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第73号


中国ビジネスリスクを克服するキーワード 筧 武雄 (横浜銀行国際部)
連載中国的なるものを考える12「客家再考(下)──客家研究の新段階」 福本勝清(明治大学助教授)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋


中国ビジネスリスクを克服するキーワード
筧 武雄 (横浜銀行国際部)


金を出さない中国側は初めから絶対に損しない
 中国側は交渉を開始するとき、必ずと言っていいほど、この事業がいかに日本側にとって有意義で、メリットがあるかということについて押しつけがましく演説してきます。こちらにしてみれば余計なお世話なのですが、このときからすでにマインドコントロールは始まっているのです。
 何故、日本人は中国人の巧みな弁舌にからめとられてしまうのでしょうか? 彼らは、彼らの争える土俵を良く知っています。まず、そこから外には決して出ようとしません。日本側がそこから無理矢理引っぱり出そうとしても、絶対に乗ってきません。
 中国人は基本的に人間不信です。個人主義に走るのも、万事コネに頼るのも全て人間不信から発しています。「自分は天国、他人は地獄」というのが彼らの考え方です。なんとも貧困な精神ですが、これが現実です。そんなせちがらい中国社会で切磋琢磨してきた強者達とサシで渡り合うには、日本企業は基本的に修行が足りません。
 それはさておき、中国企業は自分達に外貨がないこと、技術もないこと、資源もないこと、販売力もないこと、輸出もできないことを誰よりもよく知っています。ですから、これらに関する正面からの議論は徹底的に避けていきます。そして、コネさえあれば何でもできるなどと誘惑的な裏街道的手口で巧妙に誘い込み、これらの弱点を逆に彼らの強みとして使いこなしていくのです。つまり、何をやって失敗しても、絶対に自分達は損しない構造を作り上げていくのです。
 彼らは現金出資をしません。外貨手当は不可能ですし、人民元だってありません。彼らにあるのは古ぼけた工場と余った人員と土地使用権です。そして日本、シンガポール、香港、台湾の友人が極めて不動産に弱いことを知っています。彼らは、場所と低廉な労働力を提供することから話を始めますが、そのスタートラインから根本的に間違っているのです。
 海外に出かけていって事業を行うことは、外国側にとって重大なリスクを伴うものです。いざというときは投資全損のうえに損害賠償をかぶることにもなりかねません。このスタートラインそもそもが、中国側にはノーリスクで、外国側だけがハイリスクといえます。不動産の現物出資という条件が日本人にとって非常に魅力的に聞こえることはたしかでしょうが、そこには大きな落とし穴があるのです。
 相手側の懐に入って、その中で事業を実施すること自体にも大きな問題があります。出資比率がどうであろうと、電力、労働力、原料調達などの生命線的権限は基本的に相手側に掌握されるわけですし、生産能力、生産計画にしても相手側のキャパシティーの範囲内で制限を受けることになります。
 相手が大企業で、優良企業であればあるほど、出資比率など空しい約束でしかなくなります。
 このような不平等かつ利用されるだけの商談を回避するためにはつぎのような原則が必要でしょう。
 @双方現金出資とする
 A資本参加ではなく、新規設立とする
 B新企業は独立した場所に設立される
 C新企業は独立した経営権を持つ
 D利益回収は配当により回収する
 E撤退時の清算は公正かつ確実に行われる
 教科書的な原則ですが、これをまともに約束できる中国企業はそれほど多くありません。

「合弁は高リスク、まずは楽な技術提携から始めよう」が底なし沼の始まり
   中国経験の長いコンサルタントなどが、よく言う決まり文句に「いきなり合弁はやめて、まずは技術提携で相手の内容をよく見極めてから」という言葉があります。かくいう私自身も、以前は長い間、同様のアドバイスをしてきました。
 ところが、技術提携でも決してスムースに行かず、結局、泥沼にはまったまま合弁に移行せざるを得ないようなケースが現実に少なくなく、このようなアドバイスには問題がある、ということに気づいたのです。
 技術提携のリスクが低く、楽であるというのは全く間違いです。
 出来上がった製品を客先に納品してオーケーをもらうためには、生産ラインの品質保証管理体制が不可欠です。しかし、技術提携や委託加工では経営権が相手先にあるため、当方はその経営に直接介入することができず、最終的な品質責任を保証することは困難です。また、技術契約、外注契約は法律上も無限責任となります。
 当初は技術提携でスタートしても、結局は直接技術者を常駐させなければならなくなったり、部材支給してやらなければならなくなることは珍しくありません。こちらで資金手当してやらなければ、部材の調達もできなくなるなどの底なし沼にはまっていきます。結局、やっていること、負担は法人設立と大差ないものになっていきます。
 こういうことを考えると、最初から直接の経営権を持ち、自らコスト管理ができて価格決定でき、法律上も有限責任で経営できる法人設立としておいたほうが、実は低リスクで高収益、効率的ではなかったか、と思われてきます。
 これは言い換えれば、既存の中国公司に何を期待できるか、ということにほかなりません。例えば、縫製や玩具のようにすでに熟練工が多く、設備も材料もほとんど現地で揃うといったケースは技術提携、委託加工の方法で対応できますが、精密なものになってくると技術提携のメリットはほとんど失われてきます。技術も資金も人材も設備も材料も販路もなく、せいぜい期待できるのは工場のモラル程度ということにもなりかねません。
 つまり、中国公司のレベルがあまりに低い場合は、下手な技術提携をして失敗するよりも、最初から自前の独資工場としてスタートしたほうが結果的には成功ということです。

