蒼蒼ロゴ

第74号


杭州日記(上)竹内 実(杭州大学客員教授)
滑笏g書店への公開質問状・第二信

杭州日記(上)
竹内 実(杭州大学客員教授)


二月六日(農暦十二月二十九日)木曜日
 S君の家で、おひるをごちそうになる。年末には「年飯」(ニエンフアン)といって盛大に食べるのだそうである。おおみそかの夜にはかならず一家そろって食べる。「吃年夜飯」ともいう。友人や親戚やお隣りを招待したり、されたりする。数日まえから、これがつづく。ことし、「農暦」は二十九日までしかない。「旧暦」といわず、「農暦」と呼ぶ。「新暦」は「公暦」という。
 夜は冷えるので昼食をよばれることにしたのだった。S君の住いは杭州大学の団地で、五階にあがるのにやや閉口した。六階以上はエレベーターがつくがここは五階までしかない。建物ぜんたいが静まりかえって、五階の廊下(ガス台と流しがおいてある)でお隣りのご夫妻がいためものをしているのをみかけただけだった。
 みんな、実家に帰っているんです。そういうS君は例年、武漢にかえっていたのが、ここ二、三年忙しくなって、ひまがつくれないのだという。
 S君と奥さんの手料理である。幼稚園にいっている娘さんがいる。春節が日本でいう正月で、大学はもとより商店も休む。市場も休む。一両日分の食べものをおみやげに頂戴して、西渓路四七号二二棟の外国専家楼三〇一号にもどった。
 ベッドに足をなげだし、背中に枕やなにかをあてて読みかけの『フランス人とイギリス人』をひらく。家内の本を持参したのだったが、この本を読むまで、フランスとイギリスのあいだに、このような関係があろうとは夢にも思わなかった。
 「どちらの国にも相手のもっともエキゾチックな要素が好きでたまらないという人々がいて、その場合には尊敬とひきかえであるにせよ一種の愛情が生まれる」
 これはもう、〈日本−中国〉の関係である。執筆にさいしての著者の嘆息も、ひとごとでない。
 「時には自分が望むより多くの部分をこの二国民間の伝統的な反目感情を述べるためにあてねばならなかった」
 とはいえ、「だが甘美さや光が常に支配的ではなかったにしても、全部が暗く苦々しかったわけではない」。「もしこの本が何かの役に立つとしたら、英仏関係がいままで常にいかに並はずれて複雑なものであったか、そして歴史的見地からさえ、英仏二国間民の互いにたいする圧倒的な感情が、単純な嫌悪の感情だったと考えることがいかに間違っているかをこの本が示している点だと思う」。「おそらくもっとも心に残る印象は、広範囲にわたる互恵という事実である」(著者=リチャード・フェイバー。訳=北条文緒、大島真木。法政大学出版局)。
 〈フランス−イギリス〉の関係は、ヨーロッパという一つの区域の相互関係のなかにくみいれられていて、これはヨーロッパ史としては常識なのであろう。フランスからイギリスへ、あるいはイギリスからフランスへ亡命した人間がいた事実、お互いに亡命先からみた母国、あるいは亡命して身をよせた相手国の政治にあつい思いをよせ、政治の変動に一喜一憂している様子は、〈日本−中国〉より深いようだ。
 「親しみのもてる敵同士、困らせ合う友人同士」という〈フランス−イギリス〉関係の要約は〈日本−中国〉関係にもいえなくはない。しかし後者には、より深刻で皮膚に突き刺さるような葛藤と、まったく気にしない冷淡とが、さらにつけ加えられているような気がする。本年早々出版された拙訳、蕭向前『 ルビ永遠 とこしえ の隣国として』(サイマル出版会)を翻訳しながら、かつての関係は、国交回復以前であったにもかかわらず、最近の関係に比べて深いものがあったような気がした。
 本を読んでいるうちに、眠ったらしい。気がつくと四時になろうとしていた。そして、四時を少しすぎたとき、ドアごしに声がした。K君である。昨夜、電話をくれて約束した「湯圓」をご持参だった。
 あしたの元旦、予定がありますか。
 食事のご招待だった。連日、御馳走になるのもからだによくないので、いちにち静かに休むことにします。
 七時ごろになると、何か食べたくなった。湯圓をいただこう。袋をあけると平たいカンにメモがのっている。
 「湯圓」のやり方について
  1.湯を沸かしてから湯圓をいれます。
  2.湯圓を入れて沸かしてから水をコップに一杯入れてもう一回沸かして、湯圓が浮かび上がったらOK。
 沸騰する湯に浮かび上がってくる、親指のあたま二倍くらいの湯圓は、日本でいえば、お汁粉の団子だろうか。いかにも可憐だった。あつあつの皮のなかに、あまいアンコ。少し塩もきかせてあるようだった。
 北京では餃子。
 江南では湯圓。
 それぞれお正月を味わう食べ物なのだ。
 食事のあと、「毛沢東蔵書リスト」の分類をはじめから点検する。一頁一〇行の用紙で二二四頁だからざっと二千二百冊ということになる。三一書房版の最初の日本語訳を人文科学研究所の図書館に納めたのが、いまとなっては悔やまれる。平凡社「現代史シリーズ」の一冊、『文化大革命』も見当たらない。赤字で訳文の訂正を入れ、だいじにとっていたはずである。大版の(百科辞典の大きさで厚さは二倍)『毛沢東研究大辞典』もリストにないが、もしかすると銀閣寺の家の本棚に並べたままなのかもしれない。
 去年、八月中旬の北京・毛沢東詩詞学術国際研討会に出席して増加した分は、リストに入っている。
 去年二月、北京の友誼賓館西南区六二八一四号のわたしのところへ数名の方がみえて、この研討会に参加を慫慂(しょうよう)されたのだった。いま辞書をひくと、そばからそのことをするようにと、さそいすすめること(『チャレンジ漢和辞典』福武書店。傍線は引用者)とある。「慫慂」をここに使うのは正しくないかもしれないが、主催者から熱心に要請されて、ああ「ショウヨウ」というのはこのことなのだなあと思ったのだった。  さいわい、吉田富夫(佛教大)、今田好彦(東洋大)、小島朋之(慶応大)、徳岡仁(城西国際大)、小木裕文(立命館大)、中屋敷宏(弘前大)の諸君も欣然参加、つれだって北京にきたのだった。
 全体会議のあと、分科会で吉田先生はかなりきびしい評語ものべられたようであるが(わたしはべつの分科会だった)、最終日、湖南料理店での昼食会あとのカラOK大会では今田先生とともに、延安時代のナツメロを熱唱して錦上花を添え、情理兼ね備えた参加だったといえよう。
 わたしの感想は「毛沢東の詩の芸術性」(『中日新聞』一九九六年九月二四、五日)にのべた。明治維新の志士がつくった漢詩と毛沢東の詩・詞を比較する試みをおこなって報告したところ、年末になって、なお補足詳論してまとめ提出されたい、と主催者からいってきた。
 旧著『毛沢東その詩と人生』(文芸春秋)からすでに三十年たち、中国で公式に公表された総数も三十首ふえて六十七首にたっしている。新しく訳をつけるのも容易ではない。当時、わたしは耳で聞いてわかる訳、しかも原文のもち味を伝えるために訳文には漢字を残す、という方針をとったのだった。口語に訳せばわかりやすいが、意味だけ汲み取ったのでは、原文の漢字のもつ迫力が弱くなるようである。年末に試みに口語で訳してみた。
 旧著の巻頭でとりあげた「沁園春 長沙」の終わりの部分を、原文、旧訳、口語訳とならべてみよう。

