蒼蒼ロゴ

第71号


別有天地 市川宏(《中国現代小説》前「編集長」)
江沢民は世紀に跨がる権威体制を固めている 楊中美(当代中国センター代表)
連載中国的なるものを考える11 「客家(ハッカ)再考(上)―客家研究の新段階」 福本勝清(明治大学助教授)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋


別有天地
別に天地有り 人間に非ず(李白)
市川 宏(《中国現代小説》前「編集長」)


 木陰の濃さをたよりに進むうち、池にかこまれた島のような所に出た。パラソルが点々と立ち、それを支えるテーブルの周辺に白い椅子が置かれている。横の古びた建物の額に「茶室」の二字が読めた。しだれ柳の下に座ると、おもいがけず微かだが確実な風が吹きかかる。運ばれてきた急須の熱い緑茶が、心地好くからだに染みた。「別有天地」とふと思った。
 つい先ほどまでは天安門広場にいた。時は一九九四年六月四日、この場所この月日を目指しての旅程というわけではない。いわば指先の運で決まったまでのこと、一週や二週は前でも後でも構わないという、一生に滅多にない贅沢な旅だった。二週間北京にいるというほか、何の予定もない。
 このところの常宿崇文門新僑飯店に到着して翌日の朝、まず足ならしに相棒と一緒に東交民巷を西へ、前門に出て地下道をくぐって広場にでた。見上げれば夏の雲、からりと気分が変わる。ここは天安門広場、歩くうちにお上りさんの群れと自然に交じりあう。すれちがったアメリカ人の少女は昨夜の飛行機のお隣さんか。いま広場を占めるほとんどの人が、ここは初めての経験だろう。そして二度三度とくりかえすのは、ガイド役以外よほどの物好きにちがいない。多くの人びとは記念堂の「瞻仰(せんぎょう)」の列に並ぶ。われわれはそのまま北へ漫然と歩く。肖像と聖堂との間の不思議な空間、位を守って立つお化粧した少年少女、凧あげ、写真屋、国旗(そして朝夕の掲揚儀式)、これは照明の照らす舞台か、魔力の注ぐ祭祀場か。読み解けそうで、またもつれる糸。広場を渡りきったときの安堵と疲労感は、もちろん夏の陽にさらされた歩行のせいだが、何となく精神的疲労の気味もなくはない。
 暗い地下道をくぐって天安門の前にでる。日陰と水分と椅子を切に欲し、ふと蘇った記憶の誘うまま、〇・三元の切符を買って中山(ちゅうざん)公園に入った。そしてこの「茶室」に遭遇したのだった。しばらく風に吹かれるうち、心身が心地よさに満たされるのを感じた。木陰と風、周囲の水面と、その外の遠く感じられる光──それに空気というか 「気」というか、先ほどの広場と通り一帯のそれとの濃淡・強弱の落差が作用しているのだろう。
 「よし、ここに来よう」と口に出して言った。明日からここに通う、という「宣言」であった。
 翌日から朝食をすませると、東単公園の裏を通って長安街に出、東単の長い停留所でバスを待った。九時前には茶室に着き、午前中をそこで過ごす。ぼんやりお茶を飲むというのが理想であろうが、つい現実との妥協を計るのがいじましい。
 予定のない旅ではあったが、ひとつ締切のある翻訳の仕事があった。すでに第一稿はできていたが、その見直しをして何とか完成に近づけなければならない。翻訳を載せる雑誌は《中国現代小説》といい、その名目上の「編集長」はほかならぬ私だという、何だか冗談っぽい話ではあったが、それだからなおさら真剣にやらねばならぬ道理でもある。わが町歩き用のズック袋には、用意してきた原文と訳稿のコピー、急いで買い整えた『新華字典』『現代漢語詞典』と筆記用具一式がつめられていた。コピーは用意してきたものの、最初から気休めのつもりであって、真面目にひろげる機会があろうとは信じていなかったのだが……。
 いや、逆にいえば、それが口実だったのかもしれない。ひとつの場所をみつけ、そこに自分が身をおくための都合のよい口実だったのかもしれない。これがなかったら、「なかなか良い場所だ」と思うだけで通りすぎ、あとは偶然の機会に立ち寄る程度のことであろう。そこへ通おうなどという思いつきが現実感をもって浮かぶということはなかったであろう。「妥協」というよりも、現実と夢との間の釣り合いを保つ、一本の糸とでもいうべきだろうか。
 朝の島の木陰のいちばん濃い所は藤だなの下であって、柳の枝をくぐりぬけた光がもう一度厚い緑に濾過される。しかし、そこにはいつも四人の老太太がマージャンをかこんでいた。私はそこから即かず離れず、屹立する小さな太湖石の横のテーブルを占めることが多かった。訳稿はもともとワープロである。そして携帯用のワープロも持ってきていて、そこにも訳稿は入っている。これを使って訂正していくことも可能ではあるが、これはやらない。もっぱら忘れぬうちに日記を書くための道具だ。
