蒼蒼ロゴ

第77号


「黒五類」考 白石 和良(農林水産省農業総合研究所)
連載中国的なるものを考える15「誘拐と人質(下)」 福本勝清(明治大学助教授)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋


「黒五類」考
白石 和良(農林水産省農業総合研究所)


はじめに
 『蒼蒼』(第七六号、九七年一〇月一〇日)の「逆耳順耳」で、矢吹晋先生が「黒五類」について書かれている。趣旨は、文革時に盛んに使われた「黒五類」という言葉には、「黒五類」と称する食べ物があったので、それを人間に当てはめたという事情があったということである。つまり、「黒五類」という名前の食べ物が文革以前からあり、文革に突入してから、地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子の五種類をひっくるめて呼ぶ場合に食べ物の名前である「黒五類」で代用したということである。しかしながら、矢吹先生も述べておられるように、「黒五類」と称する食べ物は健康食品である。文革時には忌み嫌われた地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子をひっくるめて呼ぶ場合に、健康食品の名前を使うことがあるのだろうか。というのは、健康食品の命名に当たっては、その名前を一見、一聞しただけで、霊験あらたかな、枯れ木にも花が咲くような名前を付けるのが普通であり、また、矢吹先生も述べておられるように、「黒」は悪いイメージのほうが多い言葉であって、それをわざわざ使うのは、後発者が奇抜さを狙って使うのが普通の場合であるからである。そうならば、文革以前に、「黒五類」という名前の食べ物(健康食品)が本当にあったのか。これが第一の疑問である。第二の疑問は、「黒五類」の原材料の一つである「黒加侖」とは何かという疑問である。「黒五類」という食べ物が文革以前からあり、地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子をひっくるめて呼ぶ場合に使われるには、この言葉を多くの人が知っているということが前提となる。そうならば、「黒加侖」も多くの人が知っているはずであり、一般の中国語の辞書にも当然出ていると思うのが普通である。ところが、この「黒加侖」という言葉は、一般の辞書には出ていないのである。そこで、「黒加侖」とは何かが第二の疑問となるのである。

一 文革用語の「黒五類」について
 最初に、『当代中国流行語辞典』(熊忠武主編、吉林文史出版社、九二年八月)に当たってみよう。同書では、「黒五類」という言葉は、六六年から使われ始めたとしている。その説明は、「地主、富農、反革命、悪質分子、右派分子の総称である。“紅五類”と相(あい)対する。これ以前には、“四類分子”という言い方があり、これ以降には“黒七類”という言い方が出てきており、“革命”の対象がますます多くなったことが看取できる」としている。そこで、先ず、同書の「四類分子」の項を引くと、「四類分子」という言葉は、六四年から使われはじめており、その説明は、「地主分子、富農分子、反革命分子、悪質分子の四種類の専制対象を指す」とし、さらに、特に注を加えて、「文革の時期には、以上の四種類に右派分子を加えて“黒五類”とした」としている。次に「黒五類」と対峙する「紅五類」については、同書は、「革命軍人、革命幹部、労働者、貧農、下層中農の総称である。これらの五種類は革命階級に属するのでこのように称せられた。このような呼び方は血統論の流行を背景にしている」としている。以上を総じれば、@初めに「四類分子」という言葉があり、A文革に入って、“革命”のエスカレートとともに、「四類分子」に右派分子が加えられて「五類分子」となり、B他方、血統論の流行を背景にして、革命階級を称賛する動きがあり、彼らを持ち上げるために「紅」の字を以てした結果、これに対峙する「五類分子」には「黒」の字を以てすることとなり、「五類分子」が「黒五類分子」となって、さらにこれが短縮されて「黒五類」という言葉が定着したとの「仮説」を立てることができよう。以上のような「仮説」を立ててみるのは、「四類分子」に右派分子を加えて「五類分子」とする時に、突如として、食べ物の名前である「黒五類」を持ってくるとはとても考えられないからである。
 ところで、矢吹先生が言われるように、食べ物の名前の「黒五類」という言葉が先にあり、「黒五類」という食べ物の名前を人間に当てはめたとしてみよう。そうだとした場合、考えられる当時の状況は、@「黒五類」という食べ物の名前を使って文革反対派を総称しよう、Aこれまでの文革反対派は地主、富農、反革命、悪質分子の「四類分子」しかおらず、一つ足りない、Bそこで右派分子を加えて五つにしようということになり、その結果、「四類分子」に右派分子が加えられて、地主、富農、反革命、悪質分子、右派分子が「黒五類」という言葉でひっくるめて呼ばれるようになったという状況である。
 しかしながら、このように考えると、その後の「黒七類」、「黒八類」、「黒九類」という言葉の誕生との整合的な説明が難しくなってしまう。というのは、食べ物の名前の「黒五類」という言葉が先行して存在している場合、その言葉のイメージは人々の頭の中で固定化しているはずであり、「黒七類」→「黒八類」→「黒九類」というように数字だけを増やしていくことには、なかなか、ついて行けないからである。
 説明が前後するが、「黒七類」とは、地主、富農、反革命、悪質分子、右派分子の「黒五類」に走資派と資本家または黒幇を加えたもの(『当代中国流行語辞典』一六三頁)、「黒八類」は「黒五類」に叛徒、特務、走資派を加えたもの(王均熙編著『漢語新詞詞典』、漢語大詞典出版社、九三年一二月、二六七頁)、「黒九類」は「黒八類」に反動学術権威を加えたもの(『漢語新詞詞典』二六八頁)である。なお、「黒七類」と「黒八類」、「黒九類」との間で「資本家または黒幇」の取扱が異なっているが、ここではそのままにしておく。

