蒼蒼ロゴ

第75号


杭州日記(下) 竹内 実(杭州大学客員教授)
連載中国的なるものを考える13 誘拐と人質(上) 福本勝清(明治大学助教授)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋




杭州日記(下)
竹内 実 (杭州大学客員教授)


二月八日(農暦一月初二日) 土曜日
 帰国まで、あと二カ月。松阪大学と滋賀県立大学の講義が気になった。『中国 次の超大国』をパラパラとめくった。いったい、どのような「超大国」になろうというのか。日本語版の序文で、著者ウイリアム・H・オーバーホルトはのべている。「本書で私は、中国が日本と同じように、地政学的な野心を捨て、経済開発を優先させることの利点を見いだしたのだ」。
 「だが同時に、華僑を含めて中国人の間には、中国は再び大国となったのであり、大国としての最も重要な証は、二度と再び日本の「軍門」に下らないことだという気持ちがあることも確かだ。中国は日本の経済的優越性に屈辱感を抱いており、もはや劣等感を抱かなくてもよい日がすぐに訪れることに、胸の高まりを覚えているのだ」(訳=浅野輔。サイマル出版会)。
 右の第一の段落の「地政学的な野心」という表現は、大切なキーワードである。これを中国は「捨てる」というのだから、わざわざ指摘する必要はないようなものであるが、国際関係を展望するさい、「地政学的な」観点は、ことがらを理解するのに役立つ。「地政学的」にみた場合、中国の国際的な地位がどのようなものになるか、講義の第一時間目に話す必要があろう。それは(一)世界を地理的にいくつかに区分する見方であり、(二)世界の動向には歴史的な力がはたらくという前提にたち、その方向をみきわめる見方である。(一)についていえば、アジア・太平洋という一つの区域が立てられようし、(二)についていえば、ひたすら西をめざしたアメリカが、いまや中国大陸にたどりつこうとしている、ということである。(一)と(二)それぞれについて、さらにくわしくのべなければ、講義の九〇分という時間はもたない。内容となるデータを探さなければならない。
 「地政学」は、ナチス・ドイツの原理的な哲学であったから、敗戦とともに、その軍国主義的な性格がつよく批判された。わたしにしても、ふたたび「大東亜共栄圏」を実現しようというつもりは毛頭ないが、これが軍国主義的だというなら、どのような点が軍国主義なのか、かつてのドイツや日本が、なぜこれを信奉したのか、ここ二、三年、あえて「地政学」について教室で言及してきた。
 アジアは、ひとくちにアジアといっても、内容を吟味すると複雑で、それぞれ利害が対立する側面もある。漢字文化圏にまとめることができるにしても、中国の周辺では漢字にたいする親近感とともに反発もつよい。それぞれ独自の文字を考案して、愛用している。ところが、中国文化の側は、そのような反発にたいして無関心であるようにみうけられる。この点は(一)について理解するカギになるだろう。
 (二)については、ひとくちで説明できない。というのは、「陰謀史観」というもので説明するとわかりやすい利点があり、ときにはわたしも、この史観を(この史観だけにたよるわけではないが)援用することがあるからだ。しかし、「ひたすら西をめざすアメリカ」というのは、指摘しておくべき歴史の方向だろう。
 歴史に方向があるという前提は、動物の進化が目的をもっているという進化論の「常識」と同じように、ほんらい疑わしい。しかしこれも、こういうみかたがあるのですよ、という制限つきで述べるなら、ものごとはわかりやすくなる。「世界の警察」をかってでるアメリカを「おせっかい」とみるか、「ヒューマニズム」とみるか。中国の一人っ子政策に、最初に人権の立場から批判したのはアメリカだったが、膨張をつづける人口については、なんらの指摘もなかった。
 ルーズ・リーフの用紙にメモとも講義の下書きともつかぬものを四、五枚書くと、くたびれ、あきてきた。これといって用があるわけではないが、タクシーを拾って町にでる。助手席に坐った。フランス人は死の座席といって、助手席を嫌う。運転手が事故を避けようとしてハンドルをきると、助手席が運転手の身代わりになるからだ。三年まえ、北京で助手席から女性が降りるのをみて、不思議に思い、ついで乗客だとわかって、それでも納得がいかなかったが、やがてタクシーに乗って、助手席のほうがゆれが少ないと気がついた。しかしわたしが坐る理由は、町の景色をはっきりみたいからである。以前に、まちがった場所で降ろされたことがある。うしろの座席に坐ったので、タクシーが走り去ってから気がついたのだった。