 かつてよく聞いたFM東京の〈串田孫一・音楽の絵本〉で、「まちがいの跡を消すな」という話を聞いた。文章を書いて「まちがい」を直すとき、消してしまわずに跡を留めて直しておこう、それは思索の跡を残すことでもある──といった内容だった と記憶する。話には出てこなかったが、これはワープロ作文への批判でもある。この点で「妥協」というか、折衷というか、中庸を探った作法の提唱をかつて読んだこともある。立花隆『知のソフトウェア』であったか、「ワープロの場合はいったん印刷してから訂正するように」とそれは教えていた。
 私の「作風(やりかた)」はかつて謄写版時代に培われたものだ。謄写版は「印刷済み」という点で、ひとつの完成点に到達しているともいえる。いわば「ゲラ代わり」である。かつてへぼな書き手の間で「活字になってみないと」という常套句があった。その活字代わりの謄写版印刷に、鉛筆で修正を書き込んでは消し、消しては書き込む。やがて「完成品」が浮き上がってくるのを期待しての、果てしない作業だった。消しゴムのあとがこすれて、文字の周辺に濃淡の影ができる。いつも私は遠い昔の高校時代の美術室を思い出す。木炭と食パンあるいは鉛筆と消しゴムで描いたデッサンの時間を。ときどき同級生をモデルに使うことがあった。あるとき、セーター姿の彼女を一心に描いていると、悪友のひとりが背後に立って「いろっぽいな」と、独特の節まわしで言った。つまりは裸に見える、という意味だった。
 訳稿いじりの鉛筆の影の濃淡から、麗しき姿が浮き出すわけはない。しかし、一筋の文の流れを探り当てていく作業は、あのデッサンの記憶に結びつくのである。上手な描き手はほんの軽い動作でハッとするような美しさを浮かび上がらせる。私のは、ゴタゴタ動作をくりかえしベタベタ画面を汚したあげく、七転八倒、なんとか恰好をつける下手の見本だった。翻訳も同じこと、達人は高性能の秤を脳裏にもち、端々から最適な言葉表現を見つけだして置き換えていくのだろう。私の場合、簡単に言えば語学力不足、それに加えて早とちりと優柔不断がいりまじる。とはいえ、いじりまわすほか道はない。まあ、人体の美の極致を感じさせたと見れば、あのデッサンも失敗とはいえない道理だ。
 日が上から差すようになるころ、老太太たちのマージャンはお開きとなる。空いた藤だなの席に移り、しばらくつづける。ときおり少し離れた竹藪のなかの無料の便所にいく。十二時前、道具一式をズック袋にしまい、ゆっくりお茶を飲む。あるときはまたバスに乗って西単方面へ、またあるときは午門の前を通過してお堀ばたを東華門方面へ、相棒との待ち合わせ場所へ向かうのだった。
 外はウヮーとばかり熱気の襲いかかる二十世紀末、改革開放の中国。私が先ほどまで見ていたのは王蒙〈好漢イスマール〉という、七十年代の新疆イリのウイグル人を描いた作品である。この熱気のまえには影が薄れるという感じがしないでもない。五年以上前に、徳間書店から『現代中国文学選集』というシリーズを出したとき、私は〈連作小説──イリにて〉を牧田英二とともに訳した。最初、それこそ「影が薄い」印象だったが、読み進むうちなかなかの物と感服した。連作のうち〈好漢イスマール〉と〈逍遙游〉の二篇が量的に収めきれず、手つかずの宿題となっていた。それを雑誌《中国現代小説》という場を使ってやり遂げようという、いわば個人的動機で始めた訳である。雑誌への時代的要求という意味からいえば、ずれが生じているかもしれない。しかし、こういう雑誌なればこそ、こうした「勝手」もできる。現在の日本で種々の障害を乗り越えて、完訳〈イリにて〉を出版することはまず不可能だろう。この雑誌こそ「別天地」、ここなら世間(人間)でいう採算を無視できるという意味もある。
 外の熱気は物理的温度の熱さだけではない。いまこの地の「人間」の有り方が生み出す摩擦熱が加わる。人びとはバスも落ち着いて待っていない。五分もバスが来なければ、浮き足立ってタクシーに手を上げる。こちらはいつまででも待つが、これは旅人なればこそ出来る芸当なのだろう。ふと浮かぶのは『論語』の一句。「滔々たるもの天下みな是れなり。」止めどない洪流の行き着く先はだれも知らない。思えば「革命」を云々していたころは、まだ気楽な関わりだったのではないか。
 「別天地」でのデッサン風翻訳の作業、それは長沮・桀溺の偶耕に似る。
 一九九六・九・二八