二 食品の「黒五類」について
1.「黒色食品」の流行の背景
 ところで、今回の「黒五類」問題の発端は、健康食品の「黒五類」の存在である。その存在が、文革以前からであったか否かは暫く置くとして、健康食品の「黒五類」が中国で販売され、日本へも輸出されるようになっているのは、中国で「黒色食品」が一種のブームになっているからである。中国では、生活水準の向上に伴って、食品に対する需要が高度化、多様化しているが、その結果、人間の基本的な欲求と言われる「子供は頭が良くなること、老人は寿命を延ばすこと、男は精力が強くなること、女はいつまでも若く見えること」という欲求が表面化しており、それを受けて健康食品が大変なブームとなっている。
 「黒色食品」人気はこうしたブームの一環である。「黒色食品」とは、黒い色をした食用農産物及びその加工品である。黒米、黒豆、黒ゴマ、椎茸、木耳等がその代表である。動物ではアリやスッポンも含まれる。健康食品ブームの中でも、「黒色食品」が人気を集めているのは、食物の色による発展段階説があるからである。その発展段階説によると、第一段階は白色食品(米、麦等)、第二段階は赤色食品(肉類等)、第三段階は青色食品(野菜、果実等)、第四段階は黒色食品というのがその説である。なお、第三段階の「青色食品」は、「緑色食品」と言っても良いが、中国には農業部の認可による「緑色食品」制度があるので、それとの混乱を避けるために、特に「青色食品」という言葉を使っているとされている。
 このような食物段階説を支えている一つと考えられるのが、中国古来の五行説と漢方(中医)の考え方である。
 『黒色食品開拓研究』(頼来展等著、中国農業出版社、九五年十一月)によってその考え方を紹介しよう。同書によると、「五行」、「五色」、「五臓」の関係は図1のごとくなっている由である。
 ここで食物との関係で注意しておくべきことは、「五色」と「五臓」の関係である。
 同書は、「青」いものは「肝」臓を「補」し、「赤」いものは「心」臓を「益」し、「黄」いものは「脾」臓を「補」し、「白」いものは「肺」臓を「益」し、「黒」いものは「腎」臓を「補」す、として、食物の各色と「五臓」との関係を規定している(注:「益」すると「補」するとの差は、筆者には説明できないことをお断りしておく)。つまり、ここで、同書は、先ず、黒い食物は、「腎」臓に効くと言っている訳である。次に同書が主張しようとすることは、黒い食物が最高であるということである。これに関しては、同書は次のように言う。即ち、「腎」の精は以て「肝」を養い、「肝」の臓血は以て「心」を済し、「心」の熱は以て「脾」を活し、「脾」は化して水を生じ、各精華は以て「肺」を充たすとする。要するに、「五臓」の中では、「腎」は「先天之本」であり、「腎」が無ければ何事も始まらない。したがって、「腎」を「補」する黒い食物が最高であるとしている訳である。
 ところで、ここで面白いのは、「五行」の考え方と「五臓」の考え方との間で統一が取れていないことである。「五行」の「木、火、土、金、水」の相互の関係は、「木」は「火」を生じ、「火」は「土」を生じ、「土」は「金」を生じ、「金」は「水」を生じ、「水」は「木」を生ずるとされているが、これは、「五竦み」の循環関係である。他方、「五臓」の考え方は、右で紹介したように、「腎」→「肝」→「心」→「脾」→「肺」という関係とされ、「肺」でストップし、「五行」のような循環関係にはなっていないのである(図2参照)。「五行」、「五色」、「五臓」を関連付ける考え方を取るなら、この点についての何らかの説明が必要であろう。

2.黒色食品に対する考え方の変化
 前掲の『黒色食品開拓研究』は、広東省農業科学院黒色食品研究開発センター主任である頼来展氏を初めとして、黒色食品開発の研究者が中心となって書かれた本である。彼らの黒色食品に対する思い入れの強さは、当然割り引かなければならないが、ブームとなる前の黒色食品が一般的にはどのように見られていたかを同書から見てみよう。同書によると、黒色食品は、以前は、「不吉利」(縁起でもない)、「不雅観」(見てくれが悪い)、「黒不溜秋」(どす黒い)と見られており、さらには、「不干浄」(汚らしい)とまで見られていたが、現在は堂々と高貴な場所にも登場し、多くの家庭の食卓に上るようになっているとしている。
 日陰の研究から日の当たる研究となるまでの恨み、つらみ等の屈折した思いから、黒色食品に対する過去の冷遇を過剰に表現しているかも知れないが、以上のような同書の記述から、黒色食品が一般的に知られ、容認されるようになったのは、つい最近のことであることが理解できよう。
 現在でさえ、右のような状況であることからすれば、文革以前から「黒五類」と称する黒色食品が誰もが知っているほど流布していたとはとても考えられないことである。ただし、同書も記述しているように、現在「黒色食品」と呼ばれるものの一部が特殊な薬効を持っていることは、経験的にかなりの人に知られていたことは事実であろう。例えば、黒米については、漢の武帝の時代に宮廷で用いられた旨の記載がある由であり、また、朝廷への「貢米」とされているからである。