 杭州の運転手は安全ベルトをしない。そもそもスピードをだせない。めったなことでは、人身事故を起こさない。道を横断するひとと運転手と、お互いに間合いをはかっている。走って横断しないことだ。
 解放路百貨店で降りた。略して「解百」。二階のカバン売場をみた。カバンをみると、胸騒ぎがする。フロイトならどのように分析するだろうか。
 地階におりた。スーパー風になっていて、カゴに品物をいれ、出口で払う。日本からの輸入品もかなり並んでいる。おやつ類と急須・茶碗などの日用品が主である。ペコちゃんのカン入り菓子を買った。S君の娘さんが喜ぶかな。五歳。
 帰って食事の支度をするのが面倒になった。知味観にゆこうと歩きだしたが、方向をまちがえて、解百をぐるっとひとまわりした。
 ハサミの老舗で有名な「張小泉」の看板がみえた。
 なにがご入用。爪切り。ハサミを出された。五・一元。店を出ようとしたところ、いわゆる爪切りがあった。なんだ。まちがえたな。これも買う。一一・一元。はじめのハサミは記念にしよう。あきらめて歩き出したところ、窓口があって油であげたトリなどを売っている。●(奄+鳥)鶉(うずら)もあった。
 見当をつけた十字路で曲がり、少しゆくとずっと前方に西湖湖畔の樹がみえ、その手前に見覚えのある知味観が望まれた。一階の窓口で食券を買う。三鮮小篭包八元。鶏湯饂飩四元。
 カウンターにつみあげられた盆をとって、そのうえに食券をのせると、食券をとりあげ、こまかくちぎってくずかごに棄ててから、しょうゆ皿と割箸を盆に投げ入れるようにおく。盆としょうゆ皿はベークライト製、セルロイド製。せいろ一つがわきにおかれた。自分の分だと判断し盆にのせる。カウンターの婦人は、粉末の調味料のはいった中華そばのどんぶりにワンタンをいれ、その上にスープを注ぎいれた。
 ここにたどりつくまで、四十五分の行列に耐えたのだったが、そのあいだにも坐るべき場所の見当はつけてあった。両手でうやうやしく捧げもち、行列をあけてもらって、食べるようすもなく坐っていた女の子のまえの席にゆくと、椅子にハンドバックがおいてある。お婆さんがひとり坐っている席にゆくと、テーブルのうえに立ててあるコーラの缶を指さす。そうですか。一つのテーブルに四人坐れるはずが、それぞれ席とりがいたのだ。
 隣室にゆくと、道路を歩くひとがみえる大きな窓。行列のさきのほうに並んでいた顔が食べている。中年の女で、行列から離れてメモをだし、これも中年の男と、長い話をしていた。男の顔は深刻だっだが、話が深刻なせいなのか、深刻にみえる顔なのか、わからない。
 セイロに並んだ小さい包子(パオツ)は、なかの汁をこぼさないように、一口で食べる。少しさめていた。ワンタンは、あつあつ。帰りもタクシー。十元札をだすと、一元銀貨二枚のつり。ゆきのときはつりは一元。一元しかないの(と、たぶんいったのだと思う)。そのしぐさで、女性運転手だったとわかった。乗るとき、こちらをみた顔が、女性のようでもあり、男性のようでもあったので、乗っているあいだずーっと、きめかねていたのだった。
 ゆきもかえりも、西湖湖畔を走った。曇天なので、向こう岸もその奥の山並みも見えないが、晴れた日にみた景色がうかんでくる。西湖の景色が賞讃され、なつかしがられるのは、こうした曇天の、景色のみえないとき、想像した景色も含めてのようだ。淡装濃抹総相宜。蘇東坡が執心したのもわかるような気がする。うす化粧(淡装)というのは、曇天をいうのだろうか。晴れて、太陽の光がふりそそぐと、いちめんに湖面から水蒸気がわきあがって、やはり乳白色の気体がたちこめ、湖面もみえなくなる。
 夜、張資平「公債委員」読了。
 彼は東京大学地質学科(理学部だったろう)を一九二二年に卒業しているが、一八年に東京で郭沫若とであい、文学結社をつくる相談をし、一九年、九州で再度めぐりあい、実現した。創造社である。一九一九年のとき成●(人+方)吾もくわわった。やがて、郁達夫がくわわる。
