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第70号


憧れのボゴタ峰 渡辺真純(もといすゞ北京代表)
連載中国的なるものを考える10「北京雑感」 福本勝清(明治大学助教授)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋


天山山脈・遠征記
渡辺真純(元いすゞ北京代表)


憧れのボゴダ峰
 中国大陸に興味を持ち、仕事の上でも深い関わりを持って以来、早二十五年以上の歳月が流れた。その中でも、現役を離れ自由の身となった今年は、最高に楽しい年であった。それは、永いあいだ抱いてきたシルクロードへの憧れを天山山脈・博格達(ボゴダ)峰への遠征というかたちで締め括れたからに他ならない。 新疆ウイグル自治区は今世紀初めまでは世界地図の空白部とさえいわれ、幾多の探検家が生命の危険を冒して分け入った地域であり、その後、多くの日本人がロマンを馳せたシルクロードの地でもあった。私にとっても新疆・天山山脈への旅は長年の夢であった。
 博格達峰を主峰とする山群は、西遊記で有名な吐魯番・火焔山の北・天池の南にあり、天山山脈の中では最も北東に位置し、烏魯木斉市内からも遠望できる美しい独立山群である。また、最近観光地として注目され始めている天池の主要な景観であり、その麓まで観光客が馬の背に揺られながら訪れることもできる。
 博格達峰(五四四五メートル)への遠征計画は、一九九四年初夏、わが母校「神奈川県立希望ケ丘高等学校」創立百周年記念事業の一環として企画された。博格達峰を提案したのはもちろん私である。幾度も通った烏魯木斉への機窓から見た博格達峰のあの万年雪と氷河に覆われた神々しくも気高い山群が忘れられなかったからである。博格達峰は山を愛する者なら誰しもが何時かは登ってみたいと夢みる峰(ピーク)でもある。ネパールヒマラヤではありきたり過ぎるとの考えと、アプローチ日数も短く多くの山仲間の参加も期待できるとの判断も加わり、計画は決定された。
 九四年秋、中国側との折衝を開始した。九五年四月、入山許可取得。九五年十月、事前調査隊派遣。九六年春より装備・食糧等の調達、渡航手続き・重量物の事前送付と忙しい準備が進み、九六年七月末、本隊八名が中国に入った。烏魯木斉での準備を終え、いよいよ中国側より三名を加え合計十一名の隊(キャラバン)が天池より二二頭の馬匹に装備・食糧を乗せ開始した。

登頂成功
 八月二日、標高三六〇〇メートル地点にBC(ベースキャンプ)を開設、直ちに前進基地への荷揚げ開始。四日、標高四〇〇〇メートルの氷河上にC1(第一キャンプ)設営。ルート上の危険箇所に一五〇〇メートルのフィックスロープを張り巡らす行動開始。九日、標高四八〇〇メートル地点にC2(第二キャンプ)設営、さらに上部危険箇所にも六〇〇メートルに及ぶロープを固定。十三日、遂に四名の隊員が早朝より頂上へ挑戦、一〇時間に及ぶ苦闘のすえ登頂成功。記念撮影のあと危険を伴う下山を開始。全員疲労困憊ながらも満天の星空の下23:00、C2に帰着。この間、慎重の中にも焦りながら下山するアタック隊からの通信が途絶えたりして不安がよぎる時もあったが、登頂活動は無事終了した。
 今回の登頂成功は、ひとえに天がわが隊に味方してくれたおかげと感謝する。一定の登山技術は登頂成功の絶対条件ではあるが、今一つの鍵は何といっても天候である。博格達峰の場合には天候に恵まれなければC2設営すら不可能なのである。何故ならC2への登山ルートは、氷瀑とナイフリッジ尾根に挟まれた、七〇度近い斜度の雪と氷の斜面をトラバースしながら高度を上げて行く以外に選択の余地がないからである。したがって、斜面に張り巡らす安全確保用のフィックスロープは常に雪崩の危険に晒されており、ひとたび天候が崩れ一定量以上の降雪があれば随所で雪崩が発生しロープが切断されてしまう。
 C1設営後続いた二週間近い好天も、わが隊の登頂成功を境に十四日より崩れ始めた。天候悪化のため上部フィックスロープの回収を断念、直ちにC2を撤収、C1・C2間のフィックス部材の回収とC1の撤収を二日で完了させ、十六日にはC1隊員と共にアタック隊全員が雪の中BCに帰着、中国側も加わり盛大に登頂成功の祝杯を挙げた。

