)。老若男女、群れをつくって各地を渡り歩いたが、ともあれ、そのような多くの乞食が旅立てるのも、郷里に留まるより生きる可能性が広がるという共通した認識があるだろうし、またふんだんではないにしても、何がしかの施しを受け、何とか糊口をすすぐことができるという希望を持つことができた、ということであろう。さらには、このような地方では、乞食に出ることは、それほど恥じとするにはあたらないのだろう。
 そこから、飢えるほどの年でなくても、農閑期になれば故郷が水害や旱害にあったと称して、乞食に出る輩も出てくる。各種の証明書を偽造して、災害にあった飢民であることを装うのだ。さらには、乞食に出ることが、副業となるものも出てくる。劉漢太は「乞食三年すれば、県官にも匹敵する」と謳う山東炎(おおざと)城が、毎年多くの乞食旅行団を出立させている「乞食の郷」であることを述べている。炎(おおざと)城の東隣は江蘇丕(おおざと)県だが、ここも同じ様に、農閑期にたくさんの乞食を出すといわれている。

淮河南岸の鳳陽は、昔から「鳳陽花鼓」(戯曲文化の一種)で有名であったが、江南では鳳陽婆といえば女乞食の別名であった。貧しい村人が農閑期に土地を離れ、道々銅鑼や太鼓の音に合わせちょっとした歌や踊り、芝居の一節を披露するのと引き換えに、何がしかの心づけをもらう、これもまた施しの一種とみなされていたのであろう。
 たぶん一九八四年の春のことだったと思うが、重慶の路上で、三人の小学生ぐらいの女の子たちが簡単な軽業をして見せ、見物客から小銭をもらっているのに出くわしたことがある。彼女たちの服装はお世辞にも奇麗とはいえなかったが、薄汚れた感じもしなかったように思う。今も覚えているのは、たぶん大道暮しから培われたのであろうが、彼女たちは小さいくせにちょっとこわそうであったことである。皆につられ、財布から一角か二角の札を出したとたんさっと持っていかれ、ぎょっとしたような記憶がある。
我々には、たとえ大道においてであれ、芸を売り糊口を凌ぐ人々を乞食の類に入れてしまうことにははなはだ抵抗がある。確かに民俗学などの本を読むと芸能と乞食は、関係浅からぬようである。だが、大道芸であれ、門付け芸であれ、芸の道を究めるものに違いはない、我々はそう考えたがっている。我々の芸人に対する見方は、職人に対する見方に通じており、ともにその道の達人には、芸に秀でたもの、奥義を極めて者として、その表向きにの地位に関係なく、畏れ敬う気持ちを持ち続けてきたといえる(たとえ名人上手ではなくとも、我々は職人に対し依然として一目置いており、それが中国に比較して日本社会における職人の地位の高さを生んでいる)。
 ここまで書いたところで、ふと網野善彦『日本中世の民衆像―平民と職人』(岩波新書)に目を移すと、「平安時代の頃から、芸能という言葉は、武士をはじめてとして、手工業者、もちろん狭い意味の芸能民、それから僧侶、勝負師等々、『職人』の技術、技能を示す言葉として、きわめて広い意味でつかわれてい」た、とあり、大いに意を強くすることになった。芸能者は職人であり、我々は施しをしているのではなく、その秀でた芸に対し、応分の謝礼をしているのだということになる。
ところが、最近立ち上がったばかりの中国民俗学では、大道芸も門付け芸も、同じように乞食の仲間に入れてしまっているように見える。曲彦斌『中国乞食史』や岑大利・高永建『中国古代的乞丐』(商務印書館国際有限公司)も、その点において変わりはない。おそらく文人たちの鑑賞に堪えうる芸能や戯曲文化と認められないものは、単に口を糊するためのものであり、彼らは食を乞う者にすぎないと見なされているようである。つまり芸に対し対価を与えるのではなく、食を乞う者に施しを与えていることになる。食を乞う者は、芸の善し悪しにかかわらず、何がしかの施しを当然のごとく受け取ることになる。
そう考えると、結婚式に突然やってきてチャルメラを吹いたり竹板を打ち鳴らしながら祝い歌を唄い、強引に御祝儀をねだる乞食も同じこの「施す―施される」関係にあずかる人だとうことになる。さらにスミス『支那の村落生活』に見える、金持ちの葬式にやってきては思い切り食べたり飲んだりして縁者の権利を行使する同族の貧乏人たちや、取り入れが済んだ地主の棉畑に入り込んで落棉拾いに精を出す村の貧乏人たちもまた、同じ種類の人間であり、同じコミュニケーション、交換関係のなかでその営みを当然のごとく行なっているということになる。さらに言えば、飢え寸前の村民たちが官紳の家や地主の家を襲いさんざん飲み食いして立ち去る「吃大戸」も、元はといえば農村の階級闘争の典型などではなく、上記のような関わりの上での出来事であったのかもしれない。