 創造社は上海に書店と出版部を設置し、北京の文学研究会とはなばなしい論争を演じたが、実際に作品が読者をつかんでいたのは張資平だった。郭抹若も郁達夫も、それぞれ有名だったが、著訳書の売上げで貢献したのは張資平だったようである。日本のプロレタリア文学の翻訳も多い。やがて彼は創造社を離れ、小説家として執筆活動をつづけるが、しばらく前の文学史は「三角恋愛、四角恋愛を描いた堕落作家」という評価で、いまの文学史では抹殺されている。晩年はどのように生活していたかもわからない。
 敢然とS君がこれにとりくんでいるので、わたしも読んでみる気になったのである。なるほど文学史がいうとおり三角恋愛、四角恋愛にはちがいないが、おそらくこれは当時の流行語で、当時、このような批評があったのだろう。しかし、このような言葉から内容を想像するとまちがう。たとえば「公債委員」。へんぴな農村がある。そこへ公債委員がやってきて、公債を買え、いますぐ申込書に記入しろ、購入額はいくらいくら、と強制する。兵隊が一人ついてきている。当時は軍閥割拠の時代で、ある区域を占領した軍閥は、さまざまな名目をつけて税金、割当金をとりたてていた。それもほとんど名目が尽き、次に考えたのが公債で、これは元金を保証し、利子もつくというふれこみだった。さんざん脅したあげく、購入額については話をつけてあげようといいだし、ワイロをうけとってひきあげた。
 兵隊はじつは同僚が変装していたのである。ワイロを山分けして家に帰る。家といっても、情婦と暮らし、妻は山村の小学教師で幼な児と二人で留守を守っている。妻からの手紙が窮状を訴え、夫の冷淡をなじる。妻はミッション・スクールの下級生で、恋愛関係がバレて二人とも寄宿舎から追い出されたのだった。この男には、友人がいて、友人には情婦がいた。男は友人が遠方に赴くあいだ情婦の監視を依頼されるが、この情婦と関係をもち、妻も自分のもとからの情婦も棄ててこの友人の情婦と夫婦同然の暮しをするようになる。金に困り、公債委員の地位を売るが、仲介の男に瞞されて一〇元しか入らない。いまの情婦を入院させるため、べつの男と組んで公債委員になりすまし、金を稼ぐが、まもなく逮捕されて入獄する。女は病院で死ぬ。
 だいたいの筋は以上のようなものだ。はじめは芸術のための芸術、ついで革命のための芸術という格調高いスローガンを掲げた創造社のメンバーの一人とは思えない作品であるが、説明や描写はしっかりしていて、スキマを感じさせない。世間の非難を浴びた恋愛場面も、それなりにリアリティがある(上海などにはいってきたアメリカ映画からヒントを得たのかもしれない)。
 日本でいうと、大衆雑誌の『キング』、『日の出』を埋めていた小説の系列で、菊池寛、久米正雄、小島政二郎といった作家の作品に似ていて、意図的にこれを模倣している。去年の秋から、『張資平小説選』(上下、選編=李葆○(王+炎)。花城出版社)をS君から借りて読み、ある批評家がいわゆる色情小説の例としてあげている「ヨルダン河の水」が必ずしもそのようなレッテルに相当しないことを発見した。また、貧乏暮しのインテリを描いた「冰河時代」も読み、作者の自画像としてうけとり、いたく同情したのだった。「ヨルダン」は一九二七年十一月武昌で執筆。まえの「公債」は一九二四年十二月三十一日夜十二時、武昌城内の長湖西街の旅寓にて脱稿。
 張資平はすでに死去しているが、解放後どのような生活をしていたかわからないのです。浙江図書館で彼の翻訳書全部を洗い出したS君はいう。「和平建国」のスローガンをかかげた南京のカイライ政権、汪精衛(兆銘)のいわゆる南京政府に勤務した時期があった。新中国が成立してからは、つらかっただろう。元気がなくて意気沮喪していたよ。と、米沢秀夫氏から聞いたおぼえがある。一九五〇年代後半、わたしが中国研究所にいたときうかがったのだった。
 張資平とあわせて、郁達夫も読んだ。去年十二月ごろ、テレビは郁達夫の小説をもとにしたドラマのシリーズを放映していた。ドラマは小説の主人公をすべて郁達夫自身の物語としているので、恋愛にあけくれていた人間という印象をあたえかねない。S君の奥さんも、どうやら郁達夫をそのようにうけとったらしい。
 張資平にくらべると郁達夫の小説は情に流され、構成力が弱いところがある。S君と比較論議をたのしんだ。
 今夜は、「□(登+都−者)小平」第六回。
 張資平的なあたまでみたので、奇妙なチャンポン気分になった。    (完)