宴のあと
 その後、BC撤収とごみ焼却などを終え八月二十日に烏魯木斉に戻り、二年に及ぶ準備活動を費やした遠征は終了した。隊員全員、何か長い楽しい夢を見ていた思いに浸り、いつもの饒舌も影をひそめて帰国の途についた。
 遠征を終えたいま、私の胸の中には成功裡に終了した充実感はなく、むしろ、宴の後にいつも感ずるあの想いであり、永いあいだ抱き続けてきたシルクロードと天山山脈へのロマンが霧散したような侘しさだけが残っているのは何故なのだろうか。やはりロマンはロマンであり続けた方が幸せではなかったかとも考える始末である。
 次に、私が山群で生活しながら感じた幾つかの事ごとを整理してみよう。

平和の貴さについて
 平和であればこそ、中国側の協力と現地カザフ族の支援を受け、あの辺境の地を安全に旅することができたと実感する。また、BC周辺も国際色豊かであった。我々の入山前には香港隊、滞在中には日本隊が二、台湾隊が一、訪れそれぞれに交歓した。欧米の二組のトレッキング隊も通過した。

異なる人々の生活について
 ある日の午後、カザフ族の親子が犬を一匹連れ何処からともなく現れ、我々の食事用天幕に入ってきて黙って食事をねだり、そして何処へともなく消えて行った。その親子は杖と小さなズタ袋以外何一つ持っていなかった。私は、彼等親子は今夜何処でどのように寒い夜を過ごすのであろうかと考えた。同時に、近代文明の中で暮らす我々には到底理解できぬ生活と人々、近代文明と幸せとの関わりすら考えさせられた。

氷河の溶水について
 我々のBCは氷河の雪解け水が流れる小川のそばに設営された。ところが、その小川には通常朝は水は流れていない。太陽が上り氷河が溶け始めると、先ず溶水はモレーン(氷河が押出した岩石大地)の下に入り伏流水となり、地下が満されるまで地表に流れは現れない。したがって、天気の良い日は通常午後遅くから夜半にかけて小川が出現する。日本の雪山とは全く違う水の流れであった。しかも、黄塵の影響か氷河の溶水は決して日本の山清水の如く清らかではなかった。

高山病について
 高山病という症状は誰に何時出るかということは事前に予知できない。わが隊では最も強靭と見える若手隊員に一番始めに現れ、私のような高齢者に最後まで現れなかった。また、どの高度で症状が出るかも人それぞれ違うのである。高山病は誠に恐ろしい病気で、毎年幾人かの犠牲者が出ており決して侮ってはならないのだが、何時誰に現れるかが予知できないので厄介である。高山病対策には高度を上下させながら順化する方法の他に、水を大量に飲み大量の尿を出す事が有効であるのには驚かされた。また、理由は定かではないが、東洋人は西洋人より高山病に罹り易いとのことである。これも一つの発見であった。

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中国的なるものを考える10
北京雑感
福本 勝清(明治大学助教授)