日本をリストラするつもりが中国のリストラを背負わされ
 日本工場を廃止し、従業員を大量解雇するための大義名分として海外進出を行うケースがあります。今や空洞化は珍しいことではなく、社会的にも認知されつつあるため、海外への生産移転は企業の生き残り策として格好の理由になります。しかし、実際には海外で生産する意志などもともとなく、国内工場を整理することが主な目的であるケースです。
 ところが、中国側のほうがもっと深刻、一枚上手の場合が多いようです。
 九六年前半『チャイナデーリー』紙(中国国内で発行されている英字紙)で公表されたデータでは、全国の国有企業一四万八千社の九五年度債務総額は三兆三六〇〇億元で債務/資産比率はなんと八五%、年間の支払利息は総額一千億元で、三分の一が赤字決算を計上しています。総資産金額の九〇%近くを借入金に頼り、毎年多額の借金をしなければ存続し得ない国有企業が多数あるということです。
 実力のある中国公司を見極める視点はただひとつ、その資金(調達)力にあるようです。
 その後、国務院国家計画委員会の発表によれば九六年一〜九月で国有企業の赤字は著しく拡大し、全体の八七%が赤字計上となりました。このような状況を受けて、世界銀行レポートは、九万社の小規模国有企業を売却民営化すべきだと指摘しています。
 俗に言う「●(手+爪)大放小」(大規模を掌握し、中小は放任する)ではありませんが、中国政府は金融支援を実施する大型優良国有企業三百社を発表するかたわらで、中小型国有企業に対しては次の十の指針を指示しました。
 @公司法のもとで自主的に有限責任公司に転換する。
 A従業員に株式を買わせる。
 B集団化、合併を実施する。
 C企業資産を外部にリースする。
 D資産を公開売却する。
 E「接ぎ木方式」により外部資金(外国資本)を導入する。
 F破産宣告する。
 G優良企業に経営委託する。
 H現状維持し、経営強化、効率化を図る。
 Iその他効果があると思われる対策をとる。
 しかし、中小国有企業といえども従業員数千名を抱え、一人あたり四〜八万元と言われる「退職手当」を支払うこともできず、最後の手段である国有企業の売却(身売り)も進んでいるようです。多額の借金と赤字は別として、その資産の売却価格が「実際の価値」よりも低く売られているとして「国有資産流失」が問題と言われているわけです。
 以上の現象をひとくちでまとめて言えば、今や中国国有企業との合弁案件の少なくとも十件中九件以上は国有企業リストラのための資金導入案件であると言えます。自己経営できる健全企業が外部に救済を求めることが希だと考えれば、中国側から持ちかけられる案件の九九%以上がリストラ案件だと言えるでしょう。
 彼らの甘い言葉に惑わされてはいけません。よほど慎重に対応しなければ、砂漠に水を撒くだけの結果に終わりかねません。

合弁は失敗すれば丸損で、うまくいけばとられる
 これは相手が悪ければ、の話です。しかし、長期的に考えれば、どんな合弁企業も経営期限があり、中国側は期限切れ後の、あるいは中途撤退後の、資産無償譲渡にかなり期待しているフシがあります。
 例えば、外資系ホテルや百貨店、貸しビルの多くは合作方式をとっており、少ない資本金に多額の借入を行い、期限には借入を返済して資産は中国側に無償譲渡するような仕組みをとってるところが少なくありません。ところが、天安門事件などの際、外人客の激減により当初計画の期間内では採算がとれなくなり、やむなく期限を延長せざるを得なくなった例もあるようです。
 中国側が合弁・合作期限の延長に対して大変厳しい姿勢を示す場合があります。つまり彼らから見れば、何もしなくても期限がくれば無償で戴けるものを、何故延期しなければならないのかということです。期限の延長はすなわち不利益であり、当然その見返りが必要というのが彼らの正論でした。
 つまり上海などの高層ビルは外国資本が建築し、一定の期間がたてば自動的に中国のものになるのです。短期間でのテナントや採算など、彼らの知ったことではないのも当然でしょう。五十年もたてば全て無償で中国のものになるのですから。
 同じ様な感覚が生産工場にもあてはまります。無期限の合弁は極めてマレですから、外国資本による立派な工場も、五十年もたてば、全てタダで中国のものになるのです。こんなウマイ話はありません。ここにも中国政府が外資誘致に躍起になる理由があるのでしょうか。