トップへもどる





中国的なるものを考える13
誘拐と人質(上)
福本勝清(明治大学助教授)


 実は昨秋、北京の旅から戻ってきた後、まず「乞食」や「蘇北人もしくは淮北人」について書こうと考えていた。ところが、事情でというか、□(登+都−者)小平の死の前後だったのでというか、「客家」について先に書くことになった。「誘拐と人質」というテーマは、本来のペースでいうと、この五、六回後ぐらいに書こうと思っていた。  が、しかし、四月二三日のペルー、リマでの人質救出作戦及びその直後に台北での白冰冰の娘、暁燕誘拐事件が報道され、何とか言及しておかなければと思い立ち、またまた自分で立てた予定を変更することになった。

 リマにおけるMRTAの日本大使館占拠事件そのものについては、ここでは何も述べることはない。ずるいようだが、それはペルーのその後の歴史が判断するであろう。筆者がこだわりを感じるのは、特殊部隊の人質救出作戦の際、MRTAが人質を殺さなかったことである。それゆえ、人質はほぼ全員(流れ弾に当たった一名を除いて)無事救出された。それに対し、十四名の「テロリスト」たちは全員銃殺されている。
 この数年、流氓とか土匪とか幇会などについて集中して読んできたというか、匪賊と革命の関わりについてあれこれ考えてきたというか、そのような筆者にとり、この結果は当然というべきものであった。というのも、もしMRTAのメンバーが革命家ならば、人質は殺せないはずであったからである。ゲリラやテロリストが、支配者に対する奇襲や爆弾テロのような無差別攻撃において大勢の市民を巻き添えにし、或は軍や警察の弾圧に対し行き過ぎた報復により無辜の犠牲者を出しているという悲惨な現実と、要人や外賓を人質にとり、自分たちの要求に応じないかぎり、人質を殺害するという脅しとを、あまりにも簡単にイコールで結び付け、人質が殺害される可能性を過大に見積っていた、そう思えてならない。
 交渉を人質を取る側のペースで進めるためには、交渉の資本である人質を財として扱わなければならない。一般的にいって、人質を取っての交渉において重要なことは、無慈悲であること、できるならば人質を人間としてではなく、物として扱うことである。それができない時、人質をとることは却って重荷になる。だが、理想社会の建設を掲げる革命家にとって、それを徹底することはできない。近代以後の革命理論は、支配者もまた打倒された後は、その社会の一員として存在することを認めている。それゆえ、支配者も支配機構から切り離されてしまえば、人間として扱わざるをえなくなるのだ。
 もし、ゲリラやテロリストが中世風の革命家、千年王国を夢見る聖なる使徒であったならば、敵はサタンの手先であり、抹殺以外に彼を救う道はなくなる。突入前、国家情報部がMRTAを分析し、「イスラム過激組織ヒズボラなどとはかなり性格が異なり、自分たちから人質を殺害する公算は小さいと判断した」(朝日新聞四月二八日)と報道されたが、それはわざわざ分析するまでもないことであり、とうに了解ずみのことであったと思われる。人質が殺害されなかったのは、フジモリの決断のお陰でも、特殊部隊の功績でもない、そう言いたい。革命という言葉が手垢に汚れ、誰も擁護しようとしなくなった現在、敢えて言及せざるをえないのである。