 十年ぶりに北京を訪れた。北京についたのは夜の九時過ぎだったが、中国の友人が迎えに来ていた。車中、運転しながら、友人は盛んに「北京は大きく変わっただろう」と同意を求めてくる。目に飛び込んでくるのは、ホテルだとか、レストランだとかのイルミネーションとビルの陰影だけだったが、「うん、大きく変わったね」と相槌をうつ。北京大学の南門のはすむかいの、星二つのホテルに宿をとる。
 友人はその後数日、忙しい仕事の合間を縫って筆者の面倒を見た後、また慌ただしく仕事でパリに行ってしまった。旅立つ前、レストランでのこと、筆者が日本で聞きかじった昨今の治安の悪さなどをあげ、やや不安げなことを言うと、友人曰く「大丈夫、悪い奴はみんな外国へ行ったから」。
 ホテルから北へ数分歩くと海淀(Hai-dian)、南へまた数分歩くと中関村である。これは例えていえば、神田と秋葉原の間に住んでいるようなものである。海淀は九〇年代に入り図書城ができたことで様子がすっかり変わってしまった。海淀図書城は今のところ小さな書店街である。通りの北側の西端に籍海楼大厦がある。外からは書店には見えないが、一階から三階まで、小さな書店が五十数店入っている。たぶんこの籍海楼ができて漸く図書城と呼ばれるにふさわしくなったのであろう。
 通りの南側に新しく昊天楼がオープンした。六階建て、地階もある。が、まだ十数店しか出店しておらず、一階から三階までの、しかもその一部しか使用していない。まだ仮オープンらしいが、建物そのものが大きいので、もしテナントが埋れば、百店舗をはるかに超す規模となるだろう。
 九月はちょうど琉璃厰の中国書店の書籍市が開催される月であった。北京各地の中国書店の倉庫に眠っていた古本、デッドストックなどが吐き出され、ずらりと並べられている。筆者は二度ほど通っただけだが、もし前門あたりに泊まっていたら、散歩がてら毎日でも通うところであった。
 実のところ、書店の数だけは揃い始めたが、ほしい本が見つからないという事情は以前とあまり変わっていない。とくに数年前に出たはずの書籍がまったく見つからない。むしろ神田の中国関係の書店のほうが、品揃えのよさで圧倒している。またサービスの質もいまだ発展途上というところか。店員から怒鳴られたり、本を投げてよこされたりすることはなくなったが。
 しかし、これだけ書店の数が増え、それを目当てに客が押しかけるようになると、当然、他店と違った傾向の本を並べ、顧客の評判を勝ち取ろうとする者がでてくる。私企業であればなおさらである。昊天楼の一隅で、ウイットフォーゲルの『東方専制主義』を見つけた。中国社会科学出版社、一九八九年、九・五元であった。思わず買おうとしたところ、売れないといわれる。その書棚の本はある愛書家の蔵書の一部で、開店を記念して展示しているのだという。もしどうしても欲しいということなら仲介の労をとるとのこと。
 展示されていた本は八〇年代に出た翻訳書が多く、日本の翻訳文化の水準からみれば、たいしたことはないのかもしれないが、中国でそれらを集めるのはそれなりに大変だったと思われる。愛書家、本好きの人たちが増えていること、継続して本を収集するだけの収入が期待できること、そしてそれらの人たちを顧客とする本好きな本屋が増加すれば、この図書城はもっと楽しい場所になるはずである。
 中関村から南の人民大学へかけて、海淀路の両側には多数のコンピューターショップ、各種電子部品や電子機器、材料を売る店が並んでいる。さながら台北の光華商場といったところであろうか。ただ、光華商場や秋葉原と違って、郊外にあるため空間的な意味では、今後の発展の余地が十分にある。中関村の交差点の北側にある「電子世界」には一つのビルに小さな店舗が密集して、光華商場と同じ様な活況を呈している。昼食時になると店員は発泡スチロール製の箱に入った弁当を抱え、食べながら客と応対し、食べ終わった後もしばらくは発泡スチロールの箱がその辺に散らばっている。
 また、中関村の中の物流には自転車を改造した三輪車や荷車が使われ、店と店の間を繋いでいる。最先端の電子機器が古びた三輪車や荷車の上に無造作に積まれているのは一種不思議な趣がある。十年前、初めてワープロを購入した後、埃から二度もキーボードを駄目にした筆者のような人間からみれば、砂塵が舞い、室内といえども埃に悩まされる北京でパソコンを購入したり、使用したりするのは、考えただけでもゾッとするが、そんなことなどまったく意に介してないかのように活発な売り買いがなされている。
 とはいえ、現在の購入者の主流は企業であり、そのため五時近くになると各店舗とも店じまいを始めるし、土日となると、開いている店がポツポツとしかない。一応のスペックのパソコンを買おうとするとやはり一万元近くする(モニター付)。日本で買うより若干安いとはいえ、中国人が個人で買うにはやはり高すぎる。
 中国のどこが変わったのだろうか。確かに大きなホテルや百貨店が各所に建てられているのを見れば、少しは変わったなという気はする。が、なにせ、建物と建物の間の空間が大きすぎる。コンパクトな日本の都市において、古い通りが再開発され、軒を並べて高層建築になる、そういうものとは随分雰囲気が違う。十五年前、初めて中国に行った時感じた、「北京は大きな村だ」といった印象は、今回も変わらなかった。では変わったところはなかったかというと、確かにあった。それは、社会にみなぎっていた鋭い緊張感やストレスといったものが随分緩和されたのではないかと感じたことであった。一九八一年から八四年の三年間の留学時代は、まさに「天天挨打」「天天受気」であった。毎日のようにへこまされ、しわ寄せを食っていた。毎日不愉快なことがあり、毎日それに腹をたてていた。
