蒼蒼ロゴ

第78号


中国経済─七つの虚像と実像(『[図説]中国の経済』第2版 序)
連載中国的なるものを考える16「北京の乞食」 福本勝清(明治大学助教授)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋


中国経済─七つの虚像と実像
『[図説]中国の経済』第2版 序


 「中国が目覚めるとき、世界は震撼する」とは、ナポレオン三世の警句だが、『図説中国の経済』(第1版)の英訳には「巨人が目覚める」(The Giant Awakes)という副題をつけた。あれから数年、巨人は確かに覚醒し、いまやジャンボ・ジェット機のごとく離陸しようとしている。その風圧が大きいだけ、虚像が膨らみ実像を覆い隠しているようだ。
アジアに幽霊が出る──中国という幽霊である。『共産党宣言』冒頭の古典的な一句が徘徊している。
 われわれは徹頭徹尾、実事求是の精神で虚実を腑分けし、中国経済の真実を明らかにするために本書の執筆を志した。
 (1)中国崩壊論
 まず第一の虚妄は、一部の論者によって語られている中国解体論あるいは中国崩壊論である。
 この説の一つの根拠は、旧ソ連解体である。血を分けた兄弟国が解体した以上、中国もその例外ではありえない、と論者は説く。中国社会主義がその国づくりの基本線において、旧ソ連をモデルとして学んできたのは事実である。しかし、脱社会主義、脱計画経済の過程においては「石を摸でながら河を渡る」中国流のプラグマティズムで成功したのであり、中国は旧ソ連解体とは異なる道筋を選んだ。旧ソ連解体を先例とみて即断するのは、比較の対象を間違えたものである。
 中国崩壊論のもう一つの論拠は中国には『三国志』がふさわしいとするセンチメンタリズムである。「合すること久しければ、必ず分かれ、分かれること久しければ、必ず合する」。統一された中華人民共和国は五〇年の歴史を数えたので、歴史という時計は「分」の方向へベクトルが働いているという。この見方は一見哲学的だが、やはり状況の認識を間違えている。中国はいまむしろ「合」の時期にあるとみてよい。分権へのベクトルよりは統一へのベクトルがはるかに強いことに着目しなければならない。香港返還を「香港回帰」ととらえた中華ナショナリズムの粘着力に注目する必要がある。
 (2)中国脅威論
 第二は中国脅威論である。
 これは解体論の裏返しであり、「崩壊しない中国」が脅威に見える。この主張はいくつかの系からなる。まず、中国の全体主義国としての性格は不変であるとみる反共主義の立場がある。次に、中国が核兵器をもつ大国として地域覇権国家になるという。さらに経済大国としての中国が世界経済の攪乱要因になるともいう。加えて「文明の衝突」論がある。儒教文明がイスラム文明と協同してキリスト教文明に挑戦するという見方である。最後に「隣国の脅威」論である。中国は存在自体が隣国に脅威を与えているという。
 中国が政治や軍事面で「大国」になりつつあることは事実であろう。それはおそらく「弱国」である現状に中国自身が脅威を感じているからである。問題の核心は相互不信の悪循環にある。安全保障面での対話を進めることによって、相互に敵視しあうことの無意味さが浮彫りになる。脅威論者の見方は誤解と偏見に満ちている。経済面からみると、中国の高度成長はアジア太平洋地域にとって「脅威」ではなく、むしろダイナミックな発展につながるチャンスであると前向きにとらえることができるはずだ。
 (3)食糧危機論
 第三に、食糧危機論がある。
 このテーマはレスター・ブラウン(ワールド・ウォッチ研究所長)の『誰が中国を養うのか』以後、急に賑やかになった。折しも九四年の中国では自然災害に伴う食糧の減産(対前年比一一三九万トン)のなかで食糧の流通体制の市場化を急ぐという判断ミスを行ったために食糧価格が急騰し、これに対処するためトウモロコシの輸出停止、小麦の大量輸入などの措置を講じたために、ブラウン所長の警告があたかも真実であるかのような錯覚を広めることになった。
 しかし、人口や耕地、動物性蛋白質の摂取量などの数字を具体的に検討してみると、「食糧問題」は「危機」でも「脅威」でもないことが明らかになった。農業問題を軽視して放置すれば、危機に陥るが、中国当局がこの問題に本格的に取組んだ成果が実りつつあることを最近の動向が示している。ちなみに九六年の食糧生産量は史上初めて五億トンの大台を超えて、一人当たり食糧生産量は四一四キログラムとなった。これは中国政府が西暦二〇〇〇年の到達目標として掲げていた数字である。