 曽記否
到 中流撃水
浪遏飛舟

曾(かつて)記(おぼえてありや)否(いなや)
中流(かわなかに)到(いたりて)水を撃(う)ち
浪 飛ぶがごとき船を 遏(とど)めしこと

まだ覚えているだろうか
河の遠く深みまで泳ぎ
波しぶき高くあげ
ゆきかう船さえ
われらを避けた 

 中国の詩の味というのは、どういうところにあるのだろう。少年時代、北原白秋や萩原朔太郎や大手拓次や三好達治に、さらに斉藤茂吉や土屋文明や会津八一やにも影響されたあたまには、中国の詩は、はじめはわかりにくかった。
 家書抵万金
 (家人の手紙は、黄金何万両もの値)
という杜甫の詩句も、カネになぞらえるのは俗臭だと感じたのだった。感情をずーっと積み上げていって最高潮のところで解き放つという短歌的叙情は、杜甫の詩には求めてもえられるものではなかった。
  あかあかといっぽんの道 通りたり
  たまきはる わがいのちなりけり
                茂吉
 目標の定まらない思春期の悩みには、茂吉の抒情はぴったりだったが、このように、いわば「うたいあげる」のではなく、一つの世界の時間と空間をまずつくりあげておいて、それをおもむろに少しずつとりだして示すのが、中国の詩句なのだと今では考えている。
 中国の詩のばあい、作品だけというわけにはいかない。作者という全体があって、その断片として詩があると考えるのである。さらには作者をかこむ時間と空間がある。詩をつうじて作者の世界を構成し、そこからふたたび詩にもどるという手間が必要なのだ。
 おおみそかのテレビはどんな様子か。チャンネルをまわしたが、新年気分でもりあがっている。中央電視台が「春節晩会」と銘うって歌、踊り、漫才のもりだくさんの番組を放送し、そのなかで視聴率について、去年よりも上昇していると喜んでいる。NHKの紅白歌合戦のような、国民的番組に育て上げようとする意図があるようだ。家族の関心がテレビに釘づけになると、せっかくの一家団欒の会話ももりあがらないのではないか。しかし、よけいなお世話といわれそうだ。
 寝ることにした。しばらくすると、大きな炸裂音が一つして、さらに何発もつづいた。日本の夏の花火大会を思い出した。カーテンをあけても、建物が要塞のように並ぶ団地の空には、何もみえない。そのうち団地の庭でも、あちこち、花火をあげだした。シューンと飛んで、パアンと鳴る。機関銃のように連続して鳴る爆竹はまったく聞こえない。
 じつは夕食のあと外出してみたのだった。外国専家楼の鉄柵の門は、ブティック通り(とわたしがかってに命名した)に面しているが、通りの両側の店舗にはいずれもシャッターがおり、人影もない。シャッターの壁のあいだを西へいってみた。三十メートルほどいくと、バス通りにでる。右にゆくと杭州大学の正門で、正門まで百メートルはあるだろう。少しゆくと、理髪店に燈火がついていた。ブティック通りでも、理髪店だけが営業していたが客の姿はなかった。戻った。ブティック通りで落花生を売っている屋台があった。どれが美味いの。一斤もらおう。家に帰らないの。
 家はあんたと同じ、遠方だよ。これが美味い。一斤一三元だが一〇元にまけておくよ。