 今回の滞在ではそのようなことが全くなかったということではなかったが、それにしても数えるほどであった。途中までしか行かない「区間車」に間違って乗り、車掌に下車駅をつげた途端思いっきり叱られてしまい、お金を払う方がなんで怒鳴られなければならないんだと憤慨した。また、北京大学構内の北京大学出版社門市部(直販店)で、十年前に同出版社から出た本の有無を尋ねたとき、即座に「ない」と言われ、「一冊もないのか」と食い下がっても、書棚を一瞥して「ない」と言ったきり相手にされなかった時もひどく腹がたった。
 相手の立場や感情のもって行き方がわかるようになったせいもあってか、腹を立てたり、ひどく悔しい思いをしたことは、ほかになかったように思う。北京滞在中、わずかに北京大学図書館と北京図書館、琉璃廠を訪ねたほか、海淀と中関村の間を散策するだけで終わったので、それで何か全体的な印象や結論を言うことはできないが、人に対する彼らの接し方、それが変わりつつあるということを知っただけでも収穫であった。
 少し途中をはしょって言えば、このような変化は、人の移動と競争の広がりによりもたらされたのだろう。さらにつけ加えれば、それを可能にしている経済的なチャンスの広がりとポストの増加が背景にある。公営セクターに属するバスや書店が旧態依然とした客あしらいを続ける一方で、競争を意識せざるをえない私企業がまともなサービスを提供しようとするのは当然といえば当然のことである。従業員が客に八つ当たりをしたり、思わぬとばっちりをぶつけるなどということは、多分なくなっていくのだろう。
 留学時代にある図書館の職員と知り合いになった。図書館に勤めてはいても、彼と図書を結び付けるものは何もなかった。彼は盛んに「俺は映画スターの某々(女性)と知り合いだから、会いたかったら紹介するぞ」と言い、自分の交友関係の広さを誇っていた。彼が我々日本人に求めていたのは外貨券であり、特に八四年頃は、数カ月に一度は深●(土+川)との間を往復していたらしく、その直前には必ず我々のところにやってきては外貨券との交換を求めた。いささかうんざりして「一体いくらぐらい必要なのか」と聞いたところ、「多ければ多いほど良い」という返事だった。
 もうその頃から商売のまねごとをしていたのだろう。その彼が今も図書館に燻っているとは到底思えない。公然と金もうけに走ってもよくなり、成功者が羽振りの良さを競っているのを、黙って見ていることなど彼には絶対にできなかっただろうからである。ということは、その後釜には少しは図書に興味を持った人間が坐る可能性がある、そう言えるだろう。
 どの社会にも、どんな手段を弄しても出世したい人間や良い暮らしをしたい人間がいる。また、冒険家、野心家がいる。自分の才能が認められないこと、不遇であることに苛立ち燻っている人たちがいる。良い意味でも悪い意味でもそうである。そんな人間たちをある固定した人事制度や労働編成のもとにずっと繋ぎ止めておこうというのが、ひどく無理だったのだと思う。無理に押し込んでいた結果、彼らはその仕事に何の興味を持たないばかりか、逆に障害物となり、さらに下に向かっては憂さや鬱憤を晴らすことをつねとしていた。
 冒険家や野心家が儲けの見込める別の業界や業種に移ることによって、あるいは別天地、たとえば広州や深●に、さらには海外に出かけることによって、その空いたところに別の人たちがやってくる。最初の友人との会話のなかで、中関村のことを筆者が「電子街」と呼んだところ、友人はまだそのような名前はついていないといい、我々は「電子一条街dianziyitiaojie」と呼んでいると言い、さらに「騙子pianzi一条街とも言うけれども」(騙子はかたり、詐欺師)と言ってニヤリと笑った。新しい業界のでき初めは、ある種のいかがわしさが付きまとっていることの例であろう。そんな創業期には思わぬぼろ儲けが可能だからである。まともな商売による創業者利得なのか、それとも不当な荒稼ぎなのか、なかなか判断がつかない時期であり、それがまたある種の人々をひきつける。
 ともあれ、ある職業から他の職業への移動、あるいは他所への人の移動、それが繰り返されるならば、そこに留まっている人たちは、その仕事に興味や愛着を持っている人たちが多くなるとは言えるだろう。
 仕事への興味や愛着によって職業が選択されるようになると、似たような人々が集まるようになる。従来の中国のソーシャルワーカー、自然保護従事者、平和運動家などといった人々は、政府や党が掲げる建前をオウム返しに唱える小官僚そのものだったが、テレビのドキュメンタリーで見たパンダ保護に取り組んでいる若いカメラマンの表情、雰囲気は欧米や日本の自然保護活動家たちとほとんど違わなかった。
 北京大学近くの美容院の美容師たちは日本の美容師によく似ていた。とくに男性の美容師の雰囲気、身のこなしがそうだった。中関村のパソコンショップの従業員たちは、光華商場の従業員たちとそっくりだった。同じような興味、仕事への動機で繋がっているようだった。彼らほど明確ではなかったが、ホテルや通りの小さなレストランの従業員たちも、十数年前、我々がいつも目にしていた投げやりで無責任な労働者ではなかった。