 (4)資源危機論あるいは環境危機論
  第四は資源危機論あるいは環境危機論である。
 これは「食糧危機」論の変種である。食糧の自給は基本的には問題はないとしても、エネルギーの供給問題は確かに存在する。石油の輸入は拡大するし、石炭を引き続き大量に用いることによって酸性雨やCO2の拡散は必至である。一三億の人々の経済的離陸が地球環境に与える負荷の大きさはとてつもなく大きい。とはいえ中国のエネルギー問題だけを槍玉にあげるのは、公平な立場ではない。地球環境問題を口実とした「先進国のエゴイズム」と反発されるだけであろう。開発と自然破壊の矛盾は深刻だが、経済発展こそが環境問題に取り組む物質的条件を用意することに着目すべきであろう。その条件を超える環境対策は不可能であろう。
 (5)中国経済バブル論
  第五は、中国経済バブル論である。
 日本のバブル景気がはじけて数年、ゼロ成長に近い超不景気が長引いている。最近のアジア通貨危機は円安、株安を招き、人々の不安を強めている。このような先行き不透明の日本経済のなかにいると、中国バブルが崩壊寸前に見えるらしい。一部で「開発区設立熱」や重複投資の繰り返し、不動産や株式の「バブル」の現象が現れたのは事実である。しかし、一方では政府の強い監督があり、他方で実体経済がすぐに追いついた。中国経済はいま発育盛りである。高度成長期の条件をもつゆえに、成長を続けている。つまりバブル的要素は、主要なものではないのである。
 中国経済はいま高度成長期の日本経済を追いかける姿に似ている。およそ三〇年にわたる日本の高度成長期の前期にあたる部分を経過しているとみてよい。少なくともあと一〇〜二〇年は二桁に近い成長が続く可能性が強い。「日本バブル」ははじけたが、中国の成長基調は今後も続く。
 (6)カントリー・リスク論
  第六は、中国のカントリー・リスク問題である。
 対外債務は九七年六月末現在で一一八六億ドルであり、世界第三位の債務残高をもつことは確かである。だがこれを根拠にリスクを論じるのは、見当違いであろう。というのは、九七年末の中国の外貨準備高は一四〇〇億ドルを超え、いまや日本についで世界第二の外貨準備保有国になったからである。これは順調な輸出と大規模な直接投資のためである。これまでのインフレにもかかわらず輸出には悪影響をおよぼさなかったし、中国の投資環境が改善されたために、直接投資は少なくとも九七年まではふえ続けた。
 中国は九六年一二月にIMF八条国に移行した。今後はたとえ経常収支が悪化しても、為替管理によって改善を図ることはできず、マクロ経済政策によってコントロールするほかなくなった。それを国際的に約束したわけだ。この文脈では、中国経済はまさに対外的信用度の面では、IMF八条国に移行した当時の日本経済と対照して観察するのが適当であろう。
 (7)通貨危機論
  最後の幽霊は「中国発の通貨危機」論である。
 一九九七年夏の終わりから秋にかけて、アジアで通貨危機が発生した。その衝撃波は香港と中国にも波及しかねない勢いをみせたが、香港と中国は辛うじて、この風波に耐えた。その根本的要因は香港経済および中国経済のファンダメンタルズである。両者ともに経常収支が恒常的に赤字を続けたり、対外純資産が赤字になっているわけではない。この意味できわめて健全である。生き馬の目を抜く国際的投機家でも、すきのないところに乗ずることはできない。
 アジア通貨の切下げなど一連の政策が一九八八年以後、香港経済や中国経済にどの程度の影響を与えるかは注視しなければならない。中国の輸出が伸び悩む可能性、そして中国への直接投資が減退することは当然予想しうる。これらの要素は中国経済の成長率をいくらか低める要素として働くものと見られる。にもかかわらず、中国経済はいぜん国際的基準からすれば高度成長を維持するものと著者たちはみている。
このようにみてくると、「幽霊や妖怪」は中国自体の話ではないことが分かる。敢えていえば、論者たちの自信喪失にあることに気づく。中国脅威論であれ、中国悲観論であれ、不安な人々の心に潜む妖怪にほかならない。旧来の手垢にまみれた黄禍論が隈取りを少し変えただけのものにすぎないのであり、それらを白日のもとに晒すことによって、幽霊退治ができることになる。本書をひもとく読者には、中国経済の虚実が明らかになるはずである。
 (『図説中国の経済』第2版 序より抜粋)

[図説]中国の経済/はしがき