二月七日(農暦一月初日 春節)金曜日
粥と梅干しで朝食。十時。
 「毛沢東蔵書リスト」をもう一度点検し、毛沢東、中国の大分類をさらに細分化した分類表を作成する。このつぎは「中国」にかかります。福岡市総合図書館の担当者の手紙にせきたてられているのである。「中国」の部分が八千二百冊あると、やはりこの手紙で知ったのだった。わたしが頂戴した金子勝昭氏の蔵書も、このなかに含まれているはずである。
 「中国」をさらにどのように分類するかについては、以前に案をつくったことがあるが、持参しなかったので、新しく作成した。「中国」と並ぶかたちで「中国文学」も立てるつもりである。
 「中国」という視点を立てると、「毛沢東」という視点とは異なるものがみえてくる。たとえば、黄埔軍官学校。これの政治主任は周恩来であり、ここではすでに中国共産党員が活躍していたという角度からみれば、黄埔軍官学校は必ずしも共産党の流れにおさまらない。中国共産党史の流れの一コマであるが、蒋介石という角度からみれば、彼は校長であり、ここの学生軍を組織して戦っていて、さらには北伐のさいの国民革命軍総司令官である。それで、中国現代史の流れの一コマとして、かつ中国現代史と並列する一項目とした。まだ全部読み終わっていないが、王俯民『蒋介石詳伝』上・下の上冊、約三分の一を読んだことにも影響されていよう。以前、黄埔軍官学校について調べたさい、わからなかったこと、気がつかなかったことについて、この本から、知った。
 軍官学校の在校生によって学生軍が組織されたとして、エリートの彼らは、一般の兵士並だったのか、それとも、べつに兵士を募集して、彼らはそれを指揮したのかわからなかったが、兵士を募集したとは、本書に記されていない。しかし、上海でゴロツキ、チンピラまがいの連中を集めて広州に送ったはずなのである。
 東征軍は「軍夫」と称する人夫を雇った。老人、婦人、子供をむりやりひっぱり、しかも賃銀を横領し、遅れる老人などは、手ひどく殴られたり蹴られたりしたという。淡水まで荷物を運んだ五、六百の婦人は、とある建物にとじこめられ、故郷に帰ることは許されず、賃銀ももらえなかった。宿営にさいしては、かってに民家におしいって飲み食いしたが、これにたいして高級将校はみてみぬふりだった。
 第一次東征は一九二五年二月〜六月で、蒋介石が指揮する教導団は軍紀厳正だった、というから、右の弊害は、許崇智から転属してきた広東軍閥の兵隊のことか。
 このような弊害について、同年九月〜十一月の第二次東征出発のさい、蒋介石はきびしく警告を発したという。
 黄埔軍官学校出身の将軍に黄杰というひとがいて、このひとの資料も新しく「中国」のなかに黄埔軍官学校の項目を立てたことによって、ぐあいよく収まるのである。
 しかし「蒋介石」じしんは「毛沢東」と関連するから、やはり「中国」でなく「毛沢東」という大きな分類のなかに入らざるをえない。宋美齢は蒋介石とまとめる。とはいえ、宋慶齢は宋美齢の姉だからといって、同じグループにはできない。
 『フランス人とイギリス人』読了。去年の暮(といってもじつは先週)読みかけていた張資平「公債委員」を、分類に疲れると読み、また分類にとりかかるというふうにして読む。
 夜はテレビ「□(登+都−者)小平」。中央電視台から去年放映されたときは、最後の二回分しかみられなかった。二月三日から、杭州電視台が再放映をはじめたので、これは見逃さないつもりで第一回からみた。生まれ故郷の広安県やフランス留学時代に在学した中学校など。パリでよくかよったカフェは、解説によれば、近くにコミンテルン支部の事務所があった。本国からの奨学金が絶たれたので、ここに勤務したのだとおもわれる。ただし、すぐに職業革命家になったのではなく、ルノーの自動車工場などで働いている。芹沢光治良の自伝的な長篇小説に、パリで目撃した彼らの生活が描かれている。グループをつくり、アルバイトと学生を交代でやっていた。
 さて、今夜は第五回。文化大革命のあとの復活である。
 「実践は真理を点検する唯一の基準である」が、はじめは「毛沢東のおこなったこと、指示したことはすべて変えない」という毛沢東信奉派によって無視されたという解説があった。毛沢東信奉派というのはつまりは文革によって利益をえた集団ということであろう。文革によってえた利益がどのようなものであったかは、それぞれ事情は異なる。これを手離すなど、当時は、予想できないことであったろう。なっとくがいかず、身を切られるようにつらいことであったにちがいない。現状維持という力が強く働いたことは、想像以上だったろう。
 しかし、これよりさき、十月六日に四人組が逮捕されたのは決定的だった。しかし、さらに考えると、林彪が逃亡して墜死したというのがより決定的だった。