季刊中国現代小説を推薦する
◆中国の今の人々が、日々何を思い、どのように変わっているかは、アジアに注目する人間にとっては、とても大事なことです。報道などでは知り得ない人の内面を、これからも素晴らしい日本語で伝えてください。(法政大学教授 田中優子)
◆人間を理解する有力な回路の一つが小説である。現代の中国人を理解するためにも、現代小説がもっと紹介されることを願っている。(慶応大学名誉教授 立間祥介)
◆『季刊中国現代小説』が作品を厳選し、厳しい相互検討で刊行を続けられたことに熱い敬意を表する。文学は評論だけではだめ、作品を読まねば解らない。変貌極まりない中国の息吹を伝える本誌の第二期のスタートを心から拍手で支持し、読者の広がりを切に期待する。(駒沢大学外国学部教授・日本中国当代文学研究会代表 釜屋修)

トップへもどる




江沢民は世紀に跨がる権威体制を固めている
楊中美(当代中国センター代表)


 「核心」から「トップ」へ 一九九四年十月開催された中共第十四期四中全会において、江沢民は□(登+都−者)小平が握っていた党内の重要問題の最高決定権をとどこおりなく継承した。
 党内の重要問題の最高決定権は、毛沢東が一九四五年六月十三日開かれた中共第七期一中全会ではじめて獲得したものである。この会議において、毛沢東は中共中央委員会主席兼中央政治局及び中央書記処の主席に選出され(同年八月二十三日、中央軍事委員会主席にも選出)、一人で四つの主席を兼任し、最高決定権を握ることとなり、事実上独裁権をもつ皇帝ともいえる指導者となった。
 □小平は三度復活し、一九七八年十二月に開催された中共第十一期三中全会において、毛沢東の後継者である華国鋒を敗り、中共で二人目の最高決定権をもつ指導者となった。
 毛沢東、□小平は党内における様々な問題について独断専行でき、党内の反対勢力の制約を受けず、この党の「最高決定権」の党規約上のよりどころは全く問われることがなかった。
 党の合法的手続きを経て江沢民が□小平から「最高権力」を継承したということは、中共第三世代集団指導体制における江沢民の核心的地位を目に見える形で強化した。この第十四期四中全会においてはさらに上海市党委書記の黄菊を中央政治局委員に補選し、元上海市党委書記の呉邦国を国務院副総理に選出した。これらの人事異動は江沢民の党・政府部門の勢力強化に大いに貢献している。
 中共第十四期四中全会の後、「最高決定権」を握った江沢民は反対政治勢力である「北京組」の排除を開始した。江沢民は戦略として「汚職退治」を錦の御旗に掲げ、権謀術数的に「北京組」の後ろ盾の李鵬をうまく分断し、喬石・李瑞環を味方につけ、陳希同をはじめとする「北京組」との闘争に世人の予想を裏切る大勝利をおさめた。
 一九九五年九月開催された中共第十四期五中全会において『陳希同同志問題に関する審査報告』が審議・採択され、江沢民と親しい張万年・遅浩田の二名を中央軍事委員会副主席に任命した。この一連の動きは、江沢民の党・政・軍各部門における地位・実力を強固にし名実ともに「核心」たる地位を確立するものであった。
 また、一九九六年十月に開催された中共第十四期六中全会後の北京の政治動向を見ると、江沢民は中共第三世代集団指導の「集団」の枠から既に抜け出しており、毛沢東・□小平を「トップとする党中央」に類似した指導の権威体制構造に向かっている。