 この「施し―施される」関係を育んだのは、一つには均分相続であろう。均分相続とは、子供たちの数に応じた田地や職を用意できない状況では、社会の周辺に細民をまき散らすシステムだということである。「施す―施される」関係は、それにちょうど見合っているのではないか、と思われる。
 王朝末期や軍閥混戦の時代に、ある地域で飢饉が起こった場合、地方当局として可能な措置は、農民を次の耕作の時期まで、食に余裕がある地域に行かせるか、まだ荒蕪地が残っている地域に移民させるかのどちらかであろう。いずれにせよ、飢民たちは、行く先々で、誰かの施しにあずかる以外に助かる道はないのである。
 甘粛省永登県のある村を訪れた民俗調査のグループが、村人が訪れた乞食にとてもやさしく振る舞っていることを発見する。実は彼らも解放前は、郷外に乞食に出なければ食べていけない人々だったのある。また北方のある村では、「逃荒要飯」(飢饉に追われ乞食をする)という言葉が禁句であった。だが、彼らもまた外からやってくる飢民には親身に面倒をみるのだった。もちろん、彼らも飢饉に追われてその地にやってきたのだった(曲彦斌前掲書)。伝統的なシステムのもとでは、地方官が結局はよそ者であり、任地の興廃に責任を負うような輩ではなかったこと、また時代を下がるごとに大河の治水は困難となり、水害や旱害が頻繁に起こるようになり、その度に飢民となって郷外に流出する可能性が高まっていたこと、それらもこの「施す―施される」関係の形成に関与していたと思われる。

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逆耳順耳
矢吹 晋


佐藤慎一仁兄への手紙
 お手紙をありがとうございました。この本(『図説・中国の経済(第2版)』)の最良の読者は、やはり仁兄であるらしい。やはり、というのは、旧著『●(登+都−者)小平』(九三年六月刊)に対するお手紙を想起したからです。それは『●小平』の結論が「楽観的にすぎるのではないか」というコメントでした。当時は、中国内外において、天安門事件の後遺症がまだ大きく、「第二の天安門事件」を予期し、危惧する向きが多かったわけです。学兄はきわめて冷静かつ客観的な立場から、私が楽観論に傾きすぎているのではないかと指摘されたわけですが、私からみると、世論が悲観論にひきずられていたのです。
 私は四カ条を挙げて、楽観論の根拠を説明し、それは後日『●小平なき中国経済』(九五年二月)の「後書き」に収めました。
 まもなく悲観派は悲観論の根拠をポスト●小平期の混乱や香港返還という要因に重点を移し、今度こそは解体だ、分裂だといいなし、チャイナ・バッシングを続けたわけです。私自身は、それらの中国批判の論拠がきわめてあやしげなものであるにもかかわらず、わがマスコミでは大きな顔をしてのさばっている理由が呑み込めなかったのですが、まもなく彼ら自身の自信喪失が枯れ尾花を幽霊と錯覚させることに気づき、合点がいった次第です。私はますます自信を深めた。社会科学の分野の研究者にとって研究対象との距離の取り方は、最も難しい問題の一つですが、中国自身が左右に大きくぶれ、それに振り回される痛切な体験を経て、私自身のスタンスが固まってきたようです。中国語を学びはじめて四〇年、ようやく少しこの世界が見えてきた。背骨が折れたり、歯が抜けたり、視力が衰えるころになってよく見えるのは、実に不思議な現象です。
 ところで、今回は、総論的な部分で「アジアとの比較」を試みた私に対して、「ヨーロッパとの比較」を提起された。なるほど、いまやヨーロッパとの比較が滑稽なものではなくなった。これは大きな変化ですね。情報関連データが欠けているとのご指摘ですが、むろん関心をもっていますので、今後はそこにも焦点を絞りましょう。
 国有企業問題(一四四頁)。「私も生産額は三割だが、従業員の比重は六割だという神話を信じていましたから、大変に驚きました。このページだけでも、この本は出版される価値があります」。ホメ言葉として、これは最高。かねて歯が浮くことを実感する年頃なのですが、これでは私の歯が全部抜けてしまいそうです。
 食糧問題について私が楽観的なのは畏友白石和良(農総研)の分析に全幅の信頼をおいているからです(『蒼蒼』七七号の黒五類の話など、私を完膚なきまでに論破して実に痛快。これではグーの音もでない)。
 九七年の悲観論はポスト●小平と香港返還、そして第一五回党大会でしたが、この三つがいずれも問題なく推移したあと、悲観派の発見した口実は「中国発の通貨危機論」でした。たとえば 『朝日新聞』九七年一一月一四日の一面に、船橋洋一記者がこう書きました。「このままでは香港・中国発の第三波が引き起こされる可能性がある」。これは現状認識として、まるで間違ったオオカミ少年の戯言なのですが、この新聞はその後、一貫してこの間違った見方を繰り返しているように見受けられます。
