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第76号


中国情報連絡協議会のインターネット情報 安達正臣(中国情報連絡協議会主催者)
米国におけるインターネット事情 大橋英夫(専修大学助教授)
連載中国的なるものを考える14「誘拐と人質(中)」 福本勝清(明治大学助教授)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋


中国情報連絡協議会のインターネット情報
安達正臣(中国情報連絡協議会主催者)


 日本人の視点から現代中国に関する生の情報をリアルタイムに交換するインターネット上の一つの試みとしての中国情報連絡協議会(以下cn-info)は、中国との深い関わりを持つ五〇〇人あまり(九七年九月末現在)のメンバーを有している。開設したのは九六年十月だ。対中ビジネスに関わる人や在中ビジネスマンはもとより、中国研究者、政府機関の中国関連職員、マスコミ関係者、留学生も数多く含む。決して、単なる「中国が好きな人の集まり」ではない。中国国内からの参加者は、全体のうち約二〇%の割合で推移しており、国籍は圧倒的に日本人が多い。
 国境の概念を実質的には取り払うインターネットにふさわしく、見かけ上はどこから参加しているのか分からない活発なメール交換がなされている。
 中国におけるインターネット接続環境の構築は、これまでは筋道だって提供されている情報が極めて少なく、かなり困難であった。中国ではインターネットが厳しい規制を受けておりいずれ使えなくなる、などというまことしやかなデマゴーグが常識として日本で吹聴されていたこと、またしばらく前まではプロバイダー(インターネット接続業者)の情報も現地ですらかなり乏しかったのも一因である。
 しかし、中国のインターネットは実際には極めて先進的に将来的方向性を模索しつつ国家の支援を受けて推進する通信事業分野であった。中国での多くの日本人や日系企業の中国人社員たちによる断片的な調査や情報収集、自社のための環境構築のノウハウ等も各所で蓄積されつつあったのである。中国でインターネットを使おうとする日本人は既に日本国内でも使用している場合が大部分であり、日本語によるインターネット情報の中から当協議会を見つけてメーリングリスト(後述)に参加し、情報の共有メリットを得ているケースが多い。
 cn-infoはあくまでも個人が主催する非営利非商用組織であり、商用広告の掲載やビジネスチャンスの提供などは一切行っていない。しかし、日本では他の方法ではまず入手できないと思われる中国のインターネット事情については、最新の状況を把握するのに助けとなる多くの話題に接することができる。
 メーリングリストとは、電子メールの利用法の一つで、一種の同報通信である。参加している人がすべて同報通信の受信者であり発信者にもなれる、つまりメンバーのだれでも投稿した電子メールが全員に配送される仕組みである。cn-infoの参加者は全員様々なテーマのメールを受け取り、同時に発言することができる。その様子は全員の目に触れるようになっているので、まるで大きな井戸端会議のようなものだ。
 もちろん、「今そこにある中国」。飛び交っているのは決してインターネット情報だけではない。法制度や税制・貿易などの企業実務に直結した問題について話題になることも度々ある。政治や経済に関する話題、ときにはマスコミの取り上げない(取り上げられない)テーマもある。各人の意見は様々な形で推移するし、出された質問には経験や知識を持つ他のメンバーが「回答」する形を取るが、このすべてが無料で提供され入手できるのが、こうしたインターネット上の仕組みの大きなメリットである。
 インターネット上での中国情報収集というと、ホームページによる情報提供が連想されやすい。実際に、かなりの数の有益なホームページが開設されており、筆者も活用している。しかし、あくまでも提供者の一方的な意志による情報には自ずから限度があろう。まして、実に有用な多くのページが個人の片手間で作られている現状を見ればなおさらである。
 周知のように、情報は鮮度が命である。その点では、メーリングリストのように様々な角度から中国と関わる人が一つの井戸端会議に集うところの意義は大きい。たとえばすぐに答えを知りたい重要な問題について、ほぼ即答といえる答えを受け取って、ビジネスにおいて活用されているケースも数多くある。人数の増加に伴って改めて話題になることでさらに最新の情報が得られる場合もあり、情報の周期性が保たれているとも言える。  特別に宣伝してきたわけでもないのに、ホームページや口コミを通して一年を経ずして今の規模になったcn-infoは、大きく変化し続ける中国に関する情報収集の手段としてのメーリングリストの意義が低くない一つの表れと言えるだろう。