3.食品における「黒五類」の使用例
 矢吹先生が「黒五類」について書かれる以前に、筆者が食品に関係して「黒五類」という言葉を使っている事例を承知しているのは二例ある。即ち、「広西黒五類食品集団公司」の事例と「黒五類酒」の事例である。
 先ず、「広西黒五類食品集団公司」である。「広西黒五類食品集団公司」は、以前は「広西容県南方児童食品厰」と称していた郷鎮企業である。その後、九四年一月に組織変更(集団公司化)と名称変更を行い、現在の「広西黒五類食品集団公司」となっている(前掲書二九一頁)。同社は、以前の名称が示すように、最初は子供用食品の生産が主体であり、黒色食品の工業生産化に中国で最初に成功したのは、同社であると言われている。開発の成功は八八年であるが、最初の販売製品は、八九年五月からの「黒芝麻糊」である(「中国食品報」九六年十一月十七日)。同社では、九三年から第三代の黒色食品として「黒五類」を発売したとされており、その後も第四代、第五代の黒色食品を開発したと伝えられているが、内容は不詳である(「中国食品報」九七年七月十四日)。第三代の黒色食品の「黒五類」は、前掲書によると、黒米を原料にした「黒糊」、「黒粥」、「黒粉」、「黒液」、「黒酒」とされている(同書五一頁)。要するに、黒米を原料にした重湯状食品、粥、粉末、飲料、酒の五種類の食品である。黒米を原料にしたこれらの五種類の食品の成功後、同社はその社名を「広西黒五類食品集団公司」に改めたと思われるが、問題はその際に何故「黒五類」というマイナスのイメージの言葉を用いたかである。通常なら、単純に「広西黒色食品集団公司」としたはずである。考えられることは、@「黒色食品」という言葉を社名に使っているメーカーが既に多数存在していたこと、A黒米関連の五種類の黒色食品で成功していること、B決定権者の中に出自が「黒五類」であった者がいたこと、C誰もが知っているマイナス・イメージの言葉を使うことで消費者への刷り込みを強烈にする意図があったことである。これらの要因が一つなのか、複数が重なって決められたのか、実際のところは同公司に確認するしかないことである。
 同社に関する蛇足を付け加えておくと、九五年の実績では、全国の郷鎮企業の中で、同社は営業収入では全国の第二五九位、税引き前利益では第一八二位、資産総額では第二七五位の大企業に成長している(農業部郷鎮企業局、中国郷鎮企業協会編『中国郷鎮企業排序一九九五』、九五年十一月、二〇二頁)。なお、「国際商報」(九七年一〇月十三日)の「九六─九七年度外商投資企業全国ベスト五〇〇社」リストによると、「広西黒五類食品有限公司」は、第三一九位にランクされており、その販売額は四億五九〇〇万元、利潤は七四三九万元、総資産額は四億二三九一万元、輸出額は三〇〇万jとされている。「広西黒五類食品集団公司」と「広西黒五類食品有限公司」との関係は明確ではないが、考えられることは、外資を受け入れる際に、従来の名称を変更した場合と新会社である「広西黒五類食品有限公司」を別途設立した場合であるが、総資産額の変動状況から見ると、前者の場合の可能性の方が大きいようである。
 次は、「黒五類酒」である。この「黒五類酒」は、前掲『黒色食品開拓研究』によると、広東省の最初の「名牌食品」(優良ブランド食品)に選定されており、その原料は、黒米、黒豆、黒桑の実、黒桃金娘の実(「桃金娘」は和名テンニンカ、学名はRhodomyrtus tomentosa Hassk.)、黒霊芝を原料としている(同書二九四頁)。「黒五類酒」の場合は、原料が五種類であることから、「黒五類」という言葉を使っていると思われる。