 本書『[図説]中国の経済(第2版)』の前身は、蒼蒼社から一九九二年八月に出版された。●(登+都−者)小平の南巡講話の半年後であり、中国経済がようやく天安門事件の後遺症をいやして、改革開放路線に復帰したときであった。変貌しつつある中国経済をさまざまな角度から分析し、多くの図表によって分かりやすく説明しようと試みた第1版は、さいわい読者から好評をもって迎えられた。
 本書(第2版)は、基本的に第1版のスタイルを踏襲して編集されたが、内容はまったく別の本と言ってよいほど、全面的に改められている。
 一つは統計数字をアップツーデートなものとしたことである。ベースとしては、『中国統計年鑑』一九九七に依拠して一九九六年末までの数字を用いているが、一部は一九九七年の速報値も用いている。
 二つは九〇年代前半の中国経済の構造変化である。この変化はきわめて大きなものであり、その変貌を反映するためには、本書の構成を全面的に改める必要があった。
 三つは、共著者 Stephen M. Harner (ドイツ銀行上海事務所首席代表)という強力な援軍を得て、金融・財政及び対外経済面の分析が強化されたことである。
 第1版は、今回第2版の共著者となった Stephen M. Harner によって英訳され、米国で出版された(China's New Political Economy: the Giant Awakes, Colorado,Westview Press, 1995)。
 英語版もさいわい多くの読者を得た。とりわけ英訳は Choice 誌によって、Outstanding Academic Book for 1995 に選ばれたほか、多くの好意的な書評(英語のほかフランス語、イタリア語を含む)をもって迎えられた。たとえば以下のごとくである。
1.by R.P.Gardella, United States Merchant Marine Academy, Choice, June 1995.
2.by David S.G.Goodman,China Quarterly, Winter, 1995.
3.by Robert M.Orr, Jr. Temple University Japan, Kokusai Keizai,Vol.47, No1,1996.(in English)
4.by Yoshinori Tando, Editorial Writer, Yomiuri Shimbun,The Daily Yomiuri, February 20, 1995.
5.by Tim Wright, Murdoch University,Asian Studies Review, Vol.19,No1, July 1995.
6.by Jean-Roch Perron, Department d'histoire Universite Laval, Quebec, Etudes internationales, volume xxvii no1 mars 1996.
7.by Elliott Parker, University of Nevada, Reno,Economic Development and Cultural Change, Volume 45 No.1 October 1996.
8.by Giorgia Passarelli,Il caso Cina,Politica Internazionale, Vol.2, No.2, Fall 1995.
 著者たちは、本書第2版もまた第1版同様に多くの読者の手元に届くことを願っている。眠りから目覚めて離陸し、飛躍しつつある中国経済の実情を読者が的確に理解するうえでのガイドブックとして本書が役立つならば、これにまさる喜びはない。
一九九七年クリスマス、ハワイ島火山村ホロホロインにて
矢吹 晋

[図説]中国の経済/あとがき

 私が初めて中国に来てその経済システムを学び始めたのは、およそ二一年前、すなわち一九七七年春のことであった。二年間にわたる、米国政府の在北京連絡事務所(のちの大使館)の下級外交官としての私の職務は、工場や人民公社(当時)を訪れ、係官から聴取し、経済において本当に起こっていることは何なのかを、直接的接触と取材のなかから確かめることであった。