 さて、台湾における白冰冰の娘、白暁燕誘拐事件は、筆者にとってもショックであった。台湾社会の深淵といったものを垣間見せられたからである。一昨年、台湾を旅行したとき、ここはすでに大陸ではないと肌に感じたのだが、やはり、台湾は基底の部分において、まだ大陸の臍の緒を切れないでいる、そう思ったからにほかならない。当たり前といえば当たり前のことなのだが。
台湾のアパートや商店をみても、窓が鉄格子に覆われていたり、至る所で鉄の扉が閉まるようになっており、用心深くなければ生きていけない社会だとの印象を受ける。そのため、逆に火事などの場合、鉄格子が邪魔をし、逃げ遅れて焼け死ぬ人も多い。また、誘拐についても、日本などに比べればかなり多く、台北駐在の日本人にとり、子供連れで赴任することをためらわせている一因になっているという話を聞かされたことがある。それでも、大陸のような大量の子供誘拐、女子売買と比べれば、雲泥の差があり、治安は比較的良い方であると言われてきた。
が、このような事件が頻発するとすれば本当に台湾が市民社会化しているのか、疑問が湧いてくる。筆者が市民社会というものをどのように考えているのか、何を市民社会のメルクマールとしているかについて語る前に、まず筆者が言うところの大陸的な誘拐や人質のあり方について明らかにする必要がある。