 インターネットには幾つかの特性がある。何よりも大きいのは、国境の概念をほとんど持たないこと。日本や中国に居ながらにして時差を持たずに同じ情報を一元的に共有するcn-infoは、インターネットという環境なくしては存在し得なかった。
 別の特性は非営利性だ。インターネットの持つ本来の性質は営利追求を目的としないものであった。発展と共にいろいろ姿形を変えてはいるものの、本質的な部分は大きく変わらない。もちろん有償の情報提供サービスも増えるだろうが、運営には相当な努力が要求されると思われる。中国情報に関しても、この二点における分離と棲み分けが今後進むのではないか。cn-infoは恒久的に非営利非商用を保つ方針でいる。
 さらに、匿名性というのも顕著な特質だ。自分がだれなのか、完全に秘匿することが実に容易にできるのである。cn-infoのように不特定多数が参加できる場の場合、「だれが見ているのか分からない」という心理はマイナスに働くことがある。有用な情報交換を目指す場合、この匿名性を排除することは実際問題として肝要であろう。
 このように方向の見極めや運営のスタイルを保つ上でインターネット特有の問題や判断点が今後も発生するのは避けられないが、筆者自身もまだ一年を経ずして(執筆時点)ここまで大きくなった組織をどう管理していくか模索しており、さらに有用な情報交換の場となるよう試行錯誤しつつ目指している。それがある程度の完成を見る時期には、あらゆる層にとってインターネットが中国情報の入手経路として不可欠になっているかも知れない。

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米国におけるインターネット事情
大橋英夫(専修大学助教授)


(1)中国語環境の限界と英語環境の優位性
 米国のチャイナ・ウォッチャーが、中国語の日刊紙や週刊誌を継続的にフォローしているケースは極めて稀である。そのかわりにFBIS(Foreign Broadcast Information Service)の“Daily Report(China)”に目を通すことが彼らの日課である。しかし正直なところ、FBISのような分類済みの資料によって、「竹のカーテン」内部の微妙な変化を丹念にフォローすることは極めて困難であろう。その意味でも、香港、台湾、あるいは日本におけるチャイナ・ウォッチングは、国際的にみても極めて重要な作業であると思う。しかしながら特定のテーマに絞ったサーベイとなると話は別である。ここで長年にわたって電子化されてきた情報の蓄積は抜群の威力を発揮する。このようなサーベイでも出発点はFBISであり、CD−ROMになっているFBISのインデックスをまず検索し、これに基づき現物に当たるケースが多いようである。日本人のチャイナ・ウォッチャーの立場からすると、是非とも『人民日報』のみならず、CD−ROMの対象資料をさらに増やし、かつその作業をより迅速化してもらいたいものである。
 中国、香港、台湾の中国語情報を常時フォローしているのは、やはり米国在住の中国人チャイナ・ウォッチャーであり、中国語圏出身の留学生である。ニューヨークやロサンゼルスなどの大規模なチャイナタウンを有する一部大都市を除くと、一般に米国では中国語情報の入手は極めて困難である。また個人でこれを収集するとなると多大なコストと時間を要する。そのためさまざまな限界があることを承知のうえで、やはり米国内で発行されている各種華字紙に依存せざるをえない。そんな彼らにとって、コストのかからない中国語情報、しかも生の中国情報が得られるウェブ・サイトは極めて貴重な情報源である。ただし通常の英語版ウィンドウズ環境では、中国語のフォントがカバーされていないため、中国語環境ソフト「ツイン・ブリッジ」などを併用するか、中国語版ウィンドウズをインストールして利用せざるをえない。また東アジア研究を専攻している学生、つまり中国・日本・韓国のすべてを研究対象にしている意欲ある学生、あるいは研究対象を絞り切っていない学生の間で流行っているのは、日中韓の三カ国語をすべてカバーするマルチ環境ソフトであり、フリーウェアやシェアウェアの形で流通しているものが結構ある。基礎技術の応用に長けた日中韓の「技術開発力」は、ここでも遺憾なく発揮されているのである。もっとも慣れの問題であろうが、筆者の場合、中国語をモニター上で読むのはやや苦手であり、結局、ハードコピーをとって読むことが多い。