中国工場では、現地人社長による現地式管理が最も向いていない
 ある農協が中国の公司と合弁して養鶏場を始めました。最初は日本式の鳥かごをつくって鶏をたくさん飼育し、卵をどんどん産ませて、食品加工することにも成功しました。もう大丈夫ということで、日本人が日本に帰国したところ、急に生産高が減り、品質も劣化してしまいました。現在では配当など望むべくもなく、売上利益も人民幣のため日本で受け取ることができません。結局、投資全損で泣き寝入りとなっています。
 現地調査に行ったところ、日本式の鳥かごは壊され、中国式の地面での放し飼いになってしまっていたというのです。たしかに鶏がかわいそうということは言えるでしょうが、これでは合弁事業の趣旨が元の木阿弥です。
 同じ様な話はほかにもあります。
 工場管理に慣れてきたので、思い切って日本人は引き揚げ、短期間中国人の副総経理に任せてみることにしたところ、彼は夜遅くまで操業し、休みも返上して一生懸命働いています。感心していたところ、実際の生産高はそれほど増えていません。あれだけ頑張っているのに原因がわかりません。その後の現地調査でわかったことは、実は、「余暇時間」に勝手に生産ラインを動かして、製造したものを勝手に販売していたのです。あるいは、本業と関係ない私物を製造、修理していたことがわかりました。 中国人管理者による適切な管理は望むべくもないのでしょうか。
 一面的な見方かもしれませんが、筆者が過去見てきた中国公司の伝統的な現地式経営とは、だいたい次のようなものです。
 公司には人事、給与、販売、購買、貿易、財務、開発、研究などの自主経営権はなく、単に決められた数量、規格の製品を製造するだけの工場でしかありません。供給が不安定なために、材料が手に入るときにまとめて購買し、数ヶ月で作りだめするために、一年の後半は工場は稼働していません。したがって売上高に匹敵するぐらいの製品在庫と材料在庫を抱えています。売上代金を回収できないために、多額の売掛金(=未収金)とほぼ同額の買掛金(=未払金)残高があります。
 従業員は九時に出勤し、新聞を読み、十一時半頃から昼休みに入ります。幹部は帰宅し、一般社員は食堂で食べて、二時まで昼寝します。四時頃から帰宅が始まり、五時には全員が退社します。それ以前に、従業員の三分の二ぐらいはそもそも出勤せず、「退休扱い」として隠居しているか、「待業扱い」として自宅待機となっています。三交替でやっているという言い訳は、多くの場合、嘘です。
 

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中国的なるものを考える12
「客家再考(下)──客家研究の新段階」

福本勝清(明治大学助教授)


 少し、回り道することになるが、前回紹介した『□(登+都−者)小平在○(章+夂+貢)南』には、三一年夏、□小平とともに瑞金に派遣された金維映(一九〇四〜一九四〇年、浙江舟山人)の活躍する様子がよく描かれている。反羅明路線闘争の渦中、二人が離婚するにいたったことも書かれている。極左路線の下、十字砲火を浴びていた□小平に対し、彼女の方から離婚を要求したことについても、やむをえざる選択だったと同情的に書かれている。このような記述が登場するにいたった政治的背景を考える必要があるのかもしれないが、ここでは、一人の優れた女性革命家が歴史的復権を果たしていることを素直に喜びたい。
 話を客家に戻し、最近の客家研究の幾つかの注目すべき動向について触れてみたい。といっても昨年夏、北京に旅して以来、わずか半年間に目にしたり、耳にしたことについての印象といったものにすぎないのだが。
 一つは林嘉書『土楼与中国伝統文化』(上海人民出版社)に顕著に見られるものである。『土楼与中国伝統文化』は口絵のカラー写真につられて購入したことは前回述べた。すぐに読了したことはしたが、正直、読み進めるうちに、読むのがだんだんつらくなった。装丁の良さ、図版の豊富さ、土楼とその建築技術といった文物へのこだわり、考古学や建築史、美術史、そして文化人類学的な著作からの引用。それらの装いの目新しさとは逆に、客家は偉大なる黄河文明、中原文化の継承者であり、円形土楼に代表される土楼はその象徴である、といった主張が、後半に進むほど声高に叫ばれる。土楼は小宇宙であり、そこに宗族が相睦み合う客家の共同精神が体現されている、云々。土楼を作り上げたその建築技術(版築技術)が如何に優れたものであったのかについて延々聞かされるのも少々うんざりさせられるが、風水や五行説までもが、何やら準科学的な装いで語られるにいたっては、もうたくさんという気になる。
 その主張のそれぞれに何ほどかの真実はあろう。が、その一切合切が、自らの伝統文化ひいては民族文化の優秀さの誇示に収斂してしまっては、主張は却って説得力を失う。また、援用された建築史、美術史、文化人類学などの学説や知識も、自らの主張に都合良いように、利用しただけとの印象を与えることになる。
 その後、林浩『客家の原像』(中公新書)を読んだが、全く同じ印象を持った。さらに客家はもともと中原の名門、名家であり、教養ある文人の家系であり、南遷後もそのことを忘れず家名をあげ、祖先に栄光をもたらすべく、子弟の教育に力を注ぎ、多くの科挙合格者、優れた官僚・文人を輩出したなどと何度も読ませられるはめになった。
 実のところ、林嘉書『土楼与中国伝統文化』には、幾つか読まさせられる部分もある。たとえば、客家は広府人や福・など他の民系の後に南遷したがゆえに、貧しい山がちの土地に住みつかねばならなかったという、客家後来説や、円形や方形の土楼は、械闘に備えるため発生し巨大化したとの通説に異議を唱えた部分である。
 前者は、客家南遷後、彼らのテリトリーとなった東江(広東)、●(門+虫)西(福建)、○南(江西)のいわゆる客家地帯は、近代以前においては、けっして後進地域ではなかったこと、数年に一度氾濫を繰り返す黄河を抱え、さらに異民族の侵入を受けやすい華北平原や、熱帯モンスーンや洪水に見舞われやすく、しばしば戦乱の影響を受ける沿海地域に比べ、山間の小水系は統御しやすく、しかも四隣を山で囲まれ守りやすいという利点があったこと、それゆえ南遷の途上まず山間地区に入った人々──後の客家──は、生産力は低いが比較的安定した生活基盤を築くことができたと述べる。
 また、後者においても、もし土楼が械闘に備えたものであるならば、械闘がすさまじい他の民系においても、土楼文化が栄えてもよかったはずである。●西に近い●南側に土楼が多くあるにはあるが、それはみなもともと●西から移入した客家系の人々が建てたものであり、今は●南語を話していても、やはり客家土楼文化より派生したものである。他の械闘頻発地域に土楼がない以上、土楼と械闘の結びつきは偶然である。土楼は客家文化に固有なもの、客家の共同精神の現れであり、それがたまたま械闘の際、防衛の機能も持たされたということにすぎない。
 これらの主張に説得力がないわけではない。だが、たとえば、もし客家先来説に立つとすると、なぜ先来の客家が客と呼ばれるようになったのか、さらに中原の望族であったはずの彼らがなぜ彼らより文化的に劣っているはずの他の民系から客と呼ばれるのを認めるにいたったのかを説明しなければならなくなる。が、残念ながらその説明はなされていない。
 林嘉書、林浩らが持っている過剰な文化ナショナリズムは、我々にとっては、中華思想以外のなにものでもなく、客家研究のなかで読ませられるのは、大きな違和感を覚える。たしかに民国期の羅香林の著作に、すでにそのような過剰な文化ナショナリズムを読み取ることができる。が、客家が長い間差別に喘いできたこと、またその理由の一つとして、客家が非漢族であるとの見方があったことを考えると、自らのルーツを中原に求め、漢族の一民系としてそのアイデンティティを確立しようとする羅香林らの姿勢を、簡単には批判できないし、しかも、その最初の発表時期が、中国が植民地化の危機にあった一九三〇年代であったことを考えれば、その過剰さもまた止むを得ぬものといってよいかもしれない。
 だが、今は三〇年代でもなければ、竹のカーテンに囲まれつつ、毛沢東思想の世界布教を企図していた文革期でもない。平等の名の下に、各民系間の軋轢や差別をひたすら隠し続けた時代でもないのだ。鬱屈や逼塞の時代ではないのだ。如何に不自由であるとはいえ、手段を講ずれば、様々なルートにより海外につながり、情報の発信や受信が可能である。このような時代に、古代文明や伝統の継承者、子孫であることの誇示により一体何を得ようというのだろうか。そうしなければまだ自らのアイデンティティを保てないとでもいうのだろうか。