三 「黒加侖」について
1.「黒加侖」とは何か
 矢吹先生が書かれているように、「黒五類」という食べ物が文革の前からあり、かつ、ほとんどの人が知っているとすれば、当然、その原料である「黒加侖」も多くの人が知っているはずであり、一般の中国語の辞書にも出ているはずである。ところが、この言葉は一般の辞書はもとより、大型の辞書(例えば、『中国語大辞典』〔大東文化大学中国語大辞典編纂室編著、角川書店、平成六年三月〕等)にも出ていないのである。
 話は前後するが、筆者は、今年八月に内蒙古自治区赤峰市敖漢旗を訪問した際に、「黒加侖」という名前のジュースを飲んだことがある。このジュースは「内蒙敖漢赤波集団」が生産したものであり、そのパンフレットによると、東北特産の野生の「黒加侖」の果汁を原料としており、ビタミン、カルシウム、鉄などが豊富に含まれており、特にカルシウムの量は果物の中で最高であると記されている。その場で同行してくれていた中国人の友人に「黒加侖」とは何かと尋ねたところ、彼はすぐには思い出せなかったので、帰国してから中国の植物辞典で調べようと思い、友人への質問はそこで打ち切ったのである。ところが、帰国後、調べたところでは、植物関係の辞典にもなく、『辞海』にも、『漢語大詞典』(漢語大詞典編輯委員会、漢語大詞典編纂処編纂、漢語大詞典出版社)にも載っていなかったのである。ただし、「黒加倫」という言葉は見つけた。それが載っていたのは、『中国土特産大全(下)』(馬成広主編、新華出版社、八六年八月)である。同書に「黒加倫巻糖」の説明があり、「黒加倫巻糖」は黒龍江省阿城食品厰の特産であり、新鮮な「黒加倫子」の果汁を主要な原料としている云々との説明があるが、肝心の「黒加倫子」については何らの説明はされていない。そのため、「黒加倫」と「黒加侖」とが同一のものであるか否かも判然としない。疑問が膨らむだけの結果であった。お手上げの状態がかなり続いたため、相当慌てていたところ、偶然にも「黒加侖」が出ている辞書にぶつかった。偶然というのは、別の言葉を引いていた時に、この「黒加侖」が目に飛び込んで来たからである。その辞書は『中華食品工業大辞典』(湖北省食品研究所、中国食品出版社辞書編輯部編、中国食品出版社、八九年二月)である。「黒加侖」の項を引くと、「穂状醋栗」のことであるとだけの記述である。つまり、「黒加侖」は、方言または俗称であって、正式な名称ではないということである。普通の辞書に出ていない訳である。同辞典の「穂状醋栗」の項には次のようにある。即ち、穂状醋栗(Ribes spp.)、「黒豆」または「黒加侖」とも言う。ユキノシタ科〔虎耳草科〕の落葉小灌木。漿果は「醋栗」より小さい。欧州の原産、我が国では黒龍江地区での栽培が比較的多い。主要なものに、「黒穂状醋栗」(R.nigrum、果実は黒色)と「紅穂状醋栗」(R.rubrum、果実は赤、深紅色または白色)があり、果実は生食でき、ジャム、ジュースの製造も可能であり、ビタミンCを取り出すこともできる。
 ここまで判明したところで、学名から日本の植物辞典(牧野富太郎『原色牧野植物大図鑑』、北隆館、昭和五七年五月)へ戻ると、「R.rubrum」が掲載されており、それによると、ユキノシタ科スグリ属の「フサスグリ(アカスグリ)」とあり、果実は赤く滑らかな液果で食用となり、西洋ではred currant またはwild currantと呼ぶとある。なお、同書によると、西洋でグーズベリと呼ばれるのは、この近縁の「セイヨウスグリ」(Ribes grossularia L.)である由である。
 となると、「黒加侖」のうちの「紅穂状醋栗」(R.rubrum)の日本名は「フサスグリ」または「アカスグリ」となり、「黒穂状醋栗」(R.nigrum)は「クロフサスグリ」または「クロスグリ」となる。ところが、ここで厄介な問題がもう一つ生じたのである。『中華食品工業大辞典』には、「穂状醋栗」の他に「醋栗」が別掲されているのである。しかも、「穂状醋栗」も「醋栗」も学名は同じである。同書によれば、その漿果は、赤、緑、黄、紫褐色を呈するとあり、食用になるのは、「黒醋栗」(R.nigrum、“黒加侖”とも言い、果実は黒色)、「紅醋栗」(R.rubrum、果実は紫褐色)、「欧州茶・子」等であるとする。さきほど、厄介な問題が生じたというのは、「穂状醋栗」と「醋栗」の学名が同じであること、さらに、「黒穂状醋栗」と「黒醋栗」との、そして、「紅穂状醋栗」と「紅醋栗」との学名が同じであることである。ところが、前述のように、「穂状醋栗」の漿果は「醋栗」より小さいとされているので、本来、両者は別物であるはずである。にもかかわらず、学名が一緒というのはどういう訳かという厄介な問題である。この問題は植物の専門家に聞くしかないので、ここでは、これ以上、立ち入らないこととする。
 そこで、以上の記述から、中国語で言う「黒加侖」と呼ばれるものの範囲をまとめると、図3の点線の範囲内となる。
 なお、「黒加侖」を掲載している辞書がもう一冊見つかっている。『中国飲食大辞典』(林正秋主編、浙江大学出版社、九一年五月)である。同書には、「黒加侖酒」と「黒加侖飲料」を掲載しており、「黒加侖酒」は「黒穂醋栗」を原料とする旨、また、「黒加侖飲料」は「穂状醋栗」を原料とする旨記述してある。「穂状醋栗」全てを、即ち、「黒穂状醋栗」と「紅穂状醋栗」をともに「黒加侖」としている点は、『中華食品工業大辞典』と同様である。
 以上のように、「黒加侖」が三種類のスグリからなっているとなると、その日本語訳をどうするかが問題となる。前述のように、「紅穂状醋栗」は「フサスグリ」または「アカスグリ」、「黒穂状醋栗」は「クロフサスグリ」または「クロスグリ」とすると、「黒醋栗」をどうするかが問題となる。妥協案を提示すれば、「紅穂状醋栗」は「フサスグリ」、「黒穂状醋栗」は「クロフサスグリ」、「黒醋栗」は「クロスグリ」というところであろうか。
 ここで、蛇足の疑問を呈しておきたい。中国語で何故「醋栗」と言うかである。「醋栗」の実は漿果であり、「栗」のような堅果ではないからである。日本語の「スグリ」の由来については、牧野前掲書によると、和名「酸塊」は酸っぱい実という意味であるとし、この場合の「クリ」はくりくり坊主と同じで丸いことを言うとしている。これらのことを考え合わせると、中国語の「醋栗」は、日本語の意味に漢字を当てて中国語にしたのではないかと愚考する次第である。ただし、その際に「くり」の意味は誤解したという前提である。識者のご教示をお願いしたい。