(一)人事
 人事動向においては、江沢民の第一機械工業部時代の同僚で福建省党委書記であった賈慶林が北京市の代理市長に任命されている。前北京市長の李其炎は辞職し、江沢民は首都北京の実権を握ることとなった。
 これと同時に、江沢民の電子工業部副部長時代の親しい秘書、賈廷安を中央軍事委員会弁公室の副主任に抜擢し日常工作にあたらせている。
 そして、江沢民が「北京幇」を粛清した当時矢面に立っていた首都鋼鉄集団香港公司の代表周北方は死刑執行猶予の判決を受けた。『人民日報』はこのニュースの報道に先立って、首都鋼鉄集団の正式再建のニュースを伝え、周冠五・周北方親子の首都鋼鉄公司に対する影響を徹底的に排除した。
(二)宣伝
 『人民日報』、『解放軍報』などは、江沢民の講話・文章や政治軍事活動のニュースを大量に目立ったレイアウトで報道しており、格はダントツ、□小平時代の□小平の宣伝と比べて勝ることはあっても劣ることはない。とりわけ注目に値するのは、江沢民が参加して昨年十二月二十二日に挙行された長征勝利六十周年大会の報道である。毛沢東・□小平・江沢民の三人の写真が並列して掲げられ世人に強い印象を与え、江沢民が「核心」から「トップ」となったことを如実に表していた。
(三)第十五回大会
 中共第十五回大会の人事に関する大権は、中共第十四期六中全会において江沢民の全面的主導責任によると決定済みである。中共第十四期六中全会では来年後半に北京で中共第十五回大会を開催することを決定するとともに、これを「われわれの党が全国各族人民を率いて中国的特色を有する社会主義建設の偉大な事業を新たな世紀に向かって全面的に推進する歴史的会議である」と強調している。
 江沢民が目下掌握している権力・権勢から、中共第十五回大会は江沢民をトップとする世紀に跨がる中共の指導体制確立の大会となることが予想される。

新総理人選に関する情報
 中共第十五回大会の最も重要な人事の一つは、新総理の人選である。総理を二期務めた李鵬は辞職必至で、新総理の政治傾向と人脈関係は江沢民をトップとする世紀に跨がる中共指導体制を確立できるかどうかに関わり、カギとなる人事である。
 目下のマスコミ報道によると、新総理候補は以下の数名に絞られている。
 @李瑞環
 A李嵐清
 B呉邦国
 C徐匡迪
 政治傾向と人脈から見て、李瑞環の総理就任の可能性は極めて小さい。まず李鵬が反対するであろうし、江沢民もこの大工あがりの前天津市長を歓迎しない。
 李瑞環以外の三名は江沢民にとって受け入れられる人選である。李嵐清は江沢民の長春第一汽車製造厰時代の同僚であり、ともにソ連に留学し、両者の関係は良好である。江沢民はかつて李嵐清が主編した『中国利用外資基礎知識』という本の序文を書いたことがある。能力、履歴、人間関係からいって、李嵐清が新総理に就任する可能性が最も強く、またその期待も高い。
 呉邦国と徐匡迪はともに江沢民の上海時代の元部下であるが、徐匡迪は朱鎔基との関係の方がより強いようである。「上海幇」〔=四人幇〕という響きの悪さも呉邦国・徐匡迪にとっては不利である。
 しかし、筆者が最近、中共第十五回大会の人事組織の傾向を宋平〔前中共中央組織部長〕に尋ねたところ、江沢民は胡錦濤を新総理として推薦しているということである。
 その理由としては、胡錦濤は政治を重んじ、党性が強く、重要な試練において政治的立場を着実に築いてきたことがあげられる。また、理工出身で、清華大学水利工程学部を卒業し、地方の工作経験もある。
 世紀に跨がる後継者育成という観点からしても、国際的にも国内的にも発展の方向にあることからしても、経済建設に精通した新世紀の指導者を育成する必要がある。現在、台湾では連戦を副総統兼行政院長として育成している。将来の台湾海峡両岸関係の発展を睨んで、新世紀の新指導者は政治・経済ともに長けている必要がある。胡錦濤はまだ若いのでこの方向へむけて育成すべきである。
 宋平は江沢民の社会主義精神文明建設と政治を重んじることの有力な推進者であり鼓吹者であり、江沢民に対する影響力は大きい。宋平の推薦により、胡錦濤は新総理人選のダークホースとなろう。
 しかし、李嵐清・呉邦国・徐匡迪、あるいは胡錦濤、いずれが新総理になろうとも、江沢民をトップとする中共の世紀に跨がる権威ある指導体制の確立のためであることに変わりはない。
 (蒼蒼社編集部 根津ひさ子訳)