 さて、何故客家は客と呼ばれるようになったのかについて、房学嘉『客家源流探奥』(広東高等教育出版社)は、客は山客の客であり、客家はもともと山客と呼ばれていたと述べる。『探奥』は冒頭からすでに東江、●西、○南の客家地域に焦点があてられ、先史時代より、古代、明清を経て現代まで、その焦点がずれることはない。著者は、いわゆる●粤○三角地区にあくまでこだわるのである。古くより●粤○三角地区に住んでいた越系の人々、そこに流れ込んできた漢族流民との間に混合が進み、客家共同体の萌芽が形成され、彼らが漢化の道を歩むことによって現在の客家が成立したと主張する。北方漢族の南遷により客家が成立したとする通説はきっぱりと否定される。
 客家は絶対に故郷を忘れず、つねに故郷との繋がりを保ち続けようとし、長く異土にあっても必ず一度は故郷への帰還を果たそうとする。その客家が、もし本当に中原が客家の故郷であるなら、どうして具体的な地名までわかっている中原の故地に帰ろうとしないのか、またこれまで帰ろうとしなかったのか、と著者は辛辣な疑問を投げかけている。
 このような房学嘉の主張が、どのくらい賛同を得ているのよくわからない。大きな反響を得たとしても、おそらく極少数派に留まるのではないかと思われる。民衆であろうと、研究者であろうと、自分たちの起源が純粋な漢族ではなかったという学説は、現状では客家の人々を不安に陥れることになるだけであろうからである。ことは歴史研究の範囲をはるかに越え、やはり人々の帰属意識やアイデンティティの問題にまで発展するだろう。
 ただ、『探奥』に寄せられた幾つかの序、跋を読むならば、房学嘉の新説は、華南の各族群(エスニシティ)に関する最近の歴史学及び人類学の研究に支えられており、その成果の多くが海外のものではあるとしても、研究の流れにおいてはそれほど孤立したものではないようで、ややほっとさせられる。ともあれ、さらなる成果の発表を期待したい。