 一九七八年一二月に開かれた歴史的な三中全会(中国共産党第一一期中央委員会第三回全体会議)で●(登+都−者)小平の改革開放政策が採択されたとき、私は北京にいた。当時、私を含めてたいていの観察者は、いかなる種類の改革であれ、中国の官僚主義的社会主義制度に固有の巨大な矛盾を解決できると考えるほどに楽観的でなかった。物質面で中国はアジアの他の諸国と比べて余りにも遅れており、追いつくことはできないように思われた。より大きな問題は、中国共産党の指導部はスターリン=毛沢東主義的政治経済モデルにあまりにも依存していたので、真の改革あるいは世界への真の開放が実現できそうもないことであった。
 本書は、主として過去二〇年に中国が改革と開放への障害を乗り越えた軌跡を跡付け、これから二〇年のさらなる成長と発展を展望したものである。その歴史は複合的であり、三世代にわたる指導者を含んでいる。単に中国経済のみならず、政治、社会、対外関係における変化の歴史でもある。これらの変化を記述するには包括的なアプローチが必要だが、それが第1版(矢吹教授の単独著作)と同じく第2版でも本書の特徴のひとつである。
 私は、一九九三年のある午後、大手町の政府刊行物サービスセンターで『[図説]中国の経済』(第1版)に遭遇した。私は強い印象を受け、出版社の蒼蒼社に英訳の許可を求めた。矢吹教授の「はしがき」に言及されているようにウエストビュー・プレスから出版された英訳は大成功であった。個人的なことを言えば、第1版を英訳した最大の恵みは矢吹教授と蒼蒼社の中村公省社長と知己になれたことである。プロフェッショナルな仕事に真に献身している二人の人物を私は非常に尊敬するようになった。それゆえ、私にとって本書の第2版を共著で出版できるのは名誉なことである。
 一五年あるいは二〇年前は、中国の最も重要な特徴は、アジアや西側の諸国とあらゆる面で根本的な「異質性」をもつことだと言われてきたが、それは正しかった。今なら、こう言うべきであろう。いくつかの面ではまだ異質なものは残るが、中国は多くの面でアジアや西側諸国と類似してきた、と。「融合」(convergence)への傾向は、今後もつづき、著者たちのように中国の人をよりよく知ろうとする全ての人々から歓迎されるであろう。
 スチーブン・M・ハーナー
 上海にて 一九九七年一二月二九日

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中国的なるものを考える15
北京の乞食
福本勝清(明治大学助教授)


 一昨年九月、北京を久しぶりに訪れた際、気になったのは、北京の街頭で乞食を随分見かけるようになったことであった。筆者が留学していた頃、八〇年代前半には、北京には確かに乞食はいたことはいたが、決して多くはなかったし、現在のようにはっきりと人目につくようなやり方で、堂々と物乞いしていたわけではなかった。
 おそらく首都の威容を保つという方針からであろう、北京では乞食に対してかなり厳しい取締りがなされていたようで、その数も極めて少なく、お陰でしつこいぐらい付きまとわれるなどということを経験したことはなかった。かえって、地方に旅行した場合などの方が乞食を見る機会がずっと多かったように思う。昨年八月十日の朝日新聞に「北京で『物ごい追放』作戦──計数万人を故郷へ送還」といった記事が載っており、今でも思い出したように、取締りが繰り返されているようである。
 今でも思い出すのは、一九八四年の延安でのこと、一日に何人もの乞食を見かけ、貧しい陝北の農村から何とか食べ物にありつこうと、たくさんの乞食が延安に押しかけているのだなという印象を持った。同じ革命の聖地といっても、南方の井岡山に比べ、延安ははるかに貧しく見えた。その貧しい延安をめがけ、乞食たちが集まってくる。黄土高原地帯の暮らしが延安よりもさら厳しいことを、教えられることになった。
 やはり留学中のことであるが、上海の黄浦江のバンド(外灘)の公園に入って、ほんのちょっと休んでいたところ、六十前後の小柄な老人が近づいてきて、やや丁寧に帽子をとり、手を差し出した。何銭かあげたところ続いて二人の同類がやってきて、同じように物乞いされ、止むを得ずまた何銭かあげることになった。いずれも身なりはそんなにひどくなく、特に最初の乞食はこざっぱりした服装をしていたように記憶している。外灘公園に入るためには、当時、五分か一角の入場料を払わなければならず、明らかに物乞いだとわかったならば、きっと入口で足止めを食うことになったからであろう。