トップへもどる





中国的なるものを考える11
客家(ハッカ)再考(上)―客家研究の新段階
福本 勝清(明治大学助教授)


 中国近現代史を学ぼうとする人間にとって、客家は興味深いテーマであった。誰もが、太平天国の領袖及び主力が客家であることを知っており、おそらくほとんどの人が孫文を始めとして国民党初期のメンバーに客家が多いことを知っていただろうし、さらにかなりの人々が、中国共産党史の上でも客家は大きな役割を果たしていることをうすうす感づいていただろうと思われる。が、実際には、客家についてはあまり多くのことが知られていなかったし、知りたくても資料・情報が限られていて、知りようがなかったというのが実状であった。
 筆者が中国に留学した一九八〇年代前半においても、その状況に変化はなかった。同室の中国人(当時十八歳)に客家について聞いても何も知らなかった。客家という存在すら知らなかったのには驚かされた。彼が知らない振りをしていたというわけでないようだ。結局、客家について知ろうとすれば、いろいろの資料や出会いのなかで得られた切れぎれの情報を自分でつなぎ合わせる以外に方法はなかった。
 当局が隠している、知られないようにしているということが、筆者のようなへそ曲がりには却って吸引力となる。客家という文字が出ているだけで、あるいは客家という言葉を耳にしただけで、目を凝らしたり、耳をそばだてたりする癖がついてしまった。ところが、例えば井岡山の緑林で毛沢東らに根拠地を提供し革命に参加した袁文才と王佐が彭徳懐軍に殺された事件(三〇年二月)は、八〇年代初めの党史研究のテーマとしてよくとり上げられたが、袁・王は客籍の党員として土籍の党員と対立したと書かれ、客家と呼ばれることはなかった。そうなると、客籍、客民、客戸など客という字がつくだけで気になるようになった。
 八二年秋、海豊県を訪れた際、戴国■(火+軍)(客家)が彭湃も陳炯明も客家だと書いていたのを思い出し、当地の研究者に尋ねたところ、「いや二人は我々福●(人+老)人だ」とのことであった。英雄彭湃を、そう簡単に客家にわたしてなるものか、といわんばかりに聞こえてしまった。海豊で宿泊した招待所の服務員とダベったおり、気になったのは、彼がしきりに「お前は広州語ができるか、客家語ができるか」とか、「広州人はこうで、客家はこうで、俺たち潮州人はこうだ」というふうに、何かといえば広州人と客家を引き合いに出すことであった。彼らの世界はまず、自分たち潮州人(福●)、そしてライバルの広州人と客家の三つの世界に分かれているのだという印象がした。
 実のところ、目を凝らそうとも、耳をそばだてようとも、筆者が知り得たことは相変わらずわずかであり、帰国後も関心は持ち続けたものの、あまり進展はなかった。九〇年頃、台湾に行った友人が陳運棟『台湾的客家人』をお土産に買ってきてくれた。筆者自身も昨年、台北で黄栄洛『渡台悲歌』を手に入れた。二冊とも台原出版社の協和台湾叢刊として一九八九年に出版されている。このシリーズには他にも三、四冊客家関係の書籍が出ていたように思う。客家研究ではやはり台湾の方が先行しているのかと思って帰ってきた。
 この夏、北京でふと手にした林嘉書『土楼与中国伝統文化』は、その口絵の土楼のカラー写真がとてもよく、思わず買ってしまった。ついでといっては失礼だが、房学嘉『客家源流探奥』も購入、持ち帰った。
 本来、積読(つんどく)はずであったが、それらを何気なくめくっているうちに、客家研究がすでに新しい段階に入っていることを知らされ、帰国後手に入れた謝重光『客家源流新探』、孔永末・李小平『客家宗族社会』(ともに福建教育出版社《客家文化叢書》)らも参照してつくってみたのが、右表である。
 ○印は、謝重光が影響力のあった著作としてあげているものである。福建教育出版社の客家文化叢書としては、ほかに、王耀華『客家芸能文化』、劉大可『客家之光』、黄漢民『客家土楼民居』、郭丹・張祐周『客家服装文化』、汪毅夫『客家民間信仰』、王増能『客家飲食文化』らがある。