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逆耳順耳
矢吹 晋


野郎自大の用心棒
 夏休みに北京をぶらついたさいに、『読売新聞』北京支局長が一本をたずさえて宿舎の漁陽飯店(空港にやや近い、韓国資本との合弁企業)を訪ねてくれた。その本は、何新著『中華復興与世界未来』(四川人民出版社、一九九六年九月、上下冊、三八・八元)である。
 上巻一一四頁を示しながら、高井氏ニヤリ一言。「出ていますよ」。私「?」。
 なるほど、一一四頁から一四七頁まで三四頁にわたって「何新与日本経済学教授S的談話録」(原載『人民日報』一九九〇年一二月一一日)が転載されている。別件があったので、そのまま鞄の中へ。
 帰国時の機内で思い出し、開いてみる。一一七頁に注二つ、一一八頁に注一つ、一一九頁に注二つ、一二〇頁に注三つ、一二一頁に注一つ、一二四頁に注一つ、一二五頁に注一つ、一三〇頁に注一つ、一三三頁に注一つ、一三八頁に注一つ、一四〇頁に注一つ、これらは『人民日報』にはなかった。ただし、今回つけたようにも思われない。もしかしたらパンフレット作成時に何新周辺の者が加えたお化粧かもしれない。
 下巻の末尾に、この「捏造対談」の反響についての記述がある。
「一九九〇〜九二年の三年に、西側の若干の記者、学者、外交官が私に接触を求め話をした。インタビューを受けて、私はわが国の社会主義制度問題、改革開放の問題、一九八九年の事件、人権問題およびその他の国際戦略問題について、一連の独自の見解を発表した。なかでも影響が比較的大きく、内外を騒がせたのは「日本S教授との談話録」(一九九〇年八月)であった。この文は『人民日報』『北京週報』に全文が発表された。世界で多くの言語に翻訳され、多くの国家・地域の新聞雑誌に転載された。この文をめぐって香港や台湾で一場の風波がまきおこったが、一九八九年の動乱以後のわが国が直面した特殊な内外世論の環境と政治的雰囲気を考慮すれば、この文は国内外の若干の人々の、わが国の制度および一九八九年の事件に対する違和感を転換し、西側のわが国に対するイデオロギー的孤立化と封じ込めを打破するうえで、一定の役割を果たしたとみるのが公平妥当な見方である」(七八三頁)。
 懲りないヤツという言い方がある。この男はその部類に属する。自作自演なら文句をつけるべき筋合いではないが、『北京週報』では矢吹晋と明記されていた。『人民日報』では私の抗議を受けて、矢吹をSHICHUI のSとしたが、要するに、この捏造は、私の名を利用して、みずからの見解を披瀝しただけのものである。
 「香港や台湾で一場の風波」とは、私が香港『九十年代』(九一年二月号)に発表した三通の抗議書を支持する論評が続々と現れた(矢吹晋『保守派vs.改革派 ──中国の権力闘争』蒼蒼社、一九九一年)。
これに対して何新が今度は香港マスコミを恫喝する記者会見を開いた。それを批判して『鏡報』(九一年八月号)は「矢吹晋談何新現象」を掲げた経緯がある(いずれも前掲書に収録)。何新現象とは、中国の改革開放路線の逆流に浮かぶ徒花というべきであろう。