 一方、英語環境ではインターネットの威力は最大限に発揮される。つまり米国が関与する中国情報、例えば、米国の対中政策などに関心をもつと、ホワイトハウス、議会、各省庁のウェブ・サイトへのアクセスが日常化する。とくに通商関係では、商務省、通商代表部(USTR)、国際貿易委員会(USITC)などのホームページは情報満載である。通常、これらのホームページには「他の貿易関連サイト」の項目がたっているので、どれかひとつにまずアクセスして、ついでに他のサイトを一巡することになる。商務長官や通商代表の各種スピーチや議会証言はいうまでもなく、米中通商交渉の節目節目に発表されるプレス・リリース、特定問題をまとめたUSTRの「ファクト・シート」、各種報告書や統計、ITCの中国製品のダンピング調査結果などは利用価値が高い。これらデータは電子化が遅れたものでも一九九四年以後はほぼ入手可能であり、筆者の場合、内容に目を通すこともなく、とにかくダウンロードして、後日ゆっくりと情報を取捨選択することにしている。このほかチャイナ・ウォッチングとの関係で有用な国際機関のウェブ・サイトとしては、やはり世界銀行、IMF、WTOなどがあげられる(これら政府機関や国際機関の場合、ヤフーなどで検索すれば、高確率で簡単にウェブ・サイトにたどり着くことができるので、ここではイエローページ的な情報は省略する)。

(2)チャイナウオッチングへのインパクト
 米国の研究者にとってインターネットはいまや必需品である。現物資料にあたらざるをえない調査でも、大学図書館・研究所の検索システムから収集資料の所在を事前に調べておけば時間の無駄はない。また大型書店が少なく、注文販売中心の米国であっても、アマゾン・ブックスやバーンズ&ノーブルのネット販売を利用し、DHL扱いの配達にすれば、2〜3日で書籍は入手できる。またこれらネット書店の検索システムと議会図書館の検索システム・MARVEL(ただしGopher)を用いれば、必要な文献リストは簡単に作成できる。極言すれば、個人であろうが図書館であろうが、レファレンス類の充実にだけ努めれば、個別情報はネット上から入手できるか、その所在を知ることができるのである。このほかEメールの有用性については、もはや詳述するまでもないが、ボイス・メール中心の米国社会では、アポイントメントを入れる場合にやはりEメールは不可欠である。  研究調査活動の観点からいえば、インターネットは情報入手に伴う「取引費用」を最小化することができる。その意味で、本来「職人芸」的色彩の強いチャイナ・ウォッチングにも、インターネットは多大なインパクトを及ぼす可能性がある。しかし「文明の利器」はしばしば「両刃の剣」となりかねない。
 第一に、インターネットは過剰情報をもたらす傾向がある。情報入手の「取引費用」が最小化したことに伴う情報の無制限供給の状態に対して、個人の情報処理能力には明らかに限界がある。換言すれば、どこまでが必要な情報であるかを見極める能力が、今後はチャイナ・ウォッチャーとしての力量を示す最も重要な能力としてみなされるのではなかろうか。
 第二に、インターネットは情報の過剰加工を容易にする。入手情報の加工が容易な分だけ、今後はどの程度まで情報を加工すべきかを熟考する必要があろう。
 結局、インターネットがチャイナ・ウォッチングに及ぼす最大のインパクトは、それがネットワークであるという点に尽きるのではないだろうか。つまり個々人で処理しえない膨大な情報を「共有」し、複雑な情報加工作業をネットワーク化する原動力にインターネットはなりうるのである。
 米国のチャイナ・ウォッチャーがインターネットをどのように利用しているかといえば、極めて当然のことながら、インターネットがボーダーレスな存在である以上、他の国・地域のチャイナ・ウォッチャーの利用と大差はない。ただ一般論としていえば、インターネットはまさに現代米国文化の象徴であり、米国がデファクト・スタンダードを握り、“情報スーパーハイウェー”の構築に邁進している限り、米国のインターネット利用者はこれを最も快適に利用することができる。コンピュータ・リテラシーの圧倒的な高さを背景として、米国ではコンピュータはどこででも利用できるほど普及し、それに伴いハードウェアやソフトウェアの価格も極めて合理的である。しかも地域内定額制を基本とする電話料金体系のもとで、通信コストは限りなく低く、たとえ二四時間アクセスしていたとしても、それによる機会費用は生じても、ユーザー自身が負担する直接コストは限りなくゼロに近い。