 四人組はこれによって自分たちの権力掌握が近づいたと喜んだが、じつはこのとき、彼らの墓穴が用意されていたのだ。
 名誉回復のうごきも画面にでた。いたましいことだった。老舎(ラオショオ)、陶鋳(タオチュウ)。いずれも遺族の努力と奔走とくりかえしの冤罪上訴のあげく実現したものであるが、積極的に批准したのが□小平だったという解説である。しかし、これらの書類は彼だけが披閲し、批准したというものではないはずである。とすれば、ほかのエライひとはどういう反応をしめしたのか。
 劉少奇の名誉回復大会のさい、「これはいいことだ。われわれは勝利した」(這是好事、我們勝利了)と□小平は遺族に語っている。文化大革命そのものは毛沢東の死と四人組の逮捕で終結したとしても、社会主義は捨てることができないというアタマの持主は多かったはずである。□小平は一歩一歩、抵抗を排除して勝利をつみかさねたのだ。
 日本を訪問し新幹線にのっている場面があった。「□小平語録の研究」を当時、『文藝春秋』に発表したわたしとしては、彼がのべる感想を注意して聞かないわけにはいかない。どんな気分ですかという質問にたいして答えている。たいへんなスピードだね。走れ走れとせきたてられているような気分だ。いまのわれわれにふさわしい乗物だ。
 彼のあたまにはすでに、改革と開放による民衆の生活水準の向上が念頭にあったのだ。さらには国家としても先進国なみになるべきだと考えて、新幹線こそ自分たちにはふさわしいと考えたのだ。
 フルシチョフのスターリン批判のように、毛沢東が死ねば、中国も毛沢東批判をやるだろうという予測が、日本の一部にあった。逆に、毛沢東思想はゆるがない、という説もあった。わたしはどちらでもなかった。中国革命史から毛沢東にかんする記述をいっさい削除したらどういうことになるか。革命史がかりに三百ページだったとすれば、二百五十頁は白紙にしなければならない。革命勝利の章では、誰が登場するのか。
 『毛沢東集』を北望社、のちに蒼蒼社から出版して、わたしの頭のなかには、一つの毛沢東像があった。その意味でも『毛沢東集』監修の仕事は、無駄でなかった。監修といっても、藤本幸三、市川宏両君の推進がなければ実現しなかったし、北望社、蒼蒼社それぞれの和田武司代表、中村公省社主の経済的手腕も不可欠だった。とくに蒼蒼社版については、資料収集に社主自ら足で歩き、汗をしたたらせ、つぎつぎに厖大な量のコピーが京都大学人文科学研究所のわたしの研究室のまえのスチールのひきだしにたまった。いまでも思い出す。伝説的な黄帝を葬ったとされる陵があって、これを祭った文章が送られてきた。まったく知らなかったものだった。東京では不採用とすべき意見です。中村君の注意がついていた。わたしは採用した。
 しかし、毛沢東の功績と過失を七三に分けるということまでは、思いつかなかった。胡縄によれば十数回、「歴史決議」の草案を書き直したという。期間は二十二カ月にわたったと解説はのべていた。胡縄先生でさえ思いつくことはできなかったのだから、ここで、それと自分とを比較することは、まったく思い上がりもはなはだしいにちがいない。  名古屋の風媒社からの依頼で□小平文選を大至急、訳すことになった。翻訳していて感銘をうけた。歴史決議を起草している学者たちにこうのべたのだ。全面的に否定してはならない。わたし(=□小平)にも責任の一半はある。
 ドキュメント「□小平」は中央文献委員会研究室主任の●(逢+ヰ)先知(パン・シェンチ)先生ともう一方の監修(に当たるのだろう)である。「●」の字はよく「逢」にまちがえられる。拙訳「毛沢東の読書生活」にかかげられている毛沢東の愛読書のリストがコピーされて、いまわたしの机上にある。福岡図書館の担当者が参考にしたのでる。
 おおみそかの夜は、放映されなかったが、その前日は第三、第四回で文化大革命中に下放させられた江西省の宿舎と工場が映った。宿舎はソールズベリが取材していて、だいぶ以前にNHKから放映された。工場は今回がはじめてである。旋盤道具がうつしだされた。当時の工場長がでてきて説明した。鋳造された自動車の部品のネジが円形であるのを削って八角形にする作業をしていたのです。
 宿舎から工場までだいぶ遠かった。それで工場の塀に入口をつけて、正門を通らないでゆけるようにしました。夫人と二人で畑のわきの細い道を毎日歩いてこられ、労働者は「□小平小道」と呼んでいました。
 画面にはその小道が映った。二人ならんでは通れない、狭い道だった。京都銀閣寺の「哲学の道」を思い出した。
 □小平を江西省に下放させるさい、周恩来が文化革命弁公室から省書記にあてて指示をだしている。「文革」の細部にはまだまだ「謎」がある。
(つづく・次号完)