 最後に黄栄洛『渡台悲歌』(臺原出版)に少し触れてみたい。本書は客家研究を謳った書物ではない。サブタイトルには「台湾の開拓と抗争」史話とある。前半は台湾への移住民及びそれを迎えた原住民にまつわる社会史、次に一八九五年日本軍の台湾進駐後の抗日闘争史が語られ、最後に客家移住民の風俗、風物が描かれている。移住を目指した貧しき人々、客家の移住及び開拓の苦しみ、それに巻き込まれ、土地を奪われ山地へ追われていく原住民たちの悲劇を、ともによく描いており、深く考えさせられる。
 著者は黄栄洛は客家。一九二六年、苗栗県に生まれる。日本の教育を受け、六〇歳近くになりようやく中文でものを書くようになった、とある。商売の傍ら郷土史、とりわけ乙未抗日戦争(一八九五年)の調査を志したのは、日本人吉野利喜馬によって書かれた『靖台之殿下』を読んで以来である。吉野利喜馬は遠征軍を率い台湾掃討中に台南で病没したとされる北白川宮能久親王を祭る新竹神社社司であった。
 同書において、日本軍の台湾占領に抵抗した郷土の抗日英雄の一人、苗栗県銅鑼郷の呉湯興(客家)に対し異常なほどの敬慕が示されていることに、驚き、且つ疑問を持った黄栄洛は、調査を通じて、北白川宮は病死したのではなく、実は呉湯興率いる抗日義軍との戦闘中、新竹において戦死したとの結論を得る。それをまず日本語で書き、人に見せたのが、彼の著述家としての出発であった。
 呉湯興はその後彰化県八卦山の戦闘において日本軍の大砲に被弾し、粉身砕骨、一片の骨も残らなかった。その妻黄賢妹は嘆き悲しみ夫に殉じようとしたが果たせなかった。それを伝え聞くや、感動した日本軍は轎を雇い夫人をその郷里へ送り返した。死を求めて止まない夫人は食を断ち、ついに世を去った、と黄栄洛は綴っている。
 本省人多数派である・南人に対し客家であること、客家内部においても抗争が繰り返されてきたこと、原住民(山胞族)に対し、その土地を奪った移住民であること、日本語で教育を受け、国語(官話)を改めて学びなおさなければならなかった世代であること、そして侵略者日本に対しては植民地住民であったこと等など、黄栄洛が抱えた数々のしがらみ、錯綜する関わりに対し、黄栄洛は一律に断じたり、正義を振りかざすことができる安全地帯に逃げ込んだりすることなく、それぞれ真摯に対応しているように見える。それぞれの歴史的事実に対し誠実に振る舞っているといった方がよいかもしれない。
 黄栄洛は、輝かしい古代文明の継承者でもなければ、あるいは正統思想を奉じなければアイデンティティを保てない類の人々とも違う。彼が描くのは、自分と同じ身の丈の郷土の人々、その苦しみや悲しみ、各族各集団間の抗争、親密な関わり、助け合い、そして強大な日本軍に対する苦闘、台湾民衆の健気な闘いぶりである。叙述における彼の誠実なまなざしは時には日本統治下の皇民となった人々に及び、さらには侵略者である日本軍や日本人にまで及んでいる。だが、そのことが却って読者の黄栄洛に対する誤解を生むことになるのではないかと恐れる。

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逆耳順耳
矢吹 晋


書評『毛沢東最後の女』
 邦訳の原書は『毛沢東和他的女人們』(台北、聯経出版事業公司、一九九〇年一二月)である。著者は京夫子。
 訳者(船山秀夫)あとがきによれば、「詳細な経歴は不明だが、かつて中国本土でかなり高名なジャーナリスト」「現在はアメリカに在住しているが、身の安全のため本名や現住所等は明らかにされていない」由である。
 身の安全を守ることは必要だが、匿名は往々、デタラメの隠れ蓑に用いられやすい。本書は娯楽読み物として、ニヤニヤしながら読むには楽しいが、これを史実と誤認してはなるまい。
 著者京夫子の見識は、李志綏著『毛沢東の私生活』とは似て非なるものだ。『私生活』は、英語版、日本語版、中国語版、いずれも少しずつ異なり、編集者や訳者の判断が挿入されているのが困るが、敢えて実名でタブーに挑戦し歴史の証言者たらんとしたことに私は敬意を払う。だが、本書は反面教師としか思えない。
 毛沢東が一四歳のとき、当時の慣習にしたがい、父親は二〇歳の童養・羅氏を娶った。この嫁について著者はこう書く。
 「一九二〇年に北京大学教授の忘れ形見の楊開慧女史と同居するまで、羅氏とは一三年にわたり、名目上の夫婦であった」「毛沢東の一四歳から二七歳にあたる」「羅氏と同じベッドに休み、父親に対する報復心理が、妙齢の羅氏に向けて発散されたと見るべきであろう」(一三ページ)。
 (ある噂では)毛沢東は「父と自分の妻の姦通を発見した。これは近親相姦の悲劇であった」(一三ページ)。
 毛沢東自身はこう語っている。
 「私が一四歳のとき、父母は私に二〇歳の娘を嫁に迎えたが、私は当時もその後も生活をともにしたことはない。私は彼女を妻と認めなかった」(スノウへの談話)。
 『毛氏族譜』によれば、羅氏は一九〇八年に毛沢東に嫁ぎ、一九一〇年二一歳の若さで病死している(この点は別の資料により、訳注にも示されている)。
 『毛沢東和他的女人們』の邦訳では省かれているが、長男毛岸英が朝鮮戦争で戦死した後、その妻劉松林と姦通したとあるが、これも怪しい話だ。唐の玄宗帝が息子の嫁楊貴妃を寵愛したことは史実だが、羅氏や劉松林の場合は、著者の創作ではないか。
 長征をともに歩いた賀子珍については、王行娟『賀子珍的路』(北京、作家出版社、一九八五年)があるが、著者は参照していない。
 張玉鳳との関係はすでに明らかなのに、なぜ張毓鳳と書くのか分からない。
 廬山会議前後の権力闘争の内実については李鋭『廬山会議実録』(北京、春秋出版社)などで詳細が知られているのをなぞっただけである。訳書のカバーと扉に老いた毛沢東を支える若い女性の姿があり、張玉鳳と説明されている。これは孟錦雲であって、張玉鳳ではない。しかもネガを逆に焼き付けている。評者はカバー写真とタイトル「最後の女」から、てっきり孟錦雲と思って読み始めたが、最後まで彼女が登場しなかった。フィクションなら虚実皮膜の間も許されよう。実録を装ったキワモノには騙されないようにしたい。訳者と編集者の見識が疑われる本である。
[追記]
 『日本経済新聞』(九七年二月一六日付)は、匿名の評者による短い紹介を行い、次のように結んでいる。
 「ここで書かれている内容がどこまで真実か定かでないが、著者が内実に相当詳しいことだけは間違いない」。
 これは典型的な無責任評論であろう。「どこまで真実か」についてのあの程度のメキキを行うことが評者の責務ではないか。それをまるで放棄しつつ、他方で、「著者が内実に相当詳しいことだけは間違いない」と太鼓判を押す軽薄さ。私の見るところ、本書の著者は「内実に相当詳しい」のではなく、それを装っているだけのこと。そこを見抜けないような節穴ジャーナリストに評者の資格なし、というのが私の評価である。