2.「黒加侖」の日本での表記
 右で述べたようなことを調べながら、筆者も、健康食品の「黒五類」の類を集めてみた。その結果、集まったのは、@株式会社「黒五本舗」の「黒五」(発売元は株式会社三洋コトブキ)、A北京秦氏黒色食品開発公司の「黒五類」(総輸入元は太宝通商株式会社)、B北京市黒色食品経貿公司の「黒五類」(発売者は有限会社ワールドネット)の三種である。これらの三種について、「黒加侖」を日本語でどのように表記しているかを見てみると、次のようになっている。
 a株式会社「黒五本舗」の「黒五」:原材料名として、「黒米、黒豆、黒ゴマ、黒松実、黒カリン」とある。発売元の株式会社三洋コトブキに「黒カリン」の中国名の教示を願ったところ、回答は「黒加侖」であった。
 b北京秦氏黒色食品開発公司の「黒五類」:配合成・として、「黒豆、黒米、黒ゴマ、黒松の実、黒カリン、赤棗、クコの実、甘草、山芋、紫沙糖」が挙げられ、原材料名としては、「黒豆、黒米、黒胡麻、黒松子、黒加侖、他」とある。これらからすれば、「黒加侖」を「黒カリン」と日本語表記しているのは明らかである。
 c北京市黒色食品経貿公司の「黒五類」:主要原料として「黒豆、黒米、黒芝麻、黒松子、黒加侖」とあり、原材料として「黒米、黒マツノミ、黒豆、黒ゴマ、黒カリン、アカナツメ、クコノミ、甘草、山芋、甜菊糖」とあるので、ここでも、「黒加侖」は「黒カリン」と日本語表記しているのは明らかである。
 以上、三つの「黒五類」の類の健康食品の「黒加侖」の日本語表記を見てきたが、いずれもが「黒カリン」と表記している。ところで、「黒カリン」と言う表記を見た場合、日本人が思い起こすのはその果実が喉飴等に使われているバラ科の植物の「カリン」(Pseudonia sinensis Schneid)であろう。そうであるならば、「黒加侖」を「黒カリン」と表記するのは改めるべきであろう。ほとんどの人が黒い「カリン」と思ってしまうからである。ではどうしたら良いのか?「黒穂状醋栗」は「クロフサスグリ」で、また、「黒醋栗」は「クロスグリ」で問題はないが、「紅穂状醋栗」の場合は問題である。前述のように、「フサスグリ」または「アカスグリ」では、「黒五類」または「黒五」にならないからである。便法としては、この三種全てを「クロスグリ」で統一することが考えられる。深紅色や紫褐色は「黒色」と言ってもそれほどおかしくはないからである。黒松の実は「黒」が付いているが、その実自体は黒くもなんともないし、黒米といっても、真っ黒のものばかりではない。それらからすれば、「紅穂状醋栗」を「クロスグリ」というのは許容範囲内であろう。

おわりに
 そもそも、ある一つのものが、存在していなかったことを証明することは非常にむずかしいことである。
 右のように、色々と考証等をした結果、「黒五類」と称する食べ物が、文革前から一般的に知られているほどに存在していたとすることは、極めて可能性が薄いことであることは何とかご理解は頂けたと思う。ただし、その存在自体を零と断言することも難しいことである。
 そうは言っても、「黒五類」と称する食品(健康食品)の歴史はそれほど古いものではないことは例示できる。前出の「黒五類酒」がそうであるし、北京秦氏黒色食品開発公司の「黒五類」は、総輸入元の太宝通商株式会社(電話:0467-23-9198)のご教示によると、開発の成功は九一年、製品化は九三年からであり、開発者(発明者)は秦大京氏(以前河北省邯鄲市植物蛋白研究所に勤務されていた研究者)である由である。なお、北京市黒色食品経貿公司の「黒五類」には「元祖」と記した偽物防止用のラベルが貼ってあるが、これもコップの中での争いに過ぎないであろう。同社の「黒五類」は、前出のように甜菊糖(ステビア甘味料)を使っているが、甜菊糖は、甜菊から生産されるものであり、甜菊(別名「甜葉菊」、Stevia rebaudiana 、南米原産)は、七七年に日本から導入されたものだからである(「市場報」九六年四月二二日)。
 なお、「黒加倫」と「黒加侖」は同一のものである。九五年一月四日の「中国信息報」は、黒龍江省佳木斯濃縮果汁厰が野生の「黒加倫」を原料とした飲料を製造しており、前年一〇月に中国国家女子バスケットボールチームの指定飲料となった旨を報じている。前出の「黒加倫巻糖」の例に見るように、黒龍江省では、「黒加倫」と書くのが一般的なのかも知れない。 (了)

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中国的なるものを考える15
誘拐と人質(下)
福本勝清(明治大学助教授)