杜潤生老会見記
 九六年九月一〇日、北京で杜潤生氏を訪ねた。白石和良、矢吹晋を含む「日本農業経済学者訪中団」のために、国務院農業部農村発展センター学術委員会副主任劉志仁氏が特にアンパイしてくれたものである。私はかつて「農業生産責任制の推進者・杜潤生」という一文を書いて杜潤生のプロフィールを紹介したことがある(『日中経済協会会報』一九八七年二月号)。
 私の調べた資料によると、今年八三歳になるはずであり、趙紫陽元総書記と関わりの深い人物である。つまり、杜老は五〇年代に六歳年下の趙紫陽(当時中共中央華南分局農村工作部長)が広東省で土地改革をやっていたころ、その上司であった(当時中共中央中南局秘書長)。杜老は七九〜八二年国家農業委員会副主任、八三年国務院農村発展研究センター主任兼中共中央書記処農村政策研究室主任をつとめて、人民公社解体、生産請負制の陣頭指揮をとったが、当時趙紫陽は国務院副総理から総理に昇格していた。党レベルでは政治局常務委員であった。
 当時、年初に農業関係の基本方針を示す一号文件が出され、話題になった。三カ年分をまとめて「三つの一号文件」と呼ぶことも行われた。集団農業から戸別経営への転換はまことに衝撃的であり、われわれはきそってそれを拳拳服膺したものである。
 杜老の居宅は、「元副総理級」であるから、華国鋒(元総理)、宋平(元政治局常務委員)、張勁夫(元副総理)などの居宅と同じブロックにある。西城区の中南海の南側に位置する一角である。
 そこの杜老会客室で、九時半から一一時まで会見した。始めは黙って当方の来意を聞いていたが、話しだすと、頭脳明晰、理路整然、どうしてどうして八三歳老とは思えぬほど。現役そのものであった。
 同氏は約一時間しずかに語りつづけた。以下はそのメモである。