 南方にでかけた折、広州駅を降りた途端、小さな子供がやってきて、きれいな標準語で「あなたは広州人ですか?」と聞かれ、「いや」と答えると、さっそく「一家で広州にやってきたのだが、お父さんが財布を落として…」と話を始めた。次の日、広州駅の前を通ると、その子供がやはり駅から出てきた客に、「あなたは広州人ですか」と声をかけている。すぐその後、近くにいた母親らしき中年の婦人に何かを渡しているのが見えた。もしあの時、「あなたは広州人ですか?」と聞かれ、「そうだ」と答えたならばどうなっただろうか。いつも、広州駅でのことを思い出すたびに、戯れにそう想像してみることにしている。
 これらはいずれも八〇年代前半のことであり、今となればわざわざ言うほどのことではないであろう。そのほか、西安や桂林の観光地で、小さな子供が観光バスが来るたびに手を伸ばして小銭を求める様は、当時まだ残っていた社会主義の原則に照らしていかにも不似合いで、親中国派ぞろいの日本人観光客の心を痛めていたと思われる。
昨秋、北京の多くの街角で見かけたたくさんの乞食から得た印象は、以上のようなもの──感傷的といったら言葉が過ぎるかもしれないが──とは随分違ったものである。乞食の権利もしくは「物乞い権」といったものが、この社会つまり中国社会にあるのではないかと強く感じたからである。
 ほとんど毎日のように通った海淀図書城の広場にはいつも五人から十人ぐらいの乞食が物乞いをしていたが、そのメンバーの居場所はほぼ決まっていたように思う。子供を連れた乞食も多く、その子供たちも、それぞれ小さな缶や箱をかざして、親の仕事を真似ていた。通りかかったアメリカ人かイギリス人かの夫婦が小さな子供にお金をあげようとしたところ、次々に子供たちが集まってきた。その夫婦はあわてずさわがず、順序良く子供たちに小銭をあげていた。その真似をしたわけではないが、筆者もある日、一番小さな子供に何銭かをあげ、よってきた二、三人の子供たちにも少しずつあげていたところ、俺にもよこせとばかりに小学五、六年生ぐらいの子供が大きな声をあげ、猛然とした勢いで走ってきた。たまらずそそくさとその場を離れたのだが、後ろから「どうして俺にはくれないんだ」とばかりに罵声を浴びせられてしまった。
 そんなある日の図書城の広場でのこと。両脇を松葉杖で支え、ようやく立っているかのように見える中年女性の回りにたくさんの人が集まり、彼女の前に置かれている口上書を読んでいた。その紙には、自分は事故で脚が不自由となり、今は働けぬ身となったこと、手術をしたいのだがその費用もなく、どうか皆様のお恵みを賜りたい、といったようなことが書いてあったと思う。
彼女はその口上書の上に喜捨されたお金──そのほとんどは紙幣だったが──を一枚一枚、ゆっくりと外へ押しのけ、口上書が読めなくなることを防ごうとしていた。筆者が書店から戻ってきた時、たくさんのお金でもう口上書は見えなくなっていた。その時、若い男が腰を下ろし、衆人環視のなか、うやうやしくお金を一枚一枚集め、全部一まとめにすると、彼女が持っていたビニールの袋にそれを入れた。彼女は一言「ありがとう」と声を発した。彼女のビニール袋はすでにお金で一杯だった。  その後も、次々にやってきては口上書を読んだ善男善女からの喜捨は絶えなかった。また、お金が口上書を覆い尽くし、皆の見守る中、誰かがお金を集め、彼女のビニール袋に入れることが繰り返された。
 彼女は、ややインテリ風の中年女性というような印象であった。果たしてその口上書に書いてあることが本当かどうか、多分誰も知らないだろうし、知りようのないことだったであろう。集まった人たちの中には、どうせ嘘っぱちに決まっているわよとばかりに軽蔑した眼差しを彼女に向け、フンと鼻を鳴らし立ち去るオバタリアン風情の中年女性もいたのである。
 それでも、次々に一元、五元、十元といった札が彼女のために寄せられたのである。申しわけないが筆者には、その口上書がどうしても真実であるとは思えなかった。もちろん、別に確信があるわけではなかった。おそらく、彼女の回りに集まり、喜捨を行なった善男善女たちもまた、その口上書の言うことを全部信じていたとは思えない。が、実際にはたくさんのお金がその口上書の上に投ぜられたのだ。
 翌日の夕方、また図書城に寄り、書店を出てきたところ、かの中年女性が店じまいをして、荷物を小脇に抱え、松葉杖をつきながらゆっくり帰るところであった。彼女一人で、その後ろには誰もついていっているような様子はなかった。ふと、このまま後ろをついていったらどういう世界が待っているのだろうかと、考えた。が、彼女が何者かを知る、そんな権利など自分にはないのだと思い、そのまま後姿を見送った。その後、彼女を見かけることはなかった。