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   滑笏g書店への公開質問状・第二信

株式会社岩波書店代表取締役安江良介殿
 前略 私(和気弘代理人・株式会社蒼蒼社代表取締役中村公省)は、さきに、『蒼蒼』第七十二号(二月十日発行)誌上に貴殿に対する公開質問状を発し、貴殿にもその一部をお届け致しました。それ以来すでに四カ月を経ていますが、貴殿からはなんらの御返事も戴いておりません。誠に遺憾であります。
 しかしながら、貴社の「編集部長 伊藤修」名義の以下のごとき書翰は、確かに拝受いたしました。
   *
中村公省殿
 前略 「蒼蒼」第七十二号(一九九七年二月十日発行)に掲載された「滑笏g書店への公開質問状」について次のとおりご連絡いたします。
1.「原典中国現代史」への訳文転載に関しご指摘いただいた件につきましては、同書別巻に「おわび」を掲載し、かつ、そのことを当社発行の「図書」(一九九六年九月号)で広くお知らせいたしましたので、それ以上の措置を取ることは考えておりません。
2.『原典中国現代史』に和気弘氏の訳文を転載させていただいた件につきましては、同氏に直接お会いしたうえで対処させていただきたいと考えております。
 「和気弘」は筆名と推察いたしますので、お名前、ご住所等を明らかにされたうえで当社あて直接ご連絡いただくようお伝えください。
3.なお、貴殿は和気弘氏の訳文を含め「チャイナ・クライシス重要文献」所収の訳文を『原典中国現代史』に転載することをあらかじめ承諾しておられたものであり、「公開質問状」は理解に苦しみます。草々
   一九九七年三月二十五日
 株式会社岩波書店編集部長  伊藤 修

(1)岩波書店を法的に代表し得るのは誰か
 この伊藤修編集部長の書翰(以下「伊藤書翰」と略称)は、貴殿が命じて出させたものでありましょうか。どこをどう見ても、伊藤修編集部長が株式会社岩波書店代表取締役安江良介殿の代理人であるという文言はありませんから、貴殿の代理人でないことは間違いないでしょう。
 では、伊藤修編集部長は株式会社岩波書店を代表しうる役職にありましょうか。「編集部長」とのみありますから、株式会社岩波書店を法的に代表し得る人物であるとは見なせません。わたしの解するところ伊藤氏は、「編集部長」という名の「ただの事務当局者」にすぎず、当該著作権問題について株式会社岩波書店を代表する法的資格はないものと判断いたします。
 『原典中国現代史』は発行者、即ち出版権者は安江良介であると明記していますから、当該書出版にかかわる法的責任は当然貴殿がとらねばなりません。法的責任を処するに際して、部下の「編集部長」がたちあらわれるのは、責任のがれか、部下への責任のおしつけでありましょう。そういえば、さきに、『原典中国現代史』別巻に掲載された「おわび」も奇妙な署名で、ただたんに「岩波書店」とあり、「株式会社岩波書店代表取締役安江良介」としてはありませんでした。
 貴殿もご存じでしょうが、私は、貴殿への公開質問状を発する以前にすでに貴社の沢株正始編集部課長との間で、二度にわたり、この著作権違反問題について長時間にわたる談判の場をもっております。沢株課長は、第一回目の会談では、私の主張する二点の要求、すなわち、(1)「おわび」の趣旨にのっとり「原典中国現代史」の著作権取得事務手続きを全面的にやりなおす、(2)「おわび」の趣旨にのっとり和気弘の著作権侵害について相応の処置をすべきである、の二点の要求に基本的に同意し、その事務手続きをとると約束されました。
 しかし、君子豹変するということでしょうか、第二回目の会談では、株式会社岩波書店としては、(2)の要求は入れるが、(1)の要求は入れるわけにはいかない、とのことでした。その理由は、沢株課長の言うところでは、私、中村の法的な主張は正当な主張であると個人的には思うが、会社=株式会社岩波書店としては、同意するわけにはいかない、著作権法を厳密に適用すれば、今後このような編集ものはできなくなってしまう、ということでした。言い換えれば、私の法的主張に対して、沢株課長は著作権法の条文をもって対抗することができず論理的に破綻し、御家の事情しか開陳できなかったのであります。
 沢株課長の前に、電話で話をした林建朗編集部員が、著作権法のなんたるかを、まったく理解していない支離滅裂な主張をくりかえしたことは、さきの第一信で言及したとおりであります。
 そして、今度は、「株式会社岩波書店編集部長」殿のお出ましであります。著作権法に照らして、伊藤書翰のおかしな主張は、後に指摘することにしますが、責任のがれ、部下への責任のおしつけは、いいかげんにしていただきたく存じます。編集部員とか編集課長とか編集部長とかは、株式会社にとって被雇用者であり、彼らには会社を代表しうるなんらの法的資格もなく、せいぜいのところが法的交渉の事務代行をしうるにすぎません。法的責任がなく、場当たり主義で前言をいともたやすく翻す彼らを相手に、全く低次元の問答を繰り返すのは、これまでの経緯からして、時間の無駄づかいであり、御免こうむりたく存じます。
 貴殿が自ら責任ある回答をするよう私は要求してやみません。