 中国の食糧問題は世界中の注目を集めている。しかし、短期的に大きな困難はない。中国の食糧予測について正しい予測数字は見たことがない。その原因はこれが経済学の対象であるのみならず、生物学の対象でもあるからだ。これは国民経済の発展、世界の科学技術の発展、その国の制度的要因などにかかわる。土地、資本、労働力、そして市場の要素はいつも変化する。それらの要素は代替も可能である。それらの組み合わせは国により、異なるので、経済学者、社会学者、生態学者、政府諸機関の協力が必要だ。米国のブラウン氏とは面識がある〔同氏の訪中時に杜老を表敬したことを指す〕。その予測研究は中国への理解を欠いている。化学肥料の効果について「限界効用の逓減」を論じているが、それは沿海地区の話であり、中部、西部では化学肥料の増産効果は大きい。一斤の化学肥料で三斤の食糧増産が可能である。この事情をブラウン氏は知らない。
 水資源は華北、西北でとくに不足している。しかし、今年はダムは満杯であり、河川の数量も十分である。そして大豊作であった。これをもって南方の減産をカバーできる。耕地は一五億ムーから二〇億ムーに上方修正された。
 八五〜九五年の一〇年間の食糧生産をみると、三年ごとのサイクルを描いている。これは生産力自体の問題というよりは、マクロ・コントロールの欠如の問題である。政府は最大の買い手だが、豊作の年に買い取り能力がない。そこで輸入で備えようとする。農民も売りに回る。こうして政府と農民が同じ方向で行動する結果、問題が生ずる。九四〜九五〜九六年は「買糧難」〜「売糧難」〜「買糧難」、を繰り返した。現状では備蓄しにくいし、そこで価格も上下する。九六年の豊作を予想できず九五年は大量に輸入してしまった。当時は売り惜しみ状況だったのだ。必ずしも不足していたのではない。九五年には東北三省で五〇〇万トンが買い手を求めていた。適正備蓄量の水準を発見できていないことが問題だ。
 輸送が緊張し、倉庫も不足している。乾燥施設も不足だ。こうして、一部地区で不足し、他の地区で過剰な状態がしばしば発生する。南部で輸入し、北部で輸出することはありうる。
 今後の課題は、市場の整備および備蓄と輸送設備の拡充、である。これによって政府の利用できるものがふえ、食糧の有効利用が可能になる。米の生産面では、南方での面積減少が問題である。
 長期的には華北は水不足問題がある。「南水北調」により解決する。さらに科学技術の開発と普及も重要だ。農村の請負体制は変えないのがよい。農民を組織することは賛成だが、ロシア式の集団農業はダメだ。販売、加工など農業にサービスできる組織が望ましい。商品経済の環境整備を整える必要がある。農産物の加工や、園芸の産業化、牧畜業も労働力吸収の面で効果がある。これらを利用して交換ができる。
 将来は農村労働力は三〇〜四〇%に減少しよう。日本と同じ傾向である。その時にはまた新しい問題が生まれるが、そのときの話だ。ブラウンは技術革命の可能性を否定しているが、進歩の積み重ねは大きい。米国から帰国した友人と会ったが、耕地を細分して土壌分析を行い、施肥はコンピューターで計測したデータにより行うコンピュータ管理農業を行っている。
 中国は人口コントロールを決意して断固として実行している。貧困と人口増は深い関係があるので、経済発展のためには人口を抑制しなければならない。都市人口は現在は二八・五%だが、五〜六割を目標とする。都市では人口のコントロールはしやすい。江蘇、浙江では小城鎮作りに成功している。中国の人口はブラウンの予測よりは小さいであろう。ただし「人口大、耕地少」が基本的問題である。耕地については日本のように線引きにより、転用を許さない。中国共産党の動員能力はまだあり、ここでは「政治優勢」を利用する(米国では堕胎ができないというが)。
 アジアの食習慣も続けたい。野菜や豆腐をたくさん食べて、豚や牛を少なくたべる。牛のステーキはムダが多い。資源保護、環境保護の視点から問題を考えていく。海資源の活用は日本に学ぶべきだ。水産品はこれまでに七〇〇万トンから二〇〇〇万トンにふえている。中国の養豚の経験はすぐれている。一斤半のエサで豚肉一斤を生産している。これは四川のケースである。世界では四〜五斤のエサを用いているのと比べて、効率的だ。農家一軒で一〇数頭飼育し、サツマイモや水草を利用している。労働力を活用していく。二〇三〇年には農村に人口の四割が残ることになろう。これまでは重工業優先路線のために雇用をふやせず、経済の負担となった。家族経営ならば、労働力の活用に向いている。食糧だけの生産ならば、四割の人口はいらないが、小城鎮の発展を通じて第二次産業化し、さらに第三次産業への展望を開くことが必要だ。
 二一世紀の中国の食糧には困難はあるが、克服できないものではない。所得をふやしながら環境保護も行う、新しい道を模索しなければならない。食糧が万一困難になれば、肉の消費を二〜三キロ減らすような弾力的措置も可能であろう。
 日本に望みたいのは、貯蔵施設、乾燥施設の建設である。東北の玉米(トウモロコシ)を福建に運ぶばあい七〜一〇%のロスが生まれる。乾燥不足のためである。倉庫は生産地にも消費地にも、その中間にも建設する必要がある。中央と地方政府で資金を出して倉庫を建設する計画があったが、地方が資金を出さず、実現しなかった。
 水利建設でも日本の協力がほしい。「南水北調」のためにはトンネル掘りが必要だ。また黄土高原では送水用パイプラインも必要だ。これらの建設に費用がかかる。最後に技術面だが、職業訓練により人的資本の高度化をはかりたい。日本の農民のレベルを目標としたい。せめて台湾の標準まで高めたい。普及員の訓練、職業学校の建設が必要だ。
食糧のロスについていえば、四億トンとして、少なくとも五%はムダになっている。一五%とみる見方さえある。つまり「ロスによる損失分」が「輸入食糧」を上回るわけだ。
 杜老は八三歳とは思えないほど、きわめて元気であった。中国では戸別農家への請負制の功罪評価をふまえて新たな模索がはじまっている。人民公社解体という英断を決意したブレーンの頭脳が、二一世紀初頭の食糧需給を見据えようとしているのが印象的であった。 

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