 最後に筆者のお気に入りのウェブ・サイトを紹介しておこう。オーストラリア国立大学(ANU)の「アジア研究」のウェブ・サイトは、アジア関連のウェブ・サイトのゲートウェイであり、東アジアのみならず、アジア全域をカバーしており、包括性からいっても群を抜いている。中国、香港、台湾など、特定の国・地域を対象にするのであれば、ANUのゲートウェイから入っていけば全く無駄がない。各国・地域の主要なウェブ・サイトはほぼ網羅されており、政府機関、大学、研究機関から主要書店にいたるまで、さまざまなアクセスが可能である。まさに自らを「アジアの国」と位置づけるオーストラリアの意気込みを垣間見ることができるウェブ・サイトである。

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中国的なるものを考える14
誘拐と人質(中)
福本勝清 (明治大学助教授)


 外国人を人質にとった上での交渉として有名なのは、まず臨城事件である。一九二三年五月六日未明、津浦線を天津から浦口(南京対岸)へ向け走っていた急行列車が山東省の臨城と沙溝の間で約千名の土匪に襲われ、アメリカ人一人が殺害されたほか、外国人二十六人、中国人二百余名が拉致され、人質となった。襲われた列車、ブルー・エクスプレスは、車両が鉄鋼ばりの豪華旅客列車で、中国語では「藍鋼皮」(Langangpi)と呼ばれていた。列車にいったい何人乗っていたのか、二百人なのか三百人なのか実際には不明だが、外国人の数だけははっきりしていた。人質の中に、China Weekly Review(密勒氏評論報)の記者Powellがいたり、ロックフェラー家にゆかりのものがいたりで、臨城事件は、当時世界を揺るがす大事件となった。
 事件を起こしたのは、魯南の抱犢・を根城とする土匪で、その首領孫美瑶は当時まだ二十五歳、白面の美青年だったといわれている。彼は富裕の家に生まれ、その長兄孫美珠は清末の秀才であったが、民国に入り、幾度となく官兵にむしり取られ、土匪に脅かされ、家運が傾きつつあることに怒り、ついに家産を五人の兄弟で分けると、末弟美瑶を連れ土匪に身を投じたとされている。だが、美珠は、もと毛思忠部の軍官であったとされている。毛思忠はおそらく一九一〇年代、山東最大の土匪であり、官兵も掃討しきれず、剿匪督弁となった張敬堯が招撫している。そこで一度は官途にありつこうとした孫美珠は、世の動きみたいなものを彼なりに掴んで戻ってきたのではないかと思われる。
 一九一〇年末から二〇年代初め、魯南から、皖北にかけ、解散の憂き目にあった張勲の定武軍、張敬堯軍などの兵士たちが大挙して土匪に流れ込んでおり、いたるところ匪で溢れる状況を呈していた。解散させられた各軍は、もともと、蘇(江蘇)、魯(山東)、豫(河南)、皖(安徽)の四省交界地区の土匪を吸収したものが多く、土匪にしてみればまた旧業にもどるだけのことであった。
 孫美珠は・県付近の土匪を糾合し、建国自治軍を名のり抱犢・を根城に活動していたが、次第に剿匪軍に圧され、二二年七月に戦死する。その後を嗣いで美瑶が首領となり、兄の復讐を誓い、大勢逆転をかけて仕掛けたのが、この列車襲撃であった。  孫美瑶らは人質を抱犢・に連行し、包囲する剿匪軍と対峙した。抱犢・は泰山山地の最も南側にあるが、茶杯(Chabe)を伏せたような形をしている。茶碗や湯飲みの類を想像していただければいいのだが、茶杯(chabei)を伏せると、山の頂上は比較的平らで、周囲が絶壁になる。山の上には田地があり、耕すことができた。しかし抱犢・はただ北側に細い道があるだけで、とても牛を牽いては登れなかった。懐に子牛を抱いて登るしかなく、それが名前の由来になったといわれている。それゆえ、孫美瑶らは山上に留まるかぎり、官兵の襲撃を恐れる必要はなかった。
 洋票(yangpia)すなわち外国人の人質はアメリカ、メキシコ、フランス、イタリアの四カ国の市民であった。欧米列強は、中国政府に人質の安全を第一に考え、早急に人質の釈放を勝ち取るよう猛然と圧力をかけた。
 それは孫美瑶らの思うつぼであった。彼らは政府の代表といろいろ駆け引きを繰り返したが、正規軍への改編こそ彼らの「悲願」であった。武力を失うことなく、もう掃討されない身分になること、それが彼らの最大の要求であった。交渉は一カ月ほどかかった。地元の名士、上海の総商会らが仲介に入り、上海青幇の杜月笙までもが顔を出した。
 洋票は、最後まで撕票(sipiao)される、つまり殺される恐怖がつきまっていたであろうが、おそらくこの時代の中国の人質、肉票(roupiao)のなかでは、もっともよい待遇を受けたといってよいだろう。地元の商会、上海の総商会ともに、さまざまに差し入れしたので、着るもの、日用品、食べ物などに困ることはなかった。さらに土匪のほうでも大事な客をけっして粗末には扱わなかった。同時に拉致された中国人の人質、華票(huapiao)のほうが、当時の肉票とまったく同じひどい扱いを受けていたのとは対照的であった。六月十二日、政府と土匪の間に合意が成立し、最後の洋票が解放されたが、華票のほうはまだ十余人が身代金が届かないために釈放されずに残っていた。