(2)伊藤書翰への反論
 伊藤書翰は株式会社岩波書店を代表する回答と見なすわけにはいきませんが、貴社の編集部の責任者の意見であることは間違いないでしょうから、貴殿の回答を促すための参考意見として、以下、伊藤書翰への私の所感を述べることにいたしましょう。

1.「おわび」以上の措置を取らない著作  権上の根拠は何か
 「『おわび』以上の措置を取ることは考えておりません」とのことですが、私は、貴社の「おわび」は、矢吹、白石、村田三氏に対する「おわび」ではあっても、その他の著作権被侵害者にたいする「おわび」になっていないことを、理由をあげて明確に説明申し上げたのであります。貴社の犯した著作権法違反は、徹頭徹尾、法律的問題でありますから、私に対する反論も徹頭徹尾、著作権法にもとづいたものであるべきです。したがって、著作権法の如何なる条文にもとづいて、「おわび」以上の措置を取ることは考えていないのか、縷々説明していただかねばなりません。
 なお、私の論理的説明に問答無用で玄関払いをくわせる伊藤氏のような仕打ちに対しては、私もそれ相応の法的強制力を発動する用意があることを申し添えておきます。

2.ペンネーム執筆者の人権と著作権は誰が保護するのか
 株式会社蒼蒼社代表取締役中村公省は、和気弘の代理人であります。和気弘の著作人格権・著作権に対する貴社の侵犯問題に関する交渉の全権を私は和気弘から委任されております。この件は、私は、すでに沢株正始編集部課長との二度にわたる交渉の初めに説明申し上げ、御了解をいただいているはずであります。
 代理人を立てるという件については、すでに貴殿自身が、矢吹、白石、村田三氏との交渉で秋山弁護士を代理人にたてて全権を委任しておられます。「俺の代理人は受け入れろ、お前の代理人は受け入れない」というのは如何なものでしょうか。それとも和気弘の代理人である私になにか法的な問題でもあるというのでしょうか。ちなみに、著作権法第一一八条には以下のようにあります。
 「無名又は変名の著作物の発行者は、その著作物の著作者又は著作権者のために、自己の名をもって〔中略〕その著作物の著作人格権若しくは著作権の侵害に係わる損害の賠償の請求若しくは不当利益の返還の請求をおこなうことができる。」
 この件には、もうひとつ別の深刻な問題が付随しています。
◆「和気弘氏同氏に直接お会いしたうえで対処させていただきたい」
◆「『和気弘』は筆名と推察いたしますので、お名前、ご住所等を明らかにされたうえで当社あて直接ご連絡いただくようお伝えください。」
 出版編集の要所にいる編集部長に、どうしてこんな言辞が吐けるのでありましょうか。以上の伊藤書翰の見解に接して、私は、飛び上がるほど驚きました。筆名(ペンネーム、著作権法では「変名」)の執筆者の人権の保護および著作人格権・著作権の保護にかんする出版権者の責任について伊藤編集部長はどう考えているのでありましょうか。
 安江良介殿。貴殿がかつて「TK生」というペンネームを使って、著作をものされたことは万人周知のことであります(むろん貴社発行であります)。かりに、「『TK生』は筆名と推察いたしますのでお名前、ご住所等を明らかにされたうえで当社あて直接ご連絡いただくようお伝えください」というような要求をされたら、伊藤編集部長はいかが対処されるのでありましょうか。
 株式会社蒼蒼社代表取締役中村公省は、わが社で出版したペンネーム執筆者の人権および著作人格権・著作権を保護します。ペンネーム執筆者の人権および著作人格権・著作権の蹂躪につながる貴社の編集部長のような理不尽な要求は、断固、拒否いたします。