 また客家民俗第一期が一九八九年に、さらに汀州客家研究第一輯、汀州客家会訊第一期などがすでに出版されており、当然のごとく永定文史資料、上杭文史資料、連城文史資料、梅県文史資料、平遠文史資料、梅州文献といった客家居住地域の地方史料集も続々と出版されている。  右表は、あくまでも筆者の書棚にある最近出版された客家関係の書籍の注や後書き、文献紹介などをもとにしてつくったものなので、暫定的なもので、網羅的ではないことを予めお断りしておく。たとえば、『客家研究』の第二集以後がどうなったのかなどは不明のままである。が、それでも、最近の客家研究の動向がある程度つかめるのではないかと思う。
 決定的な年は一九八九年であったように思われる。十二月、梅州客家聯誼会が成立、同市において第一回客家研究学術討論会が開催され、これ以後客家地区において活発な研究活動がなされるようになったとある(陳修『客家源流探奥』の跋)。
 この表をみるかぎり、もう資料が少ないなどとはいえない。以前の量的に限られた資料を前提とした客家研究はまったく違った段階に入っているといえそうである。
 また、最近の民国期の指導者を対象とした著作では、それが国民党であれ、共産党であれ、もし客家だった場合、客家出身とはっきり書くようになってきている。たとえば、『鉄軍名将陳銘枢』(蘭州大学出版社、一九九六年)は、陳銘枢は広東省合浦県(現在の広西壮族自治区合浦県)出身の客家だとはっきり書いている。誰が客家かといった情報はもうタブーではなくなっているようである。
 現在の研究者の多くは予想されるように、社会学や人類学畑の人々であるが、その中で『客家宗族社会』の著者孔永松は異色の存在である。筆者が知っている孔永松は中国共産党史研究家であった。著作が多数あり、論文としては「●(門+虫)西蘇区“粛清社会民主党事件”浅析」(邱松慶との共著、『廈門大学学報』一九八三年第四期)がある。●西根拠地における粛清のターゲットになった傅柏翠について、わずか十数行であるが、当時もっとも詳しい記述をしていた論文として記憶に残っている。
 傅柏翠は一九二九年、●西特委(現在の地委に相当)のなかで、共同耕作、共同消費の共家制度を基礎とする新村計画を唱え、□(登+都−者)子恢ら・西党主流と対立。厳しい批判を浴びたにも拘わらず彼は意見を曲げず、党工作をサボタージュし、ついには●西特委より処分されるにいたる。上杭蛟洋の地主の家に生まれた傅柏翠はあきらかに客家であり(一九一〇年代に日本に留学)、彼の「共同工作、共同消費、共家制度による新しき村」は、間違いなく、あの円形共同住宅に代表される客家の生活文化と切っても切り離せない関係にある。
 さて、話を孔永松に戻すと、何故彼は党史から客家へと研究領域を大きく変えてしまったのであろうか。彼は永定県に生まれ、現在は廈門大学歴史系教授及び同大学客家学研究所主任であり、さらに福建省客家学会副会長を務めている。
 党史研究にとって客家はやっかいな問題であり、仮に触れたとしても、深入りすることは許されなかった。客家に対する差別、客家と本地人の対立は、党の歴史のなかで、すでに解決された問題であったからである。さらに孔永松が現在、研究の中心においている家族や宗族は、党史研究においてはより否定的な扱いを受けるべきテーマであった。たとえば・西では、地主が貯えている食糧の貧農や雇農への分配要求や地主高利貸に対する借金の清算闘争が、地主の反撃により、結局は姓を異にする農民間の争い、械闘に発展してしまうようなこともあった。つまり、家族、宗族は革命運動にとってつねに障害物であり、力を削ぎ落とすべきものとして存在した。どうして孔永松がそれを主要な研究対象とするにいたったか、いつかその心中を語ってほしいものである。
 前述の傅柏翠は反革命組織「社会民主党」の汚名を着せられ、関係者の多くが殺害された。粛清は後の中華ソビエト共和国の首都瑞金にも飛び火、瑞金県全体で四三五が社会民主党分子として殺害されたという。三一年八月、その瑞金に派遣され善後処理を任されたのが□小平である。従って○(章+夂+貢)南における□小平には要注意である。
 凌歩機『□小平在○南』(中央文献出版社、一九九五年七月)には、こうある。「□小平、原名□希賢、四川省広安県人。彼の祖籍は江西吉安府廬陵県(現在の吉水県)、明朝洪武十三年、江西から四川に入る、客家民系に属す」。筆者は、現下の中国の動向をつぶさに追うという意味でのチャイナ・ウオッチャーではないので自信はないが、中国国内で出版されたものの中で、□小平=客家を明記した著作に出会ったのはこれが初めてである。(続く)