 民国期の人質誘拐を語る場合、学校が襲われるケースが多いのが眼を引く。土匪団が中学校を襲い、数十人を拉致し、身代金を狙う。土匪の拉致誘拐は一種の職業、仕事であり、あっさり巨富を得る常套手段なのだ。ゆえに、明らかに貧乏そうな学生は見逃すか、はずみで殺害する。もちろん、ひどく抵抗すれば殺害される可能性が高くなる。中学校が襲われるのは、皆寄宿生であり、無防備の人間がまとまって宿泊していること、さらに子供を中学校などに通わせるのは、地主か富農の子弟であり、親にとっては大事な子供たちであり、それだけ容易に金が手に入るというわけである。
 村や町(堡や鎮)を襲った土匪は、軍警の反撃を察するや、略奪物を満載した大車や大量の人質を急(せ)き立て、丘陵や山岳地帯へと逃げ込む。その際、人質にぐずぐずされては面倒なので、思いっきり急き立てる。数珠つなぎになった人質は、ただでさえうまく走れないが、暗闇の中、慣れぬ畑地や山道をそんなに早く走れるものではない。そこで遅れがちな者や、身体が弱そうでどのみち落伍しそうな者を、一人、二人銃殺し、皆の見せしめにする。そうなれば、人質は命懸けで走り出す。
 次の日、安全地帯に逃げ込んだ頃、人質は一人ずつ呼び出され、家の財産状況を聞き糾される。金がない、家は貧乏だなどといっても信用されないし、ただひどい拷問が待っているだけである。が、もしあっさり家が裕福だなどと言おうものなら、巨額の身代金要求が降りかかってくる。人質担当の土匪の小頭目は抜け目なく、人質を脅したりすかしたりしながら、その身なりや様子から大体の家の経済状況をつかむ。また、本当に取るに足るほどのものはないとわかれば、やはりあっさりと始末される。人質は肉票と呼ばれるが、人質を始末することは、票(紙幣の意味がある)を破り捨てる、つまり撕票(又は裂票)と呼ばれる。
 仲間が殺されるのを見せつけられた人質たちは、助かりたければ、何としても土匪たちの求めに応じ、巨額の身代金要求に手を貸す以外に、生き延びる手はなくなる。土匪に命じられ、今どんな悲惨な目にあっているか、土匪に虐待され死に目に合わされているかを縷々綴った家族への手紙を書かされる。最後には、どうか一日も早く、お金を持ってきて下さいと決まり文句を書く。そんなことをして釈放されても、戻った家にはもう彼を中学に送る余裕などなくなる、そればかりでなく、一家路頭に迷うことになるとわかっていてもそうせざるをえなくなる。
 土匪からの身代金要求は、土匪の手のものを通じて、家族のもとに届けられる。それとともに、子供の涙ながらの手紙も寄せられる。親は驚愕し、一族の中でその任に堪えるものもしくは村の顔役に頼み込んで、土匪のもとに送り込み、実質的な交渉に入る。といっても最初の交渉には、土匪のご機嫌を取り結ぶため、彼らが好む様々な土産(例えば鴉片)が必要で、この費用も馬鹿にならない。交渉は一回で終わらない。時には、二度、三度と続けられる時もあり、互いに何とかぎりぎり払えるところで折り合いをつけることになる。実際には、土匪をとりまく情勢(経済的、政治的、軍事的状況)、人質の家族の勢力、顔役の実力等が相互に作用し、複雑なものとなる。情勢の急転で思わぬ結末を迎えることもある。
 中国の土匪は一般に、『七人の侍』のような山の根城に住んでいるのではない。むしろ、夜毎に村を移動し、食料の調達を容易にするとともに、軍警の討伐に備えている。それゆえ、土匪が滞在する村を探し当てるのは、それほど容易ではなく、交渉を長引かせる要因となる。また、せっかく無理を重ねて調達した金も、途中跋扈する他の土匪に奪われる危険性も高い。顔役や代理人に裏切られるケースもあり、中学の関係者が浄財を集め代理人を派遣したところ、自分の身内を釈放するためにその金を使ってしまい、他の学生たちは見捨ててしまうということもある。
 人質を見張る土匪と人質の間に、心が通う合うなどということはほとんどない。あっても極めて例外である(姚雪垠『長夜』)。人質は肉票であり、物であって人ではないのだ。むしろ、この世の辛酸を舐め尽くし、やむなく梁山に上らざるをえなかった土匪にとり、人質は恨みつらみのかっこうのはけ口であり、ことごとく辛く当たり、苛め抜く。満足な食事を与えないのは勿論、排泄さえも十分にさせず、ズボンや下着が汚物で汚れるなどといったことは当たり前で、それでも東北の厳冬や南方の真夏の灼熱の中をすごさねばならない。実は、これでも少しは遠慮して書いている。
 何度手紙を書いても連絡を寄越さない者、約束の身代金を持ってこない人質の運命は更に悲惨である。怒った土匪は耳や指など身体の一部を削ぎ落とし、それを親元に送りつける。それでも音沙汰がなければ、もはや命は風前の灯火である。後は撕票される運命が待ち受けている。運良く金が間に合ったとしても、身体が弱り、家に戻った途端死んでしまうケースや、人質生活中に病死し、身代金を支払ったにもかかわらず、戻ってきたのは遺体であったというケースも少なくない。
 土匪が女学校を襲う例もままある。ただ、女子中学が少ないゆえに稀であったということだ。もう一つ未婚の女子の誘拐には難点がある。土匪のもとで一夜過ごせば、汚されたと見なされ、家のものは対面上、積極的に救い出そうとしなくなるからである。拉致された後、夜までが交渉の時間であった。それゆえ、誘拐された女子は快票(快は速いの意)と呼ばれた。豫西の巨匪張寡婦は、夫の恨みを晴らすべく土匪に身を投じ、首領にのしあがった著名な女土匪であったが、彼女は誘拐した女子を自分の傍に置き、けっして部下を近づけさせなかったので、彼女の(部下が)誘拐した女子は、日が過ぎても大丈夫とされた。
 昨今、中国社会で大きな問題となっている女子の拉致誘拐もしくは女子売買は、その繁栄の原因を、一旦男に犯されれば、その男のものであり、親にも世間にも顔向けできないという、この性に対する伝統的な観念に負うところが大きい、そう筆者は考えている。一夜男と床をともにしても、私は私で、あなたのものではないと女たちがあっけらかんと考えるような社会(娘がどんな男と寝ようと、我が娘に変わりはないと親たちが考えているような社会)であれば、不幸にもレイプされたとしても、娘たちは何が何でも隙を見て逃げ出し、親元に戻ろうとするだろう。それを防ごうとすれば、賊は次の手、さらに次の手と手段をエスカレートせざるをえなくなり、誘拐のコストはかさみ、逆に事が露見するリスクは増えるからである。(次号に続く)  