 恥ずかしながら筆者は物乞いする人にあまり親切にした記憶がない。子供の頃、縁日でアコーディオンか何かを使い物悲しい曲を響かせている傷痍軍人の前の箱に無け無しの小遣いの何分の一かを入れたところ、後で友達に、あれは交通事故かなんかで障害者となった人たちで、偽者だと言われ、ひどく傷ついたことがあった。今にして思えば、原因はなんであれ、傷害を持ち、暮していけない人たちが、施しを請うている以上、本物がどうかはどうでもよかったのではないか、当時そう考えることができたなら、その後、また違った態度もとりえたのではないかとも思う。
 八〇年代初めに中国に留学した時、久しぶりに施しを請われる立場に立たされ、戸惑っている自分を発見することになった。思えば、六〇年代、七〇年代と高度経済成長期の日本に育った我々は、あまり物乞いをされることはなくなっていた。また、そうされたとしても、昭和三一年(一九五六年)、北海道の大冷害の年、冬場、雪の中を、日に何人となく乞食がやってきて、その度に母が茶碗一杯の米か、何枚かの餅を与えていた時のような、切迫感はもはやなかった。
 自分の目の前に、施しを求め、ぐいっと差し出された手に、どう答えるのか、そんな深刻な感覚で、それを受けとめていたようなふしがある。日本人であるがゆえに、いくばくかを施さなければならない、そんなふうにかしこまって考えていたように覚えている。今回の北京での経験はそれとは違ったものを与えてくれた。それほど仔細に観察していたわけではないが、街角にたむろする物乞いたちに対し、北京の人々もしくは北京の街角を通りすがる人々は、案外しばしばお金をあげているように見えた。ややオーバーな表現をすれば、かなり熱心に施しをしていた、そんな印象をもった。
 施しをするのは、年齢にはあまり関係ない様子であった。日本でなら、青年たちのほうが冷淡であろうと勝手な推測を立てることができるが、北京ではそんな印象はなかった。むしろ、逆ではないかと思えることもしばしばであった。
 中国が今、経済成長期にあるせいか、前よりも随分多くなったとはいえ、北京が乞食で一杯というわけでもなく、また乞食たちも悲惨さを漂わせているわけではなかった。なんとなく施す方も施される方ものんびりした感じで一種のコミュニケーション、もしくはある種の交換関係を営んでいた。だが、この交換関係は、不景気や自然災害に見舞われた時でも、なくなるわけではないのだ。乞食が多いというのは、ある意味ではそれに何がしかを施そうとする人々も多いからではないのか、そう考えられないだろうか。
 もちろん、中国人の方が我々日本人よりも社会的弱者に同情的だなどという議論をしようというのではない。施しをしたり、哀れみをたれるということが、中国の社会システムのなかにどのように組み込まれているかということを問おうとしているのである。
劉漢太『阿Qの王国──中国浮浪者列伝』(『中国的乞丐群落』)は、そのような同情や哀れみが、社会的公害である乞食を生き長らえさせることになり、施しは結局は犯罪と大差がないのだ、と大上段に振りかぶって論じている。だが、筆者はむしろその同情や哀れみの発現のあり方、与え方や受け取め方に、我々とは異なった中国的なあり方があり、それが中国の社会システムのある種の特徴を映し出しているのではないかと考えている。(続く)

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逆耳順耳
矢吹 晋


映画「悲情城市」と『悲情城市の人びと』
 私は九七年一一月に勤務先の大学祭で映画解説と講演を試みた。動機の一つは台湾旅行のために休講した罪滅ぼしのつもりであったが、学生たちはむしろ休講を喜んでいたフシがあり、私の補償行為はむしろ有難迷惑であったかもしれない(むろん出席をとるなどといったヤボはないのですが)。  もうひとつの動機、それは私自身が台湾をあまりにも知らないことに気づかされたためである。この際、学生の胸を借りて、教師が学ぼうという魂胆である。台北で知人の薦めで偶然、藍博洲と会ったが、私はこの名前さえ知らなかった。会って驚いたのは、先方が私の名を知っていたことである。私の『毛沢東と周恩来』の台湾海賊版に序文・藍博洲「中国近代史的両個幽霊──毛沢東和周恩来」を書いた男であった(矢吹晋著、魏珠恩訳『毛沢東与周恩来』台北・倉頡出版社、九三年三月)。
 もう一方の海賊版は現物を見ていたが、藍序本は存在さえ知らなかった。藍博洲は私を陝西料理を出す、文革期をなつかしむような、台湾青年のサロンとおぼしきレストランに招いてくれ、飲みかつ食いながら、雑談した。彼から、九七年春に福岡に来た話と福岡の友人が訳したという『藍博洲・幌馬車の歌』(横地剛ほか、福岡・藍天文芸出版社、九七年三月)をもらった。これを読んで、驚き、真偽を確かめたくなった。