トップへもどる




逆耳順耳
矢吹 晋


メールにハマってさあたいへん?
 「メール・リストに入りませんか」というお誘いを安達正臣さんからいただいて、メール・リストなるものの中身を知らずに(悪い人でもなさそうだと思って)イエスと返事をした(確かにそうでした。後日、彼のホームページを開いて確認しました)。安達さんは大阪市淀川区に住む若いシステム・エンジニアで「中国情報連絡協議会」なる組織をつくり、みずからその管理をやっています。
 メール・リストに参加して以後、パソコン通信のメール量が一挙に増え、いささかあわてたが、すぐになれた。知人とのやりとりがメールの海に埋没することはないのが分かった。メール内容の識別法もいろいろあることに気づいた。
 リスト・メンバーはかなり若い人達らしい。彼らの会話にはついていけないところが多いから、それには流し目を送る代わりに、画面を流せばよいだけのこと。井戸端会議に似たやり取りのなかに、格調の高い会話やよい情報(たとえば中国から実際にインターネット・カフェでアクセスした体験談など)もまじっている。
 というわけで、ネットサーフィンならぬメールサーフィンにハマル次第とあいなった。
 たとえばYさんが、「客人来了」と「来客人了」は、どう違うのかと質問を出した。すぐに中国人留学生から正しい答えが出た。この語順問題はすぐに正解が出たので、会話はそれでおしまいなのだが、井戸端会議というのは、本筋とはちがうところに枝葉が出るのが面白い。

 私はこう書いた。陳さん(そして李さん)の答えが正しいと思います。
「客人来了」は「話し手が予期していた客」が来たことを意味します。英語風にいえば、「the 客人」ですね。これに対して、「来客人了」は、「お客さんですよ」の意味。客が誰でもかまわない。英語風にいえば「a 客」(あるいは「複数のguests」)ですね。
 電話のほうがもっと分かりやすいかも。「電話来了」なら、「来ることが分かっていた(約束していた)電話」です。「来電話了」なら、「誰か」不定の方が電話をかけてきたのです。
 この会話を聞いていたA氏がこう割り込んだ。「ところで中国語の語順についてですが、大学の先生の言うことには『中国語は文法はあまり深く考えなくていい。語順はリズムで決めるんだ』そうです。」 「まさか。これはかなりダメな教師か、あるいは、学生がまるでダメなので、さじを投げたか、いずれかでしょう。」と私は割り込んだ。
 「中国語にとって語順は決定的に重要なはずですよ。なによりも日本語と違って助詞がない。たとえば『我愛他』は『私が彼を愛する』ですね。『他愛我』は『彼が私を愛する』のです(本当はここでニイを使いたいし、あるいはオンナヘンの他を使いたいところですが、簡体字を使いにくいのでJISで我慢)。
 要するに、『誰が』『誰を』愛するのか。日本語では助詞によって明確なので、語順は多少変えても、愛する主体と愛される客体が混同することはない。
 しかし、中国語には、『が』もないし、『を』もないのです。だから、『誰が』『誰を』の関係は語順だけで判断するほかないのです。語順がいかに重要であるかがよく分かるはずです。『語順はリズムで決めるんだ』といった乱暴な話を聞くと、私は日本人の中国理解の根本的欠陥に触れた気がして、失神しそうです。」とコメントした。

 とある日、こんなメールに接した。「どうも、秋も深まり、日本列島も大体寒くなってきましたね。(大体というのはこのメールの中におられるかもしれない暖かいところにいらっしゃる方への遠慮です)ところで、こう寒くなるとやはり日本酒なんかを熱燗で頂いてぽかぽかしたくなってきませんか。そこで気になったんですが、中国ではお酒を熱燗で飲むことはあるんでしょうか。中国の人はご飯は温かくないと食べられないということ(ですから冷たい物しか食べられない寒食はほとんど拷問でしょうね)なのでちょっと気になったものです。」
 京都のA君である。