 絶対のピンチにたった中国政府は、土匪と妥協をはかる以外に選択の余地はなかった。やむをえず招撫することにし、孫美瑶匪を新編旅団に改編することに同意した。孫美瑶等が外国人を人質にとり、正規軍への改編を要求しているという噂が蘇魯皖一帯に伝わると、何とか分け前にありつこうと、多くの土匪が抱犢・を目指し殺到していたというから、長引けば事態はさらに混乱したかもしれない。
 七月初旬、孫美瑶が正式に山東新編旅団旅団長に就任した。全軍は、三千であった。正規軍への改編は、華票に幸運をもたらした。抱犢・には、その時まだ、事件以前から拉致された人質をあわせ、三十四人が捕らわれていたが、世論におされついに釈放されることになった。
 この事件は外交的にも、事件中も事件後も様々な問題を引き起こした。賠償問題、責任者の処罰、今後の鉄道の安全対策などなど、列強にねじ込まれた北京政府は、何とか善処するふりをしてみせるほかなかった。山東督軍田中玉の更迭もその一つであった。田中玉は、事件勃発後、孫美瑶匪に対する掃討を主張し、招撫には反対であった。煮え湯を飲まされたかっこうの田中玉は、●州鎮守使陳培栄とはかり、孫美瑶の始末を託す。同年十二月十九日、陳培栄は孫美瑶を罠にかけ誅殺、その旅団を武装解除、解散させた。
外国人を人質にし、それを元手に政府と駆け引きをしたのは、孫美瑶らが初めてではなかった。外国人を拉致するのは、大罪であり、清末の各教案(キリスト教排斥事件)や義和団事件など見てもわかるように、中国に大きな重荷を負わせるものであった。義和団賠償金は、政府ばかりでなく、人民にとっても重い負担となってはね返った。それゆえ、外国人に手を伸ばすほど大胆な匪賊は、しばらく出なかった。ところが、一九一三年八月、白朗が鄂北で十三人の宣教師を拉致し、ほどなく釈放したが、その先鞭をつけた形となった。
 1914年白朗が鎮圧された後、再び豫西より崛起したのが老洋人(張慶)であった。22年11月、老洋人(laoyangren)は万余の大軍を率い皖西に入ると、阜陽県城を攻略、放火、略奪、虐殺と、徹底して荒し回り、さらに数千人ともいわれる大量の肉票を拉致した。そのなかにカトリック神父とイタリア人一名が含まれていた。その後、河南東部に戻り息県城、正陽県城をたて続けに攻略、牧師二人のほか、アメリカ人及びイギリス人を三人拉致した。
 老洋人軍は最前列に外国人の人質を押し立て、剿匪軍の志気をおおいにくじいた。呉佩孚、曹金・らの北京政府は・雲鶚を剿匪軍総司令とし、精鋭を繰り出し匪軍を包囲した。が、したたかな老洋人らは部隊を分け、包囲をかいくぐり、古巣である豫西に舞い戻り、河南自治軍を称し、活動を続けていた。剿匪軍は飛行機まで繰り出し、老洋人を執拗に追撃し、匪軍を三千にまで減らすほど追いつめたが、何といっても外国人の人質をとられているので、それ以上うかつに手は出せなかった。
 結局、政府はやむなく老洋人を招撫、二つの遊撃支隊に改編し、ようやく七人の洋票を取り戻した。剿匪軍司令官・雲鶚は、宴席を設け、遊撃支隊の営長(大隊長)以上の軍官を招き、席上、忠心報国を表す意味で、それぞれ名前に国の字を加えるよう求め、老洋人こと張慶は、張国信と名を改めることになった。だが老洋人らは、官兵になったとはいっても、別に軍餉の支給があるわけでもないので、官府や郷紳地主らに強要して銭糧をかき集めるしかなく、手下たちも夜になると四方に出回っては匪業を続けていた。音を上げた地方官民からの懇請により、呉佩孚も老洋人に豫東への転出を命じた。豫西よりも豊かな豫東で、何とか民の上前をはねながら食っていけということであった。
 だが、同じことの繰り返しであり、豫東の官民こぞって呉佩孚に善処を求める事態となった。そんなおり、老洋人のもとに、官軍に蹴散らされた皖北の土匪蕭春子が逃げ込んできた。老洋人は、蕭春子一党を歓待する振りをして三十数人全員を射殺。豫辺遊撃司令として、その任務をはたしていると言いたかったのかもしれない。おかげで土匪世界における老洋人の評判はがた落ちとなり、魯南の巨匪で、蕭春子と盟友関係にあった范明新は、老洋人への復讐を誓う。
 一九二三年十月、呉佩孚は老洋人に四川進駐を命令する。四川で老洋人の力を消耗させてしまおうというのである。長く豫東に留めておくと、奉天、安徽ら他の軍閥と結び、いつ牙を剥くかもしれず、老洋人をそのままにはしておけなかった。だが、老洋人は命令を拒否、再び土匪となり、剿匪軍四万の包囲の中、豫西に戻り、さらに豫南から湖北に入り、陝西を経て再び豫西に帰った。その間わずか二カ月、土匪たちは疲れ切っていた。一九二四年一月、老洋人は部下に撃たれ死亡する。あっけない最後であった。