トップへもどる





逆耳順耳
  矢吹 晋


ホームページ作り
 年初から妙にあわただしい。ポスト□(登+都−者)小平や香港返還問題ではない。暮れに新しいパソコンを買ったからである。ISDN回線で電子メールをつなぐ仕事は、例によって加藤貞顕君がやってくれた。古いハードディスクから文書(オアシス文書、ワード文書など)を移す仕事は自分でやった。暮れに村田ワープロ博士が来宅、中文起稿をインストールしてくれた。そこで正月は中国語の文章のインプットに励んだ。こうして中国語簡体字と繁体字のテキストをだいぶ作成したが、JIS(日本の漢字の略称)、Shift JIS(日本漢字をインターネットで使うときのコード名)、GB(中国の簡体字の略称)、Big5(台湾の繁体字の略称)の相互転換、あるいは一方通行的転換方法に慣れた。この過程で、大いに悩まされたのは、パソコンがテンカンに陥り、画面がいきなり真っ黒になってしまう病気である。シャット・ダウン。万事休す、である。それまでの何時間かかけて作り上げた文章は瞬時に消えてしまう。二〇〇メガヘルツの処理能力をもつパソコンは、確かに回転が早く、驚くことばかりだが、消えるのも何十分の一、あるいは何百分の一秒という速度だから参る、呆然とするヒマもないほどだ。
 そうこうしているうちに、システム・アナリストの安達正臣氏が症状の診断に来てくれることになった。三月中旬である。月末にもう一度来てくれた。そのときは、村田さんも来てくれ、私のパソコン情報は二人の先生を迎えて、爆発寸前なほど急激にふえた。四月中旬、画像読み込みのため、スキャナーをつないだところ、パソコンがまるで動かなくなった(実はそのことに本人は気づかず、ハードディスクが破壊されたと思い込み、緊急のヘルプ、SOS騒ぎである)。その週末、安達さんが大阪からわざわざかけつけてくれた。このときばかりは五十万のパソコンが瞬時にガラクタになったかと青ざめたが、なんのことはない。村田さんの電話指示でスキャナーを外してみたら、動き始めた。安達さんにはまことに申し訳ない次第である。しかし、これを奇貨として、フロッピー六百枚分の容量をもつMOドライブを買い、バックアップ態勢を整えた。これで安心してシステム・コマンダーをインストールし、中文ウィンドウズに取り組む態勢ができた。四月末、村田さんがまた「往診」、スキャナーとイメージオフィスをインストールしてくれた(中文ウィンドウズの調整は時間切れで後回しになった)。
 こうしてスキャナーによる読み取りが可能になったので、連休から五月末まで、ホームページの朝河貫一電脳博物館作りに熱中した。これもかなりの試行錯誤の連続である。写真だから白黒でセットするとうまくいくわけではない、古い白黒写真あるいは印刷の悪い白黒写真は「カラー一六色」に減色処理しないとうまくいかない。要するに、文字を読み取る「線画」、鮮明な白黒写真、カラー写真扱いの古い白黒写真、二五六色のカラー写真を一六色に減らす処理など、出来てしまうと実に単純な作業だが、そのコツを呑み込むまでに一週間はかかってしまう(というのは、前日に覚えたことを翌日はすっかり忘れているボケの繰り返しだからである)。この過程で、私は文字の情報伝達的効率性の意味を再発見した気分である。