 そこで早速、藍博洲『幌馬車之歌』(時報文化出版、九一年六月初版、九七年一月八刷)を求め、帰国後田村志津枝著『悲情城市の人びと』(晶文社、九二年初版、九七年六刷)を求めた。
 田村の『人びと』は、事情を知らずに読めば、面白い本である。ベネチア・グランプリに輝いた映画で歌われた一九三二年、一九三五年発売の日本製「幌馬車の歌」を二・二八事件(一九四七年二月二八日)で銃殺された政治犯が歌ったのはなぜか、そこにはどんな秘密が隠されているのかを解くために著者が台湾各地を旅する話である。映画の感動的なシーンにまつわる話を折り込みながら映画のヒーロー鍾浩東未亡人(蒋碧玉)探しに至る。よく構成された本であり、一気に読める。六刷まで版を重ねた理由もよく分かる。
 ところが、である。この歌の秘密は、藍博洲の手紙「致田村志津枝小姐」(原載八九年一二月二五日『自立副刊』、のち『幌馬車之歌』に所収)ですべて解かれていた。田村は「既知」をあたかも「未知」のごとく扱うフィクションの旅を続けたことになる。これはかなりシラケル話ですね。
 この事情を横地剛は以下のように告発している。「田村は自著でも藍博洲の手紙を完全に隠蔽している。また、このほかにもいくつか作為の跡がみられる。それは侯孝賢が藍博洲の『幌馬車の歌』をよく知らないように見せかけていること、『幌馬車の歌』の内容を伏せ、その一部を恰も自分が発見したかのようになぞっていることなどである。これらの作為なしにはこの本(『悲情城市の人々』)は成立しない」。
 私は横地のこの告発の口調に驚いて、関連資料を読んでみたが、横地の告発は正当である、というのが私の判断である。私自身は、田村の本は、これしか読んでいないので、彼女がなぜこのようなfakeをやらかしたのか、その間の事情はまるで分からない。察するに、侯孝賢ブーム、悲情城市ブームに悪のりしたのかもしれない。これは読者をあざむく結果になる。同時に「映画の原作者」に相当する藍博洲の問題提起をはぐらかすことになる。このような欠陥をもつ本を通じて、台湾の心を理解したつもりになっている日本人の台湾ムード、台湾贔屓に危うさを感じざるをえないのである。主題は日本帝国主義の台湾に対する植民地支配をどのように認識するかなのだ。
 台湾で戒厳令が解除されたのは八七年七月のことである。ドキュメント「幌馬車の歌」が陳映真の主宰する『人間雑誌』に掲載されたのは八八年八月と一〇月である。これは八九年一〇月二四日夜、舞台劇「幌馬車の歌」として民衆劇団「人間」によって上演された。映画『悲情城市』の記者会見が台北の来来飯店で行われたのは、八九年一〇月一八日であり、東京では九〇年春に上映され、話題となった。私も当時、見ているが、意味不明のシーンが少なくなく、理解できない箇所が多かった。その疑問が藍博洲の解説を読むと、よく分かる。戒厳令解除直後の台湾政治のなかで、最大のタブーに挑戦するためのカモフラージュなのだ。
 映画は四五〜四九年の台湾史だけでなく、五〇年代の左翼粛清(山村工作隊)をも描いている。にもかかわらず、字幕は国民党が大陸で敗北し台湾に撤退するまでの話としているのは端的な一例である。「幌馬車の歌」について藍博洲はいう。天安門事件当時「インターナショナル」(国際歌)を歌った中国の学生たちが「国際主義者」であるとは限らない。「幌馬車の歌」を好んだ者が「日本軍国主義」の信奉者とは限らない。「幌馬車の歌」は日本が侵略行為を行った三〇年代に流行したにせよ、植民地台湾では純然たる送別の歌に浄化された。ちなみに未亡人・蒋碧玉は「西洋の歌」(スコットランド民謡?)と思い込んでいた。
 台湾の映画監督・侯孝賢は、一方で「台湾人の尊厳を撮ろう」とし、他方で「中国の風格を備えた映画を撮ろう」とした。二つの間のアイデンティティの矛盾によって侯孝賢は引き裂かれている。
 では『悲情城市』は、そもそも何を語ろうとしたのか。「二・二八事件」説、「台湾のヤクザ一家の物語」説、「ヤクザ一家を通して四五年から四九年までの台湾の戦後を描いた」説、さまざまである。