 共著者のスチーブン・ハーナーの分析を踏まえて、私はこの記事を読んだ直後、メール仲間にこう書きました。
 「中国の経常収支はアセアンや韓国と違って、一貫して黒字であり、対外純資産も黒字です。外貨準備は一四〇〇億ドル、外国借款のうち短期債務は一割台。デット・サービス・レシオは七%で二〇%の警戒ラインのはるかに下。どこをどうみても、中国発の第三波の可能性はない。現状としては、むしろ匈奴の攻撃を一応防ぎきったところでしょう。むろん来年は、次の展開が始まるわけですが」「実は一二日付けの鈴木暁彦記者の記事にも、とってつけたような中国バブル崩壊論あり」。
 この人民元切下げを予測する経済オンチの迷論批判は、本書の序文でも繰り返しました。何百万の部数を誇る大新聞が公害の垂れ流しに近い間違った報道を続け、私の意見はン千部の本にしか載らない。これではグレシャムの法則そのものですね。憂慮すべき事態です。不一。

牛市・熊市・朱市
 船橋記者といい、次の加藤記者といい、まんざら顔を知らない記者でもないから、少し書きにくいが、大記者の迷論はやはり批判に値するし、研究者は批判すべき義務をもつというのが私のプロ意識である。
 『朝日新聞』北京支局長加藤千洋記者が朱鎔基内閣の発足にあたり、こう書いた(三月一八日付朝刊)。「彼らはいまの株相場は『朱市』だ、という。すでに副首相時代から経済運営を取り仕切ってきた朱鎔基氏の動静や演説が、相場に敏感に跳ねかえるという意味だ」(九八年三月一八日)。
 何ですか、この説明は? 経済のわかる朱鎔基によって中国の経済が動く。朱鎔基の動静によって相場が変わるので朱鎔基相場といわれると加藤記者は解説してみせたわけだが、これでは少しも面白くないですね。
 証券業界では、強気筋を「ブル」という。ブルドッグのブルだが、これは「去勢してない雄牛」だから、威勢がよい。その反対語の弱気筋は「ベア」すなわち熊である。ブルがいて「牛市」があり、ベアがいて「熊市」があるからこそピッグにも出番がくる。朱は猪と同じ音である。そこからブル・マーケット、ベア・マーケットに対して、ピッグ・マーケットという命名法の面白さが生まれるわけ。冗談の説明ほど、つまらないものはないのですが、意味も分からず、分かったふうの解説は困りますね。
 こうメールで書いたところ、中国在住の証券会社筋の知人から、次のリプライがあった。「この「朱(猪)市」の言い方は、確か九七年年初あたりに出てきた言い方だと記憶しております。九六年年末の相場の異常な高騰に対し政府が厳しく対処したところ、相場は沈静化。その後、相場が上がりも下がりもしない小康状態になって、その状況に対して高騰(牛市)、下落(熊市)でもない状態を「猪市」と名づけられた。でもってそれは、同時に経済運営を担当する朱氏への皮肉も込められていた(相場が動かないと、証券会社とか投資家は儲けようがないから)。当時、この言われ方に対して、朱氏は随分ご立腹だったという話もありますが、なかなかブラックなユーモアで面白いと思いました」
 さすがはプロの解説である。そこで私はこう続けた。
 「リプライをありがとう。ご指摘のとおりの経緯で、この新語「朱市」が生まれました。少し補足しますと、九六年の一二月一六日、『人民日報』が一面トップに「特約評論員」論文「当面の株式市場を正しく認識せよ」を掲げて、一〇月以後の株式暴騰に警告を発したわけです。論文を書いたのは朱鎔基自身ではなく、書くように指示したのですが、これを契機に暴騰相場が落ち着き、そこからこの俗語が生まれたわけですね。遺憾ながら、鵜の目鷹の目のわがチャイナ・ウォッチャーたちの目にはとまらなかった。これは些細な事柄ですが、人民元切下げ騒ぎとともに、経済オンチぶりを示す一つの証左と感じたので、あえて揚げ足とりに及んだ次第です」。
追伸。二月中旬の『朝日新聞』朝刊に、「林彪墜死、詳細を証言、ソ連軍は墓掘り返し、頭持ち去った」なる記事がありました。私はこの記事でどの部分がニュースなのか、まるで理解できませんでした。つまり、すべては旧聞であり、この程度の記事を書くために、モンゴルまででかけることにいかなる意味があるのか、理解できなかったのです。ご用とお急ぎでないかたは、『US News & World Report』九四年一月三一日号、そしてこの記事を分析した拙著『中国人民解放軍』四二〜四六頁をご笑覧いただければ、幸いです。

朱鎔基の記者会見