蛇  頭
 このところ日本のマスコミで、「蛇頭」(ジャトウ)は、すっかり定着した感がある。東京で誘拐された中国人の身代金を福建省で支払ったとか、密入国者が房総に着いたり、といった具合で、「蛇頭」といわれる密航斡旋組織あるいは「スネークヘッド」の暗躍が表面化したわけである。
 あるとき、ある酒席で友人の高木誠一郎教授が私に話しかけた。あなたは以前、蛇頭について話題にしながら(『蒼蒼』第58号)、コトバの意味に肉薄していない。それは困る、という趣旨である。
 『蒼蒼』でそれを展開したい、とのことであったが、その後、依然誌面に現れない。たまたま思いついたので、書き留めておく。
 高木説は、蛇頭をスネーク・ヘッドと訳すのは、誤訳であり、ヘッド・スネークとすべきだというものだ。どうちがうのか。スネーク・ヘッドなら、蛇のアタマである。ヘッド・スネークなら、ヘッド・マン(頭目、首長)、ヘッド・マスター(校長)と似た形で「オカシラの蛇」、どこかでよく使われる「首領さま」である。
 この高木説に、むろん異議はない。私は携帯電話を香港で「大哥大」となぜ呼ぶのかを検討し、「大哥(名詞)」+「大」(形容詞)である。すなわち広東語では、形容句が後につく順行構造なのだと説いたのであるから、高木氏は私に傍証を提供してくれたことになる。

「謀略」ということば
 手元に『□(登+都−者)小平 Deng Xiaoping 謀略』という本がある。蕭詩美著、紅旗出版社、一九九六年三月刊である。
 これは「謀略系列叢書」の一冊で、『毛沢東謀略』『周恩来謀略』『劉少奇謀略』などと並ぶシリーズの一冊だ。
「代序」でいう。

 私はかつて毛沢東は古今東西の最も偉大な謀略家だと断言したことがある。謀略を論ずるならば、古今東西毛沢東に匹敵する謀略家はいない。この言についていまだ異論を聞いたことはない。では、□小平はどうかと問うべきであろう。□小平の謀略と知恵は彼独特のところがあり、世人が彼に与え、彼自身が喜んで受け入れた唯一の称号「総設計師」から、そのユニークさを体得できる。
「総設計師」はむろん「導師」「統帥」「舵取り」の類ほど「神秘的」ではないが、謀略のニュアンスはむしろ突出している。毛沢東はかつて□小平を「軍師」として招いたと語ったことがある。「軍師」とは、由来「謀」を出し、「略」を画する者をいう。あたかも『三国演義』の諸葛亮のようなイメージである。
 中国人の辞典では「謀略」とは「謀」を計ることであり、「設計」はほぼ「謀略」と同義である。中国人は事を成すは天にあり、事を謀るは人にあり、と信じている。ここから分かるように、謀略は人が設計して行うものだ。
 □小平が「総設計師」たるゆえんは、彼の設計した謀略がとうぜんつまらぬ小技ではないことを意味している。彼が「総設計師」の称号を得たのは七五歳の高齢になって中国の「第二次革命」を指導し、混乱から大治に、崩壊の瀬戸際から繁栄に導いてからである。