3.著作権法が泣いています
 伊藤書翰の最後に付された「貴殿は和気弘氏の訳文を含め『チャイナ・クライシス重要文献』所収の訳文を『原典中国現代史』に転載することをあらかじめ承諾しておられたものであり、『公開質問状』は理解に苦しみます」という一文は、伊藤編集部長が、著作権法を勉強していないことを露呈しています。「おわび」にある「著作権法を一層尊重するように努め、今後このようなことがおこらないように厳に注意します」という文言は少しも守られておりません。
 伊藤編集部長の著作権法に対する無視、無理解は、私の口から申し上げるよりも第三者に判定していただくほうがいいでしょう。文部省には、そのための担当部署もあります。
 「この法律に規定する権利に関する紛争につき斡旋によりその解決を図るため、文化庁に著作権紛争解決斡旋委員を置く。」(著作権法第一〇五条)
 私はわがほうから著作権紛争解決斡旋委員に斡旋を申請し、裁定を仰ぐ道を真剣に考えていますが、その前に、著作権問題の専門家である豊田きいち氏の本件についての論評(『出版ニュース』一九九七年五月上旬号掲載「出版・著作権MEMO h黶Z一 編集者の素養」)を参照すべきでしょう。
 豊田氏は当該書の著作権取得事務処理の基本見解を明かした林書翰を引用して以下のように嘆息しておられます。
「ナントイウ古色蒼然とした著作権観であろう。著作者・著作権者の無視、出版者あるいは出版権者の権限についての無理解、出版契約で約された著作物の権利者と出版者の関係の軽視──」。
 そして、ズバリ問題の核心をついておられます。
「岩波の書翰は随所におかしいが、次の一点だけ指摘しておく。多くの出版者にも共通することだ。多くが勘違いしている
 謀って、別段の文言でもないかぎり、設定出版権契約の場合といえども、出版者・出版権者に他人の著作物の二次使用の許諾権はない。法・第八〇条に『出版権者は、他人に対し、その出版権の目的である著作物の複製を許諾することができない。』とある」。
 伊藤編集部長の著作権法に対する無視、無理解の根本は、第八〇条「出版権者は、他人に対し、その出版権の目的である著作物の複製を許諾することができない」の無理解にあるとみて間違いないでしょう。
 伊藤編集部長が、いまさら「貴殿は和気弘氏の訳文を含め『チャイナ・クライシス重要文献』所収の訳文を『原典中国現代史』に転載することをあらかじめ承諾しておられたものであり」などということを蒸し返してくるのは、豊田氏の言葉を借りれば、トンチンカンであります。私は、さきの第一信でもわざわざこのことに触れ、「別段の文言」がないこと、すなわち「和気弘の翻訳は和気弘自身に著作権があり、蒼蒼社にその全権を譲渡した覚えはありません」という事実を明記しておきました。しかしながら、「古色蒼然とした著作権観」を墨守する伊藤編集部長には、その意味が理解できないのであります。そもそも、伊藤編集部長は、貴社が何故、矢吹、白石、村田三氏に著作権法違反のあった事実を詫びて、改めて著作権料を支払わなければならなかったか、そして「おわび」で貴社が何を詫びたのか、その著作権法上の論理的脈絡をまるで判っていないのであります。  何故、こんなトンチンカンなことを言いだすのか? 私の察するところ、この事務当局者は、矢吹、白石、村田三氏との著作権法違反の交渉をすべて秋山弁護士まかせにしてしまい、自分で著作権問題を考えることなく、ことなかれ主義で、一件落着としたからではないでしょうか。著作権法を尊重するというのは、弁護士を雇えばなんとかなるといった体のことではなく、著作者と出版権者がともに著作権法を勉強して、それを基準にして両者の利益をまもり育てる不断の努力を必要とすると私は信じます。

(3)著作者の責任と出版権者の責任
 私は、貴殿への公開質問状を発すると同時に、『原典中国現代史』第二巻「政治」(下)の編者である岡部達味(専修大学法学部教授、東京都立大学名誉教授)、天児慧(青山学院大学国際政治学経済部教授)両氏に対して、以下のような質問状を発しました(一九九七年二月十日付)。
   *
 私は、「おわび」に関連する滑笏g書店の責任を追及する滑笏g書店代表取締役安江良介殿への公開質問状を発しましたが、当該書の編者であるご両人の責任をも問いたいと思います。私は、御両人は滑笏g書店とともに共同して和気弘の著作権を侵害したと了解しており、御両人の責任は、岩波書店の責任とはまた別のところにあると信じます。これに対して、御両人はどのような基本的認識をもっておられるかを、まず御返答いただきたく存じます。
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 私の、この質問状に対して両氏から以下のような回答がありました。
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 前略 貴殿からの一九九七年二月一〇日付け書面拝見いたしました。
 『原点中国現代史』への訳文転載につきましては、同書別巻に「おわび」を掲載し、取るべき措置は取ったものと理解しております。
 和気弘氏の訳文の転載については、岩波書店が同氏に直接お会いしたうえで対処すると言っておりますので、同書店に和気氏ご本人よりご連絡下さい。
                   一九九七年四月二日 岡部達味 天児慧
   *
 「別巻に『おわび』を掲載し、取るべき措置は取った」との両氏の返信に接して、改めて同書を何度もひもといてみましたが、両氏の名前の「おわび」はどこにもなく、「岩波書店」名の「おわび」があるのみです。
 両氏と「岩波書店」はおのずから別個の人格です。岡部達味、天児慧両氏は『原典中国現代史』第二巻「政治」(下)の「著作者」であり、株式会社岩波書店代表取締役安江良介殿は岡部達味、天児慧両氏の著作の複製権を譲り受けた「出版権者」です。「岩波書店」の「おわび」は出版権者のおわび以上のなにものでもなく、著作者(編者)のものであるはずがありません。両氏は、自らが犯した著作権法違反(複製権の侵犯、同一性保持権の侵犯、氏名表示権の侵犯)についてまだなんら取るべき措置を取っていないと断言できます。
 ちなみに、著作権法第一一九条は、著作人格権・著作権を侵害した者に、三年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する「罰則」を規定しています。
 ところで、さきに披露した岡部、天児両氏連名の書翰はワープロで打ったものですが、同一の封筒には、天児慧氏の肉筆の手紙が添えられていて、天児氏単独の弁明が記されております。最後に、「私信の秘密は守っていただきたいと思います」とありますから、全文の引用は遠慮して、上記の書翰の解釈に関わるポイントだけを引用させていただくことにしましょう(綸言汗のごとし。天児氏はいまを時めく言論人であり、この手紙は私への公式の回答であります)。
   *
 〔前略〕今回、原典中国現代史出版にあたっては、すでに決まっていた岩波の編集方針(訳文のあるものはそれを優先的に使用する)と出版社からの了解を得ているとの岩波編集担当者の話を受けて、作業を行ったにすぎません。このことは他の巻にもすべてあてはまります。「チャイナクライシス」から多くの引用をしたのは、読者が元のものにあたりやすいという考えと同時に、「チャイナクライシス」の宣伝にもなるとさえ思ったからです。岡部先生も別巻の「中国研究ハンドブック」の元の原稿では「チャイナクライシス」を天安門事件に関する最高の資料集と高く評価した紹介をしていたほどです。これは今回の事件が発生したため取り下げたそうです。
 私達の共通の回答は別紙のとおりですが、その裏にある思いは、上記のとおりで、それが逆に逆にと受けとられていることに残念さと同時に悲しささえ感じます。問題が、これ以上こじれることがないことを祈り、かつ、中村様がこうしたことでなく、本来の出版事業の中で、これまで築かれた高い業績の上に、さらに大きな社会的貢献をなさるよう、力を集中されることを心より希望致します。〔後略〕
   *
 さて、この編者たちの著作権法に対する無知は恐るべきものがありますが、かれらに対する責任の糾明はまた別の問題ですから、ここでは直接ふれません。ここで注目されるのは、両氏の書翰が明らかに伊藤編集部長と回答内容を打合せのうえ投函されていることです。すなわち、両氏の書翰は、伊藤編集部長の回答を前提にして書かれていますので、著作者の責任と出版権者の責任との関連について、貴殿が、どのように考えているかについてお尋ねしたいと思います。