 孫美瑶も老洋人も、正規軍に編入されたとしても、結局討伐され、匪として最後を迎えることになった。だが、そのことは、その後彼らを真似、官軍への編入をあてに外国人を拉致しようとしていた土匪にまったく影響を与えなかった。それよりも、当時の土匪にとって、匪から官への道が開けているのを目の当たりにしたことの方が、ずっと重要だった。「俺様は何十年も匪を続け、子分もずっと多いというのに、あの若僧(孫美瑶)が洋票をたてに少しこわもてに出ただけで、旅団長の職を射止めるとは」と、ちょっとした規模の土匪の頭目ならばみなそう思って悔しがったに違いなかった。
 事実、孫美瑶らと当局の交渉が成立した直後の六月十五日、湖北応城でイタリア籍の神父メロットが雷老麼らの土匪団に襲われ、人質になった。土匪は高額の身代金、大量の銃器、そして招撫を要求した。だが、神父は自分の釈放よりも、土匪の掃討を望んでいたといわれる。剿匪軍は土匪を桐柏山中に追いつめ、九月六日、決死隊をもって土匪の本陣を急襲、五百余名の肉票を救出する。だが、神父は土匪の頭目に打たれ、その傷がもとで死亡する。
 事件の首魁雷老麼は、七月中旬に剿匪軍の追撃の際、銃弾を浴び死亡したと伝えられていた。ところが、部下に救われ、潜伏し、傷の癒えるのを待っていた。二四年一月、部下と二人、変装し、お宝を隠し持ち、漢口までやってきたところ、春節前の警戒網に引っかかった。漢口駅の改札口で応山県の偵探に見破られ、銃を構えるいとまもなく、十数人の軍警に取り押さえられた。数日後、二人とも凌遅刑に処せられている。凌遅とは、まず手を切り、次ぎに足を切りというふうに、少しずつ切り落としていく極刑である。
 そのような(土匪にしてみれば)失敗も、洋票の値を下げさせることにはならなかった。うまくいけば、多額の身代金、出世の道につながる洋票の魅力は、まだ絶大であった。長野朗『支那兵、土匪、紅槍会』によれば、一九三〇年四月から十月までの間に、湖南、湖北、江西で捕らえられた宣教師の数は二十二名に達したと述べている。

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逆耳順耳
矢吹晋


黒五類
 ある日、二日酔いの朝「毛沢林」という文字が目に入った。「ん?」。手にとって見直すと「薬用育毛剤」の商品名であった。天然生薬「桑白皮」が原料の由。というわけで、この折り込み広告を捨てた次第だが、条件反射的にミスプリかと錯覚するのは、おそらく職業病の一種であろう。
 ある日、畏友星野元男記者(時事通信の台北支局長、香港支局長、北京支局長を歴任したベテラン・ジャーナリスト)が福岡からのお土産ということで「黒五類」を差し出した。元祖黒五類だとニヤニヤしている。
 黒五類とは、黒豆、黒米、黒胡麻、黒松子、黒加侖、その他(枸杞の実、甘草、山芋、赤棗)を粉末にした飲物で、「完全自然食品、一袋二百グラム、一二〇〇円也」「自然が教える大地のエネルギー」である。
 星野氏が得意なのは、日本の中国研究者たちは文化大革命期の「黒五類」については詳しいだろうが、元祖「黒五類」について、知らないだろうという揶揄なのだ。その通りである。黒のつくキーワードはいくつも脳裏に浮かぶ。
◇「黒手=文化大革命において一部の単位に紛れ込み、内部から挑発し、密かに悪事を行う者を指す」
◇「黒指令=カーテンの後ろの総指揮者。文化大革命において劉少奇へのあてこすりとして用いた」
◇「黒司令部=反動的司令部。文化大革命においてブルジョア階級の司令部を指したが、実際には存在しなかった」
◇「黒線=反党、反社会主義の理論、観点、思想路線を指す。知識人や幹部の思想観点に対して四人組がおとしめた言い方」
◇「黒線専政=六六年二月、部隊文芸工作座談会紀要で初めて登場した」
などである。
 「黒」のつく言葉はいろいろあるが、極め付きは「黒五類」である。それは「地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子」を指す。この五つを私は「di fu fan huai you」とすぐ口をついて出るほど、脳裏にプリントインされている。しかし、「黒五類」と称する食べ物があったので、それを人間に当てはめたという事情についてはまるで疎かった。
 実は、外国研究というのは、新聞や書物など文字情報に頼りがちであり、文字に書かれることの少ない事物についての知識はおろそかになる。普通の中国人の普通の生活において用いられていることばに暗い、そうした研究者の欠点をジャーナリストが揶揄しているのである。その実事求是精神に脱帽!