 ここで史実としての二・二八事件と映画に描かれた二・二八事件との整理学が必要である。まず史実が隠されている。これを掘り起こそうとした藍博洲のドキュメントがある。このドキュメントに触発されて映像化した侯孝賢のイメージがある。三者の整理のためには、映画の登場人物から、『悲情城市』の歴史的背景を取り出す。さらに史実をもう一度映画に戻す。こうして初めて、歴史的真実と映画的真実の腑分け、議論の整理が可能になる。たとえば、映画の何記者は何康がモデルであり、彼は『大公報』記者であった。林先生のモデルは鍾浩東だが、インテリのオピニオンリーダーではあっても、主要な登場人物ではない、などである。映画の林先生は二・二八事件で失踪する形だが、歴史の鍾浩東校長は五〇年一〇月に処刑されており、この間三年の時間差がある。
 『悲情城市』を見ようとする観客は(侯孝賢ファンを除けば)、ほとんどが「二・二八」がどう描かれているかを見にやってきた。そこで「実見した二・二八」と「映画の二・二八」とのギャップに話題が集中した。二・二八事件とは何かについての解釈も分かれる。一つは共産党煽動説だが、当時の台湾共産党は党員わずか七〇余にすぎなかった。これであれだけの騒乱を計画できるだろうか。次は日本帝国主義の奴隷化政策説(あるいは異民族侵略説)。台湾の人々は「日本の奴隷化政策」のゆえに、祖国を蔑視する偏見をもつに至った。そこで祖国の兵士を「異民族侵略」と誤認して抵抗した。最後に、台湾独立運動説。
 これらの俗説を排して、藍博洲は林書揚の説を引いて「公正な論調」を以下のごとくに説明する。陳儀による政権接収、駐留軍による権力を乱用しての汚職、治安の混乱、それに台湾の人びとの歓迎から失望、失望から怒りへと変化した被害者心理が加わり、その両者が上下にぶつかりあった結果、ヤミたばこ取り締まりの衝突が起こる。それは「役人の抑圧に耐えかねた民衆が反逆に立ち上がった典型的な事件であり、二・二八の流血の悲劇は民衆が追い詰められた結果引き起こされたものである」(林書揚「二・二八的省思」『従二・二八到五〇年代白色恐怖』時報文化出版、九二年)。
 侯孝賢が「幌馬車の歌」を選んだのは「二人の獄友が再び帰らぬことを表すだけでなく、インテリたちの国民政府に対する失望と幻滅を映し出す」ためであった。しかし、この歌の登場が突飛であったために、囚人はみなこの歌を歌ったかのように誤解させることになった。これはやはり侯孝賢の二・二八事件に対する認識不足と「五〇年代の白色テロ」に対する認識不足に問題のあることを示す。これが藍博洲の結論である。
 映画の原作者による映画解説であるから、これほど分かりやすいものはない。私はこのような解説を説明しながら、映像の一部をシーガル・ホールで映した次第である。

●(登+都−者)小平伝説
 ●小平一周忌にちなんでということでもないが、●小平伝説のいくつかの誤りを娘の毛毛(●榕)が指摘しているので、紹介しておきたい。原載は『作家文摘』九七年六月二〇日号であり、私は『新華文摘』九七年一〇期でこれを読んだ。
伝説1 文革末期に●小平が広州に逃れ、許世友将軍に匿われた話。
 七六年の第一次天安門事件で失脚して以来、七七年に復活するまで(軟禁期間および復活準備段階を含む)、●小平は一貫して北京におり、北京以外の土地には出なかった。これが真相だと毛毛はいう。ちなみに史実にもとることを書いている本は、青野、方雷『●小平一九九六』、劉金田主編『●小平的歴程』(解放軍文芸出版社)などである。
伝説2 ●小平が軟禁中に失踪し、葉剣英を訪ねて、四人組逮捕を協議した話。
 これは范碩『葉剣英在一九九六』に書いてあり、私もどこかで言及した記憶があるが、これも事実ではない由である。
伝説3 卓琳と●小平の会話
 六一年の第二次廬山会議の前夜、卓琳は●小平に彭徳懐の二の舞にならないよう忠告した旨が『●小平的歴程』に書いてある。毛毛によれば、党の保密規定は厳格であり、●小平はたとえ夫人にも会議の内容を語ることはなかったし、仮に卓琳が会議の内容を知ったとしても、それについて●小平になにか忠告めいた話をすることはなかったはずだ、と証言している。
 伝説1と2は、具体的な事柄であるから、私はすぐ納得する。おそらく毛毛のいう通りであろう。ただし、3は、「党の保密規定」という建前だけでは、卓琳・●小平の人間関係がよくわからない。文革期などは特に党組織そのものがガタガタしていた。そんな状況下で「保密規定」だけが一人歩きしていたとは思えない。
 毛毛は個々の史実の誤りを指摘するだけでなく、早く『わが父●小平』(下巻)を出版すべきであろう。少し深読みすると、毛毛は「下巻」出版のムード作りのために、このエッセイを書いたのであろうか。

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