 私の返信。
 老酒 紹興酒 はお燗をつけて呑むのが普通です。ご参考までに、中国の酒についての専門家の本をご紹介します(私の旧稿の一部ですが)。
 花井四郎著『黄土に生まれた酒』東方書店、一九九二年一〇月刊の話。
 瓢箪から駒が出るように、碩学の頭脳から芳醇な酒史、酒論が現れた。むろんこれは学識が自然醗酵したわけだが、そこに小生の雑文(『蒼蒼』一九号)が触媒としてかかわったとは、近来の一大快事である(『黄土に生まれた酒』の「あとがき」を参照されたい)。
 「老酒に氷砂糖を入れる」愚行を指摘した花井博士の高論に接して、矢吹がこれを吹聴し、それが桑山龍平教授(天理大学)の眼にとまり、東方書店で編集企画の話になったという。本書をひもとくことによって中国酒の味わいが一段と深くなること疑いなしである。
 万一、あなたが下戸だとしても、文化史の勉強になるから、やはり推奨に値する。

中国映画祭
 ある朝、ふと新聞の紹介記事を読み、たまたま試写会の案内が届いていたのに気づき、「太陽の少年」(原題=陽光燦爛的日子)を見に出かけた。この題名は秀吉を想起させ、あるいは太陽族を連想させるではないか(実はそれが狙いであったらしい)。むしろ、仮題とされていた「夏の陽の輝き」のほうが私の趣味にあう、などとひとり言を言っているとゴマシオ頭が近づいてきた。
 徳間書店の岩政至道氏から編集の職場から変わったという挨拶状を頂戴したのは記憶していたが、久しぶりに徳間ホールにでかけて再会するまで、新しい職場のことは失念していた。岩政氏は大野真弓名誉教授の米寿の会に出たという話をする。大野教授は私が受験勉強をしていたころ、読んだ西洋史物語の筆者であり、私が横浜市大に赴任したときはすでに定年であったから、私にとってはほとんど歴史上の人物である。そのような名物教授の教え子である岩政氏は私にとって一回り上の世代に見える。ゴマシオの功徳かもしれない。「ホールの支配人」という職務は、土日が休めないのだという岩政氏の話を聞いて納得。なるほどサラリーマンの休日こそがサービス業界の書き入れ時、これは昔も今も変わらないはず。
 私がでかけたのは実は寧静(ニン・チン)の容姿を見るためであった。母親がナシ族、父親が漢民族の混血美人がどれほどの美人かを確かめたかったのである。ナシ族のことは諏訪哲郎教授のモノグラフ『西南納西族の農耕民性と牧畜民性』(学習院大学研究叢書、一九八八年)を読んで興味を抱いていた。結論は「可愛いが太め」の一語に尽きる。中国はまだダイエット・ムードに汚染されていないのか。それとも彼女が学んだ貴州省あたりの風潮がそうなのか。いずれにせよ、この一〇年で日本の娘たちがすっかりスリムになっていたことを私は寧静の太めスタイルから再確認させられた。
 毛沢東のご先祖毛太華は下級軍官として雲南省まで遠征し、平定後、雲南の少数民族の娘と結婚した。このごろ日本の一部でやたらと話題にされる客家(ハッカ)人には、少数民族の血が色濃く流れている。要するに、私は漢民族の形成史と南方の少数民族の通婚に関心があったので、徳間の田村さんから「センセ、少し宣伝して下さいよ」などと迫られてもどうしようもないのである。
 映画祭は「おかげさまで二〇年」という。私は一〇年前ごろは熱心に池袋に通い、全部を見た。映画から中国社会を読み取ろうとしていたのである。このごろそれに飽きたのは、私が老いて感受性が乏しくなったためか、あるいは近年の映画が香港資本や日本資本を意識しすぎて鼻につくようになったからか、そのいずれかではなく、両両相まってのことであろう、などと文句をいいながら映画はクセになる。
 数日後、今度は金を払って新宿で「項羽と劉邦」を見た。昔、香港で一人暮らしをしていた時代、武侠片という名のチャンバラ物をいやというほど見た。戦闘場面は、昔の武侠片そのものである。違いは香港経済が大英帝国の繁栄を上回るほどの一人当たりGNP水準に到達して、金使いが荒くなったことであろう。大陸は確実に「香港化」しつつある。その尖兵が合作映画なのだ。
 人びとは香港の「大陸化」を憂いているが、これはほとんど空騒ぎではないのか。香港返還とは、表向きはパッテン総督にお引き取りを願い、董建華氏が行政長官に就任し、ユニオン・ジャックの代わりに花蘇芳をあしらった香港特別行政区の旗を掲げることだが、実はこの旗は大陸の香港化への旗幟のように私には思われてならない。                  

トップへもどる

 目次へもどる