 十一月十九日、梶原一騎の娘、白暁燕誘拐殺人事件の主犯、陳進興が逮捕された。前日の夜、台北の南ア大使館武官宅に押し入り、五人を人質にし篭城した末であった。陳進興は夏にも一度捕まりそうになり、一人逃げ延びていたのだが、どうして半年もの間、狭い台湾社会で逮捕を免れていたのか不思議というほかはない。我々の常識では顔も名前も割れている誘拐犯が国内で逃げ延びる可能性はないからである。
 勿論、我々の常識こそが問題であり、そこに落とし穴があるのかもしれない。我々は身内や知り合いが誘拐犯だとわかった場合、それを匿ったりしない。数年前、山梨の信用金庫の女子従業員を誘拐し殺害した犯人が、公開捜査で追いつめられ、やむをえず相談した友人に自首を勧められ出頭した事件がよい例である。
 誘拐犯がたとえ肉親であっても、同じことである。我々は強く自首を勧め、本人に付き添ってでも出頭させようとするに違いない。それは事が発覚した場合、後の咎めが恐いということもあるにせよ、それ以上に、世間に顔向けできないからだと思われる。いずれにせよ、市民の義務であるがゆえに、といった崇高なものではないだろう。
 我々が強く自首を勧め、彼に代わり警察に通報したとしても、肉親が困っているのを助けなかったという非難を浴びることはない。たとえ、そういう非難が他の肉親から浴びせられる可能性があったとしても、世間の目の方がずっと恐い。現在、我々はすでに町内や隣組に頼って生きているわけではない。だが、世間の非難に晒されては、日常生活もままならない。宮崎勤の家族や女子高生ドラム缶殺人事件の少年の家族のように、引っ越しを迫られるということになるかもしれない。
 我々はもう村人ではなく、第二のムラたる町内も横町も機能しなくなっている。だが、今もなお我々は世間のなかを生きているらしい。筆者のように隣近所とはほとんど没交渉で暮らしている者も多いはずであるが、それでも世間の目を意識することまで止めてはいない。たぶん世間の目とは、我々のなかにすでに内面化されているものを指すのだろう。
 身内と世間が重なるような社会、たとえば部落(ムラ)や社宅といった社会では、外に対し閉鎖的であり、互いの庇いだてが顕著であるが、それでも誘拐が黙認されることはない。たとえば部落(ムラ)はそれを包む郷村の秩序に従わねばならず、郷村が世間の役割を果たすことになる。
 我々と中国人の違いは、肉親や身内の評価よりも世間の目が恐いという、この内面化された世間観の違いではないかと思う。
 中国の子供誘拐、女子誘拐事件では、村人は隣家にやってきた子供や嫁が誘拐されてきた、売られてきたと感づいている場合が多い。が、そのことを公安機関に訴えることはほとんどない。むしろ逆に庇うことも少なくない。当局の捜査に対しては勿論のこと、家族やボランティアが救出にやってきても協力しようとはしない。それどころか、村の幹部が乗りだし、買ったものだから返してほしければ金を払えと横槍を入れる例や、救出に来た者を村人が取り囲み乱暴したり、邪魔をしている間に子供や女子を隠す例も多く、救出する側の方が地下工作を強いられているほどである(王霊書『中国子供誘拐白書』亜紀書房)。
 誘拐が蔓延するには、それを許している風土が厳然と存在する。身内が人身売買や、人質商売をしていても、彼が親に孝行だったり、兄弟思いだったり、友人を親身になって助けたりするかぎり、立派な人間だと褒めそやされることになれば、汚れた商売に内側からブレーキをかけることはできなくなる。なかには一族をあげて人身売買に励む輩もでてくる。一九九一年初に黒龍江、山東両省の公安機関に摘発された臧成江、臧成水兄弟を首領とする婦女誘拐集団は、女五名を含む三十三人からなり、六十三人の婦女を拐かし売り飛ばした。そのなかに臧家の兄弟姉妹及びその家族が十三人含まれており、主犯八人はすべて臧家のメンバーであった(張萍『当今中国社会病』北京燕山出版社)。
 すでに多くの著作が子供誘拐や婦女誘拐に触れている。それらを読むたびに、中国人の対外道徳と対内道徳のあまりの違いに慄然とせざるをえない。儒教が誇る三綱五常とは畢竟私徳であり、公徳ではないとは、何度も言われてきたことなので、ここではもう触れない。

 話を民国期の土匪や緑林に戻し、彼らが強請りたかり、追い剥ぎ、強盗、村や町への襲撃、営利誘拐、阿片売買などあらゆるダーティな稼業を続けながら、なにゆえ存在し続けたのかについて考えてみよう。
 貧困や飢餓あるいは軍閥混戦といった社会経済的、政治的な要因をまずあげなければならないだろう。だが、貧困や飢餓、あるいは軍閥混戦といったものがもたらす社会的混乱のありようが、なにゆえまず土匪の蔓延であったのだろうか。土匪の蔓延以外のありようがなかったのだろうか。中央集権的な国家というタガがはずれた時、地方の秩序を基層から組み立てる術がないという点が最大の問題となろう。
 宗族が強力な南方では、宗族の力を組み合わせることで、地方の秩序を維持することが可能なようにみえる。だが、福建では械闘に敗れた宗族が山に篭もり土匪化するといわれ、そのような場合、他の土匪を集め報復のために山を下りることになる。宗族も土匪や幇会と同じで、似たような力を持つ集団が比較的安定した連合を組むことは極めて難しい。飛び抜けた力を持つ集団が、他の弱小集団を従える形でしか連合は安定しないのだと思われる。それは政党も同じことである。
 南方各省でも土匪の蔓延をくい止めることはできなかった。だが、北方のような白朗、老洋人、劉桂堂といった大土匪団を生み出すことはなかった。特に広東、広西のような強力な軍閥が形成されたところでは、軍閥の面子にかけて土匪の猖獗を押さえ込みにかかったので、大土匪団が生まれる可能性はなくなった。
 結局、土匪を押さえ込むには省レベルでは強力な軍閥統治だということになる。が、土匪も軍閥も、力ずくでしか矛盾や軋轢を解決できない。彼らの権威もその圧倒的な力を背景にしてしか成立しえない。
 混乱期においては、力の支配がもっとも権威を持つということにこそ、暴力の蔓延の秘密がありそうである。そこでは、暴力の行使こそ、支配を正当化しうる、力の誇示こそ、人を従わせる、と考えられている。むき出しの暴力の行使を回避する様々な仕掛けは、ここでは影も形もない。
 これは、伝統的な地方の統治システムとは、かけ離れているようにみえる。というのも、ひとたび中央集権的な国家が成立してしまえば、地方レベルでの威信の樹立は、科挙に合格することや、国家官僚として出世することに移るからである。
 だが、このような武から文への移行は、どれだけ民衆レベルで納得されているだろうか。民衆が納得しているとかしていないとかが何の意味があるのだ、ということになるかもしれない。だが、地方のもっとも力がある人間がその地方の指導者となる、もしくは地方の代表として中央に進出し華々しく活躍するということは、支配の正当性や権威の信頼性といったものに大きな影響を与える。例えば、新中国成立後、混乱した省政権を立て直すため、その省出身の出世頭や実力者を地方に送り返し、その首班に据えるという手が有効なのも、その民衆レベルでの納得という問題と深く関わっている(王朝期においては、任官の際、出身地回避の制度があったことを想起)。
 地方レベルの統治者、指導者が、その地方の民衆にとって、誇りにならないということは、支配にとっての危機である。中央が送り込む地方官が、単なる腰掛け役人であるばかりか、くだらぬ人間、地方の富の収奪者でしかなかったら、どうだろうか。中央派遣官僚としての表向き輝かしい権威と、実際の無能ぶり、無責任ぶりの間に、大きな落差がある。その落差を地方の民衆はどのように埋めているのだろうか。
 アウトローが民衆のなかに一定の威信を有する社会には類似点が多い。いずれも、それらの社会では、権力の行使が、正義の執行だとみなされていない、という共通点を持つ。シチリア島は中世以来、神聖ローマ帝国、アラゴン(イスパニア)、ブルボン家(両シチリア王国)の領土として扱われ、シチリア人による国家や地方政権が樹立されることはなかった。シチリアを領有した各王家が飼い慣らしていた地方支配層は、シチリア人の間に真の権威を打ち立てることができなかった。それが、アウトローたちにシチリア人の誇りを売り物にさせることを許すことになる。サルディニア王のイタリア統一後も、それは変わらず、シチリア人のローマ支配への強い違和感、拒否感が、マフィア蔓延の温床になっている(ホブズボーム『素朴な反逆者』や竹山博英『シチリア―神々とマフィアの島』、『マフィア―シチリアの名誉ある社会』など)。  官が正義を執行せず、反対に、はみ出しもののアウトロー(緑林)が民衆の正義を代行していると考えられていることが、中国のアウトローたちの存在を長引かせている。さらに、もっとも力あるもの、声望あるものが支配者や指導者になるべきだという民衆の願いが、正常な支配システムのもとでは、かえって満たされないという、このような価値観のギャップの問題も存在しているように思う。
 「鉄砲から政権が生まれる」とは民国期そのものを象徴している。だが、「馬上で天下は取れても、馬上から天下は治められぬ」のも道理である。ギャップの源はそこにある。単に力を競い合うだけでは安定した支配は確立しない。ところが、安定した支配のもとでは、皇帝とか中央の覚えめでたい人間でなければ出世できず、力あるものは埋もれてしまうことになる。中央のブランドがもっとも羽振りをきかし、そのブランドをぶらさげている人間が本当に力があるかどうかは問われない。
 台湾ではすでに軌道にのっているが、地方政府の首長を選挙で選ぶことは、意外な効果があるのかもしれない。大騒ぎを繰り返し、さんざんエネルギーを費やして、自分たちがもっとも力あると見なしている指導者を地方政府の長に据える。それがうまくいったらアメリカのように最高指導者もどんちゃん騒ぎのうちに選んでしまう、それは暴力の行使を回避しつつ、民衆の願望をかなえることができる、おそらく最善の方法であろう。