 この本はついで「治乱の謀略」「発展の謀略」「経済の謀略」「政治の謀略」「軍事の謀略」「統一戦線の謀略」「外交の謀略」を論じている。
 私がこの短文を書いている目的は、□小平の謀略を紹介するためではない。謀略というコトバの性格について注意を喚起したいからである。
 引用から明らかなように、中国語の「謀略」のニュアンスは、日本語とはかなり異なり、大声を出して語るのをはばかるようなものではない。家やビルを建てる場合に、設計についてあれやこれや語りながら知恵を出してより住みやすい部屋を作るのと同じだというのであるから、まじめにそれをやらないのはどうかしている。まことにチエのない、愚か者ということになる。ウツケ、タワケと怒鳴られたくなければ、智恵を使うのは当然、これが中国人の常識なのだ。
 かつてこんな笑い話を聞いたことがある。ビジネスの交渉がようやくまとまり、契約調印のため、本社からエライさんが宴会にでかけた。挨拶に立った先方のコトバを一知半解の通訳氏が直訳した。「わが方のサクリャクが成功して、今日の宴会になりました」。件のエライさんはびっくり仰天して逃げ帰ったといういかにもありそうな、なさそうな話である。
 「談判」も誤解を招きやすい点で似ている。「日露ダンパン破裂して戦争になった」という一句があるように、日本語の「ダンパン」はきつい交渉である。しかし、中国語では、「話合い」「協議」程度のニュアンスにとどまる。
 ところで、日本語では普通のコトバなのに、中国語でやたらと緊張するものがある。「情報」や「調査」がそれである。
 日本語では「諜報」と「情報」を区別し、後者については、なんのためらいもなく普通に使う。わが友、スチーブン・ハーナー(ドイツ銀行上海首席代表)が三菱総合研究所の月刊『中国情報』に寄稿するようになって最も頭を傷めたのは、この「情報」の二文字である。諜報雑誌に定期的に寄稿することが中国人使用人にばれたら、どんな密告(小報告)になるか知れたものではない。彼はその雑誌のタイトルを不用意に他人に見せないように細心の注意を払っていた。雑誌の中身を読めば、諜報雑誌でなく、ビジネス雑誌であるのは、一目瞭然だが、中国で雇ったアマさんに日本語の雑誌が読めるはずはない。ただ、表紙に大文字で書いた「情報」の二文字だけは読めて、しかもその中国語の意味が分かるからやっかいなのだ。
「調査」がなぜ警戒すべきコトバなのか、は少し複雑である。毛沢東に「湖南農民運動調査報告」があり、調査はリサーチにすぎまい。しかし、抗日戦争期に国民党は「調査統計局」の名において、共産党員やそのシンパを捉え、拷問し、虐殺していた。私はむかしアジア経済研究所の調査研究部に所属する研究員であったが、六〇〜七〇年代にその名刺を見た華人・中国人のなかには、複雑な表情を見せる者が少なくなかった。
 改革開放が進展するなかでインフォメーションの重要性は飛躍的に増大した。市場情報なくして市場経済が成り立たないことは火をみるよりも明らかだ。とはいえ、「情報」の二文字には抵抗感が残る。そこで代替したのが「信息」である。日本語のジョウホウ、英語のインフォメーションの意味でこの「信息」は広く用いられるようになった。こうなると、「情報」まで名誉回復するのが面白い。
「小姐」や「太々」の名誉回復も印象的だが、この種のコトバを口にする場合、私はいつも香港、台湾、中国、それに日本を加えて「四つの世界」のどこで誰と話しているかをまず意識する。これは長年のクセであり、これではなめらかな会話になるはずがない。しかし、誤解の余地はほとんどない。