 天児肉筆書翰によれば、「原典中国現代史出版にあたっては、すでに決まっていた岩波の編集方針(訳文のあるものはそれを優先的に使用する)と出版社からの了解を得ているとの岩波編集担当者の話を受けて、作業を行ったにすぎません。このことは他の巻にもすべてあてはまります」とありますが、これは事実か否か。『原典中国現代史』の編者は、まるで貴社編集担当者が操る操り人形のようであります。
 この文言をもって天児氏は、編者は著作権法上の責任は負わない、と主張しているように見受けられます。事実、両氏署名の回答で、「『原典中国現代史』への訳文転載につきましては、同書別巻に『おわび』を掲載し、取るべき措置は取ったものと理解しております」と言い切っております。
 しかしながら、『原典中国現代史 第二巻「政治」(下)』は、滑笏g書店編集部編ではなく、「岡部達味、天児慧編」であり、万国著作権条約にもとづき、Tatsumi Okabe and Satoshi Amakoと銘打ち、国際的な著作権を主張しております。岡部達味、天児慧両氏は、当該書を編集し、解説を書き、貴社より金品の支払いをうけ、また著作をものしたという社会的名誉を受けております。これだけの権利を享受しておきながら、当該書発行の著作権法上の責任は一切負わない、それは株式会社岩波書店代表取締役安江良介殿が負うのみであると言い張っているのです。この著作者のあまりに虫のいい言い分に、出版権者である貴殿は、どのように対しておられるのでしょうか。常識的に見るなら、「原典中国現代史出版にあたっては、……出版社からの了解を得ているとの岩波編集担当者の話を受けて、作業を行った」とあるのは、著作権法上の事務処理は株式会社岩波書店が代行するという約束(契約)をして著作したという意味でしょうが、貴社においては、こうした常識は通じないようにお見うけします。
 重ねて質問します。貴殿は、貴殿が出版した岡部達味、天児慧編『原典中国現代史 第二巻「政治(下)」』が犯した、和気弘の複製権の侵犯、同一性保持権の侵犯、氏名表示権の侵犯について、著作者(編者)である岡部達味、天児慧氏には、全く責任がなく、貴殿のみに責任があるとお考えでしょうか。
 以上、株式会社岩波書店への公開質問状・第二信を発します。すみやかなる回答を求めます。草々
一九九七年六月十日
和気弘代理人・株式会社蒼蒼社代表取締役中村公省
                  
  追 伸

株式会社岩波書店代表取締役大塚信一殿
 謹啓 前記書翰を脱稿ののち、五月三十日付にて安江良介殿が病気療養のために相談役に退いたとの報に接しました。安江良介殿の一日も早い病気平癒をお祈り申し上げます。
 また、同時に、かつて専務取締役であった貴殿が株式会社岩波書店の代表取締役社長に就任されたことを知りました。本件にかかわる貴社の責任は、当然のことながら新代表取締役社長である貴殿に全面的に引き継がれるものと拝察します。前記書翰中に「安江良介」とあるところは、一部を除きすべて貴殿「大塚信一」に訂正いたします。貴殿の責任ある回答を要求します。
                敬具  一九九七年六月十日
和気弘代理人・株式会社蒼蒼社代表取締役中村公省


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