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逆耳順耳
矢吹 晋


『中国酔いがたり』
 「往時を想えば汗顔に堪えない」ではじまり(一九八二年五月)、「それは、夜の厠のものがたりであった」(一九九七年十月)に終わる「販書随録」である。
 私は中国語同時通訳の世界の手練である神崎夫人を九〇年代初頭にある国際会議で知り、その前後に、神崎勇夫氏ご本人と接点ができたと記憶している。
 本書二二六ページに「痴の銘」と題して何新『諸神的起源』についての二度目のコメントがある。「この文章は社会主義制度の優越性を説く。矢吹教授は、これはほとんどデッチあげられたもので、かれらの末期症状の表現であると激怒されたという」「その後日本で開かれた東アジア経済のシンポジウムで、韓国の学者がこの問題をとりあげ、中国の学者に質問したところ、何新などという経済学者はまったく知らない、文学方面の人ではなかろうかとの返答だったと聞き及ぶ」とある(一九九一年二月)。
このとき、神崎氏はこの顛末を書く機会を与えて下さった。それが「犬も歩けば、棍棒に当たる───
不思議な北京のS教授物語」である(『東方』一二〇号、九一年三月)。当時の私は孤立無援に近かった。まず『北京週報』に抗議し、ついで『人民日報』に抗議したが、先方はなしのつぶて。日本のマスコミは、『週刊文春』が興味を示しただけであった。
 『人民日報』の言い分と、私の言い分が異なるならば、それは私の言い分が間違いなのだと判断して一〇〇%正しい、といった受けとめられ方であった。そのような時に届いた「雪中送炭」のメッセージは、私を大いに感激させた。神崎勇夫は男なのだ。中国の本を売る商売に関わっているが、眼力は確かなのである。この眼力はとりわけ女を凝視する際に最もよく発揮される。
 親しく酒を酌み交わし、お人柄とエッセイの虚実皮膜のユーモアを紙面からではなく、直接に再確認したのは一年前のことである。小著『中国巨大国家のゆくえ』を出してもらった機会に神田の行きつけのお店に案内していただいた。第二刷が出たら、今度は私がごちそうするつもりなのだが、遺憾千万、その機会がめぐってこない。