 国務院総理に選ばれた朱鎔基が全人代を終えた三月一九日記者会見を行った。これは日本のテレビも一部を報道した。私は熱心に見て、「さすが朱鎔基」とうなった。テレビで放映されない部分は、むろんネットで探す。わがワープロ顧問村田忠禧さんの尽力で読めるようになった中文ウインドウズで『人民日報』にアクセスした(三月二〇日付一面)。これまでは日本語ウインドウズで読んでいたが、いまは中文ウインドウズを立ち上げると、いきなり『人民日報』のホームページが現れるので、とても便利な仕掛けである。
 アメリカ『タイム』の記者がまず村民委員会のことを聞くと、「アメリカの基金組織が中国で選挙についての調査をやったことを知っている」(『中国農村村民委員会換届選挙制度』中国基層政権建設研究会編、中国社会出版社、一九九四年を指す)「この民主的な制度は農村だけでなく、企業でもやっている。一部の企業では工場長を民主的に選挙している」などとまず答える。
 中央電視台の質問はいかにも与党質問的なもの。今後五年、最も挑戦的な課題は何か。朱鎔基の答え。「一つを確保し、三つを実現し、五つを改革する」(原文=一個確保、三個到位、五項改革)という。
 確保すべきは、GDP成長率八%とインフレ三%以内、人民元切り下げなし、である。これにはインフラや住宅建設など「内需拡大」も含まれる。
 「三つの実現」(原文=到位)とはなにか。一つは三年前後で大中型の赤字国有企業に現代的企業制度を樹立することである。二つは金融システムの改革である。中央銀行を強化し、商業銀行の自主経営を今世紀中に実現することである。三つは国務院の行政改革であり、四〇の役所を二九に削減し、八万人の定員を半減することである。これも三年計画である。
 では「五つの改革」とはなにか。第一は食糧の流通体制改革である。連続三年の豊作のために在庫は豊かであり、大きな自然災害が二年続いたとしても、食糧の欠乏はありえない。ただ、在庫が大きいので、財政補助も大きい。だから流通体制の改革が必要だという。第二は投融資体制の改革だが、現行の許認可制度の欠陥のために市場調整がうまくいかないだけでなく、重複建設をもたらしていると指摘した。第三は住宅改革である。「福利」として住宅を分配することをやめて、商品として一律に販売する。第四は財政改革である。分税制による改革は九四年に実現されたが、現在の問題は、政府機関が国家の定める以外の「各種費用」を徴収し、その「費用」が「税金」よりも多いことである。規定の費用以外の費用を徴収することは許されない。最後は科学教育による立国である。これまでは資金がなくてできなかった。資金はどこに行ったのか。政府機関が膨大で、資金を食ってしまった。各級政府の関与のもとで重複建設が少なからずみられる。
 一方で科学や教育の意義を強調し、返す刀で行政改革の世論作りをやるのは巧みだ。
 フランスの記者が国有企業改革にふれて韓国の大財閥の不振を聞く。
 「韓国企業の経験について論評はしないが、各国の経験はりっぱな教訓とする」と、内政干渉と誤解されがちな発言はまず控える。そして国有企業は三年でやると繰り返し、注目すべき発言を行っている。
 特大型五〇〇企業が国家に納める税と利潤の八五%を占める。これら五〇〇社のうち赤字企業は一割、すなわち五〇社にすぎない。これを解決するのが目標なのだから、三年で十分できるという。七・九万の国有企業のうち半分が赤字だというのは、零細企業を含めての話にすぎない。国有企業の問題は「外国でいわれているほど困難な問題ではない」と断言した。実はこの趣旨を彼は以前も繰り返しており、私にとっては目新しい話ではない。
 香港が九八〇億ドルの外貨準備をもつことに触れて、「万一特区が中央の援助を必要とする場合は、特区政府が中央に要求しさえすれば、中央は一切の代価を惜しまず、香港の繁栄を維持し、ペッグ制度を保護する」。
 「“中国のゴルバチョフ”や“エコノミック・ツァー”のあだ名は不愉快だ。私は人民の期待に応えられないことをのみ恐れる。だが、前方にあるのが地雷原であれ、千仞の絶壁であれ、私は前進あるのみ。鞠躬尽瘁、死而後已(諸葛孔明「後出師表」)」と言い切った。この八文字を聞いて、涙を流した中国人が少なくないと後日聞いた。さもありなん。ゲリラ時代の共産党員は、民衆の先頭に立って戦い犠牲となった者が少なくないが、執政党になってからの腐敗堕落ぶりは、目に余るものがある。元右派分子朱鎔基は、名宰相の名に恥じない。朱鎔基ファンとして、この千両役者見物は近来の快事であった。

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