身長が二センチ縮んだ話
▼一九九七年七月一日(火)夕刻台北着。
 私は七〇年代初めに香港大学に遊学し、七九年から八〇年にかけて香港総領事館で「特別研究員」という資格の居候生活を体験した。二年半の香港体験をもち、その後も香港の新聞や雑誌を定期講読しているので、返還後の香港の行く末についてはなにも懸念材料はなし、と楽観している。日本のマスコミを覆う香港返還騒動劇のバカバカしさには苦虫を噛むばかりである。
 というわけで、「歴史研究者派遣事業」(交流協会)なるプログラムに応募し、香港返還を台北で観察することにした。
 夜、『読売新聞』論点担当のM氏から国際電話あり、翌二日掲載の「中国経済の香港化注視」についての確認を求められる(イギリスの民間放送4チャネルをBBC放送の一部と私が誤記したことの訂正である)。
▼七月一七日(木)夜、藍博洲氏と会う。
 同氏は『幌馬車の歌』の著者であり、TVBSすなわち無線衛星電視台の一室を供与され、契約ディレクターとして「台湾思想から」と題したドキュメントを制作している。助手一人とカメラマン一人をしたがえ、三人の取材チームはおそらくテレビ・クルーとしては世界最小であろう。しかし、この超ミニチームが台湾現代史の白色テロを発掘しているわけだ。藍博洲氏の話はきわめて挑戦的というよりもむしろ挑発的でさえあった。
 「客家のなかに日本統治や国民党の白色テロへの抵抗者が多かったことは、確かである。これは客家人には、民族主義意識が強かったからであろう」。
 話が大陸経済になると私の領分である。彼らは大陸の「社会主義市場経済」にまだ幻想を懐いているようなので、持論をぶつ。□(登+都−者)小平のいう「中国的特色をもつ社会主義」とはおそらく「中国的特色をもつ資本主義」の別名なのだ。□小平路線の核心は「資本主義の不言実行、社会主義の有言不実行」なのだ、と。
▼七月一八日(金)終日、興奮しつつ、『幌馬車の歌』(訳本)を読む。
 侯孝賢の『非情城市』は二・二八事件を初めて映像化したことで日本でも大きな話題になった。私も見たが、正直言って、いま一つピンとこなかった。私は昨日会ったばかりのひげづらの若者のノンフィクション『幌馬車の歌』こそが、いわば『非情城市』の原作にあたるものであり、この原作を侯孝賢がいかに味付けしたかを解説してくれた藍博洲のことばを通じて初めて、『非情城市』の寓意、そして細部の意味を理解したのである。
 私は平均的な日本人よりははるかに台湾の事情を知っているつもりだが、藍博洲の問題提起、そしてそれを映像化した侯孝賢の感性について、ほとんど無知であったことを痛感した。日本での『非情城市』ブームが誤解に満ちたものであることに気づき、それを指摘したのは、横地剛氏のグループである。
 日本で自費出版されたらしい藍博洲『幌馬車の歌』(横地ほか訳、福岡・藍天文芸出版社、一九九七年三月刊、定価記載なし、一三八頁)を台湾で原著者からもらうという経緯も奇妙な巡り合わせだが、私は台湾の人びとにとって二・二八事件がまだ生傷に近いことを感じた。いや、「痛定思痛」であるかもしれない。痛み定まってのち、痛みを思う。要するに心身両面での後遺症である。
 夕刻、『幌馬車の歌』(原著、時報文化出版、八刷、九七年刊)を求めて、さらに空腹を満たすために、坂道を下り、下町へ下りる途中で事故に遭った。
 路上での事故だから「交通事故」の一種かもしれないが、相手はクルマではなく、四匹の野犬である。私は半ズボンにポロシャツ一枚であった。