ケガ余聞
 台湾での事故について書いたところ、お見舞い半分、ひやかし半分のご挨拶を多数頂戴した。最も悪質な友人は、私が事故に遭ったことをまるで認めない。君、気は確かかね。背骨を折って歩けるものかね。狂言じゃないのだろうね。憮然とするが、返す言葉もない。要するに、私の言はすべて虚言であろうと信じている疑い深い男にどう説明しても理解してもらえるはずはない。そうこうしているうちに、もしかしたら、あれは夢だったのかという気がしてくるから不思議だ。松川事件の赤間被告の自白供書を思う。まさに真昼の暗黒である。
 第二のグループ、これが最も多い。君、酒はどれくらい呑んでいた? あのときと比べてどちらが多かったかね。このグループはかなりの事情通である。私が一九九二年一〇月二三日深夜、泥酔して救急車のお世話になった秘密を知る人々である。あれは天皇訪中の当日のこと。私は朝から授業をやり、夕刻テレビに引っ張りだされ、留学生文化祭で乾杯の音頭をとり、週刊誌の取材を受けて、といった形で右往左往しているうちに酩酊浮遊と相成った次第である。小田急の町田駅に着いたまでは覚えているが、その後の記憶はプッツン。気がつくと周りが騒々しい。私が仰向け倒れているらしい。駅員が私の顔をのぞきこんで聞く。お名前は? 私はしかと答える。今度は電話番号を聞かれる。これも正しく答える。また名前を聞かれる。電話も繰り返す。二度目までは、相手の理解能力の欠如であろうと判断して丁寧に答えた。  駅員はまた聞く。ついに私が怒りだす。アナタ、私のいうことを信用しないの、とポケットから名刺を取り出して、ほら、よくご覧なさい。ここに書いてある番号と私の言ったのは少しも違ってないじゃないか。正確無比ですよ。さあ、帰ろうか。と立ち上がろうとすると、駅員があわてて私を力づくで押さえ込む。ちょっと待って下さい。いま救急車が来ますから。ナヌ、救急車? そんなもの要らん。タクシーがまだあるはずだ。いえ、お待ちください。
 こうして私は暴力的にタクシーに乗せられ、町谷原救急病院にかつぎこまれた。消毒のためのオキシドールを顔中に塗られてピリピリし、ようやく状況が呑み込めた。私は駅の階段でゲレンデのスキーよろしく「顔面制動」をやったらしい。エレファントマンのように眼と口を残して顔中に包帯を巻かれて、早暁三時すぎにタクシーで自宅に戻った。
 翌日、恐る恐る包帯を解いてみると顔面傷だらけで一三箇所に絆創膏が貼られ、そこが擦り傷であった。ネクタイは血だらけ、ワイシャツも血だらけ、惨憺たる姿であった。駅員はこの出血に驚き、その後はマニュアルにしたがって、私の脳が正常かどうかを確認しようとしていたのであった。
 愚妻は翌々日、菓子折をもって町田駅にお礼に伺った。「軽率に名刺なんか置いてこなければ、こんな苦労はなかったのに」とぼやく。「そんな事情がわかっていれば、名刺を置いたりしなかったのに」「しかし、お世話になったお礼ぐらいはしてもいいんじゃないの」「お礼は厭わないけど、恥さらしはごめんよ」といった具合で全く信頼を失墜した。
 酩酊浮遊はしばしばだが、救急車のお世話になったのは初体験なので以後肝に命じている。にもかかわらず、今回の事故である。私の前科を知る悪友が、旧悪を想起するのは、不徳の致すところ。止むを得ない。  第三のグループの反応は、政治陰謀説である。台湾の特務に狙われたのかと聞く。私は繰り返し、野犬であり、犬である、と説明している。ところが中国世界のウォッチャーたちは、メタ言語の生活に慣れている。犬というのは、権力の犬のことであり、しかもそれは往々美女の姿をとって現れる。私が四匹の野犬と言うと、それを暗喩と受け取るわけだ。私が妙な女に近づいて、悪い男たちに囲まれたのであろうとする。しかもそこには政治的謀略があるのだとニヤニヤする。しかし、それこそが真実だときめつけて満足気な悪友が四人、五人となると、もしかしたら、それが真実かも、とまたしても赤間被告の心境になる。私が自分で考えることはすべて偽りであり、周囲の友人の観察のほうが正しいのかもしれないと弱気になる。
 繰り返すが、断じて酩酊してはいなかった(と強調すると、いよいよ怪しいと誤解されるのがオチである)。酔生夢死もどきの事故は、まことに得難い体験であった。
 まずこんな痛みは味わったことがない。どこが痛いのか、まるで分からない、といった痛みである。医者が腰部に触れながら、どこか、ここか、と聞くが、一触即発、全身に及ぶ痛みである。一カ月、寝返りを打てないのは辛かった。当然、熟睡はできないから、昼も夢うつつである。こんな夜にありがたいのは、絹のパジャマである。動かせない体をかばって、少し息を止めたり、吐いたりするだけでも、パジャマが体から離れてくれる。その爽快感。木綿の下着では、ベッド上でのかすかな動きさえ妨げになる。
 新店市の天主教耕・医院で私をまるまる一週間二四時間態勢で看護してくれたのは、南通出身の国民党軍の老兵であった。今年七〇歳だが、六三キロの私を軽々と抱き上げて、レントゲン写真撮影台に乗せてくれた。初めは、少し乱暴であったが、まもなく、私の一触即発、痛み天を衝く状況を理解してくれ、その後は実に巧みに患者を扱った。
 三日目に、歯ブラシと歯磨きを売店で買い、私の歯を磨いてくれた。私は中越戦争を描いた映画『戦場下の花環』で司令官が小姓のような若い兵士に歯を磨かせているのを見てカルチャーショックを受けたことがあるが、いまや私も司令官になった気分である。
 病院には食事がなかった。最初の四日間は点滴だけだが、その後は老兵さんが街へ出てテイクアウト食品を買ってきた。時には一緒に食いに出た。粥や餃子などの小吃が美味しかった。医師は食事についての指示を行うのみ。その指示を実行するのは、ほとんど家族である。私は一週間「骨科」(整形外科)に入院し、五組の患者を迎えて見送った。三人相部屋だが、すべて手術のために入院し、一泊だけで帰宅した。入院時と退院時の大騒ぎはすさまじかった。私は五組の大家族の凶事と吉事を身近に観察し、映画『非情城市』の続きを見た思いがした。

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