□小平の死
 □小平老が静かに消えた。死亡時刻は九七年二月一九日夜九時八分(日本時間一〇時八分。以下日本時間による)と公表された。
 このニュースを世界で最も早くかつ正確に伝えたのは、香港のCTNテレビ(香港伝訊電視)であり、二〇日早暁二時一八分のことである(香港『九十年代』九七年三月号)。新華社通信が□小平死去を伝えたのは、CTNより遅れること約一時間半、午前三時四四分であり、死亡時刻から五時間三六分後であった。
 □小平のライバル陳雲のケースと比較してみよう。陳雲は九五年四月一〇日午後三時四分に死去した。公表は、死去後二九時間後の一一日夜八時の中央電視台全国番組で行われた。これは一昼夜前後で訃報を出す中国の近年の慣例からみて異常に遅く、さまざまな見方が行われた。陳雲の長男・陳元(中国人民銀行副総裁)ら遺族が天安門事件に際しての陳雲の政治的立場についての記述にクレイムをつけたためとする報道が当時行われたが、これはほぼ確実である。四月一七日付の新華社追悼文および宋平(政治局常務委員)の追悼文(『人民日報』九五年五月二三日付)においては、陳雲の政治的立場はこう説明されている。
 「一九八九年の動乱反対(天安門事件を指す)のなかで陳雲同志は旗幟鮮明に党と人民の根本的利益のために大量の工作を行った」と。
 ところが、肝心のこの一句が正式な「訃告」(「中共中央、全人代常務委、国務院、全国政協、中央軍事委訃告」『人民日報』九五年四月一二日)には欠如していた。四月一一日、折から来日中の全人代喬石委員長は天皇と会見しており、北京を留守していた。こうした事情もあって、陳雲の遺族の主張を政治局レベルでどう扱うかてまどり、結局「訃告」に遺族の主張を容れたものの、中共中央の立場はそれとは異なるものであることを明示したのが前掲の新華社および宋平の追悼文である、とみてよいであろう。
 では、□小平の場合、天安門事件についての立場はどう説明されているのか。この「訃告」においては、天安門事件は「動乱」ではなく、近年の呼称にしたがって「政治風波」とされている。この四文字は「訃告」(『人民日報』二月二〇日)においても江沢民の追悼演説(二月二五日、追悼大会)においても同じである。陳雲の死去こそが天安門事件の扱い方の反面教師になり、□小平訃報の基調を決定したとみてよい。事件後すでに八年目であり、事件の風化がいっそう進んだことも□小平には有利な条件であった。□小平はここでもまた「強運」に恵まれた。
 訃報や追悼演説から□小平に対する功罪の評価を読みとろう。皇帝・毛沢東の死去は中国にとって「はかりしれない損失」(原文=不可估量的損失)と評価されたのに対して、宰相・周恩来のそれは「巨大な損失」(原文=巨大的損失)と評価された。陳雲のばあいは「巨大な損失」であり、周恩来と同格であった。これに対して、□小平は毛沢東と同じく「はかりしれない損失」である。この問題を□小平自身はかねてこう語っていた。
 「私の評価を過度に誇張するな。分量をあまりにも重くするな。私の規格を毛主席の上におく者もあるが、それはダメだ。そんなやり方で名誉を高めると重荷になる」(『□小平文選』第三巻三一七ページ)。
 こうして「毛沢東の上におく」ことを避け、同格に並べたわけである。これは□小平の権威によって後継者に抜擢された江沢民個人の立場からして当然であろうが、同時にそれは、毛沢東の失敗を尻ぬぐいして今日の中国経済の繁栄を導いた□小平の指導力に対する実際的な「実事求是」の評価にも堪えうるものでもあろう。
 死去の直後、彼の遺言の一部が「家族(遺族)の手紙」の形で明らかにされた。これは二月一五日付であり、このころが臨終直前であったことを示唆する(なお、この日に中国政府外交部スポークスマンが「□小平同志の健康にはいかなる変化もない」と明言した事実も記憶にとどめておくべきであろう)。
 家族の手紙には、「遺体告別式は行わない。遺骨は海にまく」などが書かれていた。毛沢東のミイラがグロテスクな形として残されたこと、周恩来の遺骨が北京市郊外の十三陵ダム上空でまかれたことを想起すると、□小平は基本的に周恩来の衣鉢を継いでいることがわかる。ただし「遺体告別式を行わない」点では周恩来方式よりも一歩進んでいる。その根拠として家族の手紙は故人が「徹底した唯物論者であり、生死の問題について達観した見方をしていた」と説明した。毛沢東自身も「徹底した唯物論者」を自称していたが、死後の権力闘争のなかでミイラ化の運命を免れなかった。
 訃報に接して、私が最も印象深く感じたのは、□小平が自らの「引退劇のシナリオ」を実に巧みに描き、かつ実践したことである。
 彼が最後の公職ともいうべき軍事委員会主席の地位から引退する旨の手紙を書いたのは、天安門事件が一段落した一九八九年九月四日である。その二カ月後に開かれた一三期五中全会で引退が正式に決定され、彼は政治の表舞台からひとまず消えた。
 しかし、九二年春節前に突然深●(土+川)経済特区に姿を現し「改革開放路線の復活」を呼びかけた。それは天安門事件以後の保守派流引締めムードのなかで名存実亡になっており、さらに九一年暮れの旧ソ連解体の衝撃に直撃されて深刻な危機に陥っていた江沢民、李鵬執行部に対して、□小平路線の堅持を劇的な形で迫るものであった。これを契機として、中国経済はふたたび市場経済への移行に拍車をかけ、九二〜九六年の高度成長が実現された。
 このパフォーマンスを契機として、天安門事件後の保守派主導路線が改革派主導に大転換し、九二〜九六年の高度成長がなしとげられ、江沢民体制への安定的移行が実現しつつある。その現実を踏まえて□小平評価は毛沢東と並べられた。権力の継承を巧みにやってのけた点ですでに毛沢東を超えている。
 いずれは毛沢東評価をはるかに超える可能性がますま強まりつつある。もし、天安門事件以後の保守派優位の政治、経済成長の低迷状況のもとで彼が死去したとすれば、今日の中国の姿も、□小平評価もかなり異なったものとなっていたはずである。
 とはいえ、九四年春節に老齢で弱々しい姿をテレビの前にさらしたのち、八月二二日、満九〇歳の誕生日を契機として、いわば「舞台裏からの引退」を宣言した。その直後に開かれた一四期四中全会は「以後、政策の決定に関与しない」という□小平の意志を確認し、江沢民体制が実質的にスタートした。
 表舞台からの引退以来七年半、舞台裏からの引退から数えても二年半が経過していた。この間、江沢民は後継体制を固めるに十分な時間を得ることができた。
 九五年六月、台湾の李登輝総統が訪米し、これに抗議する形で江沢民指導部は台湾海峡でミサイル演習を繰り返し、核実験を重ねた。これら一連の軍事的威嚇行為および江沢民が軍事委員会主席に就任して以後に行われた五〇名におよぶ上将(大将)任命を通じて江沢民は人民解放軍をひとまず掌握した。事実、□小平死去の直後に解放軍は江沢民体制に忠誠を誓う旨の意志表明を行っている。
 いわば危機管理内閣ともいうべき江沢民執行部をもり立て、それに一応の権威をつける時間を残して□小平は静かに消えたのであった。この用意周到な配置は、□小平の政治家としての力量がなみなみならぬものであることをよく示している。

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