 歩きはじめるとまもなく、左後足をひきずる、おそらくは交通事故の、子犬にまとわりつかれた。人なつこい犬で五分程度私にまとわりついた。まもなく親子連れらしい四匹の野犬が私に近づく。初めは少し吠えたが、その後は黙って限りなく私に近づく。雨傘かステッキが欲しいところだ。台湾の野犬が狂犬病の注射を受けていないことはいうまでもない。私は意を決して、母親と思われる犬を足で追い払った。
 「ん?」
 私はコンクリートの坂道に背中をしたたかにうちつけ倒れた。
 左脚が空を舞ったとき右脚がよろけたのである。六三キロの体重がいきなり、ドサと倒れたわけだ。野犬にとっても「ん?」であったらしい。
 対向車が急ブレーキを踏んだ音に意識を回復し、路肩にいざりよった。しばらく休んで、コミュニティバスで宿舎に戻った。私は入院するほどの病気は患ったことがない。痛みはひどくなるが、せいぜいギックリ腰程度と自己診断し、飲まず食わずで臥すこと二昼夜。
▼七月二〇日、朝から失神するほどの激痛に襲われ身動きできなくなり、救急車で入院する。
▼七月二六日昼前、ようやく痛みが納まったので、一週間ぶりに退院した。
 動くたびにズキズキ痛むが我慢できないほどではない。後から判明したが、これは鎮痛剤のためであった。鎮痛剤が切れると、かなりの痛みを感じ、時には悪寒に襲われた。
 さて、帰国予定は三一日であるから残りの四日をどう過ごすか。清水の舞台から飛び下りる決意を固めた。実は事故当日の朝、金門島めぐり二泊三日のツァーを払い込み「キャンセルは不可、航空券は一年間有効」と知らされていた。一年以内に再訪問することも難しくはないが、金門島のトーチカ巡りであるから、死線をさまよう亡霊の悲しみと比べると、私のケガなど軽いものに違いない(と自己診断)。鎮痛剤が切れたときに起こる激痛と悪寒に悩まされながら、観光旅行。
▼七月二九日午後、台北にもどる。
▼七月三〇日、交流協会や台湾大学で帰国の挨拶をし、同時に、空港での荷物運びを依頼する。
▼七月三一日、留学生のY・Q嬢と空港職員に助けられて帰国。
▼八月一日、某病院で診察を受けたところ、若い医師の診断は「背骨が折れていますよ。転んだ程度でこんなに折れますかねえ。七〇歳程度のホネなのかなあ。まあこの膏薬を貼って下さい。痛みがひどいようでしたら、コルセットが必要ですね」。
 まるで患者の判断にゆだねるという超民主主義者らしい。さてどうするか。
 勤務先の付属病院に行くべきか。それとも、と思いあぐねているうちに、橋本訪中に随行する予定のある政治記者が日中関係についてのコメントを求めてきた。動けない状況を説明すると、ただちにみずからの主治医を紹介してくれた。彼自身、腰椎のヘルニアで三週間入院した由。
▼八月七日、国手西法正先生(国立病院東京災害医療センター名誉院長)の診断は、第一二胸椎の圧迫骨折。月末に「北京で日中正常化二五周年のシンポジウムがあり、出席を約束しているのですが」と説明すると、先生言下に「あなたも気の強い男だ。行けると思いますか」。
 ここで初めて全治三〜四カ月程度の重傷であることを知らされた。幸い夏休みなので思い切り休む。
▼九月一八日、事故後二カ月目のレントゲン診断は、だいぶ骨が固まったようだ。しかし「少なくともあと二カ月はコルセットを着用しなさい」。ようやく寝返りが打てる程度に痛みがとれ、しかも涼しくなったので、ほっとする。
 二カ月の疑似身障者生活を経て、弱者の痛みを垣間見る。
▼九月二四日、久しぶりに出勤し、保健室で身長を計ったら、以前よりも二センチ縮んでいた。原寸大のレントゲンを基に私が予想した通りであった。

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