ホームページの容量
 私はソネットというプロバイダーに昨年四月加入した。三メガまで月二〇〇〇円でホームページが開けた。一年足らずで、容量制限を超えたので、こんどは六メガにふやした。月三〇〇〇円である。これで一安心と思いきや、スキャナーで画像を読み取ってびっくり仰天。文字情報の一〇〇、一〇〇〇倍単位のバイト数であることに気づいた。
 線画や白黒写真でさえ、この始末。カラー写真をA4判で取り込んだりしたら、もう論文何百本分に相当する。そこで「減色処理」になる。しかし、朝何貫一電脳博物館のためには、六メガではとうてい間に合わない。そこで五〇メガ年間五〇〇〇円というゼロ違いではないかと思われるようなプロバイダーを安達さんに紹介してもらい、加入した。安心して、朝河貫一の肖像や手紙類、著書のカバー写真などを続み取り、ミニ博物館作りに励んだ結果、五月末の時点で二八メガである。写真は確かに、文字情報よりもはるかに多くの情報を瞬時に伝えることができる。しかし、バイト数で換算してみよう。同じバイト数で両者がどれだけの内容を伝えることができるかを考えれば、軍配は明らかである。最小限のバイト数で伝えるために考案されたものこそが文字なのだ。絵コトバから文字への発展は、不要な部分を削ぎ落とす過程にほかならない。この話は、子供のころ、象形文字の説明としていくども聞かされていたのだが、実際に文字の電送に必要なバイト数と画像のそれとを比鮫すると、その経済性は明らかであり、ファックスなどで地図や絵を送れるようになったのは、技術進歩のおかげにほかならないことを実感する。
 こうして足掛け半年を費やして、作り上げた朝河博物館の目的はいくつかあるが、最も緊急なのは、没後五〇周年の記念切手の発行計画である。これは年内に郵政省が決定してしまうので、その前に外務省を通じて郵政省に働きかける必要がある。機械オンチが出来もしないことをやると「周辺の方々にご迷感をかけるから、およしになっては」などという荊妻の猫なで声を断固として無視し、ついに博物館の開館と相成りました。ここまで悪戦苦闘したからには、「朝河貫一記念切手」の実現は近いはず、と私は楽観している。このキャンペーンに対する支持者の顔ぶれをみれば、私の大言壮語が虚言ではないことが分かるはずである。

暴挙を怒る
 五月一日、メーデー当日、研究室のパソコン整理のために、またしても加藤君の手を煩わせた。電子メールのアドレスを私はニフチィ、ソネット、そして大学のものと三つ、保有していた。しかし、記念切手キャンペーンを外国で展開するには、私のidentificationが必要なので、メールは大学のものを使うことにしていた。ところが四月中旬、このメール・アドレスが突然使えなくなり、友人たちはニフティに替えて送ったり、苦労させられた(ついに届かず、会合の連絡が漏れていたものもあった)。その事実に気づいて私は勤務先の情報処理教育センターに電話し、すぐつないでくれるよう頼んだ。「新たに申請して下さい、いまは新人生の受付中なので、およそ二週間ほどかかります」。私は絶句して電話を切った。卒業する学生のメール・アドレスを整理することは必要であろう。しかし、定年まで務める教員も四月に異動する教員も学生と同一視して切り換える必要はどこにあるのか。『センター・ニュース』を通じて二度にわたって警告した由だが、私は大学のランはいつも回線が混雑、大渋滞に陥りしばしばパンクしているので、ほとんど使わない。だからニュースも読んでいなかった。私は早速ホームページのアドレスをおよそ一〇箇所程度改正し、同時にアドレス変更をメールで知らせる仕事に忙殺された(それから一カ月後、そして二カ月後になっても、メールを送ったが、届かない、戻ってきたとの苦情が絶えなかった。私はひたすらお詫びのメールを書いた。ここで知ったわけだが、メールは使うが、ホームページを見ない研究者が少なくないことが一つ。もう一つはホームページを開いても、英語世界の人々は、JISやGB、BIG5のブラウザを持たないのが普通なのであった)。
 教員に対してさえ、このような仕打ちをとるのが公立大学の貧しい情報処理教育である。予算がない、人手が足りない。これらはすべてその通りだが、欠けているのは、そればかりではなさそうだ。第一、すべてのアドレスをいちいち再登録するテマ、ヒマはかなりのものではないか。ムダなところにエネルギーを使い、研究や国際交流を事実上妨げている。あきれた話だ。私はもう金輸際、大学のアドレスを使うことはやめた。現在のアドレスは以下の通りです。
e-mail:yabuki@ca2.so-net.or.jp
http://www2.big.jp/i-yabuki

トップへもどる